「あーあ。いいなあ、グリフィンドールとハッフルパフ。絶対これからパーティーよね」
ドラゴンも再び箱の中へとしまわれ、今日は解散になった。競技場を出た生徒達は誰もがまだ試合の話題で持ちきりだったけれど、中でもグリフィンドールとハッフルパフの生徒達は賑やかだ。羨ましそうに溜息を吐くパメラに、エリザベスが微笑んだ。
「私達もお祝いするのはどうかしら。お菓子なら、この間ホグズミードで買ったものがあるでしょう?」
「それも悪くないけど! やっぱり主役が居ないとつまんないじゃない!もっとパーッとやりたいのよ、パーッと!」
エリザベスの提案は魅力的だけれど、パメラの言い分もわかるような気がする。同じホグワーツの生徒としてお祝いのパーティーを開くと言うのは奇妙なことではないだろうけれど、やっぱり代表選手が居ないレイブンクローではいまひとつ盛り上がりに欠けそうだ。
代表選手────セドリックやハリー・ポッターは怪我の治療に向かったはずだけれど、今頃はそれも終わった頃だろうか? そんなことを考えていると、ふいに視界の端に見知った人物の姿を見つけた。
「ごめんね、パメラ。エリザベス。先に戻ってて。私、チャーリーと話してくる」
向こうの木の影に居るのは、チャーリーだ。さっきはあんな別れ方になってしまったし、どうやらチャーリーは地面に座り込んでいるようだったので、ちょっと心配になった。もしかして、どこか体調が悪いのだろうか?
「チャーリー!」
「あれ? レイチェル」
「大丈夫? 気分が悪いの?」
「いや。ちょっと休憩してただけだよ。久しぶりに全速力で飛んだら、さすがに疲れた」
「お疲れさま。大変だったのね」
「まあね。でも、ハリーも無事だったことだし、結果オーライさ」
チャーリーの足元には、箒が転がっていた。以前レイチェルも乗せてもらった、クリーンスイープの旧型だ。ドラゴンに注意を削がれた分、ファイアボルトが全速力でなかったとしても、この箒でファイアボルトに追いつくなんて、やっぱりチャーリーの箒の腕前はすごい。
「本当に……たった数分でもドラゴンが野放しになるなんて、どうなるかと思っちゃった。無事に見つかってよかったわ。チャーリーのおかげね」
「まあね。でも、魔法省は黙ってないだろうな……ボスが気の毒だ。僕達は課題が何か知らされてなかったんだから、あんなの想定しようがなかったぞ」
チャーリーが溜息を吐いた。結果的には大事には至らなかったけれど、そもそもドラゴンの脱走自体が大問題なのはレイチェルにもわかる。エイモスおじさんの部署────魔法生物規制管理部はまた忙しくなるだろうか。
「チャーリーは、もうルーマニアに帰っちゃうの?」
忙しいと言えば、チャーリーもだ。そもそも、チャーリー達は仕事でホグワーツに来ているのだ。課題は終わったのだから、彼らの仕事も終わりのはずだ。予定外のアクシデントの事後対応はあるのかもしれないけれど……それでも、あまり長居はしないのだろう。
「ドラゴン達を休ませたいし、今日はこのまま泊まる予定だよ。出発は明日の午後かな」
「午後……私達は授業の時間帯?」
「そうなるかな。正直、僕はあと2、3日残ってもいいくらいだけど……ホグワーツの屋敷しもべ妖精達はまた腕を上げてるよ」
今日はこの後、チャーリー達ドラゴン研究所の人達も夕食に呼ばれているらしい。そう言えば、昨夜や今朝の食事の席には彼らの姿はなかった。生徒達が課題の内容に気づかないよう、食事の時間をずらしていたのだろう。
「さて。僕も仕事に戻らないと。1人だけサボるなって、文句言われそうだ」
いつの間にか、辺りには人の気配が少なくなっていた。生徒達はもう城へ戻ったようだ。無人になった競技場の方から、微かに呪文の飛び交う音が聞こえる。ドラゴンキーパー達が片付けをしているのだろう。
「チャーリー。会えて嬉しかった」
「僕もだ。元気そうでよかった」
「よかったら、夏休みにまた遊びに来ればいい。セドリックも一緒に」
「そうできたら嬉しいわ。パパに聞いてみる」
「アランなら、明日にでも来るべきだって言いそうだ」
「ふふ。そうかも」
確かに、父親なら次の夏休みどころか今度のクリスマス休暇に訪ねるとレイチェルが言い出したとしても、喜んで移動キーとのチケットを押さえてくれそうだ。その気になりさえすれば、ルーマニアはそう遠くない。
「またね、チャーリー。元気で」
「レイチェルも」
ポンポンと頭を叩くチャーリーは相変らず子供扱いに感じたけれど、何だかくすぐったい。
疲れたとぼやいていたのが嘘のように、チャーリーは軽い足取りで競技場へと戻っていった。その背中が小さくなっていくのを見送って、レイチェルは寂しさが胸が締め付けるのを感じた。
頭ではわかっている。これがお別れじゃない。きっと、また会える。
その気になれば、ルーマニアは遠くない。移動キーのチケットが取れれば、クリスマス休暇だって、明日にだって行ける距離だ。わかっている。それでも────やっぱり、海の向こうは遠い。
卒業したら、セドリックはたぶんルーマニアに行ってしまう。ドラゴン研究所が難関と言われていたって、セドリックならきっと選ばれる。
チャーリーと会ったのは2年ぶりだった。肉親である父親ですら、顔を合わせる機会は1年に1度あるかないか。何か用事がなければ、イギリスには帰って来ない。わかっている。仕方のないことだ。忙しいから。遠いから。どうしても会いたいなら、レイチェルの方がもっと会いに行けばよかった。レイチェルだって、そうしなかった。
セドリックも────セドリックがルーマニアに行ってしまったら、やっぱり会えなくなってしまうだろうか。1年に1回? それとも2年に1回?距離が離れたら、 今と同じ関係で居るのは難しくなるだろう。ルーマニアは、手紙が届くのさえ時間がかかるから。
「 レイチェル!こんなところに居たのね」
「ハーマイオニー?」
ふいに背後から声をかけられて、レイチェルは驚いた。ふわふわの栗毛を揺らして走って来たハーマイオニーは、レイチェルを探していたらしい。何か用事だろうかと首を傾げていると、ハーマイオニーはレイチェルを急かすように腕を引いた。
「あのね、セドリックがあなたを呼んでる。彼、まだ救護用テントに居るわ」
代表選手達の救護用テントは、森の入口にあった。ハーマイオニーはレイチェルをテントの前まで案内すると、自分は城に戻ると言って行ってしまった。さて、とレイチェルはテントを前にちょっと躊躇った。選手でもないのに、レイチェルが入っていいのだろうか? いや、でもセドリックが呼んでいると言う話だったし……。
「失礼します。……セド? 居る?」
「レイチェル」
そっと入口から中を除く、セドリックは1番奥にあるベッドに座っていた。その姿を見て、レイチェルはハッとしてセドリックの側へと駆け寄った。セドリックの顔の半分は、オレンジ色の軟膏で覆われていた。他の選手達の姿はない。セドリックの怪我が1番ひどかったのだろうか?
「火傷、ひどいの? ……ちゃんと治る?」
「うん。3日あれば治るって。薬を塗ってもらったから、もうほとんど痛みもないんだ」
「そうなの……?」
チャーリーの言っていた通りだ。ドラゴンの専門家の見立ては確からしい。べったりと軟膏が塗られた姿は痛々しいが、セドリックの表情は明るい。レイチェルがホッと胸を撫で下ろしていると、患者の様子を見にマダム・ポンフリーがやって来た。
「何が大丈夫なものですか!完治まで3日もかかる火傷なんて!あと少し消火が遅かったら、痕が残ったかもしれないのに!」
盆の上に置かれた水差しやゴブレットが、ガチャンと大きな音を立てる。どうやら、チャーリーとマダム・ポンフリーの価値観は相容れないようだ。ドラゴンなんてとブツブツ言うマダム・ポンフリーの怒りに火を注がないよう、レイチェルは口をつぐんだ。
「ミスター・ディゴリー。そろそろ1時間経つので、薬は完全に皮膚に浸透して消えるはずです。そうしたら、この薬を飲みなさい。かなり苦いですが、1滴残らず飲み干すこと。ああ、ちょうどいいですね。ミス・グラント。彼が薬を残さないよう見張っていてください。全部飲んだら、寮に帰ってよろしい」
マダム・ポンフリーはキビキビと言い、テントを出て行った。
レイチェルはベッドの脇に置かれた椅子に座った。しばらくすると、マダムの言っていた通り、セドリックの顔を覆っていた軟膏は綺麗さっぱり消えてしまった。火傷の跡は薄く残っているけれど、きっと3日後には消えるのだろう。
「うぇっ……苦い……」
「仕方ないわ。薬だもの。かぼちゃジュースの味はしないものよ」
「わかってるけど、今までで1番苦い……」
セドリックは薬の入ったゴブレットを傾けたが、一口で手を止めてしまった。思い切り眉を顰めているところを見ると、どうやら相当に苦いらしい。確かに、見た目や匂いからしてもいかにもおいしくなさそうだ。
「えっと、それで……セドが私を呼んだのって……?」
どうにか薬を飲み下そうと努力しているセドリックに、レイチェルはようやく本題を切り出した。
まさか、苦い薬を飲む見張りに呼ばれたわけではないだろうし、そもそもレイチェルを呼んでいたのはマダム・ポンフリーではなくセドリックのはずだ。
「少し話したかったんだ。たぶん、この後寮に戻っちゃったら、なかなか抜けられないと思うから」
セドリックは何でもないことのような口調だったけれど、その言葉にレイチェルは知らず肩の力が抜けた。そして、温かなものが胸の中に染み出していくのを感じた。城に戻って大勢から祝福されることよりも、レイチェルと話したいと思ってくれたのだ。
「最初に言うべきだったわ……第1の課題、達成おめでとう」
「ありがとう」
火傷にばかり気を取られてしまったけれど、本来何よりも先に伝えるべきはこの言葉だったはずだ。セドリックはつい1時間前に、あの凶暴なドラゴンを出し抜いて、見事に課題を達成したのだから。どんなに試合が素晴らしかったか────続けようとした言葉は喉元で失速して、そのまま引っ込んでしまった。急に黙り込んだレイチェルを、セドリックが不思議そうな表情で見返した。
「レイチェル?」
「あのね……『やっぱり、セドはすごい』……って言われるの、嫌?」
試合前のセドリックの様子が頭によぎって、レイチェルは不安になった。悪気なく、無責任に吐き出したその言葉が、セドリックには負担になってしまうんじゃないかと思ったから。レイチェルが尋ねると、セドリックはふっと表情を緩めた。
「レイチェルに言われるのは嫌じゃないよ」
柔らかい表情は、嘘を言っているようには見えなかった。けれど、セドリックは優しいから。また相手を────この場合はレイチェルを気遣ってそう言っているのかもしれない。セドリックに重荷になってしまうくらいなら、きっと言わない方がいい。
「……結構頑張ったと思うんだけどな。『さすがセド』って言ってくれないの?」
セドリックがそんなことを言い出したので、レイチェルは目を見開いた。その口調は、レイチェルの耳にはちょっと拗ねているようにも聞こえた。思わずセドリックの顔を見返すと、セドリックは悪戯っぽく笑ってみせた。
「とっても……とっても素晴らしい試合だったわ! 本当に勇敢だったもの!さすがセド!」
レイチェルはニッコリした。そう。本当に勇敢だったのだ。セドリックも、それに他の代表選手達も。ドラゴン相手にも互角に渡り合う彼らの戦いぶりに、観客の誰もが興奮し、息を呑んだ。もちろん、レイチェルも。「チャーリーも褒めてたのよ。セドはドラゴンキーパーに向いてるって」
「チャーリーが?」
「そう。おじさん達にも見せてあげたかった。セドの活躍を知ったら、きっと……」
「レイチェル。大丈夫?」
「え?」
どうしてか、セドリックが険しい表情になった。レイチェルは不思議に思ったが、すぐにその理由に気が付いた。視界が、奇妙にぼやけていた。頬に触れると、濡れた感触が指先に伝わる。レイチェルはそこでようやく、自分が泣いていることに気が付いた。
「あれ……? 何で…………」
どうして、勝手に涙が出てくるのだろう。悲しいことなんて、何もないはずだ。セドリックは無事に課題を達成した。火傷だってちゃんと元通りになる。素晴らしい結果だ。悲しいことなんて、何一つないはずなのに。
「嬉しいの。本当よ」
「レイチェル」
「違うの。私、本当に……」
「本当に……本当に、心配したんだから」
「うん」
「セドならきっとできるって……信じるって決めたけど、怖かった」
応援すると決めた。レイチェルにできることなんて、それしかないから。信じて待つと決めた。でも、怖かった。胸が張り裂けそうだった。
さっきまでセドリックの顔を覆っていた軟膏の匂いが、ツンと鼻を刺激する。触れた皮膚から、体温が伝わって来る。心臓の鼓動が聞こえる。温かい。────生きている。
「セドが……炎に飲み込まれそうになったとき、セドが大怪我したらどうしようって」
「うん」
「セドが頑張ってるの、すごいなって思うのは本当なの。セドの活躍が、嬉しいのも。でも、お願いだから……あんまり、無茶しないで」
「うん。ごめん」
落ち着いて話したいと思うのに、声が勝手に震えてしまう。
何も悪くないのに謝ってくれるセドリックの声が優しいから、涙がますます溢れて止まらなくなる。無事でよかった。セドリックが大怪我しなくて、本当によかった。
「でも、無茶したつもりはなかったんだよ……勝算があるって思ったんだ」
「わかってるけど……」
セドリックにとってはきっと、無謀な賭けなんかじゃなかった。わかっている。実際、セドリックは見事ドラゴンから卵を奪ったのだから。それでも、やっぱり心臓が潰れそうだった。ぐすぐすと鼻を啜っていると、レイチェル、とセドリックが名前を呼んだ。
「僕を見て」
薄い皮膚を隔てたすぐそこにあった熱が、離れていく。そのせいでレイチェルはまた小さな不安が胸に翳るのを感じたが、言われた通りセドリックの顔を見た。セドリックもまた、真っ直ぐにレイチェルを見ていた。
「ちゃんと無事だよ。ここに居る」
ガラス玉のように透き通った灰色の瞳の中に、レイチェルが映っている。
そうだ。危険な課題はもう終わった。ここにはドラゴンは居ない。もう安全だ。セドリックは遠いフィールドではなく、レイチェルの目の前に居る。手を伸ばせば、届く場所に。
「僕も、正直言うと怖かった。でも、どんな結果になっても、レイチェルはきっといつも通り変わらないって……そう思ったから、冷静で居られたんだ。ドラゴン相手でも、立ち向かえたんだよ」
ギリギリだったけどね、とセドリックははにかんだように笑ってみせた。
ちょっと困ったようなその笑い方は、いつものセドリックだ。『ホグワーツの代表選手』じゃない。レイチェルの幼馴染の男の子。
「次もまた、レイチェルから見たら無茶をするかもしれない。でも、きっと……ちょっとくらい怪我はするかもしれないけど、無事に戻ってくるから。信じて、待ってて」
「……絶対よ」
約束するとセドリックが微笑んでくれたので、レイチェルもようやく笑みを浮かべることができた。自然に微笑んだつもりだったけれど、涙が乾いたところが引きつってしまったせいでぎこちない笑い方になってしまったかもしれない。
「泣くと鼻が赤くなるの、小さい頃のままだね」
セドリックが仕方ないなと言いたげに苦笑して、レイチェルの涙を指で拭った。
「これが、次の課題のヒントらしいんだ」
話題を変えようと思ったのか、セドリックがそう言ってサイドテーブルに置かれていた金の卵を手に取った。滑らかに磨き上げられた表面は、眩いほどに光っている。遠目で見て想像していたより、実物はかなり大きい。
「中に何かあるの?」
「だと思う。開けてみようか」
「いいの?」
気になるけれど、そんな大切な瞬間にレイチェルが立ち会わせてもらっていいのだろうか。
レイチェルがソワソワしていると、その間にセドリックは卵の蓋らしき部分を探し当てていた。そして、卵がパッと開き────その瞬間、耳触りなけたたましい音がテントの中に響き渡った。あまりの騒々しさに、レイチェルは耳を塞ぎ、セドリックは急いでまた卵を元通り閉じた。
「一体何の騒ぎですか!?」
「何でもありません! マダム・ポンフリー」
テントの入り口からマダム・ポンフリーが顔を覗かせたので、レイチェルとセドリックは慌てて誤魔化した。マダムが納得していない様子ながらもテントを出て行ったのを確認して、レイチェルはセドリックと顔を見合わせてクスクス笑ってしまった。何だか、小さい頃に悪戯を必死で隠していたときを思い出してしまった。
「……今の何だろう? マンドラゴラかな?」
「わからないわ……でも、それなら私達、気絶するはずでしょ? サラマンダーの鳴き声にもちょっと似てた気がするけど……」
ヒトではない、何か生き物の鳴き声のようだった。でも、今まで聞いたことがない気がする。言いながら、レイチェルはあれ、と思った。そもそも、どうしてサラマンダーの鳴き声を聞いたことがあるんだっけ? そうだ。あれは確か────。
「ね、覚えてる?小さい頃、おじさんが不正に取引されてたサラマンダーを家に連れて帰ってきて……セドったら、捕まえようとして暖炉の火の中に手を伸ばして、袖に火が燃え移ったの」
「あったっけ。そんなこと」
「あったの。セドは平気な顔してたけど、大騒ぎになって大変だったんだから」
当然セドリックは手を火傷して、おばさんは聖マンゴに連れて行かなければと真っ青になっていた。それなのに当のセドリックは手の平の上に乗せたサラマンダーに夢中で、『レイチェルも見る?』なんて、目をキラキラさせていた。
「思えばあの頃から、セドって火を燃やす生き物が好きだったのよね」
結局、おじさんとおばさんが大慌てで聖マンゴへ連れて行ったので、火傷は綺麗に治ったけれど。治るまではセドリックと遊べなかったのでレイチェルは寂しかったし、巻かれた包帯が痛そうで心配だった。それで────ああ、そうだ。
「……『セディの火傷が早く治るおまじない』」
そう言って、こんな風にセドリックの頰にキスしたんだっけ。
……懐かしくなってつい5歳の頃の自分の行動を真似てみたけど、今改めてやると照れくさい。レイチェルは照れ隠しにへら、と気の抜けた笑みを浮かべた。が、セドリックが驚いた表情のまま固まってしまったので、居たたまれなくなった。
「ごめんなさい……子供っぽかった?」
「いや……何て言うか……」
セドリックはそもそもそんな出来事があったことを忘れていたみたいだったから、急にキスされて驚いたのかもしれない。覚えていたとしても、子供っぽくて呆れたのかも。レイチェルが気まずくなって視線を泳がせると、セドリックが溜息を吐いた。
「……僕以外の前でもこんな風に無防備なのかなって思うと、時々ものすごく不安になる」
難しい表情でそう呟くセドリックに、レイチェルは不思議に思って首を傾げた。無防備ってどう言うことだろう。確かに、セドリックの前では安心している自覚はあるけれど、それは別に今日に始まったことじゃない。今日、何か特別だったことと言えば────。
「……いつも、こんな風に泣いたりしてるわけじゃないわ。だって、今日は……」
「そうじゃなくて……」
「……もう、小さな5歳の女の子じゃないんだよ」
「そんなの、知ってるわよ。……もう、『小さな可愛いレイチェル』じゃないことくらい」
わかっている。ドラゴンが怖かったと泣き出すなんて、5歳の頃と変わらない。レイチェルはもう、我が家のお姫様だと甘やかされて、大泣きしても微笑ましく見守ってもらえるような小さな女の子じゃない。16歳になったのに、泣いて取り乱してセドリックにあやしてもらうなんて子供っぽいし、恥ずかしいことだ。
「違うよ。レイチェルが可愛い女の子だから、心配なんだよ」
…………可愛くなんてない。身内の欲目だ、
そう反論しようと、レイチェルは口を開きかけた。けれど、何も言えなくなってしまった。自分を見つめるセドリックの表情がいつもより妙に大人びていて見えたからだ。何だか落ち着かなくて、頬がわずかに熱を持つのがわかる。セドリックって、前からこんな風だっただろうか……? もしかしたら、テントの中が薄暗いせいかもしれない。そう言えば今、このテントの中にはレイチェルと2人きりだった。
「セドだって……」
セドリックの方こそ、自分がとびきりのハンサムだと言う自覚を持ってほしい。自覚があれば、少なくともこんな風に女の子と2人きりのときに「可愛い」なんて囁いたりしないはずだ。たった今セドリックも言った通り、一応レイチェルだって女の子なのだ。整った顔はもう見慣れているはずなのに、今のは知らない人みたいでちょっとドキッとしてしまった。……本当に、ちょっとだけ。
レイチェルがもう小さな女の子じゃないように、セドリックだってもう小さな男の子じゃない。背が伸びたし、大人っぽくなった。レイチェルだって、その変化には気づいていたつもりだ。けれど、やっぱり子供の頃の面影があるとも思う。ずっと一緒に居るせいで、近すぎて気づかないこともあるかもしれない。他の人には、たとえばセドリックのファンの女の子達にはもっと違う風に映っているのだろうか? ……そう言えば、ついさっきも似たようなことを考えた気がする。何でだったっけ?
「『セクシー・セドリック・ディゴリー』……?」
「やめて」
頭に浮かんだ言葉が、無意識のうちにそのまま口をついて出てしまっていたらしい。セドリックが顔を顰めた。セドリックにしては珍しい、ものすごく嫌そうなその表情に、レイチェルは申し訳ないと思いつつクスクス笑ってしまった。
「あれ、セド達のテントにも聞こえてたの?」
「聞こえてたよ。あーあ……寮に戻ったら、ジョン達に散々からかわれるんだろうな」
セドリックの口から出てきた友人の名前にレイチェルはハッとした。
そうだ。すっかり話しこんでしまったけれど、今頃、ハッフルパフの談話室では、寮生達がセドリックが戻って来るのを待っているはずだ。
「みんなきっと、パーティーの準備をして待ちくたびれてるわ。主役だもの。私はもういいから、早く行ってあげて」
「大丈夫?」
「ええ。私のために時間をとってくれて、ありがとう」
「……僕がレイチェルと話したかったんだよ?」
以前もこんなやりとりをしたのを思い出して、レイチェルはセドリックと顔を見合わせて笑った。
セドリックを心配しているのも、応援しているのもレイチェル1人じゃない。今頃きっと、たくさんの人がセドリックを待っているはずだ。
本音を言えば、一緒にお祝いができないのは残念だ。でも、セドリックは皆が待つパーティーよりも先に、レイチェルと話したいと思ってくれた。誰よりも早く、おめでとうと言うことができた。レイチェルには、それでもう十分すぎる。たくさん泣いて、たくさん笑ったら、胸に渦巻いていた濁った感情は、いつの間にか溶けてしまっていた。不安も、寂しさも、すべて。
卒業したら、セドリックは遠い外国に行ってしまうかもしれない。でも、今はまだここに居る。レイチェルの、すぐ側に。