誰も居ない静かな廊下を、レイチェルは走っていた。
急がないと。遅れてしまったら大変だ。何に遅れそうなんだっけ? ……ああ、そうだ、マグル学の授業だ。北塔は遠いから、このままじゃ間に合わない。あれ、でも、それならこの方向で合っているんだっけ? 違う、今向かっているのは古代ルーン文字の授業だ。とにかく、急がないと遅れてしまう。
「あっ」
慌てて角を曲がったら、誰かとぶつかった。走っていたから勢いよくぶつかったはずなのに、どこにも痛みは感じなかった。ぶつかった相手────ハリーがレイチェルを支えてくれたからだ。そう言えば、以前もこんなことがあった気がする。ありがとう、とレイチェルが口を開こうと瞬間、ハリーが微笑んだ。
「その……よかったら、僕と、ダンスパーティーに行ってくれないかな」
照れたようなその笑顔は、レイチェルが見たことがないものだった。眼鏡のレンズの奥の瞳が、真っ直ぐにレイチェルを見つめている。真剣そのもののその視線に、レイチェルは戸惑った。予想外のことには驚いたけれど、誘ってもらったことは嬉しい。けれど────風船みたいに膨らんだその嬉しさは、すぐにまた萎んでしまった。せっかく声をかけてもらったけれど、レイチェルはハリーのパートナーになることはできない。だって、もうジョージと約束をしてしまっているのだ。
「嬉しいわ。私も、あなたとパーティーに行きたいの」
頭では断らなくちゃと思うのに、レイチェルの口は勝手にそんな風に言葉を紡いでいた。まるで、誰かがレイチェルに服従の呪文でもかけたみたいに。
ダメ、ダメ、ごめんなさい。今のは聞かなかったことにして! そう言いたいのに、どうしてか喉が詰まったみたいに声が出ない。
「ありがとう、チョウ」
そう言って、ハリーが嬉しそうに微笑んだ。
──── チョウ?どうしてチョウの名前が出てくるのだろう? 「またね」ハリーが手を振って、廊下を駆けて行く。小さくなっていくその背中を、レイチェルは呆然と見送ることしかできなかった。
どうして……?いや、何も不思議じゃない。当たり前じゃないか。だって、ハリーが誘いたいのはチョウなのだから。でも、チョウはセドリックのパートナーになったから、ハリーの申し出は断った。それで……それで、何だったっけ?
「ハリーのパートナーになったって本当?」
いつの間にか、目の前に誰かが立っていた。燃えるような赤毛に、レイチェルよりも小柄で華奢なシルエット。ジニーだ。昨日選んだ、あのドレスを着ている。どうして、ジニーがここに? ああ、そう言えばこの後図書室で会う約束をしていたんだっけ。それでレイチェルは急いでいたんだった。
「聞いたわ。ハリーに誘われたって。ハリーと一緒にパーティーに行くのね」
おめでとうと言うジニーの声は震えていた。悲しみを押し隠して微笑んでみせようと努力していたけれど、その表情は奇妙に歪んでしまっていた。伏せた瞼から覗くジニーの瞳が潤んでいるのがわかって、レイチェルの胸が締め付けられる。違うと弁解したいのに、声にならない。ジニーが踵を返す。その背中を追いかけたいと思うのに、足が縫い止められたかのように動かない。
「違うの、ジニー! 誤解なの!」
ようやく声が出たと思ったら、ジニーの姿は消えていた。ジニーの背中へと伸ばしたはずだった手の先には、見慣れた天井しかない。やけにうるさく跳ねる心臓のあたりを押さえたら、ボタンの硬い感触が手に触れた。ローブじゃない。パジャマだ。そしてここは、寮の寝室だ……。
「何が“誤解”なわけ?」
歯を磨いていたらしいパメラが不思議そうに顔を覗かせたのを見て、レイチェルはどうやら今のは夢だったらしいと気が付いた。……夢で本当によかった、と思わず深く息を吐いた。
ひどく疲れる夢だったけれど、こんな夢を見た理由ははっきりしていた。昨日、ジニーに打ち明けられたこと────ダンスパーティーのパートナーをめぐっての、ジニーとハリーとチョウのあれこれ────について、寝る前まで考えていたせいだろう。結局、頭の中がこんがらがっていたままだったからか、夢の中では更に色々とごちゃまぜになってしまっていたけれど。
よく考えたら、今は休暇中なのだからハリーがローブを着ている時点でおかしいと気が付けたはずだ。それに、ジニーだってドレスを着ていたし。そもそも、ハリーがレイチェルをパートナーに誘うはずがない。どうして、夢の中って明らかに矛盾があっても目が覚めるまで気が付けないのだろう?
「今日は何する?」
朝食の席で、パメラは上機嫌だった。そう言えば、特に予定を決めていなかった。帰宅していれば今頃クリスマスの準備をしていただろうけれど、ホグワーツではその必要もない。クリスマス休暇にみんなで学校に残るのなんて初めてだから、普通は何をするものなのかもよくわからない。
「私は魔法史のレポートを書くつもりだけれど……」
「正気!? せっかくの休暇よ!? レイチェルは?」
「私は、図書室に行くつもりだったけど……」
調べ物をしたいのだと言うと、パメラは信じられないと言いたげに頭を抱えた。せっかくの休暇なのだからもっと楽しいことをすべきだと言うパメラの意見もわかるけれど、とは言え城の中でできることは限られている。午後は3人で過ごすことを約束して、レイチェルは図書室に向かった。
「うーん……」
休暇が始まったばかりの、しかも午前中から、図書室を利用しようと考える生徒はそう多くはないのだろう。図書室にはいつもよりずっと空いていて、調べ物にはもってこいの環境だ。が────レイチェルの調べ物には難航していた。
「『赤ちゃんドラゴンの育て方~卵から生後12ヶ月まで~』…… 『小鬼と話そう ゴブルディクック語入門』……」
本棚に並んだ背表紙の書名を読み上げて、レイチェルは首を捻った。知りたいことはあるのだけれど、どの本を読めばその答えが載っていそうかがわからない。“アレ”は本物のドラゴンの卵ではないし、魔法生物の鳴き声のように聞こえたけれど違うかもしれない。とりあえず、このあたりの棚に何かヒントになりそうな本があるんじゃないかと思ったのだけれど……タイトルを見る限り、どれもいまひとつピンと来ない。
せっかく休暇に入って時間に余裕ができたので、あの金の卵について調べようと思ったのだけれど……そもそもレイチェルはあの卵を少し見ただけだし、あの咽び泣くような声も1度聞いたきりだ。そもそも、セドリックならこのあたりの棚の本はとっくに読んでいそうな気がする。当てもなく調べ物をすると言うのはちょっと無謀だったかもしれない、とレイチェルは肩を落とした。
とりあえず目についた何冊かを手に取ってみて、レイチェルは早々に寮に戻ることにした。調べ物と言う意味ではこのまま図書室に居た方が捗るだろうけれど、今は暖炉の火が恋しい。ココアでも飲みながらのんびり読むことにしよう。
そうして出口へと向かっていたら、レイチェルは知っている顔を見かけた。チョウだ。それに……セドリックも。どうやら、2人で勉強をしているようだった。
昨日も思ったけれど……やっぱり、すごくお似合いだ。
2人は特におしゃべりしている様子でもなく、お互いにレポートに書いているようだけれど、それでも向かい合って座っている2人は違和感なく恋人同士に見える。何と言うか、すごくしっくり来る。じっと見すぎてしまったのか、チョウがこちらに気が付いたようだった。ニッコリ微笑んで、レイチェルに小さく手を振って来る。人懐っこい笑顔はとても可愛い。レイチェルも手を振り返して────そのまま予定通り図書室を出た。声をかけて2人の邪魔をするのは申し訳なかったからだ。
……せっかく手を振ってくれたのに声をかけないのって、もしかしたら感じが悪かったかもしれない。
廊下を歩きながら、レイチェルはさっきの自分の行動をちょっと後悔していた。いや、でも、別にこれと言って話しかけるような用事もなかったし……寮も学年も違うのだから、セドリックとチョウが2人きりで過ごせる時間ってすごく貴重なはずだ。さっきだってきっと、手紙か何かで待ち合わせをしたのだろう。そう考えると、レイチェルは少し────ほんの少しだけ、寂しさに胸が痛むのを感じた。
理由はわかっている。これまでは、セドリックと2人で勉強する女の子なんて、レイチェルくらいだったから。そう……いつもなら、あそこに座っているのはレイチェルだっただろう。でも、チョウはセドリックのパートナーだ。となれば、今後はセドリックはチョウと過ごす時間が増えて、レイチェルと2人で過ごす機会は減っていくのだろう。いや、むしろ意識的に減らすべきなのかもしれない。恋人が自分以外の異性と頻繁に2人で過ごしていたら、相手は不安になったり、嫌な気持ちになるだろう。ジョージはあまり気にしなさそうな気もするけれど……レイチェルとセドリックが“いつも通り”に過ごすのは、きっとチョウに対して不誠実だ。
恋人同士なのだと誤解されても気にしなかったのは、お互いに決まった相手が居なかったからだ。でも、今はレイチェルにもセドリックにも『恋人』ができてしまった。セドリックがどう考えているかはわからないけれど、『恋人』に誤解されるのはさすがに困るはずだ。となれば、これからは今まで通りと言うわけにはいかないだろう。……想像すると、やっぱりほんのちょっとだけ寂しいけれど。本当に、ほんのちょっとだけ。
結局、借りてきた本のどれにもヒントらしいものは見つからなかった。読み物としてはどれも面白かったけれど、対抗試合の課題にはあまり役立ちそうにない。熱中して読み耽っていたら3時間ほどで読み終えてしまったので、レイチェルはまた図書室に行くことにした。返却して、また新しい本を借りよう。せっかくホグワーツに残っているのだし、本をたくさん読むと言うのはいいかもしれない。時間を気にせず本を読んでいられるなんて、とても贅沢だ。分厚い本でも、夜更かしして一気に読めてしまう。
「あれ? レイチェル」
新しい本を借りられたレイチェルは、上機嫌で再び図書室を後にした。寮に戻ろうと廊下を歩いていると、後ろから誰かに名前を呼ばれた。誰か、とは言っても顔を見なくても声でわかる。振り返ると、予想通りそこにはセドリックの姿があった。チョウは居ない。
「レイチェルも図書室に来てたんだ」
「まあね。セドも?」
「うん。チョウと勉強してたんだ。魔法薬学を教えてほしいって言われて……ほら、彼女、今年OWLだろう?」
「ふぅん」
確かに、セドリックの成績は学年トップだし、人に教えるのも上手だ。簡単なことがわからなくても呆れたりしないし、理解できるまで根気よく付き合ってくれるから。そんな風に相槌を打ちながら、隣に並んだセドリックからタイトルが見えないよう、そっと本を自分の胸に抱いた。金の卵のことを勝手に調べているのをセドリックに知られるのは、何となく照れくさい。
「そうだ、レイチェル。今日、玄関ホールに行った?」
「玄関ホール? ううん、今日は行ってないけど……」
「すごかったよ。教授達が週末に飾り付けの仕上げをしたみたいなんだ。さっきチョウとも見に行ったんだけど……」
よかったら一緒に行こうと誘われて、レイチェルの行き先はレイブンクロー寮から玄関ホールへと変更になった。クリスマスの飾り付けには興味を惹かれたし、ちょうどもうじき昼食の時間だから、そのまま大広間に向かえばいいと思ったからだ。
「わあ、すごい……いつものホグワーツじゃないみたい」
セドリックの言う通り、玄関ホールは学期中とはすっかり様変わりしていた。ホグワーツのクリスマスはいつも素晴らしいけれど、今年は違った雰囲気だ。いつもなら緑の樅の木に赤や金のオーナメントが華やかだけれど、今目の前に並ぶクリスマスツリーは全て銀色に染められている。玄関ホールの床は美しい大理石に変わり、柱も光沢のある銀色の布で覆われていた。銀色を基調とした空間は、どこか幻想的にも思える。
玄関ホールの両脇に並べられた巨大なツリーは、よく見れば少しずつ違う飾り付けになっていた。純銀でできた柊や、本物の雪の結晶。銀色の小さなトナカイが周りと飛んでいるものもある。吹きつける風の寒さも忘れ、レイチェルは1つ1つのツリーを夢中になって眺めていたが、玄関ホールの端まで来たところで、ある奇妙なことに気が付いた。
「……何だか、このあたりのツリーだけ、飾りつけが少ない気がするんだけど……」
「変だな。今朝見たときは、そんなことなかったのに」
「また、ピーブズの悪戯かしら?」
ツリーの半分は華やかに飾り付けてあるのに、もう片側はほとんどオーナメントがないツリーが1本。その隣は、全体的にオーナメントが少なく、隙間だらけのツリーが1本。さらにその隣のツリーは、ほとんど飾り付けがない状態だ。
不思議だと言い合っていると、目の前のツリーの枝がガサガサと動いた。ピーブズが近くに居るのだろうかとレイチェルはギクッとしたが、すぐにそれはツリーに巻いてあるベルベットのリボン────濃紺に銀の糸で刺繍がしてある────が引っ張られているせいだと気が付いた。リボンの端を手繰り寄せているのは、悪戯好きなピーブズ……ではなかった。小さな手はレイチェルよりも、いや、ヒトのものにしてはあまりにも小さい。器用に動くその小さな手、いや前足の持ち主は、レイチェルも知っている生き物だった。
「ニフラーだ」
セドリックが言い、ツリーからその生き物────ニフラーを引きはがした。
前足から取り落としたリボンを取り戻そうと、ニフラーはセドリックの手から逃れようとしている。どうやら、ツリーのオーナメントが減っていた犯人はこのニフラーで間違いないだろう。
「どこから迷い込んだんだろう?」
セドリックにそんな質問をされたけれど、レイチェルはソワソワしてそれどころではなかった。本物のニフラーを見たのなんて、3年生のときの授業以来だ。ふわふわでかわいい。抱っこしたい。セドリックの手の中でもがくニフラーはビー玉のような丸い瞳でレイチェルを見つめ、レイチェルの方に行きたいと言いたげに手を伸ばしてくる。その仕草に、レイチェルは胸が高鳴るのを感じた。かわいい。ギュッと抱きしめたい。
「やっぱり、ニフラーがまぎれこんどったか」
「ハグリッド!」
「お前さん達、よう捕まえてくれた。昨夜から、せっかく飾り付けたもんが気ぃ付くとなくなっちまうってマクゴナガル先生が困っておられた」
ふいに視界が翳ったと思ったら、後ろにハグリッドが立っていた。どうやら、このニフラーを探していたらしい。と言うことは、この子は城の外に追い出されてしまうのだろうか? レイチェルはじっとニフラーを見た。ニフラーはやっぱり、キラキラした目でレイチェルを見つめている。
「気ぃつけろ、レイチェル。そいつは、お前さんの髪と服についたもんを狙っちょる」
「えっ?」
ハグリッドの言葉に、レイチェルはハッとした。言われてみれば、レイチェルの髪を留めているバレッタには、透明なビーズの飾りがついている。それに、カーディガンのボタンも少し凝ったデザインで────金色にキラキラ光っている。レイチェルに向かって必死に手を伸ばしてくるニフラーはとてもかわいい。が、レイチェルはそっとニフラーから距離をとった。
「自由に動き回っちょる間に、だいぶくすねたな。腹の中のもんを出さんといかん」
セドリックがニフラーのお腹を指でくすぐると、ニフラーがクツクツと鳴き声を上げて実を捩った。それにあ合わせて、おなかのポケットから中に入っていたものが出て来た。カラン、と音を立てて銀のオーナメントが床に落ちる。それに、ガラスの飾り。カラン、カラン、がしゃん。次から次へ、20個ほどのオーナメントが中から零れてきたのを見てセドリックは手を止めたが、ハグリッドは静かに首を振った。
「それじゃあ足りん」
「逆さにして思いっきり振ってみろ、セドリック」
「えっ……」
「俺がやってもえぇが……ちぃっとばかり勢いがつきすぎて、そいつが目を回しちまう」
ハグリッドに促されるまま、セドリックが恐る恐るニフラーを逆さまにした。ニフラーはイヤイヤをするように暴れたが、そのまま軽く上下に揺すると、またポケットの中のものが床へと落ちる。ガリオン金貨やシックル銅貨、それにスプーン。飾りのついたヘアゴム。ベルト。ありとあらゆるキラキラしたものが溢れ出して来て、大きな山を作ったので、レイチェルは呆気にとられた。ニフラーの生態については知っていたけれど、実際に目の当たりにするとものすごい量だ。
「こんなに小さいのに、一体どこにこんなにたくさん入ってたの?」
「オーナメントだけじゃないね。ネックレスとか指輪とか……あと、望月鏡も。それに……これは何だろう?」
「さぁな……俺にはようわからん。危険なものかもしれねぇし、ムーディ教授に見てもらうんがえぇ」
キラキラ光り輝く山の中には、予想していたクリスマスのオーナメントや生徒の私物らしきものが大半だったけれど、どうやら何かの魔法道具らしきものもあった。すっかり空っぽになってしまったポケットの中身を取り戻そうとさっきよりも激しく暴れるニフラーを見て、セドリックが「あれ」と声を上げた。
「ハグリッド。このニフラー、怪我してるみたいだ。ほら、前足のところ」
「本当だわ。痛そう……」
「ああ……こりゃあ、治してやらんといかん」
ふわふわの黒い毛に隠れてわかりづらいけれど、よく見ればニフラーの右の前足のところには切り傷があった。もしかしたら、暴れていたのはそのせいもあったのかもしれない。ニフラーの怪我の具合の見ていたハグリッドは、レイチェルとセドリックを振り返った。
「お前さんたちのどっちか、俺の小屋までこいつを運ぶのを手伝ってくれ。小せぇ動物に暴れられると、俺はどうも力の加減が上手くいかん」
逃げ出そうともがくニフラーをハグリッドの小屋まで運ぶ係と、ニフラーのポケットから出てきた魔法道具をムーディ教授のところに届ける係。
ニフラーはとても可愛いけれど、お気に入りのカーディガンなのでボタンを引きちぎられるのは遠慮したい。と言うわけで、必然的にレイチェルはムーディ教授のところに行くことになった。
「失礼します、教授。あの……お休みのところすみません」
ムーディ教授の私室の扉を叩くまでに、レイチェルは3度も深呼吸をした。がムーディ教授は防衛術の教授としては素晴らしい人材だが、何と言うか……あまり親しみやすいタイプではない。まして今は教授達も休暇中だ。ノックの後にドアから顔を覗かせたムーディ教授に、レイチェルは思わず背筋が伸びた。
「どうした? グラント。儂に何の用だ?」
「あの、実は……」
怪訝そうな表情のムーディ教授に部屋に招き入れられたレイチェルは、できるだけ簡潔にたった今の出来事の経緯を説明した。ニフラーが城の中に迷い込んでいたこと、そのポケットの中から魔法道具が出て来たこと。ハグリッドに代わってそれを届けに来たこと────。
「なるほど……事情はわかった。これは儂が預かって調べておこう」
「ありがとうございます」
当初の目的を無事に終えられて、レイチェルはホッとした。これで、レイチェルの頼まれたことは果たした。あの魔法道具がどんなものなのかはわからないけれど、ムーディ教授に任せておけば安心だろう。
「ニフラーか……恐らく、ホグズミードから迷い込んだのだろうな」
「ホグズミード? その……ニフラーって、確か鉱山とかに生息してるんじゃなかったでしたっけ?」
「ああ。普通ならばそうだ。奴らは、光るものを好む習性がある。宝石や……それに、金だ」
「金」────そう口にしたときのムーディ教授の目が、なぜか一瞬奇妙な光を宿していたような気がして、レイチェルは息を詰めた。魔法の目が、ぐるりと回転する。
「あの卵のことを調べているようだな、グラント」
「あっ……」
言い当てられて、レイチェルはハッとした。
どうしてわかったのだろう。そう不思議に思って、レイチェルは自分の腕の中の本の存在を思い出した。本のタイトルは隠れて見えなかったはずだけれど、ムーディ教授の魔法の眼の前では関係なかったらしい。
「違うんです。これは、その……個人的な興味と言うか……」
「フム……お前は確か、ディゴリーと親しかったな」
バレている。魔法の眼って、障害物だけじゃなく心の中までも見透かしてしまえるのだろうか?すっかり忘れかけていたけれど、ルール上は選手達は誰にも頼らず1人で課題に立ち向かわなければいけないことになっているのだった。 まずい。焦るレイチェルに、ムーディ教授はニヤッと笑ってみせた。
「気にすることはない。古くから、対抗試合にカンニングはつきものだ」
ムーディ教授は静かに言った。確かに……第1の課題のときも、結局セドリックもハリーも────予想ではクラムとフラーも、秘密のはずの課題の内容を事前に知ってしまった。もしかしたら、これまでの対抗試合もそうだったのだろうか? でも、やっぱり不正なんて本来はない方がいいのだろうし……元闇祓いであるムーディ教授がそれを肯定すると言うのも、何だか意外だ。
「ちょうどいい、グラント。ここまで来た駄賃に、これをやろう」
「えっ? 」
「茶だ。人に贈られたものだが、儂は飲まんのでな。1人で飲み切れなければ、友人にでも分けるといい」
そう言ってムーディ教授が杖を振って呼び寄せたのは、綺麗な花や蝶の模様が描かれた立派な箱だった。何か複雑な、文字のようなものが書かれている。
レイチェルがハグリッドの小屋へ着いた頃には、すっかりニフラーの治療は終わっていた。小屋の中まで入るのは初めてだったけれど、中に入ってレイチェルは驚いた。手当てをされたニフラーはすっかり元気いっぱいで、キラキラ光るものを見つけようとあちこちひっくり返していたからだ。棚の上に上ったニフラーが好き放題に物を落とすので、ハグリッドの飼い犬であるファングはテーブルの下へと避難している。悪戯は困りものだけれど、やっぱりとても可愛い。
「やけにご機嫌ね、レイチェル」
「パメラ」
「確か、図書室に行くって言ってたわよね。……あっ、もしかしてそこでジョージと会ってたとか?」
寮に戻るなり、そんな風にパメラが期待を込めた眼差しでレイチェルを見てきたので、レイチェルは戸惑った。残念ながら、その予想は外れだ。今のレイチェルがいつもより上機嫌に見えるとしたら、ニフラーの可愛さに癒やされたからなのだけれど────。
「会ってないわ。だって、特に約束もしてないし……」
「すればいいじゃない! 食事の席で話しかけるとか、手紙の1通でも出すとか、簡単でしょ! まさか、パーティー本番まで会わないつもりなの!?」
「そう言うわけじゃないけど……」
言われてみれば、休暇に入ってからジョージと会ってない。とは言っても、休暇が始まってからまだたった3日だけれど。寮が違うから談話室でも会わないし、食事の席も別々だし。授業がないと、びっくりするくらい顔を合わせない。パメラの言う通り、会う約束をすべきなのだろうか? セドリックとチョウだって、待ち合わせしていたみたいだったし。いや、でも、ジョージは基本的に悪戯やクィディッチで忙しくしているし、特に用事がないのにわざわざ会っても、何をしたらいいのだろう……。
「そうだ!珍しいお茶があるから淹れない? ムーディ教授がくれたの」
パメラはまだ何か言いたげだったが、それ以上の追及を逃れるべく、レイチェルは話題を変えることにした。
せっかくだからあの後ハグリッドの小屋で飲もうと思ったのだけれど、既にレイチェルの分のココアが用意されていたので────しかも小さめの樽みたいな大きさのマグカップに並々と────淹れる機会がなかったのだ。セドリックと半分に分けたけれど、たくさん入っていたからまだ余裕がある。
「何これ?本当にお茶なの? 枯れたタマネギにしか見えないけど」
「私もよくわかってないの。……エリザベス、知ってる?」
「わからないわ。これ、何語かしら?」
説明書はないようだけれど、お茶と言うことはたぶんお湯を注ぐのだろう。けれど、パメラの言う通り、お茶にしては随分と奇妙な見た目をしていて、タマネギか、何かの球根のようにしか見えない。どうやら、糸のように細長い茶葉をまとめて魔法でくっつけてあるようだ。お茶の葉と言うことは、淹れる前にバラバラにした方がいいのだろうか?
「あら、それって 『人魚の髪飾り』よね? どうしたの?」
「チョウ、知ってるの?」
「ええ。パパのお祖母ちゃんの家で飲んだことがあるわ。あー……えっとね、バラバラにしちゃダメ。これ、そのままカップに入れるの」
“球根”を杖で叩こうとしていたパメラを見て、チョウが止めた。チョウの父親と言うことは、どうやら中国のお茶らしい。それなら、この箱に書かれている文字は中国語なのかもしれない。頼りになる人物の登場に、3人は大人しくその指示に従った。球根のような丸いお茶の葉をカップに入れて、お湯を注ぐ。乾いた茶葉はお湯を吸って少し膨らんだけれど、沈んだまま動かない。これで本当にお茶なんてできるのだろうかとレイチェルは疑問に思ったが、そのまましばらく待っていると奇妙なことが起きた。まるで花が咲くように、お茶の葉が突然パッと開いたのだ。いや、花が咲く“ように”だけではない。どうやらお茶の葉の中には本物の花が入っていたらしく、鮮やかな赤や黄色の花がお湯の中で可憐に咲き誇っている。
「水の中でないと、こんな風に上手く開かないの」
不思議だとはしゃぐレイチェル達に、チョウがニッコリした。どうやら、乾いたお茶の葉のまま中身を開こうとしても、ただバラバラになってしまうだけらしい。陸では上手く花が咲かないことから、『人魚の髪飾り』と呼ぶのだと、チョウが教えてくれた。
「ねぇチョウ、これってミルクは入れない方がいいのよね?せっかく綺麗なのに、濁っちゃうし。砂糖は?2杯くらい?」
「蜂蜜の方がいいんじゃないかしら。お砂糖だと、花びらに引っかかって溶け残ってしまいそうですもの」
「あー……お砂糖もミルクも、入れない方がいいかもしれないわ……」
そんな会話を聞きながら、レイチェルには何か頭の中に引っかかるものがあった。さっきのチョウの言葉に、何か閃きそうな気がしたのだ。でも、何を? 『人魚の髪飾り』なんて言葉、今まで聞いたことがあったっけ? それとも、水の中なら綺麗に咲く……? わからない。何か、ここまで出かかっている気がするのに。うーん、と頭を捻っていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り返ると、そこに居たのはペネロピーだった。
「ペニー? どうかしたの? あっ、よかったらペニーもこのお茶飲む?」
「ありがとう、嬉しいわ」
昨日よりも元気そうなペネロピーの様子に、レイチェルはホッとした。もしかしたら、ペネロピーもこの素敵なお茶が気になったのかもしれない。どうせなら、ティータイムはみんなで楽しんだ方が素敵だ。レイチェルはそう提案してみたが、ペネロピーは微笑んで静かに首を振った。
「実はね、用があるのは私じゃなくて────ジョージがあなたを呼んでるの」
花咲く不思議なお茶の味には後ろ髪を引かれたものの、その言葉にレイチェルは急いで談話室を飛び出し、レイブンクロー塔の入口へと向かった。
「ごめんなさい、待たせちゃった? ……どうしたの?何か用事?」
階段を慌てて下りたせいで乱れた髪を撫でつけながら、レイチェルは寮の入り口のすぐ近くで待っていたジョージの元へと駆け寄った。ジョージがわざわざ寮にまで会いに来るなんて、初めてのことだ。一体どんな理由があってのことだろう?
「おいおい、用がなければ会いに来ちゃいけないみたいな言い方だな」
「そ……んなことは、ないけど……」
からかうように笑ったジョージに、レイチェルは言葉に詰まった。迷惑がっていると思われたのだとしたら、誤解だ。嫌なわけじゃない。むしろ、嬉しい。ただ……ただ、友人達や談話室に居合わせた生徒達に冷やかされたのが恥ずかしかっただけで。
「その……突然だったから、びっくりしただけ。……来てくれて、嬉しい」
「……なら安心した」
誤解されたくはなかったから素直にそう口にしてみたら、無性に恥ずかしくなった。……今のって、すごく恋人同士っぽい会話だった気がする。いや、他のカップルがどんな会話をしてるかなんてよく知らないけど。どことなく気まずい沈黙を誤魔化すように、ジョージが小さく咳払いした。
「ジニーに聞いたんだ。君のおかげで、パーティーのドレスが手に入ったって」
その件か、とレイチェルはジョージの言葉に納得した。ジニーから聞いたのだろうか。いや、もしかしたらアンジェリーナかアリシアあたりが伝えたのかもしれない。何にしても、ジョージの発言には多少訂正しなければいけない部分がある。
「……私のおかげなんかじゃないわ。だってあれ、エリザベスのドレスだもの」
「でも、頼んでくれたのは君だろ。それに、選ぶのも手伝ってくれたって聞いた。俺達も、ジニーのドレスのことは気になってたんだ。……助かったよ。ありがとう」
「……どういたしまして」
まだ照れくささが抜けないまま、レイチェルはボソボソと呟いた。
どこかホッとしたようなジョージの声はいつもよりも柔らかく聞こえた。……ジョージのこう言うところって素敵だなあ、と胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。いつもはからかってばかりだけれど、ジョージはやっぱり家族想いで、妹のジニーのことをすごく気にかけている。
「それで……まあ、何て言うか……お礼がしたくてさ」
「えっ……いいわ。そんなのいらない。だって本当に、お礼されるようなことなんてしてないし……」
とは言え、その件でレイチェルがあまり感謝されすぎるのはあまりにも申し訳ない。お礼を受け取るべきだとしたら、レイチェルよりもエリザベスの方なのだ。そんなものは必要ないのだとレイチェルが首に横に振ると、ジョージがふっと表情を緩めた。
「と言うのはまあ、半分は口実だ。レイチェル、君、明日の予定は?」
「明日? また、特には決めてないけど……」
「じゃあ、俺が君の時間をもらっても?」
強いて言えば、パメラ達と過ごす予定だった。パメラは明日こそはあらかじめ予定を決めておこうと張り切っていたけれど、まだその相談はしていない。だから、ジョージと過ごすことにしても問題はないはずだ。むしろ、パメラ達を理由にジョージの誘いを断ったなんて知られたら、信じられないと呆れられるだろうと想像がつく。
「ええ。大丈夫……」
そう返事をして、レイチェルはドギマギした。……もしかしてこれって、デートに誘われているんだろうか。そうかもしれない。でも……デートって具体的には何をするものなんだろう?今日図書室で見たチョウとセドリックの姿が頭に浮かんだけれど、ジョージの場合、一緒に勉強しようと誘われている可能性は低い気がする。
「えっと……また箒に乗ってどこか行くの?」
「いや」
となればこの間みたいに箒だろうかと思ったけれど、どうやら違うらしい。それなら……何をするつもりなんだろう? やっぱり、デートと言うわけではないんだろうか? 悪戯グッズの相談とか? いや、でも、お礼って言ってたし……。
聞いてみればいいのかもしれないけど、ジョージにそんなつもりがなかったら気まずい。そんな考えが顔に出てしまっていたのか、ジョージが照れたように髪をかき混ぜた。
「あー……つまりだ。デートしようぜ」
驚かせたいから詳しくは秘密、と。そう言って悪戯っぽく笑うジョージに、レイチェルはまた頬が熱くなるのを感じた。