結局レイチェルが医務室を出られたのは、入院してから10日が経ってからだった。
退院するまでの間、レイチェルは友人達に本を借りて来てもらい、忘却術士について調べて過ごした。具体的な仕事の内容や、その体験談など。ひとつ新たな情報を知るごとに、レイチェルはやはりこの仕事がしたいと決意を強くするのだった。
退院してからの数日は、体調不良のせいで免除になった────正確には提出期限を延ばしてもらっていた────課題と格闘するのに目が回るほど忙しかったが、気分は晴れ晴れとしていた。
ひとつ問題が片付いて、レイチェルは肩の荷が軽くなった。一方で、ハーマイオニーはまた新たなトラブルを背負い込んでいた。

「ス、スキャバーズが居ないの。思い当たる所は、ぜん、全部、探したのに」

スキャバーズ、と言うのは彼女の友人のロン・ウィーズリーのペットのネズミだ。要するに、彼女のペットであるクルックシャンクスに、そのネズミを食べてしまったと言う疑惑がかかっているらしい。そのことに、ハーマイオニーは目に見えて憔悴しきっていた。

「ハーマイオニーはどう思ってるの?」

正直、また聞きだけのレイチェルには事の次第を判断は難しい。フレッドとジョージに聞いてみたところ、「まあアイツは年寄りだったしな」「パクッと一気に逝っちまった方が、却って幸せだったんじゃないか」とそろって肩を竦めてみせるだけだった。どうやら、彼らの中ではクルックシャンクスがスキャバーズとやらを食べたのはもう確定事項らしい。まあ、やんちゃ盛りの猫と年寄りのネズミならば、そう考えるのも無理はないけれど。

「クルックシャンクスのせいじゃないって信じたいわ。でも、クルックシャンクスがやったのかもしれないって、私も思うの。だって……だって、クルックシャンクスがスキャバーズのことを執拗に追いかけ回していたのは、本当なんだもの」

ハーマイオニーはわっと声を上げた。他の猫がやったのだと、愛猫の無実を信じたい気持ちもあるが、状況証拠はどう考えてもクルックシャンクスが怪しいのだと言う。マダム・ピンスが飛んで来るんじゃないかと周囲を気にしながら、レイチェルはふわふわした髪をあやすように撫でた。
第三者で、ハーマイオニーの友人であるレイチェルからすれば、どうしてもハーマイオニーの味方をしたくなってしまう。正直、猫がネズミを追いかけるのは仕方ないだろうと思うのだ。そして猫をペットに連れてくることはきちんと学校側から許可されている。ふくろうだって居るわけだし、どっちかって言うとネズミを連れて来た方が悪いんじゃないの、と言うのがレイチェルの意見だ。しかし、ハーマイオニーはネズミを飼っている友人が居るのを承知で後から猫を飼いだしたわけで────なんとも状況は複雑だ。そして、大事なペットの命がかかるとなると、単純な理屈や善悪だけの問題で片付くわけでもない。

「今わかってるのは血の跡が見つかったことだけなんでしょう? 怪我はしてるかもしれないけれど、もしかしたらどこかで生きてるかもしれないわ」
「ええ……ええ、そうね……ありがとう、レイチェル

言いながら、可能性は低いだろうなとレイチェルは思った。普通に考えれば、まあ────食べちゃったんだろうな、と思う。でも、それでクルックシャンクスを怒ると言うのもまた違う気がする。
とにかく、今は一刻も早くネズミが見つかって、彼女の愛猫の疑いが晴れることを願うばかりだ。

「シャール。シャール、どこに居るの?」

どうにかしてハーマイオニーをなだめたレイチェルは、一人で禁じられた森の側へとやってきた。夕暮れ時になったので、シャールの食事を持って来たのだ。だが、黒い犬の姿はそこにはない。いつもなら名前を呼べばやって来るのにと不思議に思いながら辺りを探してみると、大きな木の洞にの中に愛犬の姿があった。

「ここに居たのね。シャールったら、いつの間に友達ができたの?」

どうやらレイチェルより前に、先客が居たらしい。レイチェルに気がついたシャールは、のっそりと洞から出てくると、澄ました様子でレイチェルの持ってきた食事を食べ始める。手持無沙汰になったレイチェルは、膝を折ってまだ洞の中に居る先客へと目線を合わせた。

「こんにちは、クルックシャンクス」

クルックシャンクスは、挨拶をするようにニャアとしわがれた声で鳴いた。
普通、犬と猫と言うのは険悪なものだと思うのだけれど、どうやらシャールとクルックシャンクスの間には友情が芽生えたらしい。授業中や夜はシャールの相手をするのは難しいので、友達ができたのは喜ばしいことだ。

「ねえ、本当にスキャバーズを食べちゃったの?」

ふわふわしたオレンジ色の毛並みを撫でながら、問いかける。
どんなに賢い猫でも、人間の言葉を完全に理解はできないし、まして返事をしたりはしない。それでも、クルックシャンクスは、まるでレイチェルの言葉をわかっているかのように、丸い金色の瞳でレイチェルを真っ直ぐに見上げる。

「ハーマイオニーはあなたをとっても可愛がってるわ。あなたもハーマイオニーが好きでしょう? あんまり、ハーマイオニーを困らせないであげてね」

クルックシャンクスがゴロゴロと喉を鳴らした。
クルックシャンクスとそのネズミの一件にはレイチェルは全く無関係だが、正直、他人事ではないとも思うのだ。シャールとクルックシャンクスはたまたま仲良くなってくれたからよかったけれど、これがもしも喧嘩をして、シャールがクルックシャンクスを噛んだなんて言うことになったら……ハーマイオニーとの仲が気まずくなってしまうことは間違いない。それは、クルックシャンクスだけでなく、他の生徒のペットに関しても言えることだけれど。シャールが悪いのだとわかっていても、レイチェルはやっぱりシャールを庇ってしまうだろう。普段はそんなことしない大人しい子なの、と。それはきっと、噛まれたペットの飼い主からすれば腹立たしい事に違いない。それでもやっぱり、可愛いペットは悪くないのだと思いこみたいものなのだ。
何と言うか、ペットの問題って────複雑だ。

 

 

「できたわ! 後はこれをビンズ教授に提出したら終わり!」
「おつかれ、レイチェル。頑張ったわねー」

遅れていたぶんの課題と、皆と同じように授業で出される課題と。
他の生徒達のおよそ倍の量の課題を全て片付けた頃には、2月ももう半ばになっていた。
エリザベスやパメラが同情して手伝ってくれたのだが、それでも大変だった。ものすごく大変だった。こんな思いをするくらいなら、試験まではもう絶対に体調を崩したりしないように気をつけようとレイチェルは決意した。早々にベッドから解放されていればこうは思わなかっただろうと考えると、マダム・ポンフリーの指導は正しかったと言える。まあ尤も、マダムの思いこみは間違いで、レイチェルはそもそも勉強のし過ぎで倒れたわけではないのだけれど。
そうしてようやく通常の課題量に戻れると言う朝のことだった。全てやり遂げたと言う達成感で、心なしか空気が澄んで、キラキラして見える。と思ったが、これはどうやら単純にレイチェルの気分の問題だけではなさそうだ。レイチェルはふと周囲を見回して、その異変に気がついた。

「……なんか今日、皆やけに気合いが入ってない?」

周囲の同級生や下級生達の様子を見て、はてと首を傾げる。
なんだか、周りの女の子達が妙に張り切ってめかしこんでいるし、そわそわしている。例えば、甘い香りの香水を吹き付けてみたりだとか、髪がキラキラする魔法薬を使ってみたりだとか、派手なヘアゴムをつけてみたりだとか。いつもよりスカートの丈が短いような気もするし、化粧も念入りだ。どこか足取りも軽く、廊下には楽しげなくすくす笑いが蔓延していた。

「当たり前じゃない!だって今日、バレンタインよ!」
「……あー……そう言えば今日、14日?」

信じられないと言いたげに叫ぶパメラに、そう言えばそんなイベントもあったなと、レイチェルは素直な感想を抱いた。すっかり忘れていた。魔法史のレポートの〆切がギリギリだったので、それしか頭になかったのだ。そうかそうかと納得して頷くレイチェルに、パメラが呆れたように溜息を吐く。

レイチェルったら、それでも女の子?」
「だって、入院してたし……正直、それどころじゃなかったって言うか……」
「だからって、普通忘れる?」

ばつの悪さにごにょごにょと口ごもれば、パメラが生ぬるい視線を寄こす。そんなこと言われたって、忘れたものは忘れたんだから仕方がないじゃないか。進路や嫌がらせのことを考えるので、精一杯だったのだ。カードを贈る相手も居ないのだから、忘れた所で誰にも迷惑はかからないはずだし、文句を言われる筋合いはない。しかし、パメラはいかにも文句を言いたげな顔をしている。
不穏な空気を察したレイチェルは、頭を巡らせて別の話題を探した。こう言うときはさっさと話をそらすに限る。

「ねえ、あの……パメラは何か贈り物はしたの?」
「当たり前でしょ! ただでさえ遠距離なんだから、こう言うイベントはちゃんとしなきゃ。カードを送ったわよ。マークからも、今朝花束とチョコレートが届いたわ!」

パメラの恋人はマグル生まれで、2年前にホグワーツを卒業して、今では魔法省に勤めている。
頬を薔薇色にして、キラキラと目を輝かせるパメラは可愛いなと思う。パメラに限らず、恋する乙女と言う生き物は皆どこかキラキラと輝いていて、素敵だなあと思う。だがしかし、それにレイチェルまで巻き込もうとするのはやめてほしい。
大広間に着いたレイチェルは、どうやらバレンタインの存在を忘れ去っていたのは自分だけらしいと知った。去年と違って、けばけばしい飾り付けこそなかったが、天井の近くにはカードや花束やチョコレートを咥えた大小さまざまなふくろう達が届けるべき人物を探して飛び回っている。OWLだ課題だと言いながら、何だかんだ皆余裕があるらしい。
レイチェルとパメラは人の少ない、端の方の空いている席を選んで座った。コーンフレークの中に梟の羽根がトッピングされるのは遠慮したいからだ。エリザベスは今日は監督生の用事で前のテーブルに座っている。
パメラは彼氏が居るし、レイチェルには彼氏どころか好きな人さえ居ない。比較的バレンタインに無関係な2人は、騒がしい周囲をよそに、いつも通り粛々と朝食をやっつける。

「って言うか、セドリック、すっごいわね」
「みたいね……」

パメラの言葉に、レイチェルはハッフルパフのテーブルへと視線を向けた。
恐らくあれがセドリックだろうと思われる人影はあるのだが、バサバサと引っ切りなしにふくろうが飛び交っているせいでよく見えない。去年も十分多かったが、今年は見たところそれ以上に見える。やはりこれが、パメラの言っていた監督生バッジとキャプテンバッジの効果なのだろうか?
ヒッチコックの鳥みたいだとパメラが言うので、それは一体何かと問えば鳥の群れに襲われるパニック映画だと説明された。

「セドは襲われてないわよ」
「そんなのは見ればわかるわよ!」

とは言え、確かに大量のふくろうに埋もれているのは、何だかちょっと気味の悪いものがある。
本当に、レイチェルの幼馴染はレイチェルと違っておモテになることで。思わず溜息を吐くと、ふいに目の前の席に誰かが立った。

「おはよう。ここ、空いてるなら お邪魔するわね」

そう言って椅子に手をかけたのは、クロディーヌだった。その手には小さな薔薇のブーケを持っている。恐らく、彼女の信奉者からの贈り物なのだろう。席に着くと、すぐまた別のふくろうがスイーっと降りてきた。嘴にはカードを咥えている。ぼんやりと眺めていると、ふいに視線に気がついたらしいクロディーヌがレイチェルを振り向いた。

「大変ね」

同情するような口調だった。大変って何がだろう。そりゃセドリックやクロディーヌや、モテる人達は大変だろうけど、レイチェルは別に何も大変じゃない。わけがわからないと頭に疑問符を浮かべていると、クロディーヌはくすりと笑ってみせた。

「恋人がモテるのって、嫉妬しない?」
「恋人?」
「セドリックと付き合ってるんでしょう」

照れなくてもいいのにと言いたげに微笑まれて、レイチェルは思わず眉根を寄せた。あれだけ何度も何度も否定したのに、一体この誤解はどこまで根付いているのだ。
レイチェルが勢いよく首を横に振ると、クロディーヌは驚いたようにブルーグレーの瞳を見開いた。そうして考え深げにレイチェルの顔をしげしげと見つめていたかと思うと、可愛らしく小首を傾げてみせる。

「でも、キスくらいはしたでしょ?」

続けられた問いかけに、レイチェルはぎょっとした。まるで今日の空模様でも聞くような口調に、ぽかんと口を開ける。目の前の人間は、何と恐ろしい誤解をしているのだろうか。と言うか、キスくらいって何? 他に何があるわけ?

「して、ない、わ」
「え?一度も?」

今度こそ言葉できっぱりと否定すれば、クロディーヌは心底不思議そうな表情を浮かべた。レイチェルからすれば、何故そんな顔をされるのかの方が不思議だった。幼馴染は普通キスはしないだろうし、レイチェルは日常的にキスをする間柄の男の子をただの幼馴染だと呼ぶつもりはない。

「2人で居て、そう言う雰囲気になったりしないの?」
「わからないけど……とにかく、ないから」
「ふーん……よっぽど好みのタイプから外れてるのかしら?」

クロディーヌは悪気のない口調だったが、レイチェルはまた少しムッとした。それはつまり、レイチェルに女の子としての魅力がないからセドリックがその気にならないのだろうと、そう言いたいのだろうか?
とは言え、そんな苛立ちを悟られるのも嫌だったので、「さあね」と肩を竦めてティーカップを傾ける。

「じゃあ、私、本気で狙ってみようかしら」

ふいに呟かれた言葉に、レイチェルはぎょっとして紅茶を噴き出しそうになった。
狙うって、何を? いや、わかる。わかるけど、わかりたくない。困惑するレイチェルの隣で、あれ、とパメラが不思議そうに声を上げた。

「スリザリンの彼氏はどうしたのよ? ラブラブだったじゃない。昨日だって一緒に居たし」
「先週、別れたのよ。それなのに、やり直したいってしつこくて、ウンザリ。彼ったら、あんまり嫉妬深いんだもの。クールなところが好きだったのに、あれじゃ台無しだわ」

だから、今はフリーってわけ。艶やかなコーラルピンクの唇が、綺麗に弧を描く。
レイチェルは思わず眉根を寄せた。まるで、羊皮紙にインクの染みがついたから捨てたのだと言うような、何でもない口調だった。相手のスリザリン生がどんな人かなんてレイチェルは知らないけれど────クロディーヌは、その恋人のことを本当に好きだったのだろうか?
いや、そんなことよりもだ。

「……セドを好きなの?」

無意識のうちに、声が強張る。
クロディーヌがセドリックのことを好きだなんて、聞いたことがない。ただ単に、レイチェルの耳に入って来なかっただけかもしれないけれど。レイチェルが知らないだけで、クロディーヌは、セドリックを好きだったのだろうか? 本当に?

「そうね、好きよ」

クロディーヌは特別照れるような様子もなく、あっさりと答える。
まるでコーヒーに浮かべる生クリームみたいな響きの「好き」だとレイチェルは思った。甘くって、ふわふわしていて、でも瞬く間に溶けてしまう。戸惑った視線を向けるレイチェルに、クロディーヌはにっこり微笑んだ。

「だって彼、とっても魅力的だもの」

浮かべられた笑顔は、非の打ちどころもなく美しかった。
絹糸のようなプラチナブロンドに、霧がかった湖のようなブルーグレーの目。小鹿のようにすらりと手足が長くて、背も高い。クロディーヌは、誰が見ても美人だ。それに、大人っぽい。
成績だって学年トップで、レイチェルが苦手だと言うだけで、悪い子じゃない。セドリックの隣に並んだら、きっと絵になるだろう。クロディーヌに今は特定の相手が居ないのならば、セドリックと恋人になったところで何の問題もない。

何も問題はないはずなのに────どうしてか、レイチェルは胸がざわつくのを感じていた。

蝶の羽ばたき

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