「ね、切符!切符買いましょ!」

地下鉄の駅って素敵だ。天井が低く、薄暗い空間は少し閉塞的な印象を与えるが、煤けたタイルが行儀よく敷き詰められた壁や床は、幾何学的で美しい。壁に貼ってあるポスターも、知らない地名が踊る案内標識も、レイチェルにとっては見慣れないものばかりだ。券売機を見つけてはしゃぐレイチェルに、セドリックは困ったように笑みを浮かべた。

レイチェル。買う前に、まずは行き先を調べないと」
「えーっと、今居るのががここでしょ? で、この……ボンド・ストリート駅って言うのに行けばいいのよね?」
「合ってると思う。だから……この、ジュビリー線に乗れって書いてあるよ」

レイチェルが路線図を見上げて考えていると、セドリックが手元のメモへと目を落としながら言う。もしかしたらセドリックと2人でイルミネーションを見に行くかもしれないと言ったレイチェルに、パメラがルートを考えてくれたのだ。ついでに見るべきポイントやレイチェル達が躓きそうなことも走り書きしてあるのがありがたい。
漏れ鍋をスタートして、まずはそのままチャリング・クロス・ストリートを南下してトラファルガー広場へ。ホグワーツの大広間にも入りきらないだろう巨大なもみの木は、優しいオレンジ色の光で彩られていた。パメラ曰く、ロンドンでツリーと行ったらこれなのだと言う。その通り、広場にはたくさんのマグルでにぎわい、聖歌隊のクリスマス・コーラスの美しい歌声が響いていた。
そうして今は、そのすぐ地下にあるチャリング・クロス駅へと来ていた。去年はパメラが切符を買ってくれたが、今年はレイチェル達だけでやらなけらばいけない。財布の中のコインをあれでもないこれでもないと言いながら機械に押し込んでいると、どうにか目的の切符を手に入れることができた。

「ね、セド。あそこに自……自動……販売機?がある!何か買っていい?」
「喉が渇いたの?」
「そう言うわけじゃないけど。せっかくだから使ってみたいんだもの」
「いいけど、あんまりあれこれ目移りして寄り道ばっかりしてると目的地まで辿りつけないよ……」
「うっ……わかってるわ」

セドリックには溜息を吐かれたが、結局レイチェルは2人分の飲み物を買うことにした。ガラスの向こうには、レイチェルの知らない色とりどりのマグルの飲み物が整然と並んでいる。授業で聞いてはいたけれど、本当にお金を入れてボタンを押しただけで機械の腕が伸びて来て、レイチェルの欲しい物を取ってくれるのもまた感動だった。ガラスよりもずっと薄い材質でてきたボトルは何だかぐにゃぐにゃしていて、指で押すと形が変わるのが面白い。これも、例のプラ……プラ何とかでできているのだろうか。
ホームのベンチに座って、それを飲む。何だか、今のレイチェルってすっごくマグルっぽい気がする。自然と頬が緩んでしまうので、引き締めるのに神経を使わなければいけなかった。

「あ、電車が来たよ」

壁一面に貼ってある広告を熱心に見ていると、電車が到着した。まだ全て見切れていなかったので名残惜しかったが、立ち上がってそれに乗り込む。クリスマス・イブだからか、車内には既に多くの乗客の姿があった。

レイチェル、座りなよ」
「ありがとう。あ、でも…」

1つしか空いていない席を指して、セドリックが言う。その言葉に甘えて空いてるスペースへと座ろうとしたレイチェルだったが、ぴたりと動きを止めた。不思議そうな顔をするセドリックに、周囲のマグルに聞かれないよう耳元へと囁く。

「あのね?『吊り革』につかまってみたい……」
「お願いだから、大人しく座ってて」

小さく溜息を吐くセドリックに、レイチェルはむっと眉を寄せた。だって、ホグワーツ特急には吊り革はないから珍しいのだ。けれど、こんなところで喧嘩をするのも馬鹿馬鹿しいし、何より今すべきなのはこの電車の中の光景を目に焼き付けることだ。
このためにしっかり予習もしてきた。これが吊り革。両側にあるドアは、停車する駅によってどちらか片方が開く。ドアの上の小さな掲示版には、変幻自在呪文みたいに、次の行き先が表示される。それも電気でどうにかなっているらしい。マグルってすごい。
興味深く車内を見渡していたレイチェルは、ふと、斜め向かいに座っている女の子達が、ちらちらとこちらを見ていることに気がついた。こちらをと言うか、正確にはセドリックを。自分達にどこかマグルらしくないところがあったのかと不安になったが、顔を寄せ合ってクスクス笑う様子にそうではないと気がついた。これは、ホグワーツでもよく見るアレだ。
──────やっぱり、セドリックってハンサムなんだなあ。
レイチェルは知らず、溜息を吐いた。正直、もう10年も見ている顔なので麻痺していると言うか────セドリックが人目を惹く容姿だと言うことを忘れそうになる。
セドリックは学年1位で、監督生で、クィディッチのシーカーでキャプテンで。それなのにちっとも驕ったところがなくて、誰にでも親切で。だから、ホグワーツではたくさんの女の子がセドリックに恋をしている。けれど、そんなこと知らないマグルの女の子から見ても、セドリックは素敵な男の子に映るのだろう。ただ、そこに居る、それだけで。
床へと落ちた視線を上げると、外が暗いせいか、窓硝子に車内の景色が映り込んでいた。レイチェルはじっとそこにあるセドリックの虚像を見る。すらりと背が高く、長い手足を持て余すようにして壁にもたれかかる姿は、もう青年と呼んでも違和感がないように思えた。ほんの数ヶ月前まではまだ、少年だったのに。丸みの削られた輪郭。少し癖のある黒髪。伏せた灰色の瞳。鼻筋が通っていて、唇は少し薄い。彫刻みたいに整った顔立ちは、黙っていると少し気難しげに見える。セドリックが微笑んでいることが多いのは、黙っていると怖いと言われたのを気にしているからだ。
ガラス越しに見る幼馴染の姿はいつもより大人びて見えて、見慣れているはずなのに、何だか知らない人みたいだと思った。

いつまで、こんな風に一緒に居られるんだろう。

2人で並んで授業を受けること。図書室で勉強すること。セドリックの部屋で、2人でチェスをすること。こんな風に、一緒に出掛けること。レイチェルにとってごく当たり前の日常は、周囲に言わせれば、「幼馴染」の距離感としては近すぎるらしい。兄妹でもない、恋人でもない。ただ、隣に住んでいるだけの女の子には、相応しくない。
彩度の落ちた鏡に映るレイチェルとセドリックは、ちっとも似ていない。少なくとも、兄妹には見えない。それならば、知らない人から見れば恋人同士に映るのだろうか?
今の距離感を貫くのは、きっとそう難しいことじゃない。周囲の声なんて、関係ないと突っぱねればいい。レイチェルとセドリックのことだ。他人の目にどう映ろうが知ったことじゃないと、笑えばいい。でも、レイチェルはそこまで強くなれない。周囲にどう思われるのか、気にしてしまう。自分がセドリックと居ることで傷つく女の子が居ると聞けば、後ろめたくなってしまう。
「幼馴染」のレイチェルじゃなければいいのだろうか。レイチェルとセドリックは血が繋がっていないから、今更どう足掻いたって本当の兄姉にはなれない。周囲に後ろ指差されずに今のままの関係を続けたいのなら、セドリックの恋人になるのしかないのだろうか。
もしも────。もしも、あの初恋が今でも続いていたら、こんな風に悩むことはなかったのだろうか。今でもレイチェルはセドリックだけを大切に想っていて、セディが好きだから離れないと胸を張って言えたのだろうか。
あの頃みたいに、もう一度セドリックを好きになれば────そして、セドリックもレイチェルを好きだと言ってくれれば────これからも、こんな風に一緒に居られるんだろうか。でも、やっぱりそんな未来は、今のレイチェルには想像がつかない。

 

 

『オックスフォード・ストリートへようこそ!』

暗い地下から這い出ると、頭上には電飾で象られた文字が輝き、行き交う人々を歓迎していた。300以上もの店が並ぶと言うこの巨大なショッピングストリートは、夜が更けてもたくさんの車が行き交い、買い物を楽しむ人々で混雑している。中には、外国から来たのだろうマグルの観光客の姿も多くあった。いかにもマグルの町らしい活気に溢れたその様子だけでレイチェルはわくわくしたが、お目当てのイルミネーションもまた素晴らしかった。
建物全体がキラキラ七色に光る、マグルのデパート。色とりどりにライトアップされたお店のロゴ。宙に浮かぶトナカイやサンタクロース。大きなリボン。プレゼントボックス。キャンディーケーン。そこかしこが電飾で作られたさまざまなモチーフで溢れ、通り全体がクリスマスツリーになってしまったようだ。それだけでなく、少し歩くたびに趣向を凝らしたショーウィンドウが並んでいるので、レイチェルは一体どこを見ればいいのかわからなくなりそうだった。去年カメラを持って来なかったことを後悔したので、今年こそと持って来たのだが、フィルムが足りるか心配だ。

「お嬢さん、若いのに随分旧式のカメラを使っているね」
「えっ? えっと……」
「その、彼女の祖父の物なんです。ね、レイチェル?」
「ええ……そうなんです」

レイチェルが夢中で周囲の風景を写真に撮っていると、不思議そうな表情をしたマグルの老紳士に話しかけられた。いきなりの出来事に驚いてまごついている間に、セドリックが愛想笑いをする。紳士は納得していた様子だったので、顔を見合わせてほっとした。確かに、マグルのカメラと比べると魔法界のカメラは古臭いデザインかもしれない。こんな些細なところから、マグルらしくなさが出てしまうのかと、2人して反省した。
賑やかなオックスフォード・ストリートを道なりに行くと、途中でボンド・ストリートに交差している。こちらもやはりショッピングストリートのようだったが、少し落ち着いた雰囲気で、どこか高級感が漂っていた。孔雀の羽を模した白いイルミネーションは、まるで天使の羽根のようだ。なんだかロマンチックだなあと、レイチェルは思わず溜息が出た。
更に進むと、リージェント・ストリートにぶつかった。こちらもまた、買い物に訪れた人々で活気に溢れている。丸々としたスノーマンが通りのあちこちに浮かんでいるのが可愛らしい。クリスマス・イブだからか、花火も上がっていた。途中、通りを外れてパメラおすすめのカーナビー・ストリートへも入ってみた。斬新な装飾で有名らしいが、リアルな人魚の尾が生えたサンタと言うのはどうなのだろうかとセドリックと首を捻ることになった。やっぱりサンタクロースにはトナカイの方がいいような気がする。
パメラが地図に印がつけてくれた通りはもちろん素敵だったが、それ以外にも個性豊かなイルミネーションがされた通りがたくさんあって────全ての通りが、と言ってもいいかもしれない────レイチェルはついついルートから外れてしまいそうになるのを我慢しなければならなかった。
何とか誘惑に耐えて大通りへと引き返し、ピカデリー・サーカス駅までやってくると、そこからはバス移動だ。チケットを買うのに少し手間取ったが、基本的には夜の騎士バスとそう変わらなかったのでわかりやすい。キラキラ光る車窓を15分ほど眺めていると、スローン・スクエアへと辿りついた。枯れ木にライトを巻きつけただけのシンプルな装飾だが、青一色で統一された空間は、辺りの静けさも相まって、そこだけが別世界のようだ。空気までもが青く染まり、淡く輝いているようで、とても幻想的だった。マグルの絵本で見た妖精の国って、きっとこんな感じに違いない。そろそろ行こうかとセドリックに促されなければ、レイチェルはきっと何時間でもそこに佇んでいただろう。
去年はここで終わりだったが、今年はまだ続きがある。
公演を出て通りをどんどん進んで行くと、突き当たるのはハイド・パークだ。何でも、マグルの間では有名な公園らしい。そこには何と、小さな遊園地が作られていた。パメラのメモによれば、クリスマスの時期だけ特別なのだと言う。マグルの子供達がはしゃいでいるスケート・リンクに、小さな観覧車。電気で動く観覧車に乗るのは勿論初めてだ。上から見下ろすとたくさんのマグルが行き交う様子がよく見えたし、遠くから見るとキラキラ光るイルミネーションは宝石みたいでわくわくした。
クリスマス・マーケットも出ていた。ゆっくり物色する時間がなかったので残念だが、色々なオーナメントや人形、おもちゃやキャンドルなんかが並んでいるのは見ているだけでも楽しい。たくさん歩いて疲れたのと、すっかり体が冷えてしまったので、レイチェル達はココアを買った。星型のマシュマロが浮かんだ甘いココアは、あたたかくてほっとする。
そして、レイチェルが何より素晴らしいと思ったのが、氷の城だった。
大きな氷を削りだしてできただろうそれは、柱も、階段も、レリーフも、小さな塔も、城の中に置いてある彫刻や椅子やテーブルの家具に至るまで、何もかもが氷でできていた。美しいだけでなく、とても精巧に作られていて、レイチェルはどうしてマグルは魔法なしにこんなものが作れるのかと感動するばかりだった。

レイチェル。そろそろ帰らないと」

何もかもが大満足だったので、流石のレイチェルもセドリックのその言葉に頷いた。興奮のあまり気にならなかったが、時計を見ればもうそろそろ真夜中に近い。今頃きっとおじさん達はものすごく心配しているに違いない。とりあえず出口に向かおうと、人混みを縫って歩き出す。

「ね、見て、セド。あそこ……」

サンタクロースが居る。前を行くセドリックにそう話しかけようとしたレイチェルは、ぱちりと瞬きをした。ついさっきまではそこにあったはずの背中が消えていた。
セドリックが居ない。

 

 

「セド……? どこ……?」

はぐれたのだと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
心臓がうるさく騒ぎ出すのを落ち着かせようと、レイチェルは一度深呼吸した。
セドリックだって、はぐれたことに気がつくはずだ。きっと、今頃レイチェルのことを探している。だから、レイチェルはここに居た方がいい。地図はセドリックが持っているし、下手に動くと本格的に迷子になる。
────大丈夫。だって、セドが居るもの。セドが、きっと見つけてくれる。
人混みを避けて、レイチェルは近くにあった木のベンチへと腰を下ろした。
大丈夫。大丈夫だと、レイチェルは自分に言い聞かせる。杖は持っているのだから、いざとなったらどこか通りに出て夜の騎士バスを拾えばいい。漏れ鍋まで戻れば、そこからは帰れるんだから。セドリックだって、レイチェルが見つからなければ一度戻るだろう。そこで合流できるかもしれないし、それが無理でもお互い家に戻れば落ち会える。
だから、大丈夫。レイチェルはもう、迷子になったからって泣いて待つしかできない、小さな女の子じゃないんだから。一人だって大丈夫。セドリックが居なくたって、大丈夫。大丈夫の、はずだ。

頭ではそう思うのに、どうしてこんなに心細いのだろう。

レイチェルは急に、自分が5歳の女の子に戻ってしまったような気がした。
いや、戻った、なんて────成長したと思い込んでいるのはレイチェルの傲慢で、そもそも本質はあの頃と大して変わってないのかもしれない。セドリックが居ないと嫌だと泣いていたあの頃の自分と、今の自分。一体どこが違うのだろう。15歳になっても、レイチェルはまだ、5歳の女の子みたいにセドリックに甘えてばかりだ。
セドリックは、あの頃と比べて変わった。外見が大人びたとか、ただそれだけじゃなくて。
アルファベットを覚えるのはレイチェルの方が早かったのに、学年1位になったのはセドリックだった。一緒におもちゃの箒に乗って遊んでいたのに、今では皆の憧れのシーカーだ。レイチェルの悪戯を諫めていたのが、本物の監督生になってしまった。レイチェルだけに向けていた優しさを、他の人にも向けるようになった。
レイチェルだけの小さな王子様だったセドリックは、今ではホグワーツの女の子達の憧れの王子様だ。
レイチェルが足踏みをしている間に、セドリックはどんどん大人になっていく。宝石みたいに磨かれて、眩しいくらいにきらきら輝いている。セドリックだけが、どんどん先に行ってしまう。レイチェルを置き去りにして。
すぐ隣に居るはずなのに、遠い人になっていく。あの頃と同じように手を繋いでも、何もかもがあの頃と同じじゃない。レイチェルはもうセドリックの小さなお姫様じゃないから、本物の王子様になってしまったセドリックには釣り合わない。

セドリックはもう小さな男の子じゃないから、いつまでもレイチェルの隣には居てくれない。

わかっている。仕方のないことだ。でも────でも、嫌だ。
セドリックと、まだ一緒に居たい。叶うならずっと、このままで居たい。
幼馴染じゃこのままは無理?おかしい?他人がおかしいと言うから、そうしなきゃいけないの?セドリックを好きな女の子が傷つくから、やめなきゃいけないの?セドリックを好きなたくさんの女の子が傷つかなくて済むなら、レイチェルの気持ちはどうでもいいの? レイチェルはセドリックと一緒に居たいのに、ただセドリックを好きだと言うだけの女の子のために、我慢しなきゃいけないの? あの子達はレイチェルをただの幼馴染だと言うけれど、そっちだって、別に恋人でもなんでもないのに?

────違う。本当に怖いのは、そんなことじゃない。

他人なら、どうだっていい。ホグワーツ中の女の子に嫌われたって、そんなの知らないとセドリックの隣に居ればいい。でも、セドリックは?
もしも、セドリックに言われたらどうしよう。好きな女の子ができたから、もうレイチェルとは一緒に居られないって。誤解されたくないから、もう今までみたいなことはやめようって。申し訳なさそうに眉を下げて、そう頼まれたら? セドリックに恋人ができて、その女の子に、もうセドリックに近寄らないでって言われたら?

「……て……で」

そうしたら、きっと、断れない。いや、そもそも断っていいはずがない。だって、それはかつてレイチェルがセドリックにしたことだ。
理想の王子様を見つけたから、王子様としてのセディはもういらない。そんな残酷を口にしたのは、幼い日のレイチェルだった。

「置いて行かないで」

先に手を離したのは、レイチェルだ。幼いセドリックの手を振り払って、約束を踏みにじった。2人きりの世界を、レイチェルが壊した。
レイチェルに、寂しいなんて言う資格はない。それなのに寂しい。
置いて行かないで。待ってて。ずっと側に居て。一人で大人にならないで。他の女の子の隣を歩かないで。側に居て。側に居て。側に居て。

レイチェル!」

慣れ親しんだ声が、レイチェルの名前を呼ぶ。俯いていた顔を上げれば、向こうから駆けてくる幼馴染の姿が視界に映る。たった────たったそれだけで、肺を満たしていた不安や心細さが、嘘みたいに溶けていく。

「よかった、見つけた。……泣いてるの?」
「……泣いて、ないわ」

必死になって探してくれたのだろう。セドリックは肩で息をしていて、額には汗が滲んでいた。驚いた顔をするセドリックに、レイチェルは憮然と呟く。泣きそうだけど、かろうじて泣いてない。首筋を這い上がる羞恥心に、レイチェルは乱暴に目元を袖で拭う。これじゃ本当に、5歳のあの頃と変わらない。

「小さな子供じゃないんだから、セドとはぐれたくらいで、泣くわけないじゃない」

強がりだなあと、セドリックが苦笑する。違うもん。違う。迷子になったから、心細くなったわけじゃない。知らない場所で一人になるのは確かに不安だけれど、そうじゃない。セドリックが遠くへ行ってしまった気がした。レイチェルの手が届かない、どこかへ。

「……セドは」

ぐずぐずと鼻を啜る。瞼の上に溜まった雫で、視界が滲んだ。
どうして、一人で先に行っちゃうの。どうして置いてきぼりにするの。馬鹿。セドの馬鹿。
身勝手な罵倒が、喉のところまでせり上がる。レイチェルはそれをぐっと飲み込んで、俯いた。

「セドは、私の見えない所に行っちゃダメ」

子供じみたわがままだ。自分でもわかっている。そんなこと、できるわけない。自分からお姫様で居られる権利を手放したくせに、未だにあの日と同じ独占欲を引きずっている。
雑踏にかき消されて届かなければいいと思った。けれど、セドリックには聞こえたらしい。整った顔は、困ったように微笑んだ。

「迷子になったのは、レイチェルの方じゃないか」

はぐれそうになったら、セドリックが手をつないでくれる。レイチェルが一人駆けだしても、セドリックが後ろをついてきてくれる。迷子になったら、セドが探してくれる。
今まではいつも、そうだった。それが当たり前だと思って、甘えていた。でも、この先は?

「ほら、行こう、レイチェル。帰ろう」

セドリックが、手を差し出す姿に、幼い日の光景が重なる。
しょうがないなと言いたげにレイチェルを見つめるグレーの瞳も、手のひらの温度も変わらない。けれど、その表情はかつてよりもずっと大人びて、手はレイチェルよりも大きくなった。
帰る場所はいつだって、セドリックの隣だった。仲違いしていたときでさえ、庭の垣根からオッタリー・セント・キャッチポールへと抜け出すレイチェルを迎えにきてくれた。ダイアゴン横丁でもみくちゃにされたときは、レイチェルの手を引いて歩いてくれた。いつだって、振り返ればそこに居てくれた。それはずっと変わらないような気がしていた。この先も、ずっと。

でも、そうじゃない。

いつか、セドリックがこの手を他の女の子に差し出す日が来る。
そして、その日はきっとそう遠くない。だって、セドリックを好きな女の子はたくさん居る。セドリックがその中の誰か1人を選んだら、レイチェルの居場所はその子の物になってしまう。セドリックだってもう16歳だ。もしかしたら、レイチェルが知らないだけで、気になっている女の子の1人や2人居るかもしれない。恋が実を結ぶのに、そう時間はかからないだろう。だって、セドリックを好きにならない女の子なんて、居るはずがないから。
この関係は永遠には続かない。わかっている。いつまでも一緒には居られない。いつか、変わる日が来る。わかっていた。わかっていた、けれど。

その「いつか」は────レイチェルが思うよりも、ずっと近いのかもしれない。

君は宝石

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