セドリックに付き合う形で世話をすることになったレイチェルだったが、今ではすっかりこの黒い犬のことが気に入っていた。
エリザベスやパメラには野良犬の世話は難しいんじゃないかと止められたが、この犬に関しては当てはまらないように思えた。野良犬は人間を警戒するとか、心を開くまでには時間がかかるとか聞くけれど、少なくともこの犬はそうじゃない。吠えられたり噛まれそうになったことは一度もないし、撫でても怒らない。そして、とても賢い。レイチェルやセドリックが餌をやりに行くと、いつもあの初めて見つけたときの場所で待っている。それがとても可愛らしい。
課題の忙しさにはまだ慣れないが────と言うか正直OWLが終わるまでに順応できる気がしない────忙しいからこそ、勉強と関係がない日課があることは随分と気晴らしになる。
それにしても、犬の世話と言うのは、こんなに手間がかからないものなのだろうか。
レイチェルは目の前で旺盛な食欲を見せる黒い犬を眺めながら考えた。いや、一般的にはもう少し手間がかかるものだろう、たぶん。この犬がたまたまものすごく手がかからないだけだ。
犬なのだから当然犬食いではあるけれど、こんなにガリガリなのにがっついて皿からこぼすと言うこともなく、行儀よく餌を食べている。そもそも野良犬が人間に与えられた餌を素直に食べてくれるかと言う心配していたのだけれど、杞憂に終わった。今のところ、好き嫌いなく何でも食べている。一昨日スプラウト教授がくれた虫下しになると言う薬草を食べさせた時も────香りが強いし苦いので普通だと犬に食べさせるのはかなり苦労するらしい────ちょっと嫌そうな顔をしただけで吐き出したりしなかった。それに、こうして食べるところを眺めていても、唸ったりもしない。教えなくても「待て」や「おすわり」「伏せ」ができた。元々はどこかでペットとして大事に飼われていて、きちんと躾けられた犬なのだろう。初めて見た時は捨て犬だと思ったけれど、飼い主が亡くなってしまって、迷い犬になってしまったとか、そんな経緯なのかもしれない。
こっそり勝手に世話をして後々面倒な事になるのは嫌なので、レイチェルとセドリックはこの犬を敷地内で飼育する許可を教授にもらっていた。どうせ最終判断はマクゴナガルかダンブルドアがするのだろうけれど、とりあえずは寮監に話を通しておくのが無難だろうとスプラウト教授に話をしに行った。スプラウト教授は、元々生徒のお願いを無下に断ることはない人だし、何より優秀なセドリックをものすごく気に入っている。二つ返事でオーケーをもらえたので、レイチェル達は早速その日の内に犬に寝床を作ってやった。寝床とは言っても、そんな立派なものじゃない。大きな木の根元にあった洞に古い毛布を敷いただけの簡素なものだ。そのうちちゃんとした犬小屋を作ってやりたいとセドリックは言っている。ハグリッドに頼んだらすぐにでもできあがるんじゃないだろうかとレイチェルは思ったが、セドリックが自分で作りたがっている様子だったので黙っていた。一応防水魔法と保温魔法はかけたから、今の状態でも犬小屋とそんなに違いはないはずだ。
そんなことを考えていると、ふいに犬が顔を上げる。つられてレイチェルも視線を向けると、向こうからセドリックが慌てた様子で走って来た。

レイチェル!ごめん、遅れて。1年生が喧嘩してて……」
「大丈夫よ。私、食べるの見てただけだもの。この子、お行儀いいから」

ね、と犬に笑いかけて頭を撫でると、愛想良く尻尾を振った。
世話をすると決めたものの、この2週間の間でレイチェル達がやったのは、その寝床づくりと、朝晩2回の餌やりくらいのものだった。レイチェルは厨房への入り方を知らないので────と言うか場所もハッフルパフ寮の近くだと言うことしか知らない────餌はセドリックが調達してきた。これを口実に厨房への入り方を聞き出そうとしてみたけれどダメだった。ハッフルパフ生の秘密なんだよと言われては引き下がるほかない。セドリックが不在でレイチェルが餌やりをするときは、教えられた静物画の前に行くと、屋敷しもべ妖精が用意してくれた餌のボウルが置いてある。たぶんあの近くが厨房があるのだと思うのだけれど、入口はどこなのかさっぱりだ。
城から少し離れているのが難点だが、餌やり自体はそんなに手間じゃない。広大なホグワーツの敷地を好き勝手ふらふらしているので散歩をする必要もないし、成犬で落ち着いているのでボールやフリスビーで遊んでやらなければいけないと言うこともない。ほとんど世話なんて必要ないのだ。

「さて。セドも来たことだし……今日は、シャンプーをしましょうね」

なので、今日のことは久しぶりに世話らしい世話と言えるだろう。
言われたところで犬が理解できるはずないとはわかっているけれど、レイチェルはこちらを見上げる犬にそう宣言した。ふくろう通販で注文した犬用のノミとりシャンプーがようやく届いたのだ。流石に平日の放課後にそんな暇はないので、週末の今日まで先延ばしになっていた。

「やっぱり、やめた方がいいんじゃないかな。ほとんどの犬は水が嫌いらしいから……暴れるかもしれない」
「でも、だからって、こんな汚いままにしておくのって不衛生じゃない。ノミも居るかもしれないし」

セドリックが困ったように眉を下げる。どうやらあまり気が進まないらしい。
外で放し飼いなのだから、室内犬みたいにずっと綺麗なままでいられないのは仕方ないとしても、流石にこれはひどい。黒い犬のはずなのに埃っぽくて灰色がかっているし、泥や何かでドロドロだ。いかにも野良犬ですと言わんばかりのこの姿は、下級生が見たら怖がるだろう。そしてノミが居るとしたら、退治してやらなければ健康にも悪影響だ。

「セドが手伝ってくれないなら、私一人でやるわ」

確かにセドリックの言う事ももっともで、こんな大きな犬が暴れたら確かにセドリックでも抑えきれないだろうけれど────そうなったらまあ、魔法で何とかしよう。
レイチェルは側に置いてあったバケツを持ち上げた。水がたっぷり入っているせいで重い。が、その重さはふいに軽減した。レイチェルの手からバケツを取り上げたセドリックは、小さく溜息を吐いた。

「やるよ。やるけど……」

噛まれたらどうするのと、セドリックが眉を寄せて呟く。自分が噛まれるかもしれないのは気にしなかったくせに、レイチェルが噛まれるのは心配らしい。相変わらず過保護だと溜息を吐いて、レイチェルはパーカーの袖を捲った。

「じゃあ、始めましょ。……痛くしないから、大人しくしててね?」
「大丈夫だよ、怖くないから」

大人しくその場で座ったままの犬に、レイチェルとセドリックは安心させるように語りかけた。
いくら普段は大人しくても、こんなに大きいのだから暴れたら怖い。そうなったらどうしようと思いながら少しずつ水をかけていく。ぷるぷると軽く首を振ったので水飛沫が飛んだが、特に嫌がる様子はない。レイチェルとセドリックは顔を見合わせて頷くと、ノミ取りシャンプーをせっせと泡立てていった。
本当に、驚くほど手のかからない犬だ。

 

 

「何て言うか……シャンプーひとつで、こんなに変わると思わなかったわ」

30分後、無事にシャンプーをし終えた────乾く前にまた泥だらけになられては困るので2人がかりですぐに乾燥魔法をかけた────姿を見て、レイチェルはそんな感想を漏らした。
ふくろう通販でイチオシされていたノミ取りシャンプーの効果は宣伝文句以上だ。埃っぽくてペタンとしていた毛並みは、今や本来の夜の闇のような艶やかな黒に戻り、新品のブラシのようにピンとしている。洗う前との差は歴然だった。

「とってもいい犬に見えるわ」
「うん。かっこいいよ」

レイチェルは芝の上に寝そべる犬へとブラシをかけていく。前は葉っぱや小枝がくっついていたりして、絡まってばかりだったが、今は滑らかにブラシが動く。こうして大人しくくつろいでいる様子を見たら、野良犬だなんて誰も思わないだろう。柔らかな毛を梳きながら、レイチェルはセドリックを見上げた。

「ねえ、セド。結局この子の名前、どうするの?」

見つけてからもう10日も経つが、未だにこの犬は名無しだった。いや、あくまでそれはレイチェルとセドリックにとっての話であって、もしかしたら元の飼い主がつけた名前があるかもしれない。けれど、レイチェル達には知りようがないのだから新しい名前を付ける必要がある。

「そろそろ決めた方がいいんじゃないかしら。呼ぶのにも不便だし……」
「わかってる」

実を言うとレイチェル達が用がある時には、この犬は呼ばなくても自分からやって来るので、今のところ特に困ったことはない。とは言え、そろそろ決めるべきじゃないかと思う。いつまでも名無しのままと言うのはちょっと可哀想だ。

「一応、考えたんだけど……今ひとつ、これだって思うものがない」

セドリックは困った顔をして、ジーンズのポケットから折りたたまれた羊皮紙を取り出した。差し出されたそれを、レイチェルは開いてまじまじと見た。6インチ四方の紙片には、びっしりと犬の名前の候補が書きこまれている。そのうちいくつかは丸で囲ってあった。マックス。バディ。ベアー。トビー。ハンター。ブルーノ。シャドウ────。

「オーソドックスね」
「ありきたりだって素直に言っていいよ……こう言うの、苦手なんだ。レイチェルは、何かいい案ある?」
「考えたけど、あんまり……えっと、この中にあるのだと、オスカー? あと、ジャックとか……」
「この中からじゃなくてもいいよ」

そうは言われても、そんなにパッと閃くものじゃない。レイチェルとセドリックは羊皮紙を囲んであれでもないこれでもないと意見を出し合った。名前ってずっと使うものなのだから、これだと思えるものがいいのだけれど、それがなかなか難しい。黒を連想させる名前にするか、それともこうなってほしいと願いをこめるか。はたまた、呼びやすさを重視するか。
悩むレイチェル達をよそに、当の本人は涼しい木陰へと移動し、呑気にあくびをしていた。まあ、悩むのは人間ばかりで、犬にしてみればどうでもいいことなのかもしれない。元々、この犬は普段から犬らしくなく落ち着きはらっているようなところがある。セドリックが持ってきたおもちゃやボールにもまるで興味を示さなかったし、じゃれたりもしない。とても賢い犬だとは思うのだけれど、かなりのマイペースだ。

「……あ」
「何か思いついた?」
「うん。でも……本当に、私が決めてもいいの?」
「うん。僕だとあと1週間は悩みそうだ」

とても賢くて、マイペース。そんなキーワードに、レイチェルの頭の中にちらつくものがあった。
見つけたのも世話をしようと言い出したのもセドリックなのだから、どうせならセドリックが決めた方がいい気がするのだけれど。が、セドリックは本当に気にしていなさそうな様子なので、レイチェルは遠慮がちに口を開いた。

「……じゃあ、シャーロック」

この間ハーマイオニーに借りたマグルの小説に出てきた主人公の名前だ。頭脳明晰だけれど、ちょっと風変わりで、マイペース。けれど、そんなところが魅力的で────この少し犬らしさの欠ける犬には、よく似合うように思えた。

「シャーロックか。じゃあ、シャールだね」
「そうね。シャール、おいで」

レイチェルがそう説明すると、セドリックも納得したらしくにっこり笑う。決まりだ。
レイチェルが呼ぶと、黒犬改めシャールはぴくりと耳を側立てる。ゆったりと立ち上がると、レイチェルのすぐ側までやって来た。そうしてその場に座り、レイチェルを見上げてくる様子はいかにも賢そうだ。

「お利口さんね」

レイチェルはシャールの頭を撫でてやった。そしてポケットの中に入れていたビスケットを取り出して、ご褒美に与える。シャールはさっき餌を食べたばかりなのにもうお腹が空いたのか、おいしそうにそれを食べ始めた。自分の手から食べてくれるのはとても可愛らしくて、知らず頬が緩む。

レイチェル……ごめん。それ、やめて」
「え?」

神妙な顔で言うセドリックに、レイチェルは首を傾げた。それって何だろう。ビスケットをあげるなと言うことだろうか? でもこれはふくろう通販で買ったちゃんとした犬用のおやつだし、問題はないはずだ。確かに言う事を聞くたびにおやつを与えて甘やかすのはよくないだろうけれど、今日はシャンプーも我慢したのだしこれくらいいいんじゃないだろうか。
レイチェルが頭に疑問符を浮かべていると、セドリックがそうじゃないと言いたげに首を振る。

「その、『お利口さん』ってやつ……」
「……あ。ごめんね」

言いづらそうに眉を下げるセドリックに、レイチェルはようやく理解した。なるほど、そう言うことか。でも、たぶん、気をつけないとこの先も言ってしまいそうな気がする。いや、気をつけても言ってしまいそうだ。
黒い髪にそっと手を伸ばす。座っているぶん身長差が緩和されて、いつもよりも手が届きやすい。指先に触れる手触りは、シャールのものよりも柔らかい。レイチェルはシャールにしたのと同じように、にっこり笑いかけた。

「お利口さんね」
「…………やめて」

照れたように視線を逸らすセドリックがおかしくて、レイチェルは思わずくすくす笑ってしまった。
でも、本当にそう思う。いつもはセドリックが撫でてくれるから、たまにはこんな風に、レイチェルがセドリックを撫でてあげたい。
5年生になってからもうすぐ1ヶ月。セドリックは、ますます忙しい。監督生になって、たくさん仕事があって。でも、勉強も手を抜かない。皆から頼りにされて、友達や下級生の面倒まで見たりして。おまけに、もうすぐクィディッチのシーズンが始まるから、キャプテンとしての仕事もあるだろう。セドリックを見ていると、本当に偉いなあと思うのだ。
いつもレイチェルが甘えてばかりだから、たまにはセドリックを甘やかしてあげたい。

本にも書いてあった。お利口さんはたっぷり褒めてあげなければいけないのだ。時にはご褒美をあげて、頑張ったねと頭を撫でて。

ビスケットひとかけら

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