フィールドに誰もいなくなっても、観客席はまだざわついていた。が、そのうち1人、また1人と城へ戻り始めた。
クィディッチの試合の後と言うのに、奇妙なくらい皆落ち着いていた。いや、落ち着いていたと言うよりは、事態がいまひとつ飲み込めず、困惑していたと言った方がいいかもしれない。勝利したはずのハッフルパフの生徒達すら、勝利に熱狂するでもなく、どこか心ここにあらずと言う風に見えた。とは言え、きっと寮に戻って体が温まれば、楽しいお祭り騒ぎになるに違いない。

「私達も戻りましょう。すっかり冷え切ってしまっているわ」
「賛成よ!あったかいココアでも飲みましょ!マシュマロも浮かべてね!」

試合は終わってしまったのだ。いつまでも競技場に立ち尽くしていても仕方ない。エリザベスの言葉に、レイチェル達も寮に戻ろうと人の流れに紛れて歩き出す。バシャリと跳ねた水溜りから靴の中にまで水が入って来る。寒気がして、レイチェルは小さくくしゃみをした。

「ココアもいいけど、その前に着替えるのが先みたい」

レイチェルは濡れて皮膚に貼りついている袖をつまんで溜息を吐いた。傘は差していたけれど、雨が斜めに降っていたせいで、服どころか髪までびしょびしょだ。今しがた湖に潜って来たのだと言っても、誰も疑わないだろう。ぶるりと体が震える。とは言え、この寒さはただ単に雨や風のせいではないように思えた。

「比較的ディメンターとは距離があった私達さえこれですもの。選手は大丈夫かしら?」

エリザベスは不安顔だ。その言葉に、レイチェルも心配になった。セドリックやアンジェリーナやアリシアやウッドやフレッドとあんな数の吸魂鬼が側に居たのだ。そして何より、箒から落ちたハリー・ポッターは無事なのだろうか?

「あ」

せめて濡れてしまった杖だけでも拭こうとポケットを探ったレイチェルは、そこにあるはずのハンカチがないことに気がついた。さっき試合前に双眼鏡のレンズを拭いたのは覚えている。と言うことは、観客席に忘れたか、ここまでの道のりで落としたのだ。

「ハンカチ忘れちゃったみたい。取って来るわ」
「一緒に行きましょうか?」
「大丈夫!先に戻ってて!」

お気に入りのハンカチなのでこのままなくすのは避けたい。が、エリザベスやパメラにこのまま付き合わせて2人に風邪を引かせてしまうのはあまりにも申し訳ない。曲がり角で2人に手を振って、レイチェルは来た道を引き返すことにした。人波を縫うようにして、急ぎ足で廊下を進んで行くと、レイチェルは前方に見知った後ろ姿を見つけた。

「セド?」

やっぱりそうだ。カナリアイエローの競技用ローブを着た背の高い後ろ姿は、幼馴染のセドリックだった。どことなく元気のない足取りで前を歩いていたセドリックは、レイチェルの呼び掛けに気づいて、ゆっくりと振り向いた。

「うわ、びしょびしょね。早く寮に戻って着替えなきゃ風邪引いちゃうわよ」

人のことを言えた義理ではないが、近寄ってみるとセドリックはレイチェルより輪をかけてびしょ濡れだった。髪からもローブの裾からも、あらゆるところから雫が滴っている。レイチェルが眉を寄せると、セドリックは苦笑してみせた。

「選手は全員医務室に呼ばれたんだよ。それでマダム・ポンフリーがこれをくれた、何ともないって言ったんだけど」

セドリックはそう言って、手に持っていた板チョコを見せた。なるほど、吸魂鬼の影響を考えてのことらしい。流石はマダム・ポンフリーだ。そして今こうして医務室から出してもらえたと言うことは、本人も言う通りセドリックは何ともないのだろう。

「医務室って言えば、ハリー・ポッター……大丈夫なの?」
「どこにも怪我はないよ。流石ダンブルドアだ」
「そう。よかった」

レイチェルはほっと胸を撫で下ろした。いくらダンブルドアが衝撃を緩和したと言っても、あれだけの高さから落ちて、怪我がないと言うのは奇跡に近い。やっぱりハリー・ポッターはつくづく強運な少年らしい。とは言え、そもそも箒から落ちるのが災難なので本当に強運なのかは疑わしいところだが。まあ何にしろ、怪我がないのは喜ばしいことだ。

「……あ、そうだわ。ハッフルパフ、勝ったんだものね。おめでとう。ごめんなさい、最初に言うべきだったわ」
「あ……うん。ありがとう」

レイチェルはそこで、自分がすっかり祝福の言葉を忘れていたことに気がついた。スニッチを捕まえた瞬間を見逃してしまったせいで実感が湧かないし、残念だったが、ともかく今日の試合はハッフルパフが勝った。幼馴染の活躍は素直に嬉しいことだ。レイチェルがニッコリすると、セドリックも笑い返した。けれど、それはいつもの穏やかな笑顔ではなく、どこか力のない笑い方だった。

「どうしたの、セド?」

レイチェルには、さっき呼び止めた時から何となくセドリックの様子がおかしいように見えた。顔色がすっかり青ざめているのは、寒さと吸魂鬼のせいで仕方がないかもしれない。この寒さでは元気溌剌と言う訳にもいかないだろう。けれどそれを差し引いても、セドリックの表情は勝利の喜びとはかけ離れているように思えた。

「何だか、あんまり嬉しくなさそうに見えるけど……」
「うん……そうだね。実を言うと、あんまり嬉しくないんだ」
「どうして?」

嬉しくない。セドリックがそんな風に言う理由が、レイチェルにはわからなかった。
急な変更で、あれほどハッフルパフが言われていた試合。しかも相手は一昨年に大敗したグリフィンドール。その相手に、勝ったのだ。それなのに嬉しくないなんて、どうしてだろう? レイチェルが首を傾げると、セドリックは眉を下げて視線を落とした。

「勝ちはしたよ。けど、フェアじゃない試合だった。やり直すべきだって……フーチ先生にもそう言ったんだけど……聞き入れてもらえなかった。やり直す理由はないって」

セドリックが淡々と呟いた。どこか、感情のこもってない声だった。どうやら、レイチェルの見ていなかった、試合の終盤に原因があるらしい。レイチェルはあのとき、何が起こっていたのか知らない。吸魂鬼に気を取られて、気がつけば何もかも終わってしまっていた。

「僕がスニッチを捕るべきじゃなかったんだ」

人気のない廊下には、小さな呟きでも不気味なくらい反響する。窓の外の雨音。衣擦れの音ひとつさえも。透き通った灰色の瞳が、悲しみで曇っているのがわかった。伏せた睫毛が震えて、雫が落ちる。石の床へと吸い込まれて、薄く滲んだ。

「ディメンターが来なかったら、きっとハッフルパフは負けてた」
「そんなこと……」
「僕があの時、ちゃんと周りを見て……試合を中断してたら……」

もしも、吸魂鬼が競技場に来なかったら。もしも、セドリックがスニッチを取っていなかったら─────そうしたら、どうなっただろう。セドリックの言う通り、試合は中断されて、また後日仕切り直しになったかもしれない。レイチェルもあの時、そうなるのだろうなと思った。そうなったら、きっとまた、今日とは違う試合展開になっただろう。それは確かだ。けれど。

「セドは何も悪くないじゃない」

だからと言って、そんな風にセドリックが自分を責める必要なんてない。
謙虚なのはセドリックの美徳だ。いつだって人に対する思いやりがあって、親切で、自分よりも周りを気遣ってばかりいる。フェアプレー精神も素晴らしいことだと思う。けれど、そのせいで自分を傷つけるのならば、それは間違っている。少なくともレイチェルはそう思う。

「フェアじゃないって……ディメンターの影響を受けたのはセドだって同じでしょ?だから、そんな風に後ろ向きなことばっかり言うのよ」

セドリックだって、ハリー・ポッターと同じようにフィールドに居た。あの恐ろしい吸魂鬼に囲まれていた。それでも、セドリックはその手にスニッチを掴んだ。恐怖に屈しなかった。大人の魔法使いだって怯える吸魂鬼を前にしても、シーカーとして、キャプテンとしての責務を全うした。それは恥じることではない。誇っていいことだ。

「それに、忘れてない?ディメンターが来る前に、スニッチに近かったのはセドの方よ」

例えハリー・ポッターが箒から落ちなかったにしたって、あのままならセドリックがきっとスニッチを掴んでいた。ハリー・ポッターは確かに素晴らしいシーカーだけれど、セドリックだって同じくらい優秀なシーカーだ。誰が何と言おうと、レイチェルはそう信じている。
レイチェルは真っ直ぐにセドリックの目を見て、そう言った。けれど、セドリックの表情は晴れない。

「じゃあ、逆に聞くわ。一体何が卑怯なの?」

セドリックが後悔している理由はわかった。勝利に対する後ろめたさも、何となくわかる気がする。だからと言って、自分はハリー・ポッターを出し抜いたとか、アンフェアなプレーをして勝ったなんて考えているのならそれは絶対に違う。セドリックの性格上、そんなことできっこないのだ。

「ハリー・ポッターが落っこちたって知ってたの?」
「……ううん」
「それとも吸魂鬼が来るって知ってた?知ってたから、事前に心の準備ができてた?」
「……ううん」
「じゃあ、やっぱりセドはちゃんとフェアプレーをしたのよ」

レイチェルはあの試合の最後に何が起きていたのかなんて知らない。セドリックが何を見て、何を考えていたのかなんて知らない。けれど、これだけは言える。セドリックはきっと、ハリー・ポッターが落ちたことなんて知らなかった。ただ、目の前のスニッチだけを見ていた。夢中で追いかけていた。そうして、勝利を掴んだ。卑怯なことなんて、何もしていない。

「暗い顔してる場合じゃないでしょ?今頃ハッフルパフ生はパーティーの準備で大忙しなんじゃないの?主役がそんなんじゃせっかくの楽しい気分が盛り下がっちゃうじゃない」
「うん……」

だから元気を出すべきだとレイチェル言うと、セドリックは微かに微笑んだ。けれど、どうやらまだ納得しきれてはいないらしい。浮かない表情のセドリックに、レイチェルは小さく溜息を吐いて、その頬へと手を伸ばした。

「ちょ、やめ……ひゃめへレイチェル
「ほら。笑って」

セドリックの頬をつまんで、無理矢理引き上げる。勿論痛くないよう、加減はしているが。
慌てるセドリックの様子に、レイチェルはぱっと手を放す。セドリックは困惑した顔でレイチェルを見返していたが、ふいに強張っていた表情がふっと緩んだ。

「そうだね。せっかくずっと最下位だったハッフルパフが首位に立てたんだ……今は、喜ばなきゃだね」
「そうよ。納得できない試合だったなら、次こそ満足できる試合にすればいいじゃない」
「うん。ありがとう、レイチェル

ようやくいつもの穏やかな笑みが浮かんだので、レイチェルも微笑んだ。
ほっとして、肩の力が抜ける。ぽすんとセドリックの肩に頭を預けた。肩に触れた額から、セドリックの体温が伝わって来る。あたたかい。ひどく安心した。

「……セドが箒から落ちなくてよかった」
「うん」

小さな子をあやすようにレイチェルの背中を叩く。
今日箒から落ちたのは、ハリー・ポッター1人だった。けれど、他の選手だって、落ちたっておかしくなかった。セドリックだって、落ちていたかもしれなかった。ハリー・ポッターに怪我がなくてよかった。誰も怪我がなくてよかった。そのことは、勝敗なんかよりずっと大切なことに思えた。

 

 

 

セドリックと別れて、レイチェルは今度こそ競技場へと向かった。
ハンカチはすぐに見つかった。やっぱり観客席の下に落ちていた。びしょ濡れになっていはいたが、誰かに踏まれたりはしていないようだ。これなら洗って乾かせばまた使えるだろう。
拾い上げて、立ち上がって────そこでレイチェルは、視界の端に、自分以外の誰かが居ることに気がついた。観客席の最前列に、傘も差さずに座り込んでいる。気になって近寄ってみると、レイチェルはその人物が知り合いに似ていることに気がついた。

「……オリバー?」

もしかしてと、躊躇いがちに名前を呼ぶ。けれど、相手は身じろぎひとつすることなく、ただ座っていた。雨音でかき消されて届かなかったのだろう。パシャパシャと音を立てて、さらに距離を詰めていく。遠くからではわからなかったが、真紅の競技用ローブは、やっぱりウッドだ。

「オリバー」

今度はさっきより少し大きな声で名前を呼ぶ。けれどやっぱり、ウッドは耳に入っていないらしかった。ただじっと、誰も居ない競技場を見つめているだけだ。いや、もしかしたら、目の前の光景すらも、彼の瞳には映っていないのかもしれない。
そっとしておくべきかと逡巡したが、濡れて色を濃くしたローブが寒そうだった。このままでは、風邪を引いてしまうと思った。だから────だから、放っておけなくて。レイチェルは、腕を伸ばして、自分の傘をウッドに傾けた。降りかかる雨粒が途切れたことに気がついたのか、ウッドがゆっくりと振り向く。

「……レイチェルか」

掠れた声で名前を呼ばれて、どきりとした。向けられる瞳からは、いつもの少年のような輝きは消えていて、どこか虚ろだった。レイチェルは、こんなウッドを見たことがなかった。まるで知らない人みたいだと思った。手を伸ばせば触れられるほどの距離なのに、もっと離れている気がした。

「どうした?」
「あの……私、ハンカチ、忘れて……」

かけられる声は優しいのに、何故だか罪悪感が胸を締めつけった。気まずさに声が上ずって、喉の奥で詰まってしまう。視線が泳いで、結局ウッドの顔を見れなくて俯いた。レイチェルはぎゅっとハンカチを握り締めた。せめてこのハンカチがこんな風に濡れていなかったら、ウッドに手渡すことでもできたのに。

「そっちこそ、どうしたの?早く寮に戻らないと……そんなところに居たら、風邪を引くわ」
「ああ……」

そんなことはどうでもいいと言いたげな口調だった。
雨音だけが、急かすように地面を打つ。ウッドもレイチェルも、何も言わなかった。
やっぱり話しかけるべきではなかったのかもしれないと、後悔した。きっと、ウッドは一人になりたかったのだろう。だから、ここに居たのだ。きっと、レイチェルが────チームメイトでも、親しい友人でもないレイチェルが、気安く話しかけてはいけなかった。

「……負けた」

たった一言。声を荒げたわけでも、嘆いたわけでもない。ただ、淡々と呟いただけ。それなのに、言葉はまるで鉛のように重かった。ウッドの目はもう、レイチェルを見ていなかった。さっきと同じように、ただ、競技場だけを見ている。雨で濡れているから、わからない。けれど、レイチェルにはなぜか、ウッドが泣いているような気がした。

「……また、次があるわ」

たかが、クィディッチの試合だ。勝敗よりも、あれほどたくさんの吸魂鬼に囲まれて、選手が無事だったことを喜ぶべきだ。レイチェルはそう思う。けれど、この人にとっては違う。この人にとっては、「たかが」じゃない。この人にとっては、今日の勝敗は、何よりも大切なことだった。
素晴らしい試合だった、とか誰も怪我がなかったんだからよかったじゃない、なんて────そんな慰めは、何の意味もないのだろうと思った。わかっていたから、言えなかった。

「まだ、優勝できないって決まったわけじゃないもの。残りの試合に全部勝てば、まだ……」
「ああ」

重苦しい空気を振り払うように、レイチェルはできるだけ明るい声を出す。自分で言っていても、何て月並みな言葉だろうと思った。こんなんじゃきっと、ウッドの心にも、誰の心の響かない。その場しのぎの言葉を重ねていくほど、自分の軽率さがますます恥ずかしかった。放っておけないなんて、ただの自己満足だ。偽善で手を差し伸べたところで、ウッドは最初から、レイチェルの手なんか必要としていないのに。

「あの……」

何か言わなくちゃと思うのに、言葉が出て来ない。何も浮かばない。
こんな、萎れたウッドは見たくない。いつもみたいに笑ってほしい。でも、何を言えばいいのかわからない。どうしたら笑ってくれるのか、レイチェルにはわからない。
こんなウッドを、レイチェルは知らない。こんなウッドは、知らない。
けれど────レイチェルは一体ウッドの何を知っていたと言うのだろう? レイチェルの知るウッドなんて、きっと、ウッドのほんの一面でしかないのに。先日の渡り廊下での一件だって、そうだった。自分は、ウッドの何を知っているつもりだったのだろう。

「……次の試合、頑張ってね」

結局、レイチェルに言えたのは、それだけだった。これ以外、何を言えばいいのかわからなかった。
ウッドは、また、「ああ」と呟いた気がする。気のせいだったかも知れない。どっちでもよかった。確かなのは、レイチェルの言葉はウッドにとって何の慰めにもならなかったと言う、それだけだ。
ぎゅっと唇を噛みしめて、レイチェルは駆け足でその場を去った。逃げ出した、と言うべきかもしれない。
でも、これ以上あそこに居ても無意味だと思った。居たところで、何もできない。ウッドを励ますことができるのは、レイチェルじゃない。レイチェルには、できない。
当たり前だ。だってレイチェルはウッドの幼馴染でもなければ、チームメイトでもない。何を言えばウッドが元気になるかなんて、わかるはずない。こう言えば喜ぶだろうとか、こう言ったら怒るかもしれないとか想像できるのは、その人と親しいからだ。レイチェルにはわからない。レイチェルは知らない。
雨粒が叩きつけて、冷たい雫が頬を流れていく。レイチェルには何も言えなかった。何もできなかった。不用意なことを言ったら、ウッドを傷つけてしまうかもしれないと思った。無神経だと呆れられることが怖かった。
笑ってほしかった。慰めたかった。けれど、どうすればよかったのか、レイチェルは知らない。きっと、どうしようもなかった。だってあの人は、レイチェルの言葉なんて、求めてなかった。当たり前のことだ。そう、わかっているのに。

どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。

『笑って』

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