極彩色の鳥が、東の空を飛んでいる。
開け放した窓の向こうへと目を凝らす。それは、レイチェルが見たこともないような美しい鳥だった。
大きさは、ふくろうより少し小さいくらいだろうか。頭のてっぺんはレモンイエローで、首から肩にかけてはライムグリーン。そして背中はオレンジ。胸のところはライラック。お腹と羽の大部分はターコイズで、羽先と尾羽は鮮やかな藍色をしている。この距離ではそれくらいしか判別がつかなかったが、近くで見たらもっとたくさんの色があるかもしれない。
まるで小さな虹か宝石のようなその鳥は、あっという間にまだ薄暗い朝の空に溶けて見えなくなってしまった。
カメラが手元にあればよかったのにと、レイチェルは溜息を吐いた。誰かが色変え呪文の実験台にしたのでなければ、どこか遠い外国の鳥だろう。渡り鳥にしてはたった1羽だけだったし、それがどうしてこんなところまでやってきたのかはわからないけれど。何にしろあんな綺麗な鳥を見られるチャンスなんて、そうないことだ。惜しいことをしたと、レイチェルはもう一度溜息を吐いた。
「でも、新聞を運ぶには向いてないわね。目立ちすぎるもの」
ねぇ、とレイチェルはテーブルの上の客人に話しかけた。小さなボウルから水を飲んでいた新聞配達のふくろうは、丸い目玉でレイチェルを見返すと、当たり前だと言いたげにホー、と小さく鳴いた。ふわふわした頭をレイチェルが撫でると、くすぐったそうに身をよじる。くすんだ茶色の羽は、あの鳥のような華やかさはないけれど、だからこそ目立たずに郵便を運ぶことができる。
それとも、アフリカなんかではああ言う鳥が手紙を運んでいても気にしないものかしら。レイチェルがそんな想像を膨らませていると、階段から誰かが降りてくる足音が聞こえた。
「おはよう、レイチェル。今日は随分早いね」
「おはよう、セド。ママの見送りがあったから、早起きしたのよ。二度寝しようと思ってたんだけど、目が冴えちゃったの」
次の小説の構想を得るためだとかで、母親は明け方に取材旅行に出かけていった。3日前の〆切のせいでひどい顔色だったが、今回はゆっくりと船旅をするらしいから帰って来る頃には少しはマシになるだろう。寝付けそうになかったレイチェルは、どうせならディゴリー夫人の朝食作りの手伝いでもしようとディゴリー家にやってきたのだった。焼きたてのスコーンを頂けるのは、手伝いをした人間の特権である。まあ、料理上手なディゴリー夫人のお手製スコーンは、冷めてもおいしいのだけれど。
皿の上に残った欠片をテーブルクロスの上に撒いてやると、ふくろうは待ちかねていたかのようにおいしそうにそれをつつく。そうして満足げに嘴をカチカチ鳴らすと、開け放したままの窓から飛び立っていった。その姿が小さな点になったのを見届けて、レイチェルは新聞を広げた。
「レイチェル。ウェールズの結果はどうなってる?」
「ウガンダに負けたみたい。えっと……360対320だって」
「ウェールズが負けた? そんなまさか……レイチェル、ちょっとそれ貸して」
「ダメ。食べながら読むのは行儀が悪いって、おばさんに言われてるでしょ」
「ウェールズはリードしてたんだけど、最後のビーターのミスが敗因だったみたいね。ウガンダのシーカーを狙ったつもりが、味方のシーカーの進路を妨害しちゃったらしいわ。それから……Bグループは、ブルガリアがアルゼンチンに勝ったみたい」
「やっぱり」
誌面にさっと目を通したレイチェルがかいつまんで説明すると、セドリックがぱっと表情を明るくした。さっきまでの寝ぼけ眼が嘘のように灰色の瞳はガラス玉のようにキラキラと輝き、ヴァンパイアのように血の気のなかった頬には薄っすらと赤みが差している。
「クラムは本当に素晴らしい選手だよ」
せっかく決勝戦を見に行けることになったので、レイチェルも多少はワールドカップについて勉強した。そして、セドリックからも散々講釈を受けた。ヴィクトール・クラムは今大会のMVPに輝くだろうと言われている選手らしい。弱冠18歳。レイチェルとたった1つしか変わらない男の子が、世界のスター選手相手に渡り合っていると言うのは、素直にすごいことだと思う。……まあ、そんなことを言ったら、レイチェルより2つも年下のハリー・ポッターは、赤ん坊の頃にイギリス中を震えあがらせた恐ろしい闇の魔法使いを倒してしまったわけだけれど。
「次の3回戦でドイツと当たるんだよね。ブルガリアとドイツだったらドイツの方が強豪だけど……彼が居るから、今大会はブルガリアが勝つかもしれない。決勝に残ってくれたらいいな。あのスーパープレーは、一度でいいからこの目で見てみたいよ」
決勝戦の日はまだ3週間も先なのに、そんなセドリックの熱っぽい口調を聞いていると、何だかレイチェルまで試合が待ち遠しくなってくる。確かに、誌面に乗ったスローモーションの写真だけでもクラムが素晴らしい選手だと言うことがわかる。生で観戦したら、その迫力は素晴らしいものだろう。
それはそうと。
「シリウス・ブラック、まだ捕まらないのね」
新聞の薄いページを捲って、レイチェルは呟いた。夏休みの初めにアフリカで目撃されたと言う記事以来、ブラックの動向には音沙汰がない。恐らく、捜査に進展がないからだろう。
去年の今頃は彼の話題は一面大見出しだったと言うのに、今となっては社会面の片隅に小さく載るだけだ。凶悪犯が野放しになっていると言う状況は変わらないはずだけれど、脱獄からもう1年近く経つし、やっぱりワールドカップの熱狂の前では霞んでしまうと言うことだろうか。
“ブラック”、と言えば────。
「シャール、今頃どうしてるかしら」
レイチェルは小さく溜息を吐いた。シャール────シャーロックは、レイチェルとセドリックが世話をしていた犬だった。去年の夏学期に、禁じられた森のそばで見つけたのだ。夜中に出会ったらグリムに見間違えてしまいそうな大きな黒い犬で、ふさふさとした毛並みと尻尾が素敵な犬だ。元々は誰かに飼われていたのか、とても賢くて気立てのいい犬だった。夏休みになったら家に連れて帰ってこようと思っていたのに、レイチェル達の知らない間に急に元の飼い主が連れて行ってしまったのだ。
「きっと、飼い主のところで元気にやってるよ」
「……うん」
穏やかに微笑むセドリックに、レイチェルも小さく頷いた。
お別れさえできなかったせいで、レイチェルは何となくシャールの元の飼い主に対して良い感情を持てない。本当なら今頃一緒にストーツヘッド・ヒルまで散歩に行ったりしているはずだったのにと、そんな不満と寂しさが胸に残る。
けれど、あんなにシャールが利口だったのは、きっと元の飼い主に大事にされていたからだ。
だからきっと、幸せに暮らしているはずだと、レイチェルは自分に言い聞かせるのだった。
涼しい午前中のうちに課題をしてしまおうと言うのが、模範生であるセドリックの思考回路である。
きちんと計画を立てて、できる限り前倒しに。予定通りに進まなかった場合は、どこかで遅れを取り戻す。
レイチェルはセドリックほど勤勉ではないけれど、セドリックより課題の進み具合が遅れてしまうのは嫌なので、大人しくそれに倣う。今日は変身術のレポートが終わったので、今のところ予定は極めて順調だ。
そして昼食の後、セドリックは友人のジョンの家へと出かけていった。
となると、レイチェルの午後の予定は「特になし」と言うわけだ。
「……暑い」
ジリジリと頭上から降り注ぐ太陽に、レイチェルはぼそりと呟いた。
雲ひとつないコバルトブルーの空。足元には一面の緑の絨毯が広がり、その先には遠くレンガ作りの家々が並んでいる。レイチェルの愛すべきマグルの村、オッタリー・セント・キャッチポール。とは言え、今日はいつものようにこっそりマグルと交流するために抜け出して来たわけではなかった。
先日お見舞いに来てくれたお礼にと、セドリックの祖母からリンゴが届いたのだ。木箱いっぱい分の艶々とした真っ赤な林檎はとてもおいしそうだったが、母親が留守の今、レイチェルだけでは消費できそうにない。ディゴリー家に貰ってもらおうと思ったが、当然セドリック宛にも同じ量が届いていた。おばさんに相談したところ、ご近所へお裾分けしてはどうかと言うことになったのだけれど、バスケットが大きいせいで抱えては暖炉の中に入れそうになかったのだ。ふくろうに運ばせようにも、あいにくグラント家のふくろうも────そしてディゴリー家のふくろうも────遠出していて、あと3日は帰って来ない。となると、レイチェルが運ぶしかない。箒は当然マグルに見つかる可能性があるから、徒歩で。
「これだから、夏休みって嫌なのよ」
何て文明的なのだろうと、レイチェルは一人ごちて眉を寄せた。おばさんがバスケットに魔法をかけてくれたから重くはないけれど、肌を舐める太陽の熱が、レイチェルの体力を奪っていく。
でも、とレイチェルは思い直した。こんな風に、レイチェル1人で出掛けることをあっさり許可されたことは、ほんの少し誇らしくもあるのだった。まあ、いつも通り「マグルの村に寄り道はしないこと」と釘は刺されたけれど。
去年までなら、いくら近所までとは言っても「セドリックが一緒の方が」と心配されただろう。けれど、今日は驚くほどあっさりと許可が出た。やっぱりOWL試験が終われば、ある程度大人扱いをしてもらえると言う噂は本当なんだなとレイチェルは思った。おばさんはレイチェル達がマグル学の実技試験でロンドンの街から杖なしで無事帰って来たと言うのにひどく感心していたので、もしかしたらその影響もあるかもしれない。
試験勉強はとてもとても辛かったけれど、こうしてそのおかげで得たものを考えると、そう悪くない。両親や親戚はレイチェルが想像していた以上に喜んでくれたし、褒めてくれた。お祝いにもらった高級な羽根ペンやインク瓶、杖磨きセット、革のブックカバー。それに、真珠貝の柄のペーパーナイフなんかも素敵だった。父方の祖父母なんて、レイチェルが魔法薬学で優をとったことを特に喜んでくれて、お祝いに何でも買ってあげると言ってくれた。
何にしよう。ママにはあんまり高価なものはねだっちゃダメって言われたけど、変に遠慮して安いものを頼むのも失礼よね。無難なのは時計だけれど、来年に成人のお祝いでもらうだろうし。お財布はこの間の誕生日に買ってもらった。鞄もいいな。今のは持ち手の所がくたびれてきてるし。この間雑誌で見たブローチも可愛かった。ドレッサーはどうかしら。前々から欲しいって言ってるのに、ママは学校に行っている間は使わないんだから必要ないって買ってくれないし。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか目的地が見えてきた。
何度か近くまで来たことがあるけれど、レイチェルはこの家を見るたび、切り株から育った若木を思い出した。初めはたぶん、レンガ造りの大きな小屋だったのだろう。そこから必要な数だけ、縦に部屋を増やしていったのだ。同じ数階建てでも、ロンドンで見たマグルの白や灰色の無機質な建築物と違って、どこか温かみがある。塔と言うよりも、曲がりくねった幹のように見えた。その先は枝の代わりに小さな煙突が生えていて、赤い屋根で覆われている。周りには、さまざまな背の高い草花が生い茂っていた。
「こんにちは」
勝手に敷地の中へと入っていいものかと迷っていると、ふいに誰かに声をかけられた。きょろきょろと辺りを見回してみると、庭先に女性の姿が目に入った。どうやら、ちょうど鶏に餌をやっていたようだ。恰幅の良いエプロン姿のその女性に、レイチェルは小さく会釈をした。
「こんにちは。レイチェル・グラントと言います。あの……突然お邪魔してすみません。リンゴが余っているので、貰って頂けたらと……」
「こんにちは。ええ、聞いていますよ。わざわざありがとう。暑かったでしょう!」
通り過ぎた入口の近くには、ペンキの剥げかけた看板が立てられていた────『隠れ穴』。