試験が終わったらまず何をしたいか。
その議題は、この半年ほど何度となく会話に上ったし、レイチェルもあれこれと考えを巡らせていた。図書室にこもって新作の小説を読みふけりたいし、親友達と一緒に時間を気にせずおしゃべりしたい。バーベッジ教授からマグルの話を聞いたり、マグルの道具を色々と弄くり回したい。運動不足だからクィディッチをして体を動かしたい。箒に乗って遠乗りもいいかもしれない。
迷って決まらなかったその答えはどうやら、頭ではなく体が知っていたらしい。溜まっていた疲労とストレス、そして試験の緊張状態からようやく解放されたレイチェルの肉体は、何よりもまず睡眠を必要としていた。
OWLも終わったのからだと、お菓子を片手に夜更かししてパジャマパーティーをしていたはずのレイチェル達は、気づけばいつの間にか意識を手放していた。そうして目を覚ました頃には、カーテンの外はすっかり明るく、もう日も高くなろうとしていた。
「ふぁ……ね、今日どうする……? ホグズミード……行くわよね?」
「ええ……でも、そんなに急がなくても……午後からでもいいんじゃないかしら?」
パメラはまだ布団にくるまったままあくびを噛み殺しているし、いつもは早起きのエリザベスですらまだパジャマ姿だ。2人の会話に、そう言えば今日はホグズミード休暇だったのだとレイチェルは思い出した。しかし、レイチェルにはホグズミードよりも前に行かなければいけないところがある。まだだるさの残る体を起こしてベッドから這い出すと、レイチェルはのろのろと身支度を整える。
「レイチェル、どこ行くの?」
「シャールのところ……きっとお腹空かせてるもの」
時計を見ると、いつもよりたっぷり2時間以上も遅くなってしまっている。可哀想な愛犬は、レイチェルがテスト明けだなんてわからないのだから、きっとわけもわからず、朝食を待ちぼうけてしまっているだろう。そうして、レイチェルは大急ぎで愛犬の元へと向かったのだが。
シャールが居ない。
いつもならレイチェルの足音を聞きつけて行儀良く座って待っているのに、どこにも見当たらないのだ。レイチェル達が作ってやった寝床を覗いてみても、そこに黒い犬の姿はなかった。小屋の中に敷いてあるタオルケットも、ひんやりと湿っている。シャールが居なくなってから時間が経っているようだ。
いつもより遅くなってしまったから、ちょっとした散歩か、そうでなければホグズミードにでも行っているのだろうか。でも、そんなこと今まで一度だってなかったのに。
名前を呼んでも反応はないし、10分待っても15分待っても、やっぱりシャールは現れない。ハグリッドの小屋や、温室や、心当たりのある場所を探してもみたけれど、やっぱり居ない。もしかしたら、セドリックと入れ違いになって、既にご飯をもらって遊びに行った可能性もある。そう思い直して、レイチェルは自分の朝食を取りに向かうことにした。
「レイチェル。随分遅かったじゃない」
「ごめんね。シャールが見つからなくて……」
もう遅い時間なのでそれほど人が多いわけでもないのに、やけにざわざわと落ち着かない。試験が終わった解放感や、ホグズミード休暇のせいかもしれないが、それにしてもちょっと騒がしいような気がする。レイチェルが不思議に思って辺りを見回していると、エリザベスが物憂げに溜息を吐いた。
「昨夜は大事件だったようよ」
「大事件?」
昨夜、またしてもホグワーツ校内に脱獄囚のシリウス・ブラックが現れた。ブラックは戸外にて3人の生徒を襲ったが、同校の教授であるセブルス・スネイプ教授が辛くもその凶刃を退け、ブラックを捕えた。3人の生徒に怪我はなかった。
ブラック捕縛の一報を受け、現場に急行した魔法省大臣はその場でブラックに対し「吸魂鬼のキス」を執行する最終決定を下した。しかし、刑が執行されるまでのその1時間の間に、ブラックは拘束されていたホグワーツ城内の塔からまたも逃亡し、魔法省大臣の鼻先で吸魂鬼の手を逃れた。
ホグワーツへの侵入方法および、ブラックの逃走経路は不明。なお、ブラックは杖を所持していなかったことから、逃亡には第三者の関与が疑われ────
「シリウス・ブラックが生徒を襲おうとした? 」
呟いて、レイチェルは背筋がぞっとするのを感じた。何てことだ。レイチェル達がフィフィフィズビーを食べながらゴブストーンゲームに興じている間に、校内でそんな恐ろしいことが起こっていたなんて。
そして、“3人の生徒”。そのフレーズに、何となく────何となくだが、レイチェルはまた「あの3人組」な気がした。つまり、友人のハーマイオニーが関わっているんじゃないかと。勘だ。でも当たっている気がする。さっとグリフィンドールのテーブルに視線を走らせる。────居ない。
「ちなみに、その襲われた生徒って、ハリー・ポッターなんじゃないかって話よ」
さっきグリフィンドール生が噂してた、とパメラが補足する。やっぱり、とレイチェルは眉を寄せた。
この記事によれば、3人は無傷だったらしい。無事だったのは何よりだけれど────あの3人って、どうしてこう平和な学校生活と無縁なのだろう。まあ、今回の件に関しては、自分で危険に首を突っ込んで行ったのか、不運にも巻き込まれたのかわからないけれど。
「ブラックはヒッポグリフを使って逃亡したらしい。ほら、ハグリッドの……授業で3年生に怪我をさせて、殺処分の予定だった奴だ」
「杖もないのに、どうやって塔を抜け出したんだ?」
「きっと誰かが手引きしたんだ」
なるほど、確かに周囲の声に耳を澄ましてみれば、どうやらその話題で持ちきりのようだ。無理もない。またしても吸魂鬼に気づかれずに校内に侵入して、またしても逃亡だなんて。記事を読み進める。どうやら今朝でホグワーツの吸魂鬼の警備は解かれることになったらしい。ブラックがもうホグワーツに来る可能性はないと言うことだろうか? ブラックの件では色々と不安にさせられたし不自由も多かったが、これでようやくホグワーツには平和が戻るのかもしれない。
レイチェルはそう結論付けて、新聞を畳んでテーブルの上へと置いた。ホグズミードを少しでも楽しむためには、さっさとこのブランチを終わらせるべきだろう。
「ね、聞いた? さっき、エイミーが言ってたんだけど、ルーピン先生って狼人間なんだって!」
そうしてレイチェルがコーンフレークへと手を伸ばしたときだった。隣のグリフィンドールのテーブルからそんな声が響いたので、レイチェルは驚いて持っていたスプーンを落としてしまった。
何だって? ルーピン教授が、人狼? そんな、まさか。また、誰かがふざけて流した噂だろうか?
「しかもね、昨日は満月だったでしょ? 校庭に野放しだったらしいよ!」
「そんな……信じられない。だって、あんなにいい先生なのに……」
「私が嘘ついてるって言うの?」
「そうじゃないけど……でも、本当だとしたら……怖いよね……」
「私、先生が人狼だなんて全然気づかなかった……」
「でも、考えてみると、ルーピン先生の体って傷だらけだったもん……それに、1ヶ月に1度は体調不良で休講になってたし」
「私達、騙されてたの?」
そんなわけがないと思う一方で────続けられた会話に、思い当たるところがあるのも確かで。
本当に……本当に、人狼なのだろうか? あの、優しいルーピン教授が?
「どうしたのよ、レイチェル。鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して。人狼だったら何なの? そんなに大騒ぎするようなことなの?」
「あ……えっと……」
パメラが不思議そうに首を傾げる。人狼と言われても、マグル生まれのパメラにはピンと来ないのかもしれない。何と返していいものかとレイチェルがまごついていると、エリザベスが困ったように眉を下げた。
「何と言うか……その……人狼への…………差別は、根が深いの……中には、ケンタウルスや小鬼と同じ扱いをするべきだなんて言う人も居るわ。色々と、就職なんかも厳しく制限されていて……普通の魔法使いに混ざって暮らすのは、とても難しいの。襲う対象が同じ人間でしょう?吸血鬼と同じで嫌悪感を持つ人が多いのよ……」
「その割にはエリザベス、全然驚いてないじゃない」
「ええ……まあ……私は、そうなんじゃないかしらって思っていたから……」
エリザベスが言うには、天文学の課題をやっていて、ルーピン教授が体調不良の時期が満月の周期と一致することに気がついたらしい。人狼は変身の前後にひどく体力を消耗する。ダンブルドアが生徒を危険に晒すとは思えないので、恐らくルーピン教授は脱狼薬を服用していたんじゃないか、と。
「気づいてたなら、何で教えてくれなかったわけ!?」
「だって、確信が持てなかったんですもの……偶然の可能性もあったし……本人に聞くのも失礼でしょう? 違ったら、それこそ本当に失礼すぎるわ……」
突然のことで驚いたけれど、ルーピン教授が人狼でも、レイチェルは気にしない。フェンリール・グレイバックみたいな邪悪そのものの存在は恐ろしいが、ルーピン教授は違う。
そうじゃなくて、何か────何か、大事なものを見落としている気がする。
人狼。脱狼薬。変身。満月────月。
「もしかして……」
ふいに頭によぎった考えに、レイチェルは、思わず椅子から立ち上がった。
そんな都合のいい偶然なんて、信じられない。けれど、そうとしか考えられない。いや────そうであってほしい。
「レイチェル? どこへ行くの? ホグズミードは?」
「ごめん! 私は、いいから、先に行って!」
居ても立っても居られなくなって、レイチェルは大広間を飛び出した。エリザベスの戸惑った声が追いかけてくるのを背中に感じながら、人気のない廊下をただ走る。
ルーピン教授が人狼だって、そうでなくたって、どっちだっていい。けれど────レイチェルには、彼に、確かめなければいけないことがある。
「ルーピン教授!」
気づけば、防衛術の教室の前まで来ていた。いくつ階段を上って、いくつ角を曲がったのかもよく覚えていない。焦る気持ちを抑えきれずに、勢いよくドアをノックする。一瞬の間の後、静かに扉が開いてルーピン教授が顔を覗かせた。
「やあ、レイチェル」
穏やかに笑みを浮かべるルーピン教授は、まるでいつも通りだった。レイチェルが教授と約束をしていて、この時間に教室に来るとわかっていたような、そんな言い方。先生、と荒げそうになった声が、そのまま失速して喉の奥へと引っ込む。招き入れられた部屋の中のある異変に気づいたからだ。
「……どこか、旅行にでも行かれるんですか?」
机の上に広げられた大きなトランクからは、畳みかけの衣類や、入りきらなかったのだろう本なんかがはみ出していている。授業のときには賑やかだったはずのキャビネットの棚が、今はところどころ空いていた。いくら学期末が近づいているからって、荷造りをするにはあまりにも早すぎる。こんな時期に学校を出て行くなんて、旅行か────そうでなければ、辞職くらいしか考えられない。
そうだ、と言ってほしくてルーピン教授の顔を見つめる。魔法生物を捕まえにいくために、旅に出るのだと、そう言って欲しい。そんなレイチェルの期待は裏切られて、ルーピン教授はゆっくりと首を横に振った。
「……学校を、辞められるんですか?」
声が震える。困ったように眉を下げる表情に、悔しさが募った。
どうして。どうして、辞める必要なんてないのに。だって、人狼だって、ルーピン教授が素晴らしい魔法使いで、優れた教師であることは、今までだって、この先だって、変わらないのに。
「君ももう聞いたと思うが、スネイプ教授が、私の最大の秘密を生徒達に漏らしてしまってね。知られてしまった以上は、そうせざるを得ない。人狼に我が子が教えを受けることを好ましく思わない保護者は多いものだ」
「そんなこと……!」
ない、とは言えなかった。人狼への差別は、魔法界においては至極当然のこととしてまかり通っている。マグル生まれに対する差別と似ているようで、けれど、擁護する人や、改善しようと声を上げる人が少ないと言う点では、マグル生まれに対する差別よりも酷いかもしれない。ルーピン教授がどんなに素晴らしい先生かと子供が言葉を尽くしたところで、人狼と言うだけで眉を顰める大人が居ることは想像に難くない。
「そうかも、しれない、けど、でも……」
勢い任せの否定は酷く無責任に思えて、視線がゆるゆると下がっていく。
人狼だから何なのと言えるのは、ルーピン教授の人となりを知った今だからだ。新学期の最初の授業で告げられていたら、レイチェルだって受け入れられたかわからない。
だって、レイチェルだって、この人が人狼だと聞いて、驚いてしまった。不名誉な疑いだと思ってしまった。本人の口から肯定を聞いた今も、戸惑っている。
だって、人狼の存在は知っていたけれど、実際に人狼に会ったことはなかったから。親しみを持っていた人が人狼だと知ったのは初めてだったから。
「君がそんな顔をする必要はない。この仕事を引き受けたときから、覚悟はしていた」
────『こんなに素晴らしい人材が残ってたたのに、どうして去年、ダンブルドアはロックハートなんか呼んだのかしら?』
それは、親友達と何度も言い合ったことだった。もっと早くルーピン教授が来てくれればよかったのにと、溜息を吐いて。不思議だった。どうして、こんなに優秀な魔法使いなのに、つぎはぎだらけのボロボロのローブを着ているのか。まだ若いのに、顔に、髪に、苦労の跡が刻まれているのか。
「先生は……先生が何者だって、素晴らしい防衛術の先生です。そのことに、変わりはありません」
「ありがとう」
お世辞でも社交辞令でも何でもない、心からの言葉だった。
ルーピン教授の授業を受けるまで、レイチェルは防衛術が苦手だった。でも、今なら逆呪いも、防衛呪文も、前よりずっと上手くできる。OWLを乗り切れたのだって、ルーピン教授が教えてくれたからこそだ。ルーピン教授が、レイチェル達を合格させたいと思ってくれたから。親身になって、レイチェル達のことを考えてくれたから。
「さて……君が、こんな風にいきなり尋ねてくると言うことは、何か私に聞きたいことがあるんだろう」
立ち話も何だからと、ルーピン教授は椅子に座って悪戯っぽくレイチェルを見上げた。勧められるままレイチェルもテーブルの向かいへと腰を下ろす。
波立った気持ちを落ち着かせようと、深く息を吸った。そうだ。先生が本当に人狼かどうかなんて、そんなことを確かめに来たわけじゃない。ぎゅっと膝の上で両手を握りしめる。
「先生は……」
ずっと、心に引っかかっていたことがあった。それが何だったのか、この人が人狼だと知った今ならわかる。
どうして、ルーピン教授の筆跡に、見覚えがあったのか。どうして、レイチェルのことを知っていたのか。どうして、彼にとってレイチェルの母親が「特別」なのか。
初恋の人なんかじゃない。この人は────。
「先生が、ムーニーだったんですね」
どこかで見た気がしていた。この人の筆跡は、彼によく似ていた。毎年必ず送られてくる、クリスマスカード。母親の、最初のファンレターの送り主。
柔らかな鳶色の瞳を真っ直ぐに見つめれば、ルーピンは微かに微笑んだ。
『私が一方的に知っているだけだ。彼女は有名だったからね』
『実際にあってみて、彼女の言う通りだと思ったよ』
思えば、この人の話は辻褄が合わなかったのだ。
初めて母親について話したとき、ルーピン教授は確かに言った。レイチェルの母親は彼を知らないだろうと。
それなのに、あの日────この人は確かに母親と親交を持っていなければありえない発言をした。それも、プライベートの────娘のレイチェルのことを話すほど、親しい仲。
その違和感も、彼がムーニーなら────本名を明かさずに母親と親交を持っていたのなら納得がいく。
「初めて彼女の小説を読んだのは、私がまだ学生の頃だった」
琥珀色をした液体が、白いティーカップの中で揺れる。落とした角砂糖が、ゆるやかに溶けてその輪郭を失っていく。注ぎ入れたミルクが、静かに渦を描いている。その透明さを濁らせながら、混ざり合い、飲み込まれていく。
「今でこそ脱狼薬によって、私は姿こそ獣になっても、ヒトとしての理性を保っていられる。けれど当時はまだ、そんなものはなくてね。人狼に対する差別も嫌悪感も、今よりずっと激しいものだった。それは、残酷でも何でもなく、当然の感情だ。私ですら、満月が来るたびに己を呪ったものだ。自分でも持て余しているものを、他人に理解し、受け入れろと言うのは到底無理な話だとわかっていた」
淡々とした語り口に、レイチェルはただテーブルの木目を見つめながらじっと耳を澄ませた。喉を通る紅茶と同じ。温かで、どこかほっとする、心地のいい声。ミルクと砂糖が混ざった多すぎも少なすぎもせずに綺麗に混ざったみたいな。
「幸いにも、私にはこの体質を気にしないで居てくれる希有な友人が居てね。彼らの存在に随分救われた。しかし……あくまでも彼らは特別で、彼らに出会えたのは奇跡なのだろうと……多くの人間にとっては、私は醜い化け物に過ぎない。一生、人狼だと知られないよう怯えながら生きていくのだろうと、そう思っていた」
その苦悩は、レイチェルにはわからない。理解しようとしても、ただの薄っぺらな自己満足に過ぎないだろう。この人はきっと、レイチェルには想像もつかないような痛みに耐えてきたのだろう。
レイチェルなら、恨まずにいられるだろうか。自分を化け物だと差別し、虐げる他人を。
「そんな中で、彼女の本を読んだ。驚いたよ。彼女に宛てた手紙を、君ももしかしたら読んだかもしれないが……そこに書かれていることが、まるで、自分のことそのものに思えてね。誰にも……親友達でさえ理解できなかった苦悩をわかってくれる人が居たことが……それが、私のように差別されることなど一度だってなかっただろう、純血の魔女だったことが、何より嬉しかった。本を読んで涙を流したのも、ファンレターを書いたのも、あれが初めてだった」
そう言って、ルーピン教授は懐かしむように目を細めた。
名も明かさないままの、年に一度だけの、他愛ないクリスマスカードのやりとり。それでも、5年、10年と繰り返すうちに、少しずつお互いのことを書くようになって。そうして、親しみを持つようになったのだと。
「だから、彼女に似ている君を見ていると、どうしても放っておけなくてね。つい色々と、お節介を焼いてしまった」
「その……あれは……忘れてください……」
気まずくなって、もごもごと口の中で歯切れ悪く言葉を転がす。
たぶん、ルーピン教授は、あの、できればなかったことにしてほしい出来事(先生に対してやつあたりだなんて)(しかも、原因が色恋に関するゴタゴタ!)のことを言っているのだろう。這い上がってくる羞恥を振り払って、レイチェルは顔を上げてルーピン教授の視線を真っ直ぐに見返した。
「私……いつか、ムーニーに会ったら、お礼が言いたかったんです」
会ってみたかった。レイチェルが母親の小説を好きになるきっかけをくれた、優しい人狼に。
きっと、素敵な人なのだろうと思った。人の痛みがわかる人なのだろうと思った。実際、それは正しかった。ムーニーは、レイチェルの思ったとおりの、素晴らしい魔法使いだった。
「それに、先生にも」
レイチェルを気に留めてくれたきっかけは、レイチェルの母親だったかもしれない。それでも、レイチェルはこの1年、この人の言葉に何度も助けてもらった。この人はちゃんと、レイチェル自身を見てくれた。この人の与えてくれたものは、レイチェルにとってかけがえのないものばかりだ。
「先生のおかげで、私、自分がなりたいものを見つけられました」
自分に何ができるのかもわからず。何になりたいのかすらも決められなかった。忘却術士になりたいと、そう思うようになったきっかけをくれたのは、この人だった。周囲に置いていかれそうで焦っていたレイチェルに、道しるべをくれた。
「先生は私にとって、最高の防衛術の先生でした」
だから、やめないでほしい。ここに居てほしい。まだ、教えて欲しいことがたくさんある。
来年も再来年も、NEWTのときもルーピン教授がいいねと、同級生達と言い合った。けれど、それはきっと、今となっては、レイチェルが考えるよりもずっと難しいことなのだろう。
「本当に、ありがとうございました。私、先生に教わることができて、幸運でした」
泣きたいわけじゃないのに、自然と目が潤む。
ここに居てほしい。そう思うけれど、きっともう決めたことなのだろう。子供じみたわがままで困らせたくはないから。だから、せめて、感謝だけでも伝えようと思った。
「その言葉だけでも、私はこの職を受けた価値はあったと、そう思える」
ルーピン教授が穏やかに微笑む。その顔はやっぱり、「先生」の笑みだと思った。
それは、たぶん、この人の性質で。ホグワーツで教鞭をとることがなくなっても、それは変わらないだろう。レイチェルよりもずっと賢くて、たくさんのものを見てきた、大人の魔法使い。教授でなくなっても、この人はレイチェルにとってはきっと、ずっと「先生」だ。
「さて……随分長く引き留めてしまった。今日はホグズミード休暇だろう。楽しんでおいで」
「はい」
空っぽになったティーカップを置いて、レイチェルは椅子を引いて立ち上がった。窓の外へと視線を向ければ、雲ひとつない青空が広がっている。パメラとエリザベスには何も説明せずに来てしまったが、もうホグズミードに向かった頃だろうか。
「ああ、そうだ。レイチェル。君とセドリックは、ここ1年、迷い犬の世話をしていただろう。熊のような、黒い大きな犬だ」
ドアノブへと手をかけたところで、ルーピン教授が思い出したように言った。シャールのことだ。そう言えば、結局シャールの食事ってどうしたんだろう。大広間でセドリックを見かけたら聞こうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
「あの犬の飼い主は、私と知り合いでね。事情があって、しばらく彼の面倒を見ることができなかったんだが……また、彼を飼えることになったらしい。今朝、彼を引き取ったと聞いた」
「シャールの、飼い主が?」
「ありがとうと伝えてくれと言われたよ」
じゃあ、シャールは元の飼い主のところに戻ったのか。姿がなかったのは、そのせいだったのだ。
やけに躾の行き届いた犬だし、元々誰かに飼われていたんだろうとは言っていたけれど。まさか、今頃になって飼い主が迎えに来るなんて。
「その人の名前は? どこに住んでるんですか? 会いに行ってもいいか、聞いてもらうことはできますか?」
「遠くへ行くようだから、難しいだろう。少なくとも、イギリス国内ではない」
「そうですか……」
静かに首を振るルーピン教授に、レイチェルは肩を落とした。せっかく、夏休みになったら家に連れて帰ろうと話していたのに。セドリックは寂しがるだろう。レイチェルも寂しい。急すぎてお別れの挨拶もできなかったし、その飼い主ってちょっと勝手なんじゃないだろうか。
そうは思ったけれど、シャールはきっと、飼い主が戻って来て喜んだのだろう。シャールが幸せならそれが一番だと納得するほかない。会えなくても、幸せを願うことはできる。
レイチェルはふと、足を止めて振り返った。
「ルーピン先生。……先生はまた、次のクリスマスもママにクリスマスカードをくれますよね?」
「ああ。そのつもりだが……」
唐突な質問に、ルーピン教授が不思議そうな顔をした。
毎年送られてくる、ムーニーからのクリスマスカード。母親に宛てた、ファンからの贈り物。だから、レイチェルは、いつだって、ただそれを眺めるだけだったけれど。
「今度は……今度は、私からも、クリスマスカードを贈ってもいいですか?」
教師が特定の生徒とだけ贈り物のやり取りをするのはよくないけれど、この人は先生ではなくなるのだから、クリスマスカードを贈り合ったところで問題はないはずだ。
レイチェルの言葉にルーピン教授は驚いたように目を見開いたが、やがてふっと表情を緩めた。
「ああ、勿論。私からも送ろう」
「約束ですよ。楽しみにしてます」
────じゃあ、先生。お元気で。
笑って告げて、扉を閉めた。
これで、お別れだ。けれど、最後じゃない。ルーピン教授としての彼は居なくなってしまうけれど、ムーニーとしての彼とはきっとまたどこかで会える。シャールもそうだ。遠いところに行くとは言っても、二度と会えないと決まったわけじゃない。終わりじゃない。
想いを言葉に、カードにこめて。会えなくても、幸せを願うことはできるから。