3月がやってきた。
褪せていた芝は少しずつ緑に色づき始め、その上には青や紫色のクロッカスの花が咲き乱れている。その脇では、黄色いラッパズイセンの蕾が膨らみはじめていた。セピアだった景色に、少しずつ鮮やかな色が溶けだしていく。吹きぬけていく風はま肌を刺すように冷たいが、それでも窓硝子の向こう側には少しずつ春の気配が近づいていた。高くそびえるレイブンクロー塔から城の外を見下ろすと、日に日に景色が彩られていくのがはっきりとわかる。もう冬も終わりが近いのだ。
────そう。もう、冬も終わりが近いのだ。
「OWLまでとうとう3ヶ月を切ってしまったわ」
「あー、やめて! 言わないでよエリザベス! 考えないようにしてるんだから!」
手帳を片手に綿密な学習予定を作成するエリザベスの横で、パメラが耳を塞いで叫ぶ。エリザベスの溜息が鼓膜を揺らした。現実逃避をしたいのはレイチェルも同じだが、逃避してもそのぶん悪戯に時間が過ぎて行くだけなので大人しく羊皮紙とにらめっこするのが得策だろう。
「レイチェル、それ何?」
「ペニーがくれたの。一昨年から10年間のマグル学の過去問」
「何これ。『実技試験:分解した時計を下の設計図を参考に元の状態に戻せ』……? こんなのマグルだってできないし、普段の生活じゃ何の役にも立たないわよ!」
「えっ、そうなの?」
パメラの発言に、レイチェルは驚いた。難しい試験だとは思ったが、レイチェルが魔女だから難しいだけで、マグルなら誰でも簡単にできるものかと思っていた。何だか夢が壊れたと肩を落としていると、エリザベスが羽根ペンを置いて顔を上げた。
「私はやっぱり、魔法史と呪文学、それにルーン文字を担当するわ。レイチェルは魔法薬学と変身術と薬草学をお願いしていい? パメラは……」
「防衛術と魔法生物飼育学と天文学ね。オッケー。レイチェルは?この割り振りで大丈夫?」
「異議なし。むしろ、大変なのはエリザベスじゃない? 暗記科目が2つだもの」
試験まであと3カ月しかない。心配性のエリザベスだけではなく、レイチェルとパメラもいよいよ試験対策に真剣に取り組む必要があると感じていた。膨大なノートを整理して要点をまとめなければいけない。信頼できる上級生に貰うのもいいかもしれない。過去の試験問題を解いて傾向を掴まなければいけないし、OWL用の問題集も解いておきたい。記述問題は難問だと聞くし、ぶっつけ本番は不安だ。それに、実技の練習もしなければいけない。やることは山ほどあるのだ。
とうとうOWLの勉強に集中する時が来たとレイチェルは感じていた。いや、今までだって別にやっていなかったわけじゃない。けれど、本気じゃなかったと言うか、何と言うか──── どこかにまだ時間はあると言う甘えがあった気がする。もうそんな呑気なことは言っていられない。3ヶ月なんてあっと言う間だ。本気で、本腰を入れて勉強に集中しなければいけない。集中するべきだ。集中するはずだった。
それなのに、レイチェルが今頭を悩ませているのは忠誠の術の複雑な理論でも、消失呪文の効果でも、ワーロック法の成立までの経緯でもなかった。OWLとはまるで無関係だ。
「今度は一体何……? 私、また何かした……?」
机へと突っ伏す。先日の一件────廊下の真ん中で頭から水を浴びせられて風邪を引いた────は流石にやり過ぎたと思ったのか、あれ以来、レイチェルの周囲はある程度落ち着いていたのだが、ここのところまた少しずつ嫌がらせが目立つようになっていた。
「知ってるけど、聞く?」
「……一応」
机へと座って足を組むパメラに、レイチェルは躊躇いがちに頷いた。レイチェルの主観では、何もしていない。聞いたところで納得できる気はしないが、わけもわからず敵意を向けられるよりは理不尽だろうと理由がわかった方がまだマシだ。
「この間雨が降った日に、2人で禁じられた森の方から帰って来たでしょ。しかも、レイチェルはあの子達の『愛しのセドリック』のローブを着せてもらって」
それが気に入らなかったみたいよと、パメラは肩を竦めてみせた。ああ、そう言えばそんなこともあった。先週だっただろうか。ホグズミードに行った日のことだ。確かになるほど、レイチェルにも心当たりはある。しかしだ。レイチェルはひくりと頬を引きつらせた。
「何て言うか、本当……よく見てるわよね……? 暇なの……?」
「まあ、こんなくだらない嫌がらせをする暇はあるのは間違いないけど。でも、どんなに忙しくったって、好きな男の子ってつい目が追っちゃうしね。あんまり関係ないわよ」
そんなものなのだろうか。レイチェルは正直OWLのことで精一杯で、他人のことまで気にしていられる余裕はないのだけれど。そう思ったが、口に出すのはやめにした。言えばまた、レイチェルは本当の恋をしたことがないからとかなんとか言われてしまいそうだ。
「皆、ストレスが溜まっているのよ」
エリザベスはそう言って眉を下げた。ストレスが溜まっているから、精神的な余裕がなくなる。普通なら受け流せることでもイライラしたりカッとなったりしてしまう。だから、生徒間の揉め事も増えるし、校内の空気がギスギスしているのだと。ここのところ、監督生としての下級生の諍いを仲裁を求められるこが増えたエリザベスは、疲れた顔で微笑んでみせた。
そう、確かに、ストレスは溜まる一方だろう。
例年ホグワーツの5年生の神経をすり減らすOWLがいよいよ間近に迫って来ている。試験の出来不出来。OWLに失敗したら、そこで自分の夢が一気に遠ざかってしまったり、道が閉ざされてしまうこともある。そして、OWLを終えた先の自分の将来。小さなものから漠然としたものまで、ありとあらゆることが不安になって、押し潰されそうになる。そして、警備と言う名目で城の外をうろついている吸魂鬼の存在がそれを煽る。レイチェル達5年生は多大なるストレスに晒されている。それは確かだ。
しかし、だからって何故レイチェルがそのはけ口にならなければいけないのだろう。レイチェルだって、OWL生だ。吸魂鬼の影響を受けない特異体質と言うわけでもない。ストレスが溜まっているのは、レイチェルだって同じだ。
────つまり、そう。我慢の限界が来たのである。
セドリックと幼馴染だから。セドリックが他の女の子と比べるとレイチェルに対して親しげに振る舞うから。セドリックに恋をする女の子達からすれば、それは苛立ちの原因になるのだろう。そこまではわかる。だからって、どうしてレイチェルがその苛立ちの発散まで引き受けなければいけないのだ。
「エクスぺリアームス!」
廊下の角へと消えて行く後ろ姿へと、杖を向けて叫ぶ。相手が背中を向けているときに呪文をかけるのはほめられた行為じゃない。わかっている。それを言うなら、ただ廊下を歩いていただけの相手の鞄に切り裂き呪文をかけるのだってそうだ。直せばいいとか、そう言う問題じゃない。お気に入りの鞄だったのに。もう許さない。いい加減にしてよ。
ここのところ練習していただけあって、呪文の効果は正しく発動された。命中した相手の杖はくるくると宙を舞ったかと思うと、レイチェルの手の中へと落ちてくる。それをキャッチして、レイチェルはその場で相手を待ち構えた。流石に杖を取られたら、そのまま逃げるわけにもいかなかったのだろう。女の子が数人、こちらへと戻って来る。
「何するのよ!」
「信じられない! 背中から呪いをかけるなんて、最低!」
返って来た言葉に、レイチェルは眉根を寄せた。武装解除呪文は呪いじゃないし、そもそもどの口が言うのだ。レイチェルは目の前の相手の顔とネクタイの色を確認した。全員同級生だ。スリザリンが2人、グリフィンドールが2人、それにハッフルパフが2人。正直大体の想像はついていたが、やはりちょっと凹む。ハッフルパフの女の子は片方は居心地悪そうにしているから、もしかしたら無理やり巻き込まれたのかもしれない。
「私の杖!」
「返しなさいよ! 卑怯者!」
「……傍から見て、この状況で卑怯なのはあなた達の方だと思うけど」
「あんたに杖を脅し取られたって、先生に言いつけてやるから!」
「好きにしたら? そうしたら、私も本当のことを言うだけだもの。勿論、セドにも。誰に何をされて、杖を取り上げなきゃいけなくなったのか。きっちり説明しなきゃね?」
────先生達の前で、この杖に直前呪文をかけたらどうなると思う?
レイチェルが冷たく言い放つと、流石に彼女達の顔色が悪くなった。そうなれば自分達の分が悪いと気がついたのだろう。不安そうにお互いの顔を見合わせている。
「皆で口裏を合わせれば、先生達は誤魔化せるかもね。でも、貴方達の大好きなセドリックはどっちの言葉を信じるか、よく考えてみたら?」
セドリックはレイチェルの幼馴染だ。レイチェルが何の理由もなく他人の杖を取り上げて面白がるような人間でないことは知っている。そうでなくたって、入院したときの一件でレイチェルが自分のせいで嫌な思いをしたと気にしていたのだから、レイチェルの言うことを信じてくれるだろう。
「セドは誰にでも優しいけど、曲がったことが大嫌いだし、意外と頑固だから」
セドリックと、距離を置こうと思った。
確かに少し、自分はセドリックに甘え過ぎていると思ったから。セドリックの優しさに寄りかかるのが当たり前になってしまっているのは、よくないと思ったから。セドリックを好きな女の子達の反感を買ってしまったのは、周囲の目に無頓着すぎた自分も悪かったのだとも思った。だから、離れようと思った。セドリックが手を引いてくれなくても、一人で歩けるようになろうと思った。
セドリックの重荷になりたくないからだ。この子達のためじゃない。レイチェルが気に入らないからと言って、徒党を組んで影からこそこそ嫌がらせをしてくるような女の子のためじゃない。
「こんな風に大勢で一人を取り囲んで罵声を浴びせるような女の子のことは好きにならないわ。絶対ね」
言い終えた瞬間、頬に痛みが走った。勢いでよろけて、肩が柱にぶつかる。自分を睨みつける険しい表情に、相手を本気で怒らせたのだとわかったが、後悔はなかった。かなりキツイことを言ったと自覚はしているが、これまで散々黙って我慢してきたのだ。これくらい言わせてもらえなきゃやってられない。
「……杖を取り上げられたら、今度は暴力?」
「うるさい!! あんたなんかに、何がわかるのよ!!」
ヒステリックな叫び声に、レイチェルは溜息を吐いた。やっぱり、ちょっと言い過ぎだったかもしれない。これじゃ、冷静に話し合いなんて絶対無理だ。と言うか、そもそもレイチェル自体があんまり冷静じゃない。何とか表向き冷静を装っているつもりだけれど、お気に入りの鞄を台無しにされたことに自分で思っている以上に腹が立っているらしい。
「これ、返すわ。次に何かあったら、今度こそ貴方達のことセドに言うから、そのつもりで」
他人の杖なんていつまでも持っていたって困る。杖を差し出すと、レイチェルの頬を張ったグリフィンドール生はそれを引ったくるようにして奪い取った。そうして、6人は戸惑った様子でバタバタと廊下を駆けていった。
一人廊下へと取り残されたレイチェルは、足の力が抜けて足元の段差へと座りこんだ。頬がジンジンと熱を持っている。口の中は切らずに済んだみたいだけれど、思いっきり頬を張られたのだ。普通に痛い。こんな風に誰かに叩かれたのなんて、初めてかもしれない。エリザベスやパメラと喧嘩したこともあるが、流石にここまで激しいものじゃなかった。
「あの……大丈夫ですか?」
そんな風にぼんやり考えていたせいで、レイチェルはいつの間にか自分の目の前に誰かが立っていたことに気がつかなかった。頭上から降ってきた声に顔を上げれば、そこには予想外の人物の姿があった。クシャクシャの黒髪に、額には稲津型の傷。深い緑色の瞳が、丸眼鏡の向こうからレイチェルを不安そうに見つめていた。ハリー・ポッターだ。
「…………えっと、……大丈夫。ありがとう」
どうして、ハリー・ポッターがここに? そして、何故レイチェルに話しかけてくるのだろう? 驚いたせいで、レイチェルは返事をするのに随分と時間がかかってしまった。
どうやらレイチェルを心配してくれているようだが、もしかして、一部始終見られていたんだろうか。だとしたら、何だか変なところを見られてしまった。事情を知らない彼から見れば、もしかしてレイチェルは苛められていたように見えただろうか?何にしろ、あまり誰かに見られたいような状況ではなかった。
「……今見たこと、誰にも言わないでね。ハーマイオニーにも」
そして、できれば誰にも知られたくない。ハリー・ポッターはハーマイオニーとは喧嘩中のはずだし、そもそも彼がハーマイオニーとレイチェルの友人関係を知っているかどうかはわからないけれど、釘を刺しておくに越したことはない。ただでさえパンクしそうな彼女に、自分のせいでこれ以上心配事が増えてしまうのは避けたい。
お願い、と付け加えて、レイチェルが見つめると、ハリー・ポッター戸惑ったように視線を泳がせた。
「アー……うん。言わないよ。誰にも」
「ありがとう」
肯定の返事に、ほっと胸を撫で下ろす。
そうして会話が途切れても、ハリー・ポッターはその場に立ち尽くしたままだった。きっと、レイチェルを心配してくれているのだろう。ハーマイオニーの言う通り、優しい男の子なのだろうと思う。こうしていると、ホグワーツにたくさん居る男の子と何も変わらないように見えるのに。けれど、この目の前の少年は間違いなく『生き残った男の子』で、魔法界の英雄で────そして、それが原因で凶悪犯に命を狙われている。
「その……色々大変だろうけど……頑張ってね」
「色々?」
「あっ……えっと」
怪訝そうな視線を向けられて、レイチェルは焦った。レイチェルの頭にあったのは勿論シリウス・ブラックの一件だったが、もしもハリー・ポッターが自分が狙われていることを知らないとしたら────ダンブルドアや先生達は当然知っていて、彼には知らせない方がいいと判断したに違いない。大して親しくもないレイチェルがぽろっと口を滑らせるなんて言うのはきっと、いや、かなりまずい。いたずらに不安にさせるだけなのだから、知らない方がいいに決まっている。
「あの、その……喧嘩とか……試験とか……ク、クィディッチとか……? グリフィンドール、優勝杯がかかってるし……」
慌てて他に思い当たることを探したが、どれもレイチェルが言うには余計なお節介に思えた。もごもごと、言葉が口の中で歯切れ悪くくぐもる。何をわかったような口を利いているんだろうと、羞恥心が首筋を這い上がった。ハリー・ポッターは不思議そうな表情でレイチェルを見返していたが、やがてニッコリ微笑んだ。
「ありがとう」
はにかんだような笑みを向けられて、レイチェルは何だか申し訳ないような気持ちになった。その場しのぎの取って付けたような応援に、こうも純粋な反応を示されてしまうと、良心がちくちくと痛む。真っ直ぐにこちらを見る緑の瞳が気まずくて、レイチェルは視線を泳がせた。
「あの……私、本当に何でもないから……! もう、行ってもらって大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
「あ……うん。じゃあね」
有名人気取り? ちやほやされて調子に乗っている? 特別扱いが当たり前だと思っている? どこがだ。そんな人間が、こんな風に笑うはずがない。レイチェルは、去年までの自分の言動を猛烈に後悔した。何も知らないくせに嫌っていた自分が恥ずかしい。唯一の幸いは、彼がその事実を一切知らないことだろうか。しかしそのせいで過去の自分の悪行が責められないのだから、ますます罪悪感が増すだけでしかない。
廊下の角へと消えて行く後ろ姿を見送って、レイチェルは額を押さえた。
「失敗した……」
変なところを見られた。そしてたぶん変な奴だと思われた。
ハリー・ポッターは有名人で、いつだって話題の中心で、ハーマイオニーの仲良しで────だからレイチェルは彼のことをよく知っているような気がするけれど、向こうはレイチェルのことを知らないのだ。きっと急に親しげな口を利かれて、困惑させてしまっただろう。…………気分を悪くしたわけじゃなさそうだったから、よかったけれど。
有名人だから、慣れているのかもしれない。きっとそうだろう。けれどやっぱり、レイチェルの今の行動はあまり褒められたものではないように思えた。勝手に知ったような気になって、勝手に嫌って、幻滅して、見直して。そして、無遠慮に踏み込もうとした。
セドリックとハリー・ポッターは似ている。2人とも同じ────スポットライトを浴びる側の人間だ。眩い光の中に居ても、それでも輝いている人達。周囲の視線を、好奇を、羨望を惹きつける。セドリックも本来なら、ハリー・ポッターくらい遠い存在だったかもしれない。幼馴染として育ったから隣に居るのが当たり前のように思っているけれど、ただの同級生として出会っていたらきっとこんな風じゃなかっただろう。セドリックはレイチェルとは違うから。キラキラと、光り輝く側の生き物だから。