それからの数日は慌ただしかった。
生徒達の興奮もさることながら、城の大掃除が行われていたのもその原因だった。レイチェルの知る限り、入学してから今まで、学期中にここまで大がかりな行われたことは未だかつてない。階段の1段1段、廊下の石畳の隙間や窓枠の細い溝まで丁寧に埃が払われ、管理人のフィルチが神経質にモップでそこかしこを擦っていた。ピカピカに磨きあげられた廊下はうっかりすると滑ってしまうし、運悪くワックスがけをしているタイミングで通りかかろうものなら大変なことになるせいで、廊下を歩くのにいつもより注意が必要だった。まだ乾いていないワックスに足跡をつけてもフィルチのヒステリーを引き起こさずに済む唯一の存在は、フィルチの飼い猫であるミセス・ノリスだけだ。
「そう言えば、最近ピーブズが静かよね」
トーストを齧りながら、パメラが言った。週に1度は何かしらの騒ぎを起こすことをライフワーク────もう死んでいるからこの言葉は適切ではないのだろうけれど────としているポルターガイストは、言われてみればここ最近妙におとなしい。城の大掃除や飾り付けなんて、いかにもピーブズが邪魔したがりそうなことなのに。
「血みどろ男爵が目を光らせているんじゃないかしら。ピーブズは男爵の命令しか聞かないでしょう? 今回の対抗試合の開催は、ホグワーツの威信や名誉に関わるんですもの」
だからきっと血みどろ男爵がピーブズを抑えているのだろうと、エリザベスが苦笑した。監督生として校内でのトラブルの対処にあたる機会の多いエリザベスは、いつもピーブズの存在には苦労させられている。ゴーストと言えば────。レイチェルはふと肩越しに大広間の向かい側を振り返った。
「レディも最近ご機嫌みたいよね」
視界の隅に、半透明の真珠色をしたドレスが翻る。レイブンクロー寮のゴーストである灰色のレディは、グリフィンドール寮のほとんど首なしニックやハッフルパフの太った修道士とは違って、あまり生徒達と親しく会話をすることはない。生徒達の前に姿を見せることすら珍しいのだけれど、最近は比較的よく見かける。
「レディは綺麗好きだモン。ホグワーツがピカピカになるのが嬉しいみたい」
ふいにそんな声が聞こえてきたので、レイチェルは驚いた。声の主は、近くの席に座っていたルーナ・ラブグッドだった。ニッコリ笑うルーナに、そう言えばとレイチェルは以前見かけた光景を思い出した。生徒達とあまり打ち解けてはいない灰色のレディだけれど、ルーナとは仲が良いのだ。
「それに、対抗試合を見られるのが楽しみだって言ってたよ。前のときは、ホグワーツじゃなかったから見られなかったんだって」
「そっか。ゴースト達は、対抗試合を見たことがあるのよね!」
ルーナの言葉に、パメラがキラキラと目を輝かせた。ホグワーツのゴースト達は服装の年代から言って何世紀も前に亡くなっているはずだから、当時からずっとホグワーツに居るとしたら、対抗試合も何度も見てきたのだろう。もしかしたら、本で調べるよりもゴーストや肖像画に聞いてみた方が詳しい話が聞けたかもしれない。
「他に、対抗試合を見たことあるのって誰か居る? もしかして、ダンブルドアが学生の頃ってまだ対抗試合やってた?」
「んー……どうかしら……確か、前回の対抗試合って、200年くらい前だったと思うけど……」
「そもそもダンブルドアって何歳なの?」
「さあ……」
パメラの疑問に、レイチェルはわからないと肩を竦めた。若々しくはあるけれど、ダンブルドアがかなりの高齢であることは間違いないけれど、そう言えばレイチェルは────たぶんホグワーツのほとんどの生徒が────ダンブルドアの年齢を知らない。まあ、魔法史の教科書か蛙チョコレートのカードを見れば載っているのだろうけれど。
「それにしても、ホグワーツが開催校でよかったよなー。 持ち回りでやってるなら、今回が他の2校だった可能性だってあったわけだろ? せっかく試合やってても、代表選手候補じゃなきゃ見れねーじゃん」
ロジャーの言葉に、レイチェルははたと気がついた。言われてみればその通りだ。今回、ホグワーツを訪れるのは各校の選手候補達だと聞いている。全校生徒総出で来るわけじゃない。もしも開催校がホグワーツじゃなかったとしたら、立候補する資格のないレイチェル達は試合を見ることすらできないわけだ。
「4年に1回しかないんでしょ? 試合で戦えるのはたった1人で、見れるのも20人か30人くらい? ……なんか、開催校以外の生徒ってすっごい損じゃない?せめて魔法で中継とか、パブリックビューイングとかできないの?」
「確かにな。100年ぶりだろうが1000年ぶりだろうが、自分が参加どころか見ることすらできないんじゃあんまりありがたみないよな」
「ねえパメラ、そのパブリックビューイングって何?」
結局、“パブリックビューイング”が一体何なのか、その場でパメラに説明してもらうことはできなかった。話に夢中になっているうちに、いつの間にか朝食の時間の終わりが迫っていたからだ。レイチェル達は皿の上に残ったトーストや果物を急いで食べて、慌ててそれぞれの授業へと向かうことになった。
対抗試合の話題は楽しいけれど、つい時間を忘れて盛り上がってしまうから困りものだ。
「……と言うわけでね。今回の開催校がホグワーツでよかったなあと思って」
せっかく対抗試合が行われるのに自分は見られないなんて、そんなの悔しい。
朝食の席での会話を思い出してレイチェルが溜息を吐くと、向かい側の席に座っていたセドリックは魔法史のレポートを書く手を留めて、何か考え込むような表情になった。
「確かに……現地で試合を見たかったら選手に立候補するしかないんだろうけど、今回の場合はその条件も厳しいから難しいよね。ボーバトンやダームストラングの生徒は気の毒だな」
「ほとんどの生徒が留守番だものね」
次回以降がどうなるかはわからないけれど、少なくとも今回は、ホグワーツ以外の2校は16歳以下の生徒は全員それぞれの学校に残るのだろう。たぶん何らかの形で生徒達には試合の結果は伝えられるのだろうけれど、その場で観客として見るのと後から知らされるのでは全然違う。
────セドリックがせっかく選手に選ばれたとしても、その活躍が見れないだなんて!
開催校の順番が回ってくるのは、12年に1回だけ。教授達は準備で大変そうだけれど、今回の開催校がホグワーツで本当によかった。
「もしボーバトンやダームストラングが開催校だったとしたら、セド、今頃きっともうホグワーツを出発してるわよね」
「そうだろうね。他の魔法学校で過ごせるのも、それはそれで面白そうだけど」
まあ、確かにセドリックの立場ならそうだろうなと思う。
ワクワクするような特別なイベントのために知らない場所に行って、文化も価値観も違うたくさんの人と知り合って。代表選手に選ばれても選ばれなかったとしても、高度な魔法の競い合いを間近で見て、肌で感じることができる。他の魔法学校は、たぶんホグワーツとは似たところもあれば違うところもある。きっと新鮮なことばかりで、吸収するものがたくさんあるだろう。
そして────対抗試合が終わるまで、ここには帰って来ない。レイチェルは、ホグワーツに残る。選手達の活躍も、試合の興奮も、遠くで起こったこととして聞くだけ。何だかそれって、すごく寂しいことに思える。
「セドと……」
「何?」
「ううん……何でもない」
セドリックと1年近くも会えないなんて、何だか想像がつかない。そう言おうとして、レイチェルは口をつぐんだ。別に実際そうなるわけでもないのに、想像だけで離れ離れになるのは寂しいなんて口に出すのは子供っぽいと言うか、甘ったれてる気がしてちょっと恥ずかしい。歯切れ悪く誤魔化したレイチェルにセドリックはちょっと不思議そうな顔をしたけれど、結局は追及しないことにしてくれたようだった。
「留学みたいな感じなのかしらね。……授業も開催校のを受けるのかしら?」
「どうなんだろうね。カリキュラムとかもやっぱり違うだろうし……もし、今度来る他校生達がホグワーツの授業を受けるとしたら、やっぱり7年生のクラスなのかな」
「そうなるわよね……でも、授業によっては元々結構定員ギリギリよね? 薬草学とか、呪文学とか……」
教室に入りきらなかったらどうするのだろう、とレイチェルは首を傾げた。選手候補達は全員17歳以上だし、しかもそれぞれの学校の中でも優秀な生徒達が選りすぐられているのだから、そのレベルはたぶん7年生に相当するものだろう。となると、レイチェル達6年生とはあまり関わる機会もないのだろうか。せっかく他校生が来るのに何だかちょっと残念だけれど……でも、授業を他校生と一緒に受けるとしたらそれはそれで緊張してしまいそうだ。
「他の学校の授業も受けてみたいけど……でも、レイチェルと1年間も離れるって、何だか想像できないな」
頬杖を突いてレイチェルを見つめるセドリックと目が合って、レイチェルは思わず視線を泳がせた。それはさっきレイチェルも考えたことだけれど────レイチェルが照れくさくて飲みこんでしまった言葉を、どうしてセドリックはそんな風にあっさり言えてしまうのだろう。
「……今だって別に、ずっと一緒ってわけじゃないし……セドならきっと他の学校に行ったとしても上手くやれるから大丈夫よ」
寮も違うし、今だってお互いにルームメイトと一緒に過ごす時間の方が多いのだから────それに、今となっては申し訳なく思うけれど、去年はレイチェルがセドリックを避けていたせいで結構他人行儀な時期だってあったし────たぶん、実際そうなったらそうなったでたぶん何とかなるのだ。お互いが隣に居ないことに、違和感はあるだろうけれど。
「でも、会おうと思ったらすぐ会えるのとはやっぱり違うと思うよ」
セドリックにそう言われて、レイチェルは言葉に詰まった。それはたぶん、その通りだ。物心ついてから今まで、セドリックと長い時間を離れて過ごしたことはないから。学期中だって、夏休みだって、すぐ隣には居なかったとしても、いつだってセドリックは会おうと思えばすぐに会える場所に居た。
「だからやっぱり、ホグワーツが開催校でよかった。……その、応援も、皆で盛り上がれた方が楽しいしね」
さすがのセドリックも今度は照れくさかったのか、そんな風に付け加えて苦笑してみせた。レイチェルもつられて思わず笑った。やっぱり、敵わないなあと思う。そんな風に素直に言葉に出されるとこっちまで照れてしまうけれど、一緒に過ごしたいと思ってもらえるのはやっぱり嬉しい。
「……あのね、パメラが教えてくれたんだけど。マグルの文化だとね、離れた場所で起きたことでもリアルタイムで見られるらしいわ。テレビ中継で」
とは言え、やっぱり何だか気恥ずかしくて、レイチェルはさりげなく話題を変えることにした。結局あのあと、パメラに聞いて教えてもらったのだ。マグル学でテレビ放送の仕組みを学ぶのはもう少し先と言うこともあって、テレビと言うのは映画やアニメを見られる素敵な箱だとばかり思っていたけれど、マグルの技術を使えばそんなこともできるらしい。
「そうなんだ。すごいね。それは、距離が離れてても?」
「電……波?と必要な設備があれば、遠くても関係ないらしくて。この間のワールドカップ……あ、マグルのね。クィディッチじゃなくて……ワールドカップも、全世界で中継されたんですって」
遠く離れたところでの出来事を世界中の人がリアルタイムで知ることができる。離れていても姿現しで駆けつけることができるせいか、魔法界にはない技術だ。やっぱりマグルの発想ってすごい。マグルの今回の対抗試合も、そんな風にボーバトンやダームストラングの生徒達も見られたら楽しいのに。ホグワーツではマグルの機械はうまく動かなくなってしまうから難しいのだろうけれど。
「ボーバトンはフランスよね。ダームストラングってどこにあるんだっけ?」
「確か……ノルウェー? スウェーデンだったかも。北欧の方だよね」
じゃあ、ルーマニアよりは近いだろうか。いや、同じくらいかもしれない。何にしろ、すぐに顔が見られる距離ではないことは確かだ。言いたいことがあってもすぐに伝えることは難しいし、写真や手紙では声や表情まではわからない。
「そう言えば、レイチェルの従兄は? 彼ももしかしたら選手で来るかも」
「んー……どうかしら。その可能性はあるけど……顔を合わせても気づける自信ないわ」
「もう何年も会ってないもんね」
母方の叔父の1人が魔法省の仕事でフランスに赴任して、そこで現地の魔女と結婚したので、その息子────つまりレイチェルの従兄はボーバトンアカデミーに通っている。確か1つ年上だったはずなので、代表選手に立候補する条件は満たしているはずだけれど、親しく手紙のやりとりをしているわけじゃないから、お互いに近況はよく知らない。最後に会ったのだって、もう5年以上前だ。なので、今回従兄が代表選手候補としてホグワーツにやって来るかどうかもわからない。
「他の学校の代表選手達って、もうイギリスまで来てるのかしら?」
そもそも、彼らはどうやってやって来るのだろう? やっぱり、ホグワーツ特急に乗って来るのだろうか?それとも、箒で? レイチェルは何となしに窓の向こうへと視線を向けた。夕暮れ時の空に浮かぶのは、薄紫色の雲ばかりだ。クィディッチでもやっているのか、遠くから、下級生達のはしゃいだ声が聞こえてくる。騒がしい校内とは裏腹に、窓の外にはあまりに平和な、いつも通りのホグワーツが広がっている。
「あとたった3日で始まるなんて、何だかまだ実感が湧かない」
「そうだね。楽しみだな」
対抗試合の行方が気になるのも勿論だけれど、もしもホグワーツ以外が開催校だったとしたら、今頃こんな風にセドリックと話すことはできなかったのだろう。そう思うと、やっぱりホグワーツが開催校でよかったとホッとする。
「やっぱり、外国って遠いわよね……」
セドリックに聞こえないよう、レイチェルは小さな溜息と共に呟いた。
卒業したら、セドリックはきっとルーマニアに行ってしまう。今は想像すらできない離れ離れが、レイチェルとセドリックにとって当たり前になる。もしもそこまで距離が遠く離れなかったとしても、それぞれ違う場所で違う日常が始まったら。やっぱり今みたいに一緒に過ごす時間はなくなってしまうのだろう。
そう考えるとやっぱり、なんだか寂しい。
待ちに待ったその日は、誰もが朝から落ち着かなかった。
レイチェルの午後の授業はマグル学だ。1番好きな科目だと言うのに、レイチェルは何だかいまひとつ授業に身が入らなかった。せっかくのバーベッジ教授のマグルの気象予報の仕組みに関する講義も、半分も頭に入って来ない。ボーバトンとダームストラングの選手団はどうやってやって来るのか、歓迎会では一体どんな説明がされるのか。そんなことばかり考えてしまう。しかしどうやら対抗試合のことが気になっていたのは、バーベッジ教授も同じらしかった。ただでさえ授業時間が短く設定されていたと言うのに、バーベッジ教授は予定より5分も早く授業を切り上げてしまった。
「ごめん、僕、監督生の仕事があるから、早く行かないと」
「わかったわ。じゃあね、セド」
急ぎ足で教室を出ていくセドリックを見送って、レイチェルは机の上に広げたままの教科書を鞄へと詰め込む。ようやくいつもより早い終業ベルが鳴り、同級生達は楽しげにおしゃべりしながら教室を出て行く。皆どこか浮足立った様子で、この後に起きる出来事が楽しみで仕方ない様子だ。と思ったが、全員が全員そうでもなかったらしい。
「ねえ、その……起こさなくていいの?」
「一応声はかけた」
それでも起きなかった、と言うことらしい。教室の扉の近く、最後尾の席で机に突っ伏して眠っているのは────今目の前で肩を竦めているのがたぶんフレッドなので────どうやらジョージだ。周囲の騒がしさも気にならないのか、スヤスヤと規則正しく寝息を立てている。
「そのうち起きるさ。まだ時間ギリギリってわけじゃないし、ほっとけよ」
「でも、起きなかったら……」
「そう思うなら君が起こしてやれよ」
そう言ってフレッドはさっさと教室を出て行ってしまったので、レイチェルは呆気にとられた。意外とドライと言うか、何と言うか……双子の片割れがああ言うのだから、放っておいてもそのうち目を覚ますのかもしれない。そう思い直して、レイチェルもフレッドに倣って、そのままジョージの横を通り過ぎようとした。通り過ぎようと思ったのだけれど────。
「……ジョージ。ねえ、ジョージ、起きて。もう授業終わったわよ」
やっぱり、何となく後ろ髪を引かれて引き返してしまった。余計なお世話なのかもしれないけれど、このままうっかり寝過ごして、もしもせっかくの他校来訪のセレモニーを見逃してしまったら、ちょっと可哀相だ。レイチェルが肩を揺すってみたものの、ジョージは起きない。よっぽど疲れているのだろうか。そうこうしてるうち、教室の中からはすっかり人気がなくなってしまっている。5回目を繰り返したところで、ようやくジョージの瞼がピクリと動いた。
「んー……? あれ、もう授業終わったのか……?」
「告知されてたでしょ。今日はいつもより30分早いのよ」
ふあ、とジョージが欠伸を噛み殺す。そうだっけと返す声は何だかいつもよりも幼くて、ぼんやりとした瞳がレイチェルを見上げる。……よくここまで授業中に熟睡できるものだとレイチェルは半分呆れ、半分感心した。何にしろ、これでもう心配ないだろう。レイチェルは今度こそその場を立ち去ろうとしたが、机から起き上がったジョージを見たら、ふとその首元が気になってしまった。
「ネクタイ。ちゃんと結んでおかないと、マクゴナガル教授に叱られるわよ」
ジョージのシャツの襟は第2ボタンまで開けっぱなしだし、ネクタイはほどけたまま首に引っかかっている。双子の制服の着方が────カジュアルと言うか何と言うか────まあ、はっきり言ってしまえばルーズなのは今に始まったことじゃないけれど、さすがに今日くらいはきっちり制服を着ておかないとマズいだろう。
「結び方がわからなくってね」
「そんなはずないでしょ……」
何だかまだ曖昧な滑舌のままそんなことを言うジョージに、レイチェルは思わず溜息を吐いた。1年生ならともかく、上級生にもなってそんな言い訳が信じられるはずもない。窮屈だから結ぶ気がない、の間違いだろう。それか、単にまだ頭が覚醒していないのかもしれない。
「もう……」
他校の代表選手を迎えるとなれば、今頃教授達は準備でピリピリしているはずだ。本来なら上級生は下級生のお手本にならなければいけないのに、ただでさえ忙しい教授達に手間をかけさせてしまうのはよろしくない。レイチェルは逡巡した結果、ジョージの首元の鮮やかなネクタイへと指を滑らせた。
「……君が結んでくれるのかい?」
「どこかの誰かさんが正しい結び方を思い出せないなら、その方が早いでしょ」
不思議そうに瞬きをするジョージに、レイチェルは呆れ混じりに返した。レイブンクロー寮はここから遠いから、レイチェルはさっさと荷物を置きに行って玄関ホールに向かいたいのだ。どう考えても、寝ぼけたジョージをその気にさせるよりも、レイチェルがさっさと結んでしまった方が早い。
「……何?」
「いや……」
と思ったのだけれど、実際やり始めたら意外と手間取ってしまう。レイチェルが手元をもたつかせていると、ジョージの視線を感じた。マクゴナガル教授やスネイプ教授みたいに呪文でサッとできたらよかったのだけれど、残念ながらネクタイを結ぶ呪文は未修得だ。それに、自分のネクタイを結ぶときとは向きが反対だからやりづらい。
「あんまり顔近付けてくるから、キスしてもいいのかと思って」
ぽつりと呟かれた言葉を理解するまで、3秒くらい時間がかかった。思わず息を詰めると、その音が妙に耳に残る。レイチェルの視界に入るのは赤と黄色のストライプばかりだから気づかなかったけれど、確かに言われてみれば距離が近いとか、そう言えば今って教室の中に2人きりだ、とか────そんなことが一瞬のうちに頭の中に浮かんでは消えた。
「……いっ、いいわけないでしょ!」
カッと耳が熱くなるのを感じる。ようやく喉から出てきた声は動揺で上ずってしまったのが恥ずかしい。思わず手に力がこもって、必要以上にギュッとネクタイを締めあげてしまった。首が絞まったらしいジョージが苦しげに呻くのが聞こえたが、レイチェルは振り返ることなくそのまま鞄を持って急いでマグル学の教室を後にした。何だか、あのままこの場に留まっていると、あまりよくないような気がしたのだ。
「どうしたの、レイチェル。なんか顔赤いわよ。走ってきたの?」
「えっと……そう! 待ちきれなくて!」
「エリザベスは監督生の仕事があるとかで先に行ったわ! 私達も準備ができたら降りましょ」
ずっと早足だったせいか、レイブンクロー塔の階段を上って自室に辿りつく頃には、レイチェルはすっかり息が上がってしまっていた。先に戻っていたらしいパメラがニッコリしたので、レイチェルも曖昧に微笑み返した。顔が赤いとしたら、その理由はたぶん急いだせいだけではないけれど、誤魔化しておいた方が無難だろう。
「楽しみよね!かっこいい男の子居ればいいのに!」
「パメラったら……マークが聞いたら悲しむわよ」
「これくらいじゃヤキモチ焼いたりしないわよ!」
ベッドの側へ荷物を置くと、リップグロスを塗り直しているパメラに倣って、レイチェルも身だしなみを整える。お客様を迎えるのだから、ホグワーツの生徒として恥ずかしくないようにとマクゴナガル教授も言っていたし。スカート丈を直して、髪を梳かして、リップクリームを塗って。朝に支度したときよりも緩んだネクタイを結び直していたら、さっきの出来事を思い出してしまって、レイチェルはまた自分の体温が上がるのを感じた。
「ああ、もう……」
フレッドに言われた通り、放っておけばよかったかもしれない。
……あれはやっぱり、寝ぼけていたんだろうか。それとも、またレイチェルのことをからかっていたんだろうか。それとも、クロディーヌが言っていたみたいに、レイチェルのことを────?
頭に浮かんだそんな考えを振り払うように、勢いよく首を横に振る。そして、ハッとした。……さっきせっかく髪を整えたばかりなのに。
「レイチェルってば、百面相してどうしたのよ? グズグズしてると置いてっちゃうわよ!」
「待って、パメラ。今行くから……」
乱れてしまった髪にブラシを通して、もう1度鏡を確認する。そこに映り込んだ自分の顔は確かにパメラの言う通り、頬が赤い。そして────何だか、困ったような泣きだしそうな表情をしている。レイチェルは思わずそんな自分の姿から視線を逸らして、慌てて部屋を出て行こうとするパメラの後を追いかけた。
……ああ、もう、全く。どこかの誰かのせいで調子が狂う。