事件があった夜から1週間が立っても、シリウス・ブラックはまだ捕まらない。
捕まらないどころか目撃証言もない。一体あの殺人鬼は一体どこまで狡猾なのだろうかと、レイチェルは恐怖を感じるよりも半ば呆れ、半ば感心した。
あの夜、一体何が起こったのか。試験が終わって暇なホグワーツ生の間では、その噂でもちきりだった。
眠っている間に起こったことなので、詳しいことは誰にもわからない。ブラックに襲われた、当人達を除いては。しかし、その当人達は事件に関して一切口をつぐんでいたので、より過激で興味を引くような憶測ばかりが尾ひれをつけて一人歩きしていくのだった。
「また、危険なことしたのね」
金曜日の午後、レイチェルは事件の当人と顔を合わせた。いつも通り図書室で勉強会をするためだ。
呆れ混じりにレイチェルが言えば、ハーマイオニーは気まずそうに視線を泳がせた。暴れ柳に振り回されて怪我って、一体何がどうなったらそう言う状況になるのだ。
「ええっと、その……心配かけてごめんなさい、レイチェル」
「もう、いいわ……無事だったなら」
困ったように眉を下げるハーマイオニーに、レイチェルは深く溜息を吐きだした。
ハーマイオニーに怒りをぶつけても仕方ない。今回に関しては、ハーマイオニーは本当に巻き込まれただけの立場なのだとわかっているつもりだ。ブラックに連れ去られた親友を助けようとして暴れ柳で怪我をしたと言うくだりも────どうしてすぐに先生を呼びに行かなかったのと言いたい気持ちはあるけれど────ハーマイオニーだってパニック状態だったのだろうし、友達想いの彼女なら仕方ないのかもしれない。何にしろ、レイチェルが今すべきことは、彼女を責めることではない。
「怖かったでしょ? 頑張ったわね。きっと、もうすぐ闇祓いがブラックを逮捕してくれるから、大丈夫よ」
怪我はなかったにしろ、殺人鬼と直に対面しただなんて、とてつもない恐怖だったはずだ。気遣うように慰めを口にすれば、「逮捕」の言葉にハーマイオニーは顔を強張らせたので、レイチェルはおやと思った。まるで、そうなってほしくないみたいな反応だ。
「シリウス・ブラックって……たぶん、そんなに悪い人じゃないと思うわ」
神妙な顔でそんなことを言うハーマイオニーに、レイチェルは自分の耳を疑った。
何だって? ブラックが悪い人じゃない? つい1週間前ブラックに襲われた人の言うこととは思えない。一体ブラックは彼女に何を吹き込んだと言うのだ。
「何言ってるの、ハーマイオニー。12人も殺した殺人犯はどう考えたって悪い人よ」
「そうだけど……でも、それ自体が誤解ってことも……」
「ブラックが無実だったらってこと? でも、それならどうして太った婦人を襲ったり……それに、夜中にナイフを持ってグリフィンドール塔に押し入ったりはしないでしょう?」
「それは……」
諭すようにレイチェルが言えば、ハーマイオニーはそれきり何かを考えるように黙りこんでしまった。彼女にしては歯切れが悪く、そして視線も泳いでいる。ハーマイオニーらしくないその言動に、レイチェルは心配になった。
「ねえ……ハーマイオニー、大丈夫? もう一度、マダム・ポンフリーに診てもらったほうがいいんじゃないかしら? 気分は? 悪くない?」
「ええ……その……大丈夫よ」
確かに本人の申告通り、顔色はいい。スネイプ教授によればブラックは彼女達に錯乱の呪文をかけたとのことだが、もしやその後遺症がまだ残っているのだろうか? だとしたら医務室どころか、聖マンゴに行った方がいいんじゃないだろうか。マクゴナガル教授にでも言うべきだろうかと考えていると、ハーマイオニーがやけに明るい声を出した。
「ねえ、レイチェル。見て!いい天気ね!」
明らかに無理のある話題転換だったが、それは事実だった。窓の外へと視線を向ければ、雲ひとつない勿忘草色をした空が広がっている。わずかに開いた隙間から、心地いい夏の風が入って来て、悪戯に本のページをめくっていく。
「ええ。本当ね」
本当に、申し分のないいい天気だ。
つい2週間ほど前のあの鬼気迫る雰囲気が嘘のように、校内は明るく、楽しげな笑い声で溢れていた。試験が終わったこともあるが、やっぱり、吸魂鬼の警備が解かれたことが大きいのだろう。
「ブラックはやっぱり透明マントを持ってるんだよ! だから見つからないんだ!」
「でも、それならディメンターは見つけられるはずだぜ。透明マントは効かないって、教科書に書いてあったもん」
「きっと、普通の透明マントじゃないんだよ! ディメンターですら騙せるような特別の……」
「『死の秘宝』か? あんなの、おとぎ話だろ?」
ふいに向こうのテーブルから聞こえてきた下級生のそんな噂話が微笑ましくて、レイチェルとハーマイオニーは思わず顔を見合わせてくすくす笑った。
噂と言えば────この間のホグズミード休暇で、クロディーヌとセドリックがデートしていたらしい。それを聞いても、レイチェルは不思議と苛立ったりはしなかった。クロディーヌのことはやっぱり苦手だけれど────あの、以前感じたような、焼けつくような嫉妬や焦燥はなかった。
あんなに気が塞いでいたのは、もしかしたら吸魂鬼のせいだったのかもしれない。
たぶん、そうだったのだろう。レイチェルだけじゃなくて、他の人にも言えることだ。たとえば、レイチェルに嫌がらせをしてきたあの女の子達とか。たぶん、あの子達も、本来は純粋にセドリックに恋をしていただけの、普通の女の子で────吸魂鬼のせいで、少し負の感情が増してしまっただけなのだ。本当はきっと、あんなことできるような子達じゃない。きっとそうだ。
「ね、ハーマイオニー。そう言えば、今日、クルックシャンクスは?」
「部屋で寝てるわ。クルックシャンクスも色々あったから、疲れてるみたいなの」
「そうなの? クルックシャンクスって言えば、残念だったわ。せっかく、シャールのお友達になってくれたのに」
あんなに仲がよさそうだったのに、急にシャールが居なくなったので寂しがってはいないだろうかと思ったが、ハーマイオニーによればそうでもないらしい。まあレイチェルには動物同士の友情はよくわからないので、そんなものなのかもしれない。むしろ問題は、人間の方だ。
「シャールが居なくなったから、セドったら落ち込んじゃって大変なの。典型的なペットロスよ」
レイチェルは今朝会った幼馴染の様子を思い出して溜息を吐いた。まあ、夏休みになったら連れて帰るつもりで、色々と計画していたようだから、セドリックが落ち込むのも無理もないのだけれど。ハーマイオニーは何故か一瞬気まずそうな顔をしたが、気を取り直したように笑みを浮かべる。
「レイチェルはペットは飼わないの?」
「ふくろうは家に居るし、飼うなら猫がいいんだけど……でも、ルームメイトが猫アレルギーなのよ」
「ホグワーツでそれは大変そうね……」
ハーマイオニーが聞かせてくれたところによると、クルックシャンクスと険悪だった彼女の親友は、とうとう和解したらしい。食べられた疑惑のネズミは結局どうなったのだろうと言う疑問が首をもたげたが、嬉しそうなハーマイオニーに水を差すのも躊躇われたので、レイチェルは聞かないことにした。
楽しいおしゃべりに耽るうちに、穏やかな午後は過ぎていくのだった。
「それでね。ルーピン教授が、ママにいつもカードをくれてたムーニーだったのよ」
「そうだったんだ。それは……すごい偶然だね」
「でしょ? 私もびっくりしちゃった」
午前の魔法生物飼育学の授業が終わり、レイチェルとセドリックは次のマグル学の授業に向かっていた。戸外での授業は少し蒸し暑かったけれど、吹き付ける風が気持ちいい。他愛ないおしゃべりをしながらのんびりと歩いていると、向こうから見知った顔がやって来た。
「セドリックじゃないか。それに、レイチェルも」
「やあ、オリバー」
「そうか。そう言えば、幼馴染だったな」
その声に、心臓の鼓動が早くなる。久しぶりに顔を合わせたせいで妙に緊張してしまって、レイチェルは思わずセドリックの後ろへと一歩下がった。セドリックは一瞬不思議そうな顔をしたが、深く気にしないことにしたらしく、ウッドへと向き直る。
「OWLはどうだった?」
「まあまあだよ。まだ結果はわからないけどね。オリバーこそ、NEWTを受けたんだろう?」
「聞くな。俺はお前と違って、クィディッチ以外はさっぱりだ」
からかうようなウッドの口調に、セドリックが肩を竦めて聞き返す。それに対して、ウッドは神妙な顔つきになって溜息を吐いた。そんなやり取りを、レイチェルはぼんやりと聞いていた。
……この2人、いつの間にこんなに仲良くなったんだろう。確か、今年に入るまでは、あまり話したこともないと言っていたはずなのに。
ああ、でも、仲良くなるのも当然かもしれない。2人とも、クィディッチが大好きで、キャプテン同士で。知り合ったのは遅くても、この1年の間、レイチェルよりもよほど濃密な時間を過ごして来たのだろう。
自分ももっと、積極的になっていれば、仲良くなれたのだろうかと。そう考えると、ちくりと胸が痛んだ。
「オリバーは卒業後、どうするんだい?」
「あー……実は、いくつかのチームから、誘いをもらったんだ」
「えっ……」
セドリックの問いに、ウッドは照れたように頬をかいた。レイチェルは思わず驚いて声を上げた。
すごい。プロチームから誘いが来るなんて。それも、1チームだけじゃないなんて。それじゃあ、ウッドは卒業したら、本当にプロのクィディッチ選手になるのだ。
「パドルミア・ユナイテッドに決めようかと思ってる。正式な契約はまだだけどな」
パドルミア・ユナイテッド。確か、イギリスのクィディッチリーグの中では、一番歴史があるチームだ。ただ古いだけじゃなく、ヨーロッパチャンピオンにもなっているような、強豪チーム。そんなところが、ウッドの実力を認めたのだ。
「おめでとう」
はにかんだようなウッドの笑顔に、レイチェルは胸がじわりと温かくなるのを感じた。
よかった。よかった。本当によかった。ウッドの夢が叶って、よかった。心から、そう思える。ウッドがどんなにクィディッチを愛しているか。そのために努力したか、知っているから。
「ありがとな」
嬉しそうに笑って、ウッドがレイチェルの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
その笑顔が眩しくて、真っ直ぐ見れない。顔を見られたくなくて、レイチェルは気づかれないように俯いた。指先が触れたところから、熱が灯る。絶対、今、自分の顔は赤い。
「試合、見に行くよ」
「ああ。ぜひ来てくれ。と言っても、最初は2軍スタートだろうから、いつになるかわからないけどな」
そんな会話に、レイチェルはふいに胸が締め付けられるのを感じた。
遠い人になってしまうんだなあと思った。次に会うとき、きっとウッドはフィールドで歓声を受けていて、レイチェルはそれを観客として見ているのだろう。それでいい。これが、レイチェルの望んだ結末だ。
「じゃあな、2人とも。元気でやれよ!」
急いでいるのか、そう言ってウッドは走って行った。手に箒を持っているから、もしかしたらまたクィディッチの練習かもしれない。相変わらずだなとレイチェルは思わず笑みを浮かべた。
彼がプロとしてデビューする試合は、絶対に見に行こう。レイチェルは、彼が────クィディッチをしているときのウッドが一番好きだから。
去ってく背中が遠ざかっていく。小さくなっていく。見えなくなる。
…………やっぱり、好きだなあ。
ただの後輩でいいと。そう決めたのは自分だから、後悔はないけれど。
叶うならもっと、ウッドのことを知りたかった。好きなのに。好きだったのに。レイチェルは、ウッドのことを何も知らない。
同い年に生まれていたら。同じ寮を選んでいたら。そうしたら、何か違っただろうか。
もっと話したかった。もっと、彼のことを知りたかった。自分のことも、知ってほしかった。
今からでも、まだ遅くない。わかっている。それでも、踏み出して、追いかけるだけの勇気が出て来ない。
諦められる程度の恋なのだと言われれば、そうなのかもしれない。黙って指を咥えて見送れる程度の想いなのだと言われれば、きっと、その通りだ。
「本気の恋なら、そんな物わかりのいいことは言えない」。「なりふり構わずみっともなく縋って何が何でも振り向かせる」「彼のためだなんて誤魔化して、自分が傷つくのが怖いだけ」────そうかもしれない。
それでもレイチェルは、自分が我を通すことで、ウッドを困らせるのは嫌なのだ。自分のわがままで、ウッドの笑顔を曇らせたくない。未来に向かって飛び立とうとしている人の裾を引くことはしたくない。
ただの自己満足だと言われるかもしれないけれど。恋なんて結局はきっと、自己満足だ。
「レイチェル? どうしたの?」
「え?」
気づけば、セドリックが心配そうにレイチェルの顔を覗きこんでいた。
言われて、レイチェルは自分の頬に、冷たいものが流れていることに気づいた。視界がぼやけている。そっと指で触れてみた────濡れている。
「目にゴミが入ったの」
────行きましょ、セド。
瞼に滲んだ涙を拭って、レイチェルはウッドの去っていた方向へと背を向けた。
あと数日で、ウッドは卒業してしまう。ホグワーツの生徒じゃなくなる。もうこんな風に、この校舎の中で偶然会うことはなくなる。レイチェルの知らない世界へ、飛び立っていく。それが寂しくて────けれど、どこか晴れやかな気持ちだった。嬉しくて、誇らしかった。レイチェルの憧れた人が、自分の進むべき道を自分の力で開いたことが。眩しいくらいに、キラキラと輝いていることが。
たとえ、ウッドがレイチェルの気持ちを知らなくても。恋人になれなくても。それでも、この人を好きになってよかったと、そう思える。
好きだったの。ウッドはきっと、気づいてなかっただろうけれど。ウッドはきっと、クィディッチに夢中で、レイチェルのことなんて、これっぽっちも気にしてなかっただろうけれど。
本気の恋じゃなかったかもしれない。諦められる程度の、想いなのかもしれない。
それでも、レイチェルは彼が、ウッドのことが好きだった。