白く曇った硝子の向こうには、オッタリー・セント・キャッチポールが見える。
綿帽子を被った小さな教会の塔。大きな樫の木。雪遊びしたストーツヘッド・ヒル。窓から見下ろす景色はいつだって変わらないのに、そこにあの日のセドリックとレイチェルの姿はない。
幼いレイチェルは、セドリックとの約束を永遠だと思っていた。この先ずっと、自分はセドリックのことが世界で1番大好きで、セドリックだけを見ているのだろうと────そんな風に思っていた。
けれど、そんな永遠は存在しなかった。少なくとも、セドリックとレイチェルの間には。
だから、この先絶対にセドリックを好きにならないなんて、レイチェルには誓えない。永遠だと信じていた初恋が砕け散ったのならば、またその欠片を拾って繋ぎ合せる日が来るかもしれない。そんな日はたぶん来ないと今のレイチェルは思うが、5歳のレイチェルだってまさか自分がセドリック以外の王子様を見つけるなんて思っていやしなかった。
レイチェルは今のセドリックとの関係が気に入っている。しっくり来ると言うか、落ち着くと言うか。家族のようでもあり、友人のようでもあり、近すぎることも、遠すぎることもないと感じていた。けれどこれも、永遠に続きはしないのだ。近づいていくのか、離れて行くのかはわからないけれど。
ジョージの言う通り、彼女達は近づくことを恐れていて────だから、レイチェルをセドリックから遠ざけたいのだろう。
「レイチェル。そろそろお昼ごはんにしようって、母さんが呼んでる」
ドアから入って来たセドリックの姿に、レイチェルは手を止めた。
これ以上彼女達の不興を買いたくないのならば、セドリックとは距離を置くべきなのだろうと思う。けれど、それについては、やっぱりなかなか難しいことに思えた。
だって、どうしたってセドリックとの接点はなくせないのだ。レイチェルがどこか遠くへ引越せば話は別かもしれないが、少なくともこうやって隣に住んでいる限りは。
「おばさんはまだ仕事?」
「そう。皆でクリスマスディナーを食べられるようにって、必死。だから私が代わりに、ママのクリスマスカードの整理をしてたってわけ」
テーブルの上に山と積まれたカードは、母親のファンからのものだ。毎年カードを贈ってくる人達には、こちらからも既にカードを贈っている。けれど、今年初めての人達には新しくカードを書かなければいけない。右側の山が初めての人から、左側の山が常連から。レイチェルは、左の山へと寄り分けた1番上のカードを手に取った。
「この人ね、毎年ママにクリスマスカードを送って来るのよ。デビューした時から、ずーっと」
「デビューした時から? それは……熱心なファンなんだね」
「そう。ママにとって、1番大切なファンね」
母親にとって、特別なファン。それだけじゃない。レイチェルにとっても、このファンレターの主は特別だった。
今だから言えること。レイチェルは昔、母親の小説が嫌いだった。いや、正確には母親が小説家であることが嫌だった。だって、いつだって書斎にこもりきりで、小説の執筆に明けくれてばかりだから。パーティーの時のママはお化粧をして綺麗なドレスを着ていて、そんなママしか知らないファンの貴婦人たちは「あんなお母様で自慢でしょう」と口にする。「どこが!?」とレイチェルは叫びたかった。ママが素敵なのはパーティーの時だけで、おうちに居るときのママは全然違う。レイチェルがドアを開けても、羊皮紙にかじりついている。お料理もお掃除も、全部家政婦まかせ。お隣のセドリックのママの方はずっと素敵だ。セドリックのママはいつもニコニコしているのに、ママは難しい顔で机に向かって唸るばっかり。ちっともレイチェルを構ってくれない。こんな人が、世界でたった一人きりの自分のママだなんて!
そんなに苦しいならやめちゃえばいいのに。ママはレイチェルより羊皮紙と羽根ペンとの方が長く過ごしてる。きっとレイチェルより、紙の上の登場人物たちの方が大事なんだ。
子供のレイチェルの目から見ても、母親がお金や生活のため────つまり、「レイチェルを育てるために仕方なく」小説を書いているわけじゃないことは薄っすらと感じていた。母親が大叔父から譲り受けたと言う家はレイチェルと母親が2人きりで住むには広すぎるほどだし、グリンゴッツの金庫は扉を開ける度金貨がザラザラ音を立てて雪崩を起こす。ママが小説を書くのは「レイチェルのため」じゃなく「ファンのため」だ。もしかしたら本当はレイチェルのことなんて、好きじゃないのかもしれない。
ワアワア声を上げて泣けばよかったのかもしれない。そうしたら、きっと母親もレイチェルの不満に気づいてくれただろう。たとえほんの少しの間だとしても、レイチェルと過ごす時間を捻出してくれたかもしれない。けれど、意地やプライドや不安や────色々なものが邪魔をしてできなかった。おじさんやおばさんにわがままだと叱られたらどうしようと思ったし、本当にママに嫌われていたらそれは無意味なんじゃないかと思った。結果、レイチェルはただ鬱々と不満を溜めて行くばかりだった。
ママなんてどうでもいい。セドリックもおじさんもおばさんも居るから寂しくないもん。ママなんか知らない。おやすみのキスはおじさんやおばさんがしてくれるから、ママは羊皮紙とキスしてればいい。
クリスマスと誕生日にしか帰って来ない父親は、そんなレイチェルの心中に薄々気がついたらしい。いや、もしかしたら気づいたのはおじさんやおばさんで、父親はそれを聞いただかかもしれない。まあ今となってはどうでもいいことで、とにかく、父親はレイチェルに1通のファンレターを見せてくれた。母親が小説家になって最初にもらった、1番大切にしている手紙。ムーニーと名乗るその人の手紙は、レイチェルの知っている母親への普通のファンレターとは少し違っていた。
「この人ね、人狼なの」
「人……って、あの人狼? 本当に?」
「うん」
驚いた表情をするセドリックに、レイチェルは頷いた。
幼いレイチェルにはまだ難しかったのと、母親への反抗心もあって読んだことがなかったが、母親のデビュー作は、人狼が主人公の物語だった。ごくごく普通の一人の魔法使いが、ある夜を境に人狼に噛まれ、自らも人狼になってしまう。忌み嫌っていた化け物になることへの、苦悩と絶望。そして、自らも誰かを噛んでしまうのではないかと言う、恐怖。
『初めて手紙を書くあなたにこんなことを打ち明けるのは不思議な気がしますが、僕も人狼です。昔はどこにでも居る普通の子供だったけれど、ある日を境に満月の夜は化け物になってしまうようになりました。あなたの小説を読んで、まるで自分のことが書かれているようで胸が締め付けられました。あなたのような、ごく普通の魔女が、あの悪夢や絶望を理解してくれたことがとても嬉しい。ありがとう』
何十回と読み返したのか、羊皮紙はだいぶ古ぼけていて、インクも少し褪せていた。華やかなレースの便箋でもないし、花の香りもしない。キラキラ光る金色のインクでもない。けれど、目が離せなかった。食い入るように手紙を読みふけっていたレイチェルを抱き上げて、父親は言った。
「ママは確かに、普通のママみたいに構ってくれないね。パパもなかなかおうちには帰って来れなくて、レイチェルには寂しい思いをさせてしまっている。パパもママも、本当に申し訳ないと思っているよ。でもね、レイチェル。ママのお仕事は、たくさんの人を幸せにできるんだ。そしてそれは、ママにしかできない。たくさんの人が、ママの小説を待ってる。とても素晴らしいことなんだよ。だからどうか、ママのお仕事も、ママの小説も、嫌いにならないでほしい。寂しいときは甘えていいし、わがまま言って困らせたっていいんだ。我慢せずに、ママの馬鹿って怒ってやればいい。だってママは、レイチェルのママなんだから。世界で一番、レイチェルを愛してるんだよ。勿論、パパもね」
それからだ。母親の小説は、ただの有閑な貴婦人達の娯楽ではないのだと思えるようになったのは。自分の母親の小説はたくさんの人に幸せにできるのだと、立派な仕事だと、誇らしく思えるようになったのは。きっと、この先も会うことなんてないだろうが────もし会える機会があれば、レイチェルはこのファンレターの主にお礼が言いたい。こちらこそ、ありがとうと。
「ねえママ、わかってるだろうけど、夜はクリスマスディナーだからね。おばさんも私も楽しみにしてるんだから、ちゃんと顔出してよね」
おばさんが用意してくれたサンドイッチを母親の部屋の前に置き、ドアをノックする。扉の向こうから覇気のない返事が返ってきたのに苦笑して、セドリックと共に昼食へと向かった。
結局、母親は夕食の30分前になってふらふらと部屋から出てきた。今年もディゴリー家のリビングには色とりどりのクーゲルが吊り下げられた大きなクリスマスツリーがそびえ立ち、壁には所狭しとリースが飾られている。暖炉の上に置かれたサンタ帽を被ったテディベアがクリスマス・キャロルを歌っている。カーペットの上には温かな魔法の雪が積もり、その上には小さな星屑が散りばめられてキラキラと光っていた。拡大呪文でいつもより大きくしたダイニングテーブルの上には、おばさんが腕によりをかけた料理が所狭しと並んでいる。こんがり焼き上げたバゲットの添えられたフレンチ・オニオン・スープ、ローストビーフやエビとスモークサーモンのカナッペ、ロブスターとマッシュルームのサラダ、バターたっぷりのロースト・ポテト。彩り豊かなパプリカとズッキーニ、ナスのラタトゥイユに赤ワインでじっくり煮込んだスペアリブ。デザートはもちろんクリスマス・プディングにガラスボウルに盛られたベリーたっぷりのトライフル。今年はレイチェルの父親も帰って来たので総勢6人、賑やかな食卓だ。父親のルーマニアでのドラゴンの育成や、エイモスおじさんが立ち会ったマンティコアの裁判の話、そしてレイチェル達のホグワーツでの出来事など、久々の団らんは和やかだった。
「OWLの勉強はどんな調子だ?」
ホグワーツの話題となれば、5年生のレイチェル達にとって避けられないのがこれだ。レイチェルは思わず眉を寄せた。おじさん達にしてみれば気になるのだろうが、クリスマスディナーの間くらい忘れていたいのに。せっかくのおいしい食事なのに、味がしなくなりそうだ。
「うーん……それなりかな……」
「課題がものすっっっごく多いわ。片付けるだけで精一杯」
正直、日々の課題と格闘するだけで精一杯で、OWL対策にまで手が回っていない。そろそろ過去問を解いたり、昨年までの復習をしたりしなければいけないと、思ってはいるのだけれど。思うだけで、行動が伴わない。渋い表情になったレイチェルに気づいたのか、おばさんがニッコリした。
「セドもレイチェルも、成績は問題ないもの。いつもの2人の調子を出せれば、大丈夫よ」
そう信じたい。レイチェルは甘酸っぱいラズベリーを咀嚼して、デザートのトライフルを味わうことに集中した。カスタードクリームの甘さが、ふんわりと口の中で溶けていく。とっても美味しい。やっぱりおばさんのデザートは絶品だ。
「2人とも、進路はどうするんだ?」
──────出た。トライフルを堪能していたレイチェルは、うっかりデザートのスプーンを喉に詰まらせそうになった。まあ、次にちゃんと顔を合わせられるのは進路相談の後なのだから、たぶんこの話題になるだろうと思ってはいたけれど。もしかして、父親が帰って来たのもこのためだろうか。レイチェルはちらりとセドリックと目配せをした。
「まだ、考え中かな……」
「同じく……」
セドリックが困ったように眉を下げ、レイチェルも曖昧に笑みを浮かべる。そろそろ考えなければいけないとは思っている。進路相談はイースター休暇だけれど、クリスマス休暇が明けてしまえばあっと言う間だ。そんなに悠長に構えてられる時間はない。
「魔法省はどうだ? 」
子供達の気分が滅入っているのに気が付かないのか、おじさんはうきうきと張り切った様子で言葉を続けた。どうやら、これで終わりにはできないらしい。キラキラと瞳を輝かせるおじさんだけじゃなく、両親までもレイチェルの言葉を待っている空気に気が付いて、レイチェルは一瞬怯みそうになったが、考え考え言葉を紡いだ。
「私は……マグル関係の仕事がしたいなって思ってるけど……」
「マグル関係となると、マグル対策口実委員会やマグル連絡室か? それともマグル製品不正使用取締局…… あそこは魔法省の中でもちょっと特殊だが……」
「……どんな仕事なの?」
「何もなければ平和な部署さ。魔法をかけたマグル製品が、マグルの社会に流れるとまずいことになるから、その前に摘発する。例のあの人が活動していた頃は忙しかったが、最近ではそんなことをするのは胡散臭い連中くらいだから、随分部署も縮小されたな。友人のアーサーが勤めているから、話が聞きたいなら会ってみればいい」
「焦ることないわ。セドもレイチェルも、まだ15歳だもの。なろうと思えば何にだってなれるのよ」
そう言っておばさんが優しく微笑む。
そうだろうか、とレイチェルは眉を寄せた。ちらりとセドリックを見る。確かにおばさんの言う通り、セドリックなら何だってなりたいものになれるだろう。クィディッチ選手にだって、魔法省の官僚にだって、だって、何だって。セドリックの成績と人柄なら、引く手あまただ。
じゃあ、レイチェルは────? レイチェルは、どんな職業に向いているのだろう。一体何ができるだろう? レイチェルの能力を必要としてくれるのは、どんな仕事なのだろう?
何だか段々と憂鬱になってきたので、レイチェルはそれを払うように首を振った。せっかくのクリスマスなのだ。落ち込んだりするのはまた今度でいい。
「ねえ、それよりおじさん。あの件については、考えてくれた?」
話題を変えようと、レイチェルはできるだけ明るい声を出した。そうしてにっこり笑ってみせると、おじさんはぎくっとした表情になった。何の話かわからないらしい両親がきょとんとしているが、レイチェルは構わず話を続けた。
「レイチェル。手紙にも書いたが、あれは……」
「あのときは、いいよって言ってくれたじゃない。あれは嘘だったの? その場しのぎの出まかせ?」
「そ、そんなことは……」
「私、ずっと楽しみにしてたのに、ひどい……」
悲しげに眉を寄せて俯く。両手で顔を覆って肩を震わせてみせると、おじさんは焦ったように声を上げた。
「わかった!わかった……せっかくのクリスマスだ、行って来るといい!……ただし、セドも一緒だぞ」
「本当!?ありがとう、おじさん!大好きよ! ね、セド、行きましょ!」
────やった。ぱっと顔を上げて、レイチェルはにっこりした。
「あの件」とは、去年同様、マグルの町のイルミネーションを見に行くことだ。夏休みにホームステイが中止になって塞ぎこんでいたレイチェルに、おじさんは今年も行けばいいじゃないかと提案してくれたのだった。おじさんとしてはまた誰かマグル生まれの友人の案内で、と考えていたのだろう、ところが、レイチェルのマグル生まれの友人達は皆────パメラはドイツに行ってるし、ペネロピーも旅行だし、ハーマイオニーは学校に残っているし────付き添えないことがわかったせいで、反対されていた。しかしこれで無事に許可が出た。軽い足取りでリビングを出たレイチェルに、セドリックは呆れ顔だった。
「レイチェル。さっきの、嘘泣きだろう」
「もちろんそうよ。でも、おじさんだってきっとそんなのわかってたわ」
「本当に、父さんはレイチェルに甘い……」
深く溜息を吐くセドリックに、レイチェルはむっと眉を寄せる。そもそも最初に行っていいと言ったのはおじさんで、レイチェルはそれを覆されそうになったのだから────まあ、心配してくれているのはわかるけれど────レイチェルがわがままを押し通したような言い草は心外だ。
「セドだって行きたかったでしょ? 私のおかげで一緒に行けるんだから、感謝してほしいくらいだわ」
「それは……そうだけど……でも、父さんの言うこともわかるよ。僕らだけじゃ、心配する」
「そのおじさんは『いい』って言ったのよ。何も問題ないじゃない。じゃあ、15分後にね」
おじさんの気が変わらないうちに、さっさと出掛けてしまおう。何か言いたげなセドリックを残して、レイチェルは暖かい服装に着替えるためにその場を離れた。1年ぶりにマグルの町に行けると考えると、自然と頬が緩む。今だけはOWLも進路のことも忘れてしまおう。
大人になると言うことは憂鬱だけれど────悪いことばかりじゃない。だって、15歳になったからこそ、レイチェルはこうしてマグルの町に行かせてもらえる。
変化は必ずしも、悪いことばかりではないのだ。