湖の中に小石を投げ込めば、さざ波が起きる。
何か行動を起こせば、遅かれ早かれその結果が返って来る。それがいい結果か悪い結果かは、そのときになってみないとわからないけれど。
「ごめんなさい」
1人廊下を歩いていたレイチェルを呼び止めて来た2人組は、躊躇いがちにそう告げた。ネクタイの色は黄色。先日レイチェルと揉めた例の6人組の中の2人だった。終始他の4人の後ろに隠れるようにして、居心地悪そうにしていた、あの2人だ。
レイチェルがどうしたものかと困惑して黙っていると、彼女達はぽつぽつと弁解を始めた。セドリックとレイチェルが仲の良さに嫉妬したこと。ホグズミードで2人で出掛けていたのを見て、恋人同士なのだと思ったこと。それなのに、レイチェルは否定するから────セドリックを好きなくせに、自分他の人とは違うと言う態度に、苛立ったこと。それで、ちょっと懲らしめてやろうと言う誘いに乗ってしまったこと。警告の手紙や物を隠してちょっと困らせるだけのつもりだったのに、最近はどんどんエスカレートして、やりすぎだと思っていたこと。でも、反対したりしたら今度は自分が同じ目に合うんじゃないかと思うと、怖くて言い出せなかったこと。
「本当に悪かったって思ってるの」
「お願い、セドリックには言わないで」
それはちょっと虫が良すぎるんじゃないかと思ったが、泣きそうな表情を見たら何も言えなくなってしまった。レイチェルは彼女達とはあまり親しくないが、特に悪い噂を聞いたことはなかった。つまり、元々意地悪で嫌な女の子なわけではなく、ごく普通の子だと言うことだ。
好きな人と仲が良い女の子に嫉妬するのも、好きな人に嫌われたくないと思うのも。恋をしている女の子なら、誰もが持つ感情だろう。もうしないと言う約束と引き換えに、レイチェルもセドリックに彼女達のことは言わないと約束した。たった2人だけでも改心してくれたのだから、頬を張られた甲斐もあったと言うものだ。
一方で、初めて反撃────と、呼ぶのがたぶん適切だろう────をしたせいで、残りの4人はレイチェルに対する怒りを募らせたようだった。彼女達からすれば、黙ってサンドバッグになっていればいいのに、歯向かうなんて生意気とか、そんな感じだろうか。
一度顔を見られてしまったらもうこそこそ隠れる必要もないと判断したのか、嫌がらせもあからさまになってきた。授業中や自習時間でもお構いなしだ。
パメラやエリザベス、それにアンジェリーナやアリシアはできるだけレイチェルを1人にしないようにと気を遣ってくれているが、寮や時間割の違いはどうしようもないし、レイチェルのためにクラブ活動や監督生の仕事をサボるわけにもいかない。
「ねえ、レイチェル。ちょっと話さない?」
そして今も、レイチェルは1人図書室へと向かっていたところを、例の4人組につかまっていた。言葉は友好的だったし、顔には笑顔が浮かべられていたが、勿論楽しいおしゃべりなんて雰囲気ではない。第一そもそもただおしゃべりするだけならわざわざ空き教室へと移動する必要もないだろう。
「本当は、セドリックのことが好きなんでしょ?」
「だから、違うって言ってるじゃない!」
いつか直接話をして誤解を解く必要があるとは思っていた────要するに、きちんと話をすれば誤解は解けると思っていた。が、レイチェルは早々にそれは勘違いだったと悟った。彼女達の中では、もうレイチェルがセドリックを好きだと言うのは揺るぎない事実なのだ。彼女達の中では、レイチェルは何だかんだと言い訳して1人抜け駆けしている卑怯な人間と言うことになっている。
「第一、もしも私がセドを好きだったとしたって、貴方達に関係ないでしょ!?」
こんなのは会話しているとは言えない。自分達の望んだ返事を聞き出すためだけの尋問だ。もううんざりだとレイチェルが声を張り上げれば、一瞬の間の後、くすくすと笑い声が重なった。何がおかしいのかとレイチェルが見返せば、嘲るような笑みが返って来る。
「関係ないかもしれないけど見ててイライラするのよね」
「セドリックが優しいからって、それにつけ込んでベタベタしちゃって。あんたみたいな女、すっごい不愉快」
「セドリックが可哀想。幼馴染だからってだけで、我が物顔でつきまとわれるんだもん」
「お情けで仲良くしてもらってるのすらわかってないの? 頭悪いんじゃない?」
「恥ずかしくないの? セドリックの隣に並んで。全然釣り合ってないのに」
「鏡見たことある? もしかして、自分は美人だとか思っちゃってるの?」
どうして、ここまで言われなければいけないんだろう。レイチェルは悔しさに滲んだ涙を見られないように俯いた。自分がセドリックと比べて見劣りすることなんて、わかってる。自分が美人だなんて、そんなこと思ってない。頭の中に浮かぶ言葉を吐き出したら、涙まで一緒に流れ出てきてしまいうな気がして、レイチェルはただ黙って床を睨みつけるしかできなかった。
貴方達こそ、何の権利があってそんなことを言うの。確かに、レイチェルよりは美人かもしれないけれど────セドリックの恋人でも、何でもないくせに。
あと一言でも何か言われたら、レイチェルはきっと泣いてしまっただろう。
けれど、結局レイチェルは彼女達の前で涙を見せずに済んだし、それ以上彼女達が何か口にすることも、レイチェルが何か口にすることもなかった。廊下の向こうから誰かの足音が聞こえたことによって、彼女達が慌ただしく部屋を出て行ったからだ。
1人空き教室に残されたレイチェルは、何だかどっと疲れを覚えて、肩の力を抜いてふうと息を吐く。
「うわー……すっげぇな、女の子同士の喧嘩って」
ふいに背後から聞こえた声に、レイチェルはぎょっとして振り返った。無人だと思っていた空き教室だったが、どうやら違ったらしい。机の陰に隠れていたのかもしれない。ひょっこりと覗いた顔は、レイチェルのよく知るウィーズリーの双子のどちらかだった。
「ちなみに俺はジョージの方だ」
困惑するレイチェルに、ニヤッと笑ってみせる。正直、今のレイチェルにとってはどちらでもよかった。どうしてこの双子はこう、神出鬼没と言うか────いつもいつも人が居合わせてほしくないと思う場面に偶然居合わせるのだろう。と言うか、もしかして一部始終を聞かれていたのだろうか。レイチェルが思わず怪訝な視線を向けたが、ジョージは悪びれる様子もなくレイチェルの隣へと座る。
「……何でこんなところに居るの」
「言っとくけど、俺が先客だからな。昼寝してたら君達が入って来たんだ」
「それは……その…………ごめんなさい……?」
それは、気まずくて出るに出られなかっただろう。思わず反射的に謝ってしまったが、冷静に考えてみればレイチェルに非はない。思わず渋い表情になると、何か勘違いしたらしいジョージが慰めるように言った。
「まあ、何だ。あんまり気にしない方がいいぜ。どうせあんなの、やっかみだろ?」
──── やっかみ。そうなのだろうか。レイチェルには、彼女達が自分を羨ましがっているとは、とても思えなかった。だって、何を羨ましがると言うのだろう? 客観的に見てあの子達の方がレイチェルよりも華やかな容姿をしているし、本人達にもレイチェルには勝っていると言う自信が溢れているように見えた。羨ましがられているのは、レイチェル自身じゃない。彼女達が羨んでいるとしたら、それは────。
「幼馴染だからよ」
セドリックの幼馴染だから。それだけだろう。小さい頃からいつも一緒。「だから」セドリックと仲が良い。ただ、側に居たから。側に居る女の子は、レイチェルだけだったから。だから、特別になった。レイチェル自身の魅力でも何でもない。ただ、そこに居たから。
「兄妹とか、従妹とかだったら、きっとこんな風に言われることなんてなかった」
結局のところ、レイチェルがレイチェルだからあの子達は気に入らないのだろう。血が繋がっているわけでもない、平凡なレイチェルが、幼馴染だからと大切にされることが。ただ隣に住んでいただけのくせに、当たり前のような顔をしてセドリックの側に居ることが。
「何も繋がりがないから……だから皆、おかしいって否定する」
セドリックにベタベタしないで、と言われても、兄妹なら言えただろう。家族なのよ。嫉妬するなんて、馬鹿じゃないの。そうしたらきっと、周囲は何も言えなかっただろう。
レイチェルだって、そう思っている。恋愛感情じゃないのに。家族みたいなものなのに。パメラやエリザベスはわかってくれる。けれど、他の女の子達は納得してくれない。
家族じゃないでしょ。本当は好きなんでしょ。自分では気づいてないだけよ。そのうちきっと好きになるわ────。そんなの、わからない。レイチェルは嘘なんて吐いていないのに、どうして彼女達がレイチェルの心を、未来を決めつけるのだろう。
隣に住んでいたから。小さい頃から一緒に居たから。他に遊び相手が居なかったから。だから仲良くなった。セドリックとレイチェルの関係は、ただ、それだけ。もしもレイチェルの家がオッタリー・セント・キャッチポールじゃなかったら。途中でどこか遠くに引っ越していたら。きっと今のような関係じゃなかった。それはレイチェルだってわかっている。スタートラインが皆と同じなら────ただの同級生として出会っていたら、きっとセドリックを憧れの同級生として眺めているしかなかった。他の女の子になくてレイチェルにあるものなんて、ただ積み重ねた時間だけだ。
「でも、私達にとって、これが当たり前だったのよ」
この距離感が、セドリックとレイチェルにとっての普通だった。小さい頃はいつも繋がれていた手は離れたし、頬にキスもほとんどしなくなった。一緒にお風呂に入ることも、同じベッドで眠ることもなくなったし、セドリックはレイチェルの部屋に入らなくなった。
自分達では適切な距離を取れているつもりだった。仲の良い兄妹なら、レイチェル達よりずっとベタベタしている。けれど、何も知らない周囲は、近すぎると責める。他人なんだから、おかしいでしょう。そんな風に。
恋人でもないのにと繰り返されるたび、レイチェルは足場の悪い崖へと追い込まれているような気分になった。レイチェルとセドリックのこの関係は、恋人でなければ許されないのだろうか? どうして恋人じゃないからって、やめなければいけないの? それは一体、何のために? 誰のために?
「当たり前、だったの」
この関係が永遠に続くなんて、信じていたわけじゃない。
いつか崩れることはわかっていた。いつまでもこのまま、なんて夢みたいなことはありえない。
いつか、お互いよりも大切な人ができるだろう。自分の手で、たった一人の誰かを選ぶ日が来るだろう。それはセドリックが先かもしれないし、レイチェルが先かもしれない。もしもセドリックがそんな人を見つけたら、応援したい。恋人ができたら、祝福したい。そう思っていた。そうなったら、これまでみたいにセドリックに甘えたりするのは遠慮しなければいけないし、今まで通りと言うわけにはいかない。きっととても寂しくなるだろう。
けれど、それはセドリックだけじゃない。エリザベスやパメラだって同じことだ。自分の好きな人に、大事な人が増えて、自分と過ごす時間が減ってしまう。寂しいけれど、嬉しいことだとも思う。セドリックが選ぶ人なら、きっと明るくて優しい女の子だろう。レイチェルとも仲良くしてくれるといいな。そんな風に、思っていた。笑っておめでとうと言えるだろうと、信じていた。
けれど今、実際クロディーヌがセドリックと親しくしているのを見て芽生えたのは、祝福とは程遠い感情だった。ぽつりと胸に落ちた黒い染みが、どんどん肺を侵食していく。クロディーヌはレイチェルとセドリックの関係を理解してくれるだろうか? クロディーヌが嫌だと言ったら、たとえば二人で一緒にマグル学の勉強したりだとか、マグルの町に行ったりとか、そう言う事さえもできなくなってしまうのだろうか?
恋人ができたら、セドリックにとってレイチェルよりも大切な女の子ができたら、レイチェルは今まで当たり前だった何もかもを、その子に譲らなければいけないのだろうか?
「幼馴染って、一体何?」
だとしたら、レイチェルとセドリックの関係って一体何なんだろう。レイチェルとセドリックの15年間は、何だったんだろう。どうせ手放さなければいけないのなら、2人で過ごした時間は何だったの。一緒に泣いて、笑い合った時間も全部、なかったことになるの?
「こんな風になるんだったら……」
「おっと」
────セドの幼馴染になんか、なるんじゃなかった。
続けるはずだった言葉は、遮られた。ジョージの手のひらが、レイチェルの唇を塞ぐ。驚いてジョージの顔を見返せば、困ったように眉を下げてみせた。
「心にもないことは言うものじゃないぜ」
後で絶対後悔するからと笑うジョージに、レイチェルは羞恥を覚えた。わかってる。こんなの、本心じゃない。幼馴染じゃなければよかったなんて、思ったことない。セドリックの幼馴染でよかった。いつだってそう思っている。セドリックが居なかったら、なんて考えられない。でも。
でも────レイチェルがどうしてもセドリックの幼馴染になりたいと頼んだわけじゃないのに、どうしてレイチェルばかりが責められなければいけないの。隣の家に住んでるのも、幼馴染になったのは、レイチェルが何かズルをしたわけじゃない。そんなの、レイチェルにはどうしようもなかったのに。
じわりと涙が浮かぶ。ジョージの前では泣きたくないと思うのに、一度緩んでしまった涙腺は止まってくれない。
「俺にはよくわからないけど……幼馴染って奴も大変なんだな」
しゃくり上げるレイチェルの背中を、ジョージがぎこちなくさすってくれる。何とか泣きやもうと、レイチェルは目元を手で擦った。
わからない。そうだと思う。レイチェルだって、他の幼馴染がどうかとか、一般的にどう言うものかなんてわからない。友達、と言うのは違う気がする。家族みたいなもの。でも、兄妹でも、親戚でもない。戸籍も、血液も、確かな繋がりなんて何もない。
「セドは好きよ」
セドリックが幼馴染なのが嫌だなんて、思ったことはなかった。ハンサムで誠実で、誰にでも優しいセドリック。皆の憧れのシーカーで学年1位で、監督生。幼馴染の優秀さは、レイチェルにとって誇りだった。
平凡な自分と比べて落ち込むことも、嫉妬することもあった。けれど、監督生バッジもシーカーの座も、セドリック努力で手に入れたものだと誰よりも知っていたから────だから、素直におめでとうと言うことができた。セドリックが周囲に認められることが、嬉しかった。セドリックが、好きだから。
「とても、好きよ」
大好きなの。特別なのよ。世界で1番大好きなセディ。レイチェルのたった一人の幼馴染。生まれたときからずっと側に居てくれた、大切な男の子。
この好きが本当に家族に対する好きかどうかなんて、レイチェルにもわからない。もしかしたら、彼女達の言う通り、恋なのかもしれない。いつか、恋に変わるのかもしれない。気づいてないだけで、もう恋なのかもしれない。
わからない。だって、レイチェルには他に比較できる「好き」がないから。本当の兄弟なんて居ないから、セドリック以外に家族として好きな男の子なんて居ない。本当の恋もまだ知らないから、恋なのかそうでないのかなんてわからない。この気持ちが何なのかなんて、レイチェルが教えてほしいくらいだ。そんなの、どうすればわかるの。恋でなければ、許されないの? ただ大好きなだけじゃダメなの?
「好きだけど……最近、側に居ると苦しい」
わかっている。幼馴染だから。だから、特別なのだ。他に、理由なんてない。レイチェルがセドリックに特別扱いされる理由なんて、何も。特別美人なわけでも、頭がいいわけでも、性格がいいわけでもない。セドリックはレイチェルよりも何もかもずっと優れている。わかっている。レイチェルじゃセドリックに釣り合わない。セドリックの隣に並んで釣り合うような、そんな素敵な女の子じゃない。けれど、それをセドリックから言われるのならともかく、どうして他人に突きつけられなければいけないの。
「あんなの、ただの嫉妬だから気にしちゃダメ!」
パメラはそう言ってレイチェルの代わりに怒ってくれる。
「貴方は十分素敵な女の子だわ」
エリザベスはそう言って、レイチェルの手を握って綺麗に微笑む。
あの子達の言うことは正しい。レイチェルはセドリックに釣り合わない。5歳のあの頃は、2人ともただの子供だったから、無邪気に一緒に遊べた。お互いが隣に居ることに、何の疑問も感じなかった。けれど、15歳になった今では違う。セドリックの隣に相応しいのはもっと────もっと他に居る。レイチェルよりも素敵な女の子は、いくらでも居る。
セドリックの側は安心する。一緒に居ると、ほっとする。少し前までは、そうだったのに。今は違う。
一緒に居ると、不安になる。2人だけの時なら気にならない。でも、周囲に誰かが居ると────その人の目にどう映っているのかと、気になってしまう。セドリックに向けられる、周囲からの羨望の視線に居心地が悪くなる。どうしてセドリックの隣に居るのがアレなのと、責められている気がして、笑われている気がして、息が詰まる。たまらなく、みじめになる。
セドリックの側に居ると、自分の平凡さを、足りなさを、思い知らされるから。