それから数日の間、対抗試合の熱狂は続いた。
廊下を歩けば、あちこちから「ドラゴン」「炎」「卵」と言った単語が聞こえてくる。ゴーストや肖像画までがその話題で持ちきりだ。中でも、やっぱり話題を攫ったのは最年少にして見事首位に躍り出たハリー・ポッターだった。
「本当に嫌になるわ、あの記事」
溜息を吐くハーマイオニーの口調は苛立っていた。
試合の前は、ホグワーツ1番の嫌われ者だったハリー・ポッター。けれど、今や彼は一躍時の人で、誰もが彼に注目している。そして────そんな彼のガールフレンドとして新聞に載った彼女も、また注目の的になってしまっていた。
「信じられないのは、記事を読んだ人の半分があの馬鹿げた内容を真に受けてるってことよ」
ハーマイオニーは理解できないと言いたげだったが、レイチェルは自信を持って同意できなかった。どうだろう。レイチェルは彼女の友人だから、あの記事が“真っ赤なデタラメ”だとわかったけれど、もしも彼女と親しくなかったら素直に信じてしまったかもしれない。
「レイチェルも気をつけた方がいいわよ。あの女にかかったら、貴方とセドリックのことだって何を書かれるかわからないんだから」
「ええ……そうね」
どうやら、ハーマイオニーのリータ・スキーターへの怒りは相当なもののようだ。確かに、彼女とハリー・ポッターが恋人同士だと書き立てられてしまうくらいなら、レイチェルとセドリックだって恋人同士と言うことにされてしまってもおかしくない。……でも、気をつけるって、具体的にはどうすればいいのだろう?
「やっぱり、ハリー・ポッターって、あの人と付き合ってるのかしら。いつも一緒に居る、あの……ハーマイオニー・グレンジャー!」
近くのテーブルから、まさにそんな会話が聞こえてきた。3年生の女の子達だ。……向かいに座るハーマイオニーの機嫌が悪化したのがわかったので、怖くて彼女の顔が見られない。できるならこれ以上この話題がハーマイオニーの耳に入ってほしくなかったけれど、黄色い声は静かな図書室では嫌でも響いてしまう。
「えー……そんな感じに見えないけどなあ。あの人はただの友達じゃない?」
「って言うか、何? えっ? 付き合いたいの?」
「そう言うわけじゃないけど。ファンになっちゃった! ねえ、ハリーに頼んだら、私のハンカチにサインしてくれると思う?」
「その鞄のサインに気づかなかったら、オーケーしてくれるかもね。クラムやセドリックはもういいの?」
「もちろん、セドリックも素敵だけど!だって彼、1位だったのよ! それってセドリックより彼の方がすごいってことでしょ?」
ハラハラしながら会話を聞いていたレイチェルは、ハリー・ポッターのファンであると言う少女の言葉に、思わずムッとしてしまった。彼女達はきっと、自分達の会話が誰かに聞こえているなんて思っていないだろうし、はしゃいだ声には悪気はないのだろう。そう、わかってはいるけれど。
「やっぱり、彼にはきっと特別な才能があるのよね! 例のあの人のことだってそうだし、バジリスクだって────」
確かに彼の試合は素晴らしかったし、あの見事な箒捌きはレイチェルも感動した。だからって────セドリックだって十分すぎるほどすごかった。そんな風にわざわざ2人を比較して、優劣をつけるようなことを言わなくたっていいのに。点数をつけて審査する以上、どうしても順位はついてしまうけれど……それだってまだ課題は2つもあるのだから今の時点ではわからない。どうして、『どっちもすごかった』じゃダメなんだろう?
「聞いたよ。彼、本当にすごかったらしいね。僕も見たかったな」
もう1人のホグワーツ代表の活躍が話題に関して、当のセドリックはそんな風に屈託なく笑ってみせた。キラキラと目を輝かせるその表情を見たら、レイチェルは何だか自分がモヤモヤしていたのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。元々、セドリックは周囲のハリー・ポッターへの理不尽な態度になぜか責任を感じている節があったし、彼の名誉が回復したことが嬉しいのだろう。
「セドリック!次の課題も頑張ってね!」
「ありがとう」
ハリー・ポッターの人気が持ち直しても、セドリックもやっぱり相変わらず人気者だ。
すれ違いざまに声をかけてきた1年生達に、セドリックが愛想良く笑顔を返す。キャア、とはしゃいだ声を上げて頬を染める女の子達の様子は微笑ましい。
「本当にかっこよかった!」
「あんな風にドラゴンと戦えるなんて!だって、選手達も課題の内容は直前まで知らなかったんでしょ?」
セドリックを見上げる女の子達の目もまた、憧れでキラキラと輝いている。無邪気な賞賛の言葉に、セドリックの表情がほんの少し曇ったのがわかった。女の子達が去った後で、セドリックは困ったように苦笑した。
「……本当はドラゴンのこと知ってたってわかったら、ガッカリされちゃうかな」
「そんなことないわ。それに、もしそうなったとしても、それってセド1人だけじゃないでしょ?」
誠実なセドリックには、秘密を抱えていることが後ろめたいのかもしれない。だからと言ってそんな風に後ろ向きに考えるのはよくないとレイチェルが言うと、セドリックも僅かに微笑んだ。
ドラゴンから金の卵を奪う。そんな危険な課題を、4人の代表選手は見事成功させた。そして、そんな彼らを皆が尊敬している。城の中の雰囲気はすっかり明るくなったし、ハリー・ポッターの悪評も落ち着いた。何もかもが、良い方向に動いているように思えた。けれど、レイチェルには1つだけ気がかりで────確かめなければいけないことがあった。
「あのね……ジニー。ちょっと聞きたいことがあるの」
第1の課題は終わった。だからもう、「選手達が皆無事でよかった」「めでたしめでたし」────そんな風に、レイチェルも忘れてしまうべきなのかもしれない。とは言え、それは良くないことに思えた。今更、事実を皆の前で明らかにすべきだとは思わないけれど、やっぱり不正は不正だからだ。
「その……私達、チャーリーに課題がドラゴンだって教えてもらったじゃない。それで……そのことを、誰か……他の人に言ったりした?」
代表選手達は、本来なら試合の直前まで課題の内容を知らないはずだった。けれど、知ってしまった。セドリックも、そしてハリー・ポッターも。もしかしたら、レイチェルが知らないだけでハリー・ポッターが開心術を習得している可能性もないわけじゃないけれど────普通に考えれば、ドラゴンのことを知っていた誰かが彼に教えたのだ。
「言ってないわ。どうして?」
「あのね……その……」
……もしかしたら、本当のことを言ったら責められると思っているのかもしれない。もしそうなら、どうか自分から打ち明けてほしい。そんな思いをこめて、レイチェルも自分の知る限りのことを話した。セドリックが、課題はドラゴンだと知っていたこと。そして、それをハリー・ポッターから聞いたと言っていたこと。つまり、誰かがこっそり彼にドラゴンの存在を教えたはずだと言うこと。
「違うわ。私じゃない」
ジニーは黙ってレイチェルの言葉に耳を傾けていたが、全て話し終えたところでキッパリとそう言った。その表情は真剣で、レイチェルを見返すその瞳は真っ直ぐだ。嘘を吐いているようには見えない。何かに怯えていたり、隠しごとをしているような雰囲気でもない。
「本当よ。私、言ってない。……きっとロンね。あの人、本当に“秘密にする”ってことが苦手なんだから」
ジニーが全くもうと溜息を吐いた。
そうだ。考えてみたら、レイチェル達以外にもドラゴンのことを知っている人が居た可能性もあったのだ。安心したら、体の力が抜けた。ジニーではなかったのだ。やっぱり、聞いてみてよかった。聞かなかったら、このままずっともしかしたらと疑ったままになるところだった。
「よかった……もしジニーが教えたんだとしたら、私のせいかもって……」
「レイチェルのせい? 何で?」
「だって……私、ドラゴンのこと、『セドに教えたい』なんて言っちゃったし……そのせいで、ジニーを不安にさせたかもしれないって思ったの……」
不用意なことを言ったせいで、ジニーを疑心暗鬼にさせてしまったんじゃないかと不安だった。セドリックを有利にするために、ドラゴンのことを教えるに違いないと、そう思わせてしまったんじゃないかと。そのせいで、もしもジニーがハリー・ポッターに秘密を漏らしてしまったとしたら────不正に加担したことで、今頃ジニーは罪の意識でいっぱいなんじゃないかと、心配だった。
「そんな風に思い詰めてたの?」
「だって……私じゃないなら、ジニーなんじゃないかって思ったんだもの。他にもドラゴンのこと知ってる人が居るなんて思わなかったし……。もしも先生達にバレたら、一緒に謝らなきゃって……」
「そこまで?」
ジニーがクスクス笑う。ジニーが馬鹿げたことだと笑い飛ばしてくれたおかげで、レイチェルは気持ちが軽くなった。そして、ジニーに対して申し訳ない気持ちになった。他の可能性を考え付かなかったとは言え、レイチェルは友達を疑ってしまったのだ。
「……疑ってごめんなさい、ジニー」
「ううん。私だって、逆だったらたぶん『まさかレイチェルが!?』って考えちゃったと思うし」
今更な謝罪を口にしたレイチェルに、ジニーは気にしていないと首を横に振った。
優しい。何ていい子なんだろう。レイチェルが思わずローブの胸のあたりをギュッと握りこんでいると、ジニーが困ったように微笑んだ。
「確かに……ほんの少しだけ、考えたわ。ハリーにドラゴンのことを教えたら、喜んでくれるかもって」
レイチェルには、そのときのジニーの気持ちがわかる気がした。彼を慕っているジニーなら、そう考えてしまうだろう。レイチェルだって、セドリックに教えたかった。だって、ドラゴンと戦うなんて危険だから。教えたいけれど、秘密にしなければいけない。そんな板挟みに、ジニーは1人で耐えたのだ。「でも……やっぱりそんなのはダメだって思ったの。だって、フェアじゃないでしょ」
結果的には、ハリー・ポッターがセドリックにも伝えたことで────セドリックが彼から聞いたことには、クラムとフラーもドラゴンの存在を知っていたらしいので────ある意味フェアにはなったけれど。でも、それはあくまで結果論だ。
そして、誠実に秘密を守ったジニーは、レイチェルと違って、彼らが課題の直前までその内容を知らないと思っていたのだろう。
「……彼がドラゴンと戦うの、心配じゃなかった?」
「まあ、心配だったけど……」
セドリックが対策を立てていると知っているレイチェルですら、ものすごく心配だった。ジニーはそうではなかったのなら、その不安はレイチェルの比ではなかったはずだ。こんなことなら、試合の前にジニーと話せばよかった。そうすれば、ジニーもほんの少しだけ安心できたかもしれないのに。
「でも、何て言うか……ハリーならきっと何とかなるんじゃないかなとも思ったのよね。あの人って、結局いつも、どんな無茶なことだって何とかしちゃうんだもの」
そう言って、クスクス笑ってみせるジニーの声は穏やかだった。大切な宝物について話すときの、優しい響きをしている。困ったように笑うその顔も、どこかいつものジニーよりも大人びて見えて、レイチェルは思わず視線が引き付けられた。
「信じて待とうって思ったの。……だって、それくらいしかできないでしょ?」
……ああ、本当に、何ていい子なんだろう。
レイチェルはジニーをギュッと抱きしめた。ジニーがこんな風に考えていたことも、こんな優しい表情も、彼を信じたからこそ、何も言わず見守っていたことも。きっとハリー・ポッターは知らないのだろう。すぐ近くに、こんな風に自分を一途に想ってくれている女の子が居ることを。ううん、今はまだ知らないだけだ。きっと、いつか彼も気づくはずだ。報われてほしい。
いつか、遠くない日に。ジニーの恋が実を結ぶときが来てほしい。
金曜日の午後。図書室に行くために中庭を歩いていたレイチェルは、見知った人物の姿を見つけた。向こうに居るのは、ハリー・ポッターだ。
ちょうど通り道だし、数日前までのレイチェルなら間違いなく、「ハイ、ハリー」と声をかけていただろう。けれど、今日は挨拶をするのはやめておくことにした。ハリー・ポッターは、5年生らしき男の子達に囲まれていたからだ。
「おめでとう、ポッター!」
「君ならきっと上手くやるって、僕は最初から信じてたさ」
通り過ぎるときに見えたその集団の1人に、見覚えがあった。以前、ハリー・ポッターの鞄の中身が散らばったとき、大声で笑っていた男子生徒だった。レイチェルは何だか、気持ちがざらつくのを感じた。……最初から信じていた? 嘘だ。あのときは、ローブの胸にあのバッジをつけていたくせに。
試合の結果を見たときから、こうなることはある程度予想していた。彼の名誉が回復したことは、よかったと思うけれど……彼を悪く言っていた人達が、手の平を返したかのように口々に褒め称えているのは奇妙な気分だった。バッジを外したら、あんなに彼に冷たく当たっていたことまですっかり忘れてしまったみたいだ。
……でも、レイチェルだって、彼らのことをとやかく言えない。
レイチェルだって、以前はハリー・ポッターのことを嫌っていた。彼の人柄も、彼の事情もよく知らないのに、人伝に聞いたことだけで傲慢な男の子だと思い込んでいた。本人に直接悪意をぶつけることはしなかったつもりだけれど、友人達に愚痴を言ったことだってあった。彼らと似たようなものだ。結局、彼に謝ることもしていない。レイチェルに彼らを責める資格なんてないのだ。……自分と似ているからこそ、苛立ってしまうのかもしれない。「待って!」
パタパタと、軽い足音が追いかけて来る。後ろから聞こえた声に振り返ると、向こうからハリー・ポッターが走って来るのが見えた。肩で息をしている彼は、レイチェルの前で立ち止まった。
「僕、何かしちゃった?」
「え?」
「その……いつもと違って、挨拶してくれなかったから」
「あっ……えっと……他の人と話してるみたいだったから」
別に無視しようと思ったわけではなかったのだけれど……確かに、会う度に声をかけてきていた人間が素通りすると言うのは、された側からすると気になってしまうかもしれない。何だか悪いことをしてしまった。
とは言え、こうして話すきっかけができたのは、レイチェルにとっては幸運だった。機会があれば、彼にお礼を言いたいと思っていたからだ。
「……セドにドラゴンのこと教えてくれたの、あなたなんでしょう?ありがとう」
誰かに聞こえないように小声で囁くと、ハリー・ポッターは驚いたように目を見開いた。
……もしかしたら、レイチェルまで事前にドラゴンの存在を知っていたのが意外だったのかもしれない。言わない方がよかっただろうか。ちょっと考えなしだったかもしれない。
「別に……セドリックだって、逆の立場だったら同じことしたと思うよ」
「そうね。そうかも」
照れ隠しなのか、ちょっとぶっきらぼうな口調に、レイチェルは思わずクスクス笑った。確かに、セドリックが先にドラゴンのことを知っていたとしたら、やっぱり彼に伝えただろう。……セドリックなら、そもそも自分が課題の内容を知ってしまったこと自体にかなり悩みそうだけれど。
「でも、やっぱり感謝してるの。だからお礼を言わせて。本当にありがとう」
直前まで課題の内容を知らなかったとしても、セドリックならやり遂げられたかもしれない。でも、やっぱり事前に対策を立てていたからこそ、冷静で居られたところもあるだろう。だとしたら、それはドラゴンのことを教えてくれた彼のおかげだ。
「あなたの試合、とっても素晴らしかったわ。すごく勇敢だった……私、あなたよりほんの少しだけ色々な呪文を知ってるつもりだけど、ドラゴンを前にしたら怖くて足が竦んじゃうと思うし……それに、箒を呼び寄せるなんてアイディア、思いつきもしなかったもの!」
「……たまたま、上手く行っただけだよ」
ファイアボルトでの素晴らしい飛行を思い出してレイチェルが興奮気味に言うと、ハリー・ポッターは視線を逸らしたまま、ボソボソと呟いた。やっぱり素っ気ない口調ではあったけれど、その頬は薄っすら紅潮していて、口元が僅かにニヤッとしたのがわかった。やっぱり、照れているみたいだ。何だか微笑ましくて、レイチェルもつられて笑った。
「……僕の方こそ、ありがとう」
「え?」
ふいに彼が何か小さく呟いたけれど、上手く聞き取れなかった。レイチェルが不思議に思って見返すと、ハリー・ポッターもまたレイチェルを見ていた。けれど、すぐにその視線は外れてしまった。薄い硝子の向こうで、伏せられた視線が戸惑ったように揺れる。
「ありがとう。僕のこと、応援してくれて。……嬉しかったんだ。君はグリフィンドールじゃないし……セドリックと仲が良いんだから、僕が選手になったことに腹を立てたっておかしくなかったのに」
「そんなの……別に、お礼を言われるようなことじゃないわ。だって、あなたはホグワーツの代表選手なんだもの」
セドリックとハリー・ポッターのどちらを応援するか。すっかり対立するような雰囲気になってしまっていたけれど、本来彼らは2人ともがホグワーツの代表選手なのだ。片方だけしか応援してはいけない理由なんてなかった。レイチェルもそうしただけだ。
「うん。でも、他の皆は認めてなかった。僕のこと、目立ちたがり屋の嘘つきだって思ってたんだ」
ハリー・ポッターは何でもないことのような口調だったが、レイチェルは胸が痛むのを感じた。
それは事実だ。一体何が原因か────やっぱり元を辿れば、あの新聞記事なのだろうか────ホグワーツの半分の生徒は、彼がルールを破って立候補したに違いないと考えていた。そして、そんな彼を認めず、冷たい態度をとっていた。
「それなのに君は……僕がゴブレットに名前を入れてないって、信じてくれた」
「……私だけじゃないわ」
あの記事を信じなかったのは、レイチェルだけじゃない。ハーマイオニーや、セドリック、それにパメラやエリザベスやチョウ────他にもたくさん居た。レイチェル1人が特別なわけではない。それに、彼が嫌がらせや陰口を向けられていても、レイチェルには何もできなかった。
「今回のことだけじゃないんだ。秘密の部屋の事件のときも……君は、僕は継承者じゃないって言ってくれた」
ハリー・ポッターの顔に、はにかむような笑みが浮かんだ。
どうして────レイチェルの頭に疑問が浮かんだ。確かにレイチェルは彼が継承者だとは考えていなかったけれど、どうして、彼がそのことを知っているのだろう? ハーマイオニーに聞いたのだろうか?
『絶対違うと思うわ。だって、ハリー・ポッターにそんな力なんてあるわけないもの」』
……ああ、そう言えば。セドリックとそんな風に話しているのを、彼に聞かれてしまったことがあったような気がする。彼が言っているのは、そのときのことだろうか。だとしたら────ハリー・ポッターはレイチェルのことを誤解している。
「私……私、そんなにいい人じゃないわ」
レイチェルは今度こそ、居たたまれない気持ちになった。できることなら、今すぐこの場から逃げ出してしまいたいくらいに。羞恥で頬に熱が集まるのを感じた。罪悪感で胸がじくじくと痛む。ゴブレットの一件はともかく、こればかりは聞き流せそうになかった。彼は、そんな風にレイチェルに感謝なんてするべきじゃないのだ。「あなたのこと、噂で誤解して嫌な奴だって思い込んで、嫌ってたことだってあったし……あなたが思ってるような、いい人なんかじゃない」
ハリー・ポッターは誤解している。それじゃあ、レイチェルがいつだって彼を信じて味方で居続けた、優しい女の子みたいだ。あのときレイチェルが彼を継承者だと思わなかったのは、彼を信じたからじゃない。あのときのレイチェルは、彼のことが大嫌いだったのに。
「あなたのことよく知らないのに、勝手に期待したり、見直したり、幻滅したりしてた。皆と同じよ。お礼を言ってもらえるようなことなんて、何ひとつしてないもの……」
レイチェルは何だか泣きたい気持ちになった。『あなたのことが嫌いだった』なんて無神経なことを、本人に伝えたくはなかった。けれどそれ以上に、この誤解をそのままにしておきたくない。自分が相手のことを大嫌いだったからこそ吐き出した言葉に感謝されるなんて、そんなことがあっていいはずがない。責められて、軽蔑された方がまだマシだ。
「……じゃあ、おあいこだ」
幻滅されるかもしれないと覚悟したのに、俯いたレイチェルの頭上から降って来た声は予想外に柔らかく響いた。レイチェルが思わず顔を上げると、ハリー・ポッターと視線がぶつかった。深い緑の瞳が、光を孕んで宝石のようにキラキラと輝いている。
「僕も……僕も君のこと、よく知らなかったから。きっとこんな女の子だろうって、勝手に決めつけてた」
……一体、どんな風に思われていたんだろう? 懐かしむような口調で紡がれた言葉にそんな疑問が浮かんだけれど、レイチェルは口にすることは躊躇った。知りたいような、聞きたくないような。黙りこむレイチェルに、ハリー・ポッターは照れくさそうに笑ってみせた。
「君、僕の好きだった女の子に似てるんだよ」
彼は前から、こんな風に落ち着いた、大人びた声をしていただろうか。
眩しいものを見るようなその表情に、レイチェルの心臓が小さく跳ねた。驚いたけれど、これはたぶん……レイチェルじゃなく、彼が好きだったと言う女の子に向けられたものなのだろう。彼はマグルの間で育ったはずだし、容姿か、もしくは性格がレイチェルと似たマグルの女の子が居たのかもしれない。もしかしたら、その女の子の名前がレイチェルだったのかも。そうだ。名前────。
「……そう言えば私達……こうやって何度もおしゃべりしてるのに、まだ自己紹介すらしてなかったのね」
話す機会は、これまでに何度もあった。友達同士の打ち解けたおしゃべり、と言うわけではなかったけれど。でも、全く知らない相手と言うわけでもない。友達の友達。ただの顔見知り。お互いどこか遠慮がちで、必要以上に踏み込まない。レイチェルと彼の関係はずっとそうだったし、この先もきっとこのままなのだろうと思っていた。ついさっき、たった5分前までは。
「知ってるよ。ハーマイオニーによく話を聞いてるから。レイチェル……だよね」
「ええ。レイチェル・グラント。よろしくね」
「その……知ってると思うけど、僕はハリー。ハリー・ポッター」
「そうね。ハーマイオニーから話を聞いたことがあったかも」
「あの……そう言えば、授業は大丈夫?」
「あっ……僕、次、魔法薬学だった。君は?」
「私、次は空き時間だから……」
いいなぁと羨ましそうに唇を尖らせるその反応はあまりにも年相応で、普通の男の子だった。あの危険なホーンテール相手に渡り合ったなんて、信じられないくらいに。でも、彼なのだ。随分と背は伸びたけれど、表情はどこかまだあどけなさが残っていて、初めて会った日の面影があるのに。
「じゃあ……またね」
「ええ……またね、ハリー」
急ぎ足で廊下を走って行くハリー・ポッターをレイチェルは手を振って見送った。
またね、でお別れするなんて、まるで友達みたいだ。……いや、友達なのだろう。たぶん。少なくとも、ハリー・ポッターは……ハリーは、そう思ってくれている気がする。
友達になったからと言って、何かが劇的に変わるわけじゃない。
彼はきっと明日からも皆の人気者だろうし、レイチェルの彼に対する罪悪感だって、魔法みたいに消えてなくなるわけじゃない。知り合いから友達に変わったからと言って、急に親しくなるわけじゃない。そもそも、寮も学年も違う彼とは顔を合わせる機会すらほとんどないのだ。ちょっとした変化。ほんの少しの前進に過ぎない。でも────レイチェルにとっては、大きな一歩だ。ずっとこのままだと思っていた距離が、ほんの少し縮まったのだから。心臓の鼓動が、いつもより早いのがわかる。
次会ったときは、また挨拶をしてみよう。きっと彼も、笑って挨拶を返してくれるはずだ。