「ねえ見て、セド。とってもいい天気よ」

開け放った窓から吹き込む風が、優しく頬を撫でる。遠く丘の向こうに広がる空は雲ひとつなく、どこまでも勿忘草色に澄み渡っていた。下を見れば、手入れされた青々とした芝に、夏の花々が咲き誇っている。ペチュニアにクレマチス、サルビア、ラベンダー、トルコキキョウ、サフィニア、バーベナ。プライス邸の優美で広大な庭も素晴らしかったけれど、ディゴリー家の花で溢れたこの庭は、作り手であるおばさんの人柄そのものの温かみがあって、レイチェルはとても好きだ。

「とっても素敵だわ」

惜しむべきは、今のレイチェルには家の中からそれを眺めるしかできないことだろうか。
明るい口調と裏腹に、レイチェルは憮然とした表情で呟いた。魅惑的な窓辺に背を向け、ずるずると壁伝いにカーペットの上へ座り込む。織りこまれたスニッチの図柄が爪先で不格好に歪んだ。部屋の主であるセドリックは、同じくカーペットに座り込んで熱心に箒を磨いている。

「こんな日に家の中でじっとしてなきゃいけないなんて」
「仕方ないよ。父さんの言った通り、安全が確保されてないのは事実だし」
「……わかってるわよ。だから、おじさん達の前では言ってないじゃない……」

諭すようなセドリックの口調に、レイチェルは眉を寄せた。一応は納得しているからこそ、外出禁止の言いつけにも大人しく従っている。納得してはいるけれど────去年に引き続き今年も外出禁止だなんて! 2週間後には新学期だから去年よりずっとマシだけれど、やっぱり憂鬱だ。

「……まあでも、よかったわ。本当だったらエリザベスの家に泊まりに行くのって、ワールドカップの後のはずだったの。もし予定がそのままだったら、きっと中止になってたもの」
「僕も。早めに新学期の買い物に行っておいてよかった。……箒に乗れないのは残念だし、ちょっと退屈だけどね」

レイチェルが肩を竦めれば、セドリックも苦笑した。磨き粉やブラシを片付けているところを見ると、箒の手入れは終わったらしい。階下からはパイ生地の焼ける香ばしい匂いが漂って来る。もうすぐ昼食だ。午後はどう過ごそう。宿題はもう終わってしまったし、読書と言う気分でもない。チェスか爆発スナップか────そう考えて、レイチェルはあっと声を上げた。

「そうだ。マグルのおもちゃ屋でテーブルゲームを買ったの。持って来るから、後でやらない?」

セドリックが賛成してくれたので、レイチェルは早速家に戻った。が、ここでもやはり外出禁止令がレイチェルは行動を阻んだ。ディゴリー家から目と鼻の先の自分の家に戻るのにもいちいち煙突飛行を使わなければいけないなんて、やっぱり不便だ。
死喰い人達が野放しな状況が危険だと言うのはレイチェルにも理解できる。ブラックの関与については調査中らしいけれど、密かにイギリスに舞い戻っている可能性もある。あの襲撃は序章に過ぎず、もっと大きな事件が起こることだって考えられる。だから、子供を外に出したくないのだと言う大人の気持ちも。
けれど一方で、おじさんの話では『死喰い人達はワールドカップで偶然再会して、羽目を外した』────つまり計画的な犯行でも、何かの布石でもないと言う見通しだった。だとすれば、そんなにピリピリする必要もないんじゃないかと思うのだ。だってその推測が正しいなら、あの場に居た死喰い人達はもう何食わぬ顔でまた日常へと戻っているはずなのだから。未成年だけでダイアゴン横丁に行くと言うのならばともかく、家から一歩も出るなと言うのは少し大げさなんじゃないだろうか。
エイモスおじさんの過保護は今に始まったことじゃないし、自分達を心配しているからこそだとわかるから、不必要に反発する気もないけれど。

 

 

 

しかしどうやら、事態はレイチェルが思っていたよりずっと深刻だったらしい。

異変が起きたのは、その日の夜のことだった。10日先まで帰って来ない予定だった母親が急遽帰宅した。半年前からずっと日程を調整していて、やっと都合がついた取材旅行の途中だったにも関わらずだ。ストックホルムまで船旅だと聞いていたから、一昨日あたりようやく目的地についたばかりのはずなのに。夜中に目が覚めて水を飲みに降りて来たレイチェルは、突然姿現しでリビングに現れた母親の姿にぎょっとしてグラスを取り落とした。

「ママ? え? お帰りなさい……あれ? 取材旅行は?」
「そんなものはどうだっていいの。貴方が行ったワールドカップの会場で闇の印が出たと聞いて……無事なのね? セドリックやエイモスも? 怖かったでしょう? 可哀想に……ああ、もう、何てことなの……」

涙で瞳を潤ませ、きつく抱きしめてくる母親にレイチェルは戸惑った。どうやら事件のことを新聞で知って、予定を全てキャンセルしたらしい。こんなこと、レイチェルの知る限り今までなかったことだ。
これだけでも驚いたのだが、翌日の午後には更なる異変が起きた。何と、父親までがルーマニアから戻って来た。ちょうどシャワーを浴び終えてバスルームから出てきたレイチェルは、リビングのソファに座る父親の姿に気がついたとき、状況が理解できず目を白黒させた。

「えっ……何でパパがここに? 仕事忙しいって……あっ、誰かのお葬式?」

エイモスおじさんがワールドカップのチケットを一緒に取ろうかと誘っても、仕事を理由に断ったと聞いていたのに。帰国の連絡は受けた覚えがないし、今まで予告なく帰って来たのなんて親戚が急に亡くなった時だけだ。
父親の目の下には濃いクマがあり、今にも倒れそうな様子に見えたが、レイチェルの姿を見るなり、顔をクシャクシャにして背骨が折れるんじゃないかと思う勢いで抱きしめてきた。

レイチェル!!」
「うん、レイチェルだけど……えっと、お帰りなさいパパ。今回はどれくらい居られるの?明後日くらいまで?」
「溜まっていた休暇をまとめて取ったんだ。こんなときに仕事なんて!新聞を読んで血の気が引いたよ。もしかしたら大切な1人娘を失っていたかもしれないって……レイチェル……本当に無事でよかった……」

おそらく移動キーを使ったのだろう。長距離に渡って風に吹きさらされた髪や服は埃っぽく、レイチェルは涙声の父親の言葉を聞きながら、せっかくシャワー浴びたところなのになとぼんやり考えていた。落ち着いたところで尋ねてみると、どうやらレイチェルの新学期が始まるまで滞在するつもりらしい。いや、滞在と言うのはおかしいのだろうか。忘れがちだけれど、そもそもここは父親の家でもあるのだった。
どうやら急に一家の主としての責任に目覚めたのか、「顔色悪いから少し休んだら?」と言うごく真っ当な娘の提案に首を振り、父親はその日の夕方まで家の周りのありとあらゆる保護呪文の強化に勤しんでいた。その使命感に突き動かされた様子に、それ今朝ママもやってたから必要ないんじゃない、と声をかけるのは躊躇われた。
そんなわけで、グラント家は久々に本来の住人が全員揃ったことで急に賑やかになった。

「闇の印が出るのって、そんなに大変なことだったのね……パパが家に帰って来るのなんて、ワールドカップよりよっぽど珍しいのに……」
レイチェル……それ、おじさんが聞いたら泣くよ」
「事実だもの」

困ったように微笑むセドリックに、レイチェルはしれっと言った。そう言われるのが嫌なら、もう少し頻繁に帰ってくればいいのである。去年のクリスマスには一瞬だけ帰って来たけれど、その前はいつだったか─────改めて考えてみると、1年生のクリスマス休暇だった。やっぱりワールドカップと同レベルの頻度である。まあ、4年生の夏にはレイチェルの方がルーマニアまで会いに行ったし、2年生の夏にはディゴリー家も含めた6人で避暑地で一緒に過ごしたりもした。手紙やカードのやり取りはしているし、まるきり顔を会わせてないわけじゃないけれど、それでもやっぱり珍しいことには変わりない。

「ごめんね、セド。パパ、鬱陶しいでしょ」
「鬱陶、って……そんなことないよ」
「でも、迷惑じゃない?」

別に父親の帰宅が嫌なわけではないのだけれど、困ったこともある。
どうやらセドリックとレイチェルの仲を勘繰っているらしく、2人でチェスをしていたり、一緒に予習をしていたりするとやたらと間を割って入りたがるのだ。ひどくなるとセドリックに因縁をつける。曰く、“年頃の男女なのに距離が近すぎる”らしい。もっと慎みを、なんて言われても、レイチェルもセドリックもいつも通り過ごしているだけなので困惑するばかりだ。レイチェルは適当にあしらっているものの、真面目なセドリックは律儀に相手をしてしまう。そして結局、なぜかエイモスおじさんと父親が揉めている────あれはじゃれているのだと、おばさんは笑っているけれど。元々、2人は学生時代からあんな感じだったらしい。

「まあ、正直ちょっと困るときもあるけど……それだけレイチェルのこと大事なんだなあって思うよ」

苦笑するセドリックに、レイチェルは言葉に詰まった。パメラや周りの同級生の話を聞いていても、父親が娘の異性関係を過剰なまでに心配すると言うのは割とよくあることらしい。どうやら愛情ゆえの行動らしいとは、わかっているのだ。会えなかった分を埋め合わせるかのように、父親がレイチェルとの距離を縮めようとしていることも。
とは言え、父親が帰って来てからのここ数日、四六時中レイチェルに構おうとするので正直ちょっと疲れる。生まれたての子猫にでもなった気分だ。それはまあ譲歩するとしても、何ひとつ非のないセドリックが絡まれているのが居た堪れない。昨夜はとうとう「邪魔なのはパパの方だからあっち行って」と冷たく追い払ってしまった。ものすごくショックを受けていて、その落ち込みようにさすがのエイモスおじさんも同情していた。ちょっと言い過ぎたかもしれないと思うけれど、どう考えたって2人で一緒にパズルの本を覗きこんでいただけの状況に妙な誤解をしたあっちが悪い。

「ねえ、セド……明日、パパが一緒に出掛けようって言うんだけど……もし嫌じゃなかったら、セドも一緒に来てくれない? ウェールズ・グリーンの生息地に連れて行ってくれるって」

レイチェルはクッションに顔を埋めたまま、ボソボソと言った。元々そのつもりだったのか、それともレイチェルを怒らせたことへの埋め合わせのつもりなのかはわからないけれど、今朝そう誘われたのだ。正直あまり気が進まないのだけれど、縋るような目をされて断れなかった。
行き先は、どちらかと言うとレイチェルよりもセドリックの方が興味がありそうな分野だ。またセドリックに大人げない態度をとったらどうしようと言う不安もあるが、そこはレイチェルが目を光らせるし、かなり反省したようだから大丈夫だろう……たぶん。

「おじさん、レイチェルと2人で出掛けたいんじゃない?」
「……でも、セドは外出禁止なのに私だけ出掛けるって言うのも……」
「いいよ。そんなの気にしないで行っておいでよ」

ニッコリするセドリックに、レイチェルは反対に情けなく眉を下げた。セドリックの興味のありそうな場所だからとか、自分だけ外出するのは気が引けるとか────それも嘘ではないけれど、付いて来てほしい理由は他にもあった。

「だって……2人きりだと何話していいのかわからなくて気まずいんだもの」

実の父親相手に何を言っているんだと呆れられそうだけれど、それが正直な本音だった。手紙はいいのだ。返事を考える時間はたっぷりあるし、自分の近況や聞かれたことを書けばいい。でも面と向かっての会話だとそうもいかない。他に誰かが居てくれれば間が持つけれど、2人だと会話に詰まる。

「会話なんかしなくたって、レイチェルと一緒に過ごせたらおじさんはきっとそれで嬉しいんだよ」
「そうかもしれないけど……」

この間のクリスマスに帰って来たときも、大して会話する時間はなかったし、ルーマニアに滞在したときだって、結局父親は仕事で忙しくてどレイチェルの相手をしてくれていたのはチャーリーだった。その前に会ったとき────つまり2年生の夏────には普通に話していたような記憶があるけれど、昔のことすぎてさすがに内容まで覚えていない。
一般的に父親と娘ってどんな会話をするものなんだろう。レイチェルが難しい顔で唸っていると、セドリックが溜息を吐いた。

「おじさんや父さん達を困らせないように、強がって『帰って来て』とか『寂しい』とか言わないのは、レイチェルの美徳だと僕は思うけど……でも、たまには素直になってもいいんじゃないかな。本当は寂しかったって……帰って来てくれて嬉しいって伝えてあげたら、おじさんきっと喜ぶよ」
「別に強がってなんか……だって、寂しい思いをしないようにっておじさんやおばさんが気を遣って良くしてくれてたから、本当に大丈夫だったし……」
「でも、よく『パパに会いたい』って泣いてたじゃないか」
「……それはうんと小さい頃の話でしょ! セドの意地悪!」

レイチェルは抱きしめていたクッションをセドリックに投げつけた。難なく腕でガードされたせいで、元々大した勢いのついていなかったクッションはぽすりと床に落ちる。耳が熱い。確かにそれは事実だけど、そんな就学前のエピソードを今更持ち出すのはずるい。

「ごめんごめん。でも、せっかくおじさんが帰って来てるんだしさ。忙しいのに、レイチェルを心配して飛んで来たんだよ。次に帰って来るのだって、また数年後かもしれないし。久しぶりだから照れくさいのはわかるけど、避けてたらきっと後悔するよ」
「……わかってるわ」

レイチェルが小さく呟くと、セドリックの手のひらがポンポンと頭を軽く叩く。セドリックまで子猫みたいな扱いはやめてほしい。そして、やっぱりセドリックだって父親の帰宅をワールドカップレベルだと思ってるんじゃないか、とレイチェルはそっと心の中でぼやいたのだった。

 

 

 

父親と2人での外出────父親曰く娘とのデート────の結果は上々だった。
予想していた通り会話は途切れる瞬間もあったが、あまり気にならなかった。近づいて炎を吐き出されないのならばウェールズ・グリーン種のドラゴンはとても綺麗な生き物だったし、何より野生のドラゴンが生息できるような環境は、自然がとても豊かで美しい。他にも何か所か、珍しい花の群生地や魔法動物の生息地を案内してもらった。やっぱりセドリックにも見せてあげたかったなと残念に思ったが、口に出すと父親が騒ぎそうなのでレイチェルはその感想を胸にしまった。

「……ねえパパ。明日はダイアゴン横丁に行かない? ……その、もしパパが暇ならだけど」

帰り際、レイチェルがモゴモゴと言うと、父親は大げさなくらい喜び、「ママが初めてデートOKしてくれたときのことを思い出した……!」と目頭を押さえていた。そして翌日は、レイチェルの希望通りダイアゴン横丁に行き、父親はレイチェルが少しでも興味を示したものをあれもこれもと買い与えた。結果、夜母親に甘やかし過ぎだと叱られていた。その次の日は、セドリックも交えて3人でクィディッチ観戦に出掛けた。父親の仕事の話や学生時代の話、そしてレイチェルやセドリックの学校の話など、たくさん話をした。
長いだろうと思われた残りの夏休みは、なんだか慌ただしく過ぎていった。

「あれ、ふくろうだ」

明日にはホグワーツに戻る日曜日。レイチェルとセドリックがディゴリー家のダイニングで時間割の確認をしていると、窓の外からふくろうが飛んで来るのが見えた。包みが大きいせいでバランスがとれないのか、何だかフラフラしている。テーブルの上へと置かれた包みに、レイチェルは「マダム・マルキンの洋装店」の文字を見つけた。

「あっ! これ、もしかしてセドのドレスローブ?」

サイズ直しを頼んでいたものが届いたのだろう。わくわくしながらセドリックが包みが開くのを待つと、中にはシンプルな黒いローブが入っていた。パーティーらしい光沢のある生地だ。キッチンに居たおばさんもやって来て、出来上がりに問題がないかセドリックは袖を通してみることになった。

「わあ、セド似合う! かっこいい!」
「ありがとう、レイチェル
「あら……セドったら、ますますおじいちゃんの若い頃に似てきたわね……」

余計な装飾のないすっきりとしたローブは、背の高いセドリックにはよく似合っている。今はTシャツの上からだからちょっとちぐはぐだけれど、実際はもっとキマるのだろう。セドリックに憧れている女の子達が見たら、見惚れること間違いなしだ。

「ピッタリね。でもセド、パーティーの少し前にもう一度着て確認しなさいね。貴方まだ身長止まってないんだから……当日丈が足りなくて、パートナーの女の子に呆れられても知らないわよ。また直さなきゃいけなくなったら、グラドラグスでやってもらえるようにマダム・マルキンが取り計らってくれたそうだから、ホグズミード休暇のときに忘れず持って行きなさい」
「わかってるって、母さん……」

そんなセドリックとおばさんの会話にレイチェルはハッとした。そうだ。ドレスをいつ着るかわからない以上、それまでにサイズが変わってしまう可能性がある。身長に関してはもう止まっているから大丈夫だろうけれど……注意しないと。レイチェルは思わずウエストの辺りを手で擦った。
ドレスローブを汚さないうちに、そして忘れないようさっさと脱いでトランクにしまうべく、セドリックは一度自分の部屋へと戻った。残されたレイチェルはおばさんの学生の頃のダンスパーティーの話を聞いていたのだが、ふいにおばさんがハッとしたように言った。

「そうだわ。レイチェルはどんなドレスを選んだの? 帰って来たら教えてもらおうと楽しみにしてたのに、色々あったせいですっかり忘れていたわ」
「私のは、学校に直接送ってもらうことになってるの。あっでも、写真ならあるわ」

靴などの小物を選ぶのに必要だろうからと、マダム・マルキンがドレスを選んだあとに写真を撮ってくれたんだった。正面からと横からと後ろからの3枚、そして単純に記念として3人で撮ってくれたものが何枚かある。

「あら、まあ、素敵。パメラは元々大人っぽかったけれど、エリザベスもあんなに可愛らしかったのがすっかり美人になって。3人とも、とってもよく似合ってるわ」

おばさんが手放しで褒めてくれたので、レイチェルはニッコリした。パメラやエリザベスは綺麗だし、改めて見ても、レイチェルもなかなかドレスが似合っている。でもやっぱり、もうちょっと身長が高ければよかったなと思う。できたら頑張ってちょっと高めのヒールを履こう。レイチェルは決心した。

「ねえおばさん、やっぱり髪ってアップにした方がいいの?」
「そうねえ、好みだと思うけど……その方が首や耳のアクセサリーは目立つわね。もう決めた?」
「ホグズミードで皆で選ぼうって話してて……あ、ママ」
「あら、ロザリンド」

いつの間にか、母親の姿がそこにあった。仕事が一区切りついたのだろう。そう言えば、母親にもどんなドレスを選んだか教えていなかった。帰ったら見せようと思って、すっかり忘れていたのだ。レイチェルが言う前に、母親はテーブルの上にあった写真を取った。

「このドレスを買ったの?」
「あ、うん。そうだ、ごめんなさい。言うの忘れてた。ドレス以外のものはエリザベスが貸してくれるって言うから、貰ってたお金ほとんどドレスに使っちゃったんだけど……あの、ダメだった?」

考え深げにドレス姿のレイチェルの写真を見る母親に、レイチェルは不安になった。靴や髪飾りなどの小物も含めてと渡されていた金貨の8割方をドレスにつぎこんでしまったけれど、元々足りなかったら後で言うように言われていたし、学生に不相応なほど高価と言うほどではないはずだ。

レイチェル。少し話があるから、いらっしゃい」

母親は静かな口調で言い、歩き出した。レイチェルは大人しく従ってディゴリー家を後にする。
怒っているのだろうか? 元々あまり感情の起伏がない人だから、よくわからない。そう言えばこの夏休みはマグルの町でも色々買い物したし、無駄遣いが多いと叱られるのかも。

「あの……ママ?」

連れて行かれた先は、母親の書斎だった。母親はレイチェルをソファに座らせると、自分も机の前に座った。本格的なお説教の予感に、レイチェルは身構える。すると、母親は机に備え付けのチェストの引き出しから何か取り出した。

「本当は、貴方が成人するときに渡そうと思っていたんだけれど」

そう言って差し出されたのは、小さな箱だった。手のひらに乗る大きさで、紺色のベルベットが張られている。生地の感じからして、かなり古いもののようだ。恐る恐る開けてみると、中には指輪が1つ収められていた。シンプルな細い銀色の台座。真ん中には、小指の爪ほどもある楕円形の緑色の石がはめ込まれ、その両脇を小さな透明な石が飾っていた。

「綺麗……これ、ガラス玉?」

宝石だとしたら、きっとレイチェルの知らない種類のものだ。ペリドットの若葉のような明るい黄緑とも、エメラルドの鮮やかな青緑とも、ヒスイの深く艶やかな緑とも違う。もっと淡く、優しい色合い。澄んだ柔らかいミントグリーンは、あのドレスの色に似ている。レイチェルは一目でその指輪が好きになった。

「ガラス玉ではないけれど、宝石としての価値はないの。ベリルと言う鉱物。“ただの緑色のベリル”。……でも、とても綺麗でしょう」

レイチェルは指輪に見入ったまま頷いた。母親は指輪を手に取ると、そっと指にはめてくれた。最初にはめた右手の薬指にはぶかぶかで、中指でも少し緩いくらいだった。あと数年経てば、ぴったりになるのかもしれない。

「この石は、このままでは特別な名前はつかない石。でも実はね、レイチェル。この石の姉妹にあたる石は、あなたも知る別の名前で呼ばれている」
「別の名前?」
「そう。エメラルドと言う宝石」

レイチェルは瞬き、もう一度指輪を見た。確かに緑色だけれど、エメラルドよりずっと淡い。スリザリンの砂時計に詰まっているものとは全然違う。手をかざしてみると、眩いばかりにキラキラ輝く。色が薄い分その透明度が際立って、吸い込まれるような美しさだ。

「そしてこの石も、ゴブリンの手で加工されれば、また別の名前で呼ばれるの。水のような透き通った淡青色に変わって、アクアマリンと言う名前の宝石になる」
「でも………このままでも十分綺麗だわ」

宝石の価値としては、その方が良いのだろう。よく知られた名前のついた宝石になった方が、多くの人に愛されるのかもしれない。でも、そうなればこの色合いは失われてしまうのだろう。レイチェルが呟くと、母親が優しく微笑んだ。

「私もそう思うわ。これはね、レイチェル。可能性の色なのよ」
「可能性……?」
「ええ、そう。自分に自信をくれる、魔法の指輪。私が小説家になると決めたとき、大叔母が譲ってくれたものなの。彼女も同じように教えてくれたわ。『名前はついていなくても、美しいでしょう。今の貴方はこれと同じ。つい他の宝石と比べてしまうかもしれないけれど、貴方だけの輝きがある。そして、磨くことを忘れなければいつか貴方もきっと宝石になれる』と……。彼女はその祖母から受け継いだそうよ。由緒ある家に嫁ぐと決まった時に。その人も、またその母親から。そうやって、ずっと」

そう語る声は、どこか懐かしそうな響きを含んでいた。レイチェルの手を、白い手がそっと包み込む。レイチェルは視線を上げ、自分に微笑みかけるその顔を見つめ返した。自分がよく似ていると言われる、その顔立ちを。

「この指輪はもう貴方のもの。だから行く末は、貴方が決めていい。でも、できるなら……いつか、貴方がもっと大人になったときに、誰かに渡してあげて。貴方がこれを託したいと思えた人に」

レイチェルは胸が熱くなった。この人もきっと、レイチェルと同じ年頃のときに、こんな風に受け取ったのだろう。母親だけじゃない。その前の、その前の持ち主もきっと。今はレイチェルの手に渡ったけれど、この指輪はレイチェルの知らないたくさんの人の人生を見て来たのだ。

「……そのときまで、大事にするわ。約束する。ありがとう、ママ」

レイチェルは母親の首へ抱きついた。胸がいっぱいで、声が震える。ただ美しいだけじゃない。母親にとっても思い出が詰まった指輪。その指輪をレイチェルに贈ってくれたことが────その未来を引き継ぐ相手として選んでくれたことが誇らしかった。
とても嬉しい。今まで、一番素敵な贈り物だ。

いつかきっと、レイチェルも託そう。貴方も宝石になれるのだと、大切な誰かに。

家族

top


    お返事が早いのはこちら ⇒ Wavebox