進路によって変わるだろう、自分の10年後の未来。どんな人生を望んでいるのだろう。どんな大人になりたいのだろう? いや、そもそも大人の定義とは?
段々と哲学めいてきた思考にいよいよ脳が煮詰まってきたのを感じたので、レイチェルは今度は年長者の意見を聞くことにした。つまり、母親に。
あれこれ泣き言を書いても仕方ないので、いたって簡潔に。『私はマグルに関わる仕事に就きたいと思ってるんだけど、ママは私の進路についてどう考えてる?』 1週間後、ふくろうは返信を咥えて帰って来た。

『あなたの人生はあなたのもの。あなたが考えて決めたことなら、それがどんな選択であれ私達は応援します。答えのわからない問題に立ち向かうのは、大人でも苦しいわ。それでも、目をそらさずにきちんと自分と向き合うこと。そうすれば、自然と答えは見えてくるはずよ。あなたは賢い子だから、きっと大丈夫。自分を幸せにしてあげられると思う道を選びなさい』

両親や親族からあれこれ口出しされる子からすれば、理想的な親だと羨ましがられるだろう。しかし、手紙を受け取ったレイチェルは途方に暮れるばかりだった。絶対に魔法省に入れとか、あんな職業なんてダメだとか言われるのも困るが、これはこれで困る。
レイチェルの聞き方が悪かったのかもしれないが、相談という観点から言えば、はっきり言って何の参考にもならない。何かこう、もうちょっと、助言や苦言的なものが欲しい。レイチェルをよく知る大人として、人生の先輩として。答えそのものを求めていたわけじゃないけれど、何かヒントは貰えるんじゃないかと期待していた。甘ったれた考えだと言われればそれまでだけれど。
母親から娘へのアドバイスと言うよりは、予見者からの託宣みたいだ。子供の自主性に任せてくれていると言えば聞こえはいいが、これはもはや放任を通り越して放置の域ではないだろうか? 由々しきネグレクトである。レイチェルのためを想って言ってくれてるのだろうし、関心がないわけじゃないのはわかっているけれど、もう少し一人娘の進路を心配して右往左往してくれてもいい。
とは言え、自分で決めろと言われた以上もう一度手紙を出す気にもなれず、何の進展もないままレイチェルは1月の終わりを迎えようとしていた。
哲学的な日々にも、まるで楽しみがないわけじゃない。最後の土曜日は、クィディッチの試合があった。対戦はレイブンクロー対スリザリン。今年度のリーグは混戦しているので、これもまた注目カードだ。浮足立った空気の中、レイチェルも朝早くから親友達と一緒に、うきうきと競技場に向かった。天気は清々しい快晴でクィディッチ日和。レイチェルは久々に声を張り上げて熱心に自寮の代表選手達を応援したが、残念ながら結果はあまり満足いくものとはいかなかった。要するにレイブンクローは負けてしまった。ドラコがタッチの差でスニッチを掴んだ瞬間、スリザリンの応援席は大歓声だったが、それ以外からは大きな溜息が漏れた。

「あー、もう、ストレス溜まる!絶対あそこは反則だったわよね!?」
「私、よく見えなかったの。でも、エリザベス、あのとき審判はペナルティをとらなかったわよね?」
「フーチ先生はあのときロジャーがラインを越えないかを見ていらっしゃったの……逆サイドに居るとわかっていたからこその行動だったのかもしれないわ」

毎度のことながら、今回もフェアプレーとは言い難かったスリザリンの勝利はやはり素直に祝福しがたいものがある。勝てば寮生皆でパーティーだったのにと、思わず溜息が出た。たまには皆でワイワイ騒ぎたいのに。まあとにかく寮に戻ろうと、レイチェル達は冷え冷えとした廊下を歩いていた。

「あっ」

パメラが何かに気づいて、そう叫んだ瞬間だった。レイチェルは、自分の身に何が起こったのかわからなかった。
バシャッと言うかザバッと言うかドバッと言うか、とにかくそう言う感じの音がして、頭の上から大量の液体が降ってきた。降って来た、と言うより落ちてきた、の方が近いかもしれない。バケツをひっくり返した、なんて可愛いレベルじゃない。それは数秒の間、レイチェルに向かって滝のように降り注いだ。まるでレイチェルの頭の数メートル上に大きな見えない蛇口があって、それを誰かが思いきり捻ったみたいに。

「あんたみたいなブス、セドリックに釣り合わないのよ!」

蛇口を捻った「誰か」達の足音とクスクス笑いが駆け足で遠ざかっていく。
……ああ、そう言えばこの件もあったんだった。ただでさえ進路のことで頭が痛いのに。ますます頭痛がしそうだ。
とりあえず状況を把握しようと、周囲を見回してみる。液体は無色透明。咄嗟の事だったので目や口にも入ったが、何の味もしないところを見ると、どうやらただの水らしい。
痛みも恐怖もないぶん、この間みたいに階段から落ちかけるよりマシかもしれないが────そう考えたところで、悪寒とくしゃみがこみ上げてきた。いや、全然マシじゃない。この時期に冷水は凶器だ。

「うっわ、随分手が込んでるわねー。よっぽどヒマなのね」
「何呑気なことを言っているの、パメラ! レイチェル、大丈夫!?」
「だい……だい、じょ、ぶ、そうに、見える?」

体の震えが止まらない。歯の根が合わず、カチカチと鳴る。
バスタブ1杯ぶんくらいはありそうな量の冷水を頭からまともに被ったレイチェルは、まるで今しがた湖に潜ってきたような有様だった。ローブは水を吸って重たくなり、吸いきれなかったぶんが雫になって落ち、床に水たまりを作っている。フィルチに見られたら間違いなく罰則に持ち込まれるだろう。

「あの人達、何を考えているのかしら !? なんて酷いことを……信じられないわ!」

憤慨しながらも、てきぱきとレイチェルのローブに乾燥呪文をかけてくれるエリザベスがありがたい。
彼女達が何を考えてるか────たぶん、どんな手段を使ってもレイチェルをセドリックから引き離したいのだろう。あとたぶんスリザリンが勝ったからむしゃくしゃしていたんだろう。別に理解したくはないが、何となくわかってしまう。
しかしだ。

「……私、休暇が明けてから、セドとほとんど会話もしてないんだけど……」
「あー、そう言えば、なんかね、クリスマスに一緒に出掛けてたの見た子が居たみたいよ? 下級生らしいけど、マグル生まれの子が。セドリックって目立つし?」

ここまでされる理由が思い当たらないと主張すれば、パメラが思い出したように言った。
────何だって。レイチェルは愕然とした。確かに、パメラが勧めてくれたルートは、マグルの間でも有名なスポットばかりだと────ああなるほど、休暇中のホグワーツ生の1人や2人居てもおかしくない。

「だって……だって、1人じゃマグルの町になんて行かせてもらえないんだもの」
「私達に言い訳しなくったって、わかってるわよ」

あれはデートなんかじゃない。レイチェルもセドリックも、そんなつもりじゃなかった。社会見学だ。マグル学の体験学習だ。誤解だとレイチェルが眉を下げれば、パメラは肩を竦めた。

 

 

 

ここのところ、レイチェルはセドリックと少し距離を置いている。
あまり極端にしてセドリックや周囲に変に思われるのも嫌なので、表向きは今まで通りだ。マグル学の授業は一緒に受けているし、顔を合わせたら挨拶もする。露骨に避けたりはしてないから、周囲にはそんなに違和感はないだろう。けれど、レイチェルにとってはそれなりに大きな変化だった。
まず、セドリックの忙しさを理由に、シャールの食事はレイチェルに任せてもらうことにした。元はと言えば自分が拾ったのにとセドリックは難色を示したが、今ではレイチェルの犬でもあると言う主張には反論できなかった。それに、休暇明けからセドリックの忙しさがいよいよ殺人的になってきたのは事実だった。膨大な課題、あれこれと雑事も多い監督生の仕事、クィディッチのキャプテンとしての仕事、そして自らのシーカーとしての鍛錬。他にも面倒見のいいセドリックは友人や下級生の世話を焼いてしまう。本人にも自覚はあるらしく、そこを指摘すると無言で視線を泳がせていた。
なので、今やシャールの給餌はレイチェル1人の日課になった。これは実に効果的で、休暇前に比べるとシャールの小屋の周辺でのセドリックとの遭遇率は格段に減った。どうやら時間を見つけては会いに来てはいるようだが、そこはレイチェルの訪問をセドリックが立て込んでいる時間帯にすればいいだけの話だ。
あと、図書室で2人で勉強するのもやめた。何だかんだと理由をつけて、都合が悪いと断っている。セドリックも忙しいので、実際、時間を合わせるのは難しいのも事実だ。
勿論セドリックはこんな目論見は知らないので、レイチェルを見つければいつも通り話しかけてくる。他愛もない世間話や、シャールのこと、レポートのこと。そう言った些細な会話はあるものの、授業の休み時間だけじゃそんなにのんびりとおしゃべりはできない。
初めは違和感がひどかったが、1月近く経った今ではそれも薄れつつある。何てことない、セドリックと過ごす時間が削減されても、レイチェルの学校生活はごくごく正常に機能している。
これでいいのだ、とレイチェルは思った。外野の言う事を認めるのは癪だが、確かに今までがお互いに時間を割きすぎていたのかもしれない。寮も違うし、異性だし、性格や趣味だって違うんだし。これがきっと「普通」なのだ。まして、セドリックは「普通」より忙しいのだから、レイチェルがセドリックの時間を奪ってはいけない。邪魔をしてはいけない。そう言い聞かせて、寂しい気持ちには蓋をする。

セドリックの重荷にはなりたくない。
セドリックが居ないと何もできない人間にはなりたくない。
セドリックが居ないと何もできないんだなんて思われたくない。

距離を置いたのは、自分のためだった。寂しいけれど、寂しいだけだ。セドリックが居なくたって、普通に学校生活が送れていると言う事実が、レイチェルの自尊心を支えてくれる。自分のためだ。セドリックを好きな女の子が傷つくから、だなんて取り繕う気はない。
レイチェルは博愛主義者ではないので、正直他人の色恋沙汰よりも自分の進路の方が大事だ。天秤にかけるまでもない。だから、今は第一に進路のことを考えなければならない。
しかし、その「他人の色恋沙汰」によってこうして実害がある以上、それについても無関心で居るわけにもいかない。エスカレートすれば、今度は故意に階段から落とされかねない。
どうにかして、彼女達の誤解を解く必要がある。自分はセドリックに恋をしているわけじゃない────少なくとも現時点でその自覚症状はない────し、セドリックだって同じだと。今後のことはレイチェルに聞かれても困る。占い学は受講していないし、トレローニー先生にでも聞いてほしい。
理解してもらわなけれならない。レイチェルとセドリックは、本当に、ただの幼馴染なのだと。そうでなければ、徹底抗戦の2択だ。だがしかし、今のレイチェルにはそのどちらに回すエネルギーも足りそうにない。
ああ、もう、本当に、頭が痛い。

「ハーマイオニー、あの……大丈夫?」

考えることがありすぎてパンクしそうだったが、身近にはレイチェル以上にパンクしそうな人物が居た。約束の時間よりも早く図書室についていたらしいハーマイオニーは、両脇に本の塔を作り、貪るようにしてそれを読みふけっている。その様子は何と言うか、鬼気迫るものがあった。

「今度は何について調べてるの?」

初めは、流石のハーマイオニーも12科目もの同時進行はキツいのだろうと思った。その課題の量たるや、OWL学年のレイチェルと比べても遜色ない。が、そうではないと気づいた。積まれた本の中には、明らかに3年生の学習内容とは無縁だろうものがちらほら混ざっている。

「何って、課題よ」

目線は羊皮紙へと釘づけのまま、ハーマイオニーがしれっと答える。
絶対嘘だ。『プレゼントに潜む危険~無機物に仕込む恐ろしい呪い~』『実録!魔法生物の裁判記録』 ────もしもこの2冊がレポートに必要な参考文献なのだとしたら、魔法省はこの2年の間に学習指導要領を変えすぎだ。

「まあ……言いたくないなら、無理には聞かないけど」

自分の現状を鑑みるに、一緒に調べる、なんて安請け合いはできない。だから、これはもはやただのおせっかいだ。わかっているから強く言えない。どうせまたハリー・ポッター関連の何かなんだろう。友達想いは彼女の長所だけれど、だからと言ってここまでのめり込むのはいかがなものか。

「ちゃんと寝てるの? 確かに勉強は大事だけど、それで体を壊しちゃ意味ないわ」
「それはレイチェルもでしょう? 顔色が悪いわ」

レイチェルはいいのだ。OWLやNEWTの学年でぐっすり眠って顔色がいい人なんてほとんど居ない。ちょっとくらいの体調不良で授業を休んでいたら取り戻すのに時間がかかる。それに、今日中に薬草学のレポートを書き終えないといけないのだ。
何か役立ちそうな本を探そうと、レイチェルは椅子から立ち上がった。

「……あれ?」

ぐらりと視界が揺れる。足がもつれて、レイチェルは手近な本棚へと手をついた。すぐに体制を立て直そうと思ったが、うまく力が入らず本棚へと体重を預けてしまう。
ひどい頭痛がする。立っていられなくなって、ずるずると床へと崩れ落ちた。

レイチェル!?」

ハーマイオニーの慌てた声に、大丈夫だと返事をしようとした。が、唇から漏れるのは浅い呼吸ばかりだ。図書室の空調がおかしいのだと思っていたが、この寒気はもしかして別の原因だろうか。
どうしてか、セドリックに名前を呼ばれた気がした。そうして、そこでレイチェルの意識はプツンと途切れた。

 

 

レイチェル。気がついた?」

目を開けた時、視界に入ったのは白い天井だった。
エリザベスが心配そうにレイチェルを覗きこんでいる。パメラがマダム・ポンフリーを呼んで来てくれて、高熱で倒れたのだと説明された。恐らくただの風邪だが、疲労と睡眠不足で体力が落ちているので普通より長引くと。

「全く、これだからOWLの学年は……!」

マダム・ポンフリーは不機嫌だった。レイチェルはこれ以上マダムの怒りに火を注がないよう、瓶ごと押し付けられた薬────苦くてどろっとしている────を粛々と口に含む。もしもマダムにこの寒さの中頭から水を被ってびしょ濡れになったなんて知れたら、自分は殺されるだろう。
マダムが出て行ったのを確認すると、エリザベスがひそひそと声を潜めた。

レイチェル……その……こんなことを言いたくはないんだけれど……貴方、明日から少し大変かもしれないわ」
「少しじゃないわよ!」

歯切れ悪く言葉を紡ぐエリザベスに、パメラが呆れたように言い放つ。レイチェルはそんな2人の言葉に首を傾げた。大変って、何がだろう。自分が意識を失っている間に、一体何があったと言うのか?

「図書室にたまたま居合わせたセドリックが貴方を運んだの……医務室に来るまでの間、大騒ぎだったみたい」
「それも、お姫様だっこでね!下級生は『セドリックったらかっこいい!私もあんな風にされたい!』ってうっとりだったし、セドリックのファンの子達は噛みつきそうな目でレイチェルのこと見てたわよ!」

ああ、どうやら、倒れる前にセドリックの声を聞いた気がしたのは幻聴じゃなかったらしい。それは安心だ。が────お姫様だっこだって? しかも、衆人環視の中で?レイチェルは頬が引きつるのを感じた。

「それで、ごめんなさいレイチェル。セドリックに、……最近様子がおかしかったけど、何か心当たりはないかって聞かれて、私、あのこと言ってしまったの」
「…………えっ?」
「真っ青になった後、すっごい迫力で怒ってたわよ。珍しいもの見ちゃった」

祈るように手を組んだエリザベスが、申し訳なさそうに眉を下げる。レイチェルは朦朧とする頭で考えた。あのこと、ってつまり、教科書を隠されたり、ペンケースを泥だらけにされたり、インク瓶をひっくり返されたりしたことを? セドリックに知られた?

「セドリックはクィディッチの練習に行かなきゃいけないみたいだったけど、それが終わったら来るんじゃない?」
「私達が居たら治療の邪魔でしょうし……今日は帰るわね」

そう言ってさっさと医務室を出て行こうとする親友達に、レイチェルは焦った。
待ってほしい。レイチェルも一緒に連れて帰って。そうじゃなきゃ、このまま一緒に居てほしい。今、この状況で、セドリックと2人で会いたくない。
が、咳が出てきたせいで言葉にならず、無慈悲にも医務室の扉が閉まる。
──── そうだ、寝てしまおう。眠ってしまえば、セドリックもわざわざ起こしてまで話をしようとはしないはずだ。レイチェルが布団を深く被り直したときだった。

レイチェル。起きてる?」

まさに今寝ようとしているところだ。
このまま狸寝入りをしてしまおうかと考えたが、結局それはできなかった。セドリックの声が、あまりにも深刻そうだったからだ。だから、返事をしてしまった。カーテンを引く音に視線を向ければ、やっぱり想像通り、沈痛な面持ちの幼馴染がそこに居た。
こうして顔を合わせるのは久しぶりなせいか、沈黙が何だか気まずい。

「パメラとエリザベスから聞いたよ。ごめん、レイチェル。僕のせいでそんなことになってるなんて気づかなくて……」
「いや……セドが気づかないようにやってるんだから、当然でしょ」

悲愴な表情で言うセドリックに、レイチェルは冷静に返す。
好きな男の子に自分が誰かに嫌がらせしていると知られたい女の子は居ない。気づかないのが当たり前で、セドリックが謝る必要なんてどこにもないのだ。しかし、セドリックはそうは思っていないらしい。

「ウィーズリーからも聞いたんだ。他にも酷いことされてたって……どうして、僕に言ってくれなかったんだい?」
「それは……」
「言いづらかったのはわかるよ。僕が気にすると思って、我慢してくれたんだろう。でも、こうやって、後から他人に聞かされるよりは、レイチェルの口から聞きたかった。……そもそも、どうして、ウィーズリーは知ってたの」
「あれは、たまたま……ってどうでもいいじゃない、そんなこと」

どうやらジョージはセドリックに喋ったらしい。内緒にしてって言ったのにと、わずかに怒りが湧いて来る。しかし、もしかしたらジョージも心配してくれていたのかもしれない。だとしたら、むしろお礼を言うべきだろうか?

「よくないよ。僕のせいなのに、僕だけが知らないなんて」

そんな思考は、セドリックの言葉によって引き戻された。見ているこっちが痛々しいくらいの悲痛な表情で、声はどこか悔しさが滲んでいた。知らない人が見たら、レイチェルの葬式でもあったのかと思うかもしれない。
どうしてセドリックはこうなんだろうな、とレイチェルは思った。セドリックの優しさは他人を癒やすのに、ときどきセドリック自身を傷つけてしまう。

「セドのせいなんかじゃないわ」

慰めや誤魔化しじゃなく、本心からの言葉だった。セドリックのせいじゃない。そんなはずはない。セドリックを好きな女の子がレイチェルに理不尽を働いたからと言って、どうしてそれがセドリックのせいになるのだろう?

「セドが私に水をかけろって言ったわけじゃないでしょ? それとも、何? 『こんなに女の子に好かれてごめん』って謝ってくれるの?」

冗談めかしてくすくす笑う。もちろん、そんなはずがないことはわかっていた。それじゃまるでロジャーみたいだ。
セドリックは本当に何も悪くない。どちらかと言えばむしろ、レイチェルが悪いのだろうと思う。セドリックが女の子達の憧れだと知っていたのに、周囲の目に無頓着すぎた。彼女達の怒りを煽ってしまったのは、きっとそれだ。どうして、あれがセドリックの隣に居るの、と。

「何だろうと、原因が僕なら謝りたいよ。本当にごめん、レイチェル

透き通ったガラス玉の瞳が、レイチェルを真っ直ぐに見つめる。その表情があまりに真剣だから、浮かべていたくすくす笑いが消えてしまう。また、気まずい沈黙が落ちる。
未だに表情を曇らせたままの幼馴染に、レイチェルは小さく溜息を吐いた。

「……セドは本当、お利口さんなんだから」

こんな風に知られるくらいなら、言うべきだったのだろうか。逆の立場なら、レイチェルも言ってほしかったと思うかもしれない。相談して欲しい、一人で抱えこまないでほしい。蚊帳の外にしないでほしい。
でも。

「大好きよ、セド」

ごめんね、と言うのは違う気がした。だって、レイチェルは自分の選択を後悔していないから。口先だけ、その場しのぎの謝罪なんて無意味だ。また似たようなことが起こったとしたら、レイチェルはきっと同じ選択をする。

「セドは私の自慢の幼馴染だわ」

セドリックが頼りにならないから、相談しなかったわけじゃない。
大事だから、言わなかった。優しい人だから。きっと傷つくから。そんな顔をさせてしまうのがわかっていたから、言いたくなかった。
レイチェルが口をつぐむだけで済むのなら、セドリックには何も知らず笑っていてほしかった。
自己犠牲なんかじゃない。ただの、レイチェルのエゴだ。

レイチェルだって僕の自慢だよ。僕だって、レイチェルが大好きだし、大事だ」

その言葉に、レイチェルは微笑んだ。セドリックも微かに微笑み返す。
白いカーテンが揺れる。真っ白に切り取られた世界に、2人きり。こうしていると、まるで5歳のあの頃に戻ったみたいだ。けれど、そんなのはレイチェルの都合のいい錯覚なのだろう。

『ねぇ、セディ、だーいすき』
『僕もレイチェルがだいすきだよ』

幼い日の会話が、胸をよぎる。
大好きで、大切で。それは、今だって同じなのに。
けれど、もう、あの頃とは違う。幼い日にあった2人だけの世界は壊れてしまった。レイチェルの手で、壊してしまった。セドリックはもうレイチェルだけの小さなセディじゃないし、レイチェルもあの頃のように純粋なお姫様じゃない。
だから、離れなければいけない。セドリックが居なくても、大丈夫なように。セドリックに手を引いてもらわなくても、歩けるように。大好きだから、大切だから。セドリックの重荷にはなりたくない。

もう、歩く速さが違うから。いつまでも、隣で手を繋いでは歩けない。

旅立ちの準備を

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