雨は相変わらず降り続いていた。
地面がぬかるんでいるせいで馬車がガタガタと不規則に揺れるので、ホグワーツ城までの道のりは快適とは言い難かった。おしゃべりはノイズのような雨音にかき消されてしまうので、車内は気の重くなるような沈黙が立ち込めていた。おまけに門のところには吸魂鬼が控えていたので、誰もが先程のホグワーツ特急での検閲を嫌でも思い出すことになったのだった。また指先からぞっとするような冷気が広がって行くような気がして、レイチェルは小さく身震いした。
「あれが本当にこの先ずっと居るの?シリウス・ブラックが捕まるまで?」
パメラが嫌そうな顔で呟いたのが、偶然レイチェルの耳に届いた。事前におじさんから知らされていたレイチェルですら実際に吸魂鬼を目にしたらショックを受けたのだから、何もかもを今日初めて知ったパメラのショックは計り知れない。あれは仲良くなるとか分かり合うとか、そう言う種類の生き物じゃない。
城門をくぐり、馬車が止まる。吸魂鬼の存在のせいか、どんよりとした灰色の空のせいか、見慣れたはずのホグワーツは驚くほど陰鬱に見えて、レイチェルはまたげんなりした。
とは言え、大広間へと辿り着いた頃には少しも気分も浮上した。テーブルの上には磨き上げられた金の皿やゴブレットがきらめき、宙に浮かぶ何百と言う蝋燭の柔らな灯が冷えた体を温めてくれる。式典の時だけ特別の三角帽子を被り、レイチェル達はレイブンクローの、アンジェリーナ達はグリフィンドールのテーブルへと向かう。汽車の忘れ物の点検をしていたエリザベスも後からやって来たので、レイチェル達は教員席からほど近い位置へと座ることにした。
「よっ、レイチェル。久しぶり」
「久しぶり、ロジャー」
「キャプテンになったの?」
「まあな。順当な結果、だろ?」
ロジャーがニヤッと笑ってみせる。黒いローブの胸には、青とブロンズにバッジが燦然と輝いていた。真ん中には大きなCの文字。レイブンクローのクィディッチのキャプテンバッジだ。自信過剰にも思える発言だが、確かにロジャーは2年生のときから寮チームのチェイサーとしてチームを支えていたので、確かにそう驚くことでもないのかもしれない。レイチェルがまじまじとバッジを見つめていると、パメラが眉を寄せた。
「ちょっと、私達には挨拶なしってわけ?」
「そんなわけないだろ。ご機嫌麗しゅう、パメラ。エリザベスも、相変わらず美人だ。それから、監督生おめでとう」
「ありがとう、ロジャー。貴方こそおめでとう。今季のクィディッチ杯に期待しているわ」
はにかんで笑うエリザベスに、ロジャーが任せとけと胸を張る。そんな会話を聞いていて、レイチェルは何だか不思議な気持ちだった。近くの席に座っている下級生の男の子達が、ロジャーのキャプテンバッジが気になるのかちらちらとこっちを見ている。そう言えばここに来るまでも、同級生をからかっていたグリフィンドールの下級生が、エリザベスの監督生バッジを見て慌てていた。
「ねえエリザベス!そう言えば他の監督生って誰が選ばれたのよ?」
「うちの寮の男子の監督生、ステビンズだろ?俺あいつ嫌いなんだよ」
「彼は……適任だと思うわ。とても、真面目な人ですもの」
「真面目すぎるんだよなあ」
本当に自分達は「上級生」になってしまったんだなあと、レイチェルは今更ながらそんなことを思った。目の前でしゃべるロジャーもエリザベスも、まるきりいつも通りなのに、胸にバッジがあると言うそれだけで何だか急に違う人になってしまったみたいだ。
「ねえねえ、知ってる? ハリー・ポッターがディメンターに襲われたんだって!」
そんなレイチェルの感傷を打ち消すかのように、近くに座っていた2年生の女の子の興奮した声が響いた。
テーブルの注意がそちらへと集まり、どういうことかと問いかける。自分はポッターの近くのコンパートメントに居ただとか、ディメンターのローブがまさに自分の鼻の先を掠めたとか。皆好き勝手に口を開くせいで、周囲はすっかり騒がしくなってしまった。レイチェルは遠目に見えるグリフィンドールのテーブルを見渡した。確かに、あの眼鏡をかけた黒髪の痩せた少年は居ないように見える。
「ウワーッてすっごい悲鳴が聞こえたの!見に行ったら、ハリー・ポッターだったのよ!」
「他に襲われた人は居ないの?」
「ねえ、それより、あの銀色に光ってたの、何だったの?」
「僕も見た!あれがディメンターを追い払ったみたいに見えた!」
「あれもハリー・ポッターがやったのかな?」
目の前で繰り広げられている光景に、レイチェルは激しい既視感を覚えた。
ハリー・ポッターが入学してからと言うものの、毎年歓迎会の日は彼の話題ばかりな気がする。まあ、運が悪いのか何なのか、ホグワーツで騒動が起こるといつだってハリー・ポッターがその渦中にハリー・ポッターが居るのは確かだ。それに、吸魂鬼に襲われるだなんて、たとえハリー・ポッターじゃなくったって大事件だけれど。と言うか、本当に大丈夫なのだろうか?
エリザベスもレイチェルと同じことを考えたらしく、表情を曇らせた。
「ディメンターに襲われたって……大丈夫なのかしら?」
「とりあえず生きてはいるんじゃない? バジリスクと違って、目が合っただけで死んだりはしないんでしょ?」
「パメラ!貴方って人は……!」
あっけらかんと返すパメラに、エリザベスが不謹慎だと眉を寄せる。そうして、バジリスクの一睨みと同様に恐ろしい吸魂鬼のキスに関する長々とした説明が始まった。パメラが縋るような目でこちらを見たが、気づかないことにした。さっき汽車で助けてくれなかったお返しだ。
そう言えば、去年は校内にバジリスクが居たんだったなとレイチェルは思い返した。長い夏休みをはさんだせいで、もはや夢の中の出来事のように思えたし、実際夢であればいいのにと願ったような出来事だったけれど、現実だった。結局姿を見ることはなかったが────見ていたらそもそもレイチェルはここに居ないだろう────確かに昨年のホグワーツにはバジリスクが居て、死人こそ出なかったものの何人もの犠牲者が出た。忘れてはいけないことだとは思うが、あの恐怖と猜疑に包まれたホグワーツのことは、あまり思い出したくはない。それはそうとして。
正体不明の継承者が操るバジリスクと、一応は魔法省からの任務でここに居る吸魂鬼。一体どっちがマシだろう。バジリスクと違って、生徒は襲わないように命じられている分、吸魂鬼の方が多少安全だろうか? とは言え、吸魂鬼だっていつ生徒を襲うかわかったものじゃない。どっちも嫌に決まっている。
怪物の居ない学校で勉強したい、とレイチェルは小さく溜め息を吐いた。
組分けの儀式は滞りなく終わり、レイブンクローにもまた新しい仲間が増えた。喜ばしいことに、今年は例年に比べて少し人数が多い。宴が始まるとすぐ、パメラとロジャーは早速席を移動して1年生を構い倒しにいった。テーブルの端っこに座った女の子がハッフルパフのチェイサーの妹だとか何とか、そんなことを言っていた気がする。
レイチェルは2人ほどの積極性は持ち合わせていないので、大人しく近くの席の下級生達と談笑していた。エリザベスも同じだ。とは言え、レイチェルもエリザベスもパメラほど話上手とはいかないので、エリザベスの正面に座る1年生は緊張気味だ。監督生バッジの威力はここでも発揮される。しかし、その隣に座った3年生の男の子の顔が真っ赤なのは、監督生バッジのせいだけじゃないだろう。体調でも悪いのかと心配顔のエリザベスは、何と言うか罪つくりだ。
「やっぱりDAの教授だったのね」
いよいよ泣きそうな男の子が気の毒になってきたので、レイチェルは話題を逸らすことにした。教員テーブルへと視線を向ける。スネイプ教授の隣に座る、年季の入ったローブを身に纏った男性は、さっきレイチェルがホグワーツ特急の中でぶつかったあの人だった。さっき組分けが終わったときに、ダンブルドアから防衛術の教授だと紹介があったのだ。
「ええ。とても力のある先生だと思うわ。守護霊の呪文が使えるんですもの」
「守護霊を?」
「ええ。レイチェルは見なかったかしら……汽車の中で、ディメンターを追い払ったでしょう?」
レイチェルはもう一度、教員テーブルへと視線を向けた。遠目に見えるルーピン教授は、とてもそんな風には見えない。あのときも決して、その───上等な身なりだとは感じなかったが、歓迎会の日はほとんどの教授が正装用のローブを着てくるので、余計にくたびれて見えた。まあ、だからと言って去年のロックハートほど派手である必要はないし、教授なのだから結局はローブよりもどんな授業をするかの方が重要なのだけれど。
「でも、あの先生のローブ、ちょっとみすぼらしいわよね? 今思うと、去年のロックハート先生のローブってとっても素敵だったわ。まあ、見かけ倒しだったけど」
まるでレイチェルの頭の中を見透かしたかのように返事が返って来て、レイチェルはぎょっとした。まさか、エリザベスが仮にも教授に対してそんなことを言うなんて────と、そこまで考えたところで気がついた。今のって、エリザベスの声じゃなかった。
「久しぶりね、エリザベス。グリーングラス家のガーデンパーティー以来じゃなくて?」
鈴を転がすような澄んだ声。ふわりと甘いスズランの香りが鼻腔を掠める。振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。肩口を流れるプラチナ・ブロンドに、霧がかった湖のようなブルーグレイの瞳。すらりと背が高く、しなやかに伸びた手足は小鹿を思わせる。ピンクベージュのリップグロスが引かれた唇が、綺麗に弧を描く。
「おめでとう。そのバッジ、貴方によく似合ってる」
「ありがとう、クロディーヌ」
少女────クロディーヌ・ド・ボーヴォワールはレイチェル達の同級生で、同じレイブンクロー寮生だ。名前からも想像がつく通りフランス人との混血で、けれど魔法界において重要視される方の意味でなら、間違いなく純血の魔女だ。レイチェルはよく知らないが、ボーヴォワール家と言えばフランスでは名の通った旧家らしい。もっとも、家名が耳慣れなくとも、クロディーヌが良家の子女であることは彼女の洗練された立ち居振る舞いや身の回りのものなんかを少し見ればわかることだった。エリザベスとクロディーヌが2人並んでいると、そこだけ空気が華やいでいるような気がする。まあ、単純に、2人が美人だと言うのもあるだろうが。
「私……私は、貴方になるだろうって思っていたわ」
「謙遜はいいわよ。皆言ってるわ。『これ以上なく妥当な人選』ってね」
デザートのトライフルをスプーンで突きながら、レイチェルはそんなやり取りをぼんやりと聞いていた。
確かにエリザベスの言う通り、もしも――――レイチェルはそんな可能性はほとんど考えなかったが────エリザベス以外の誰かが監督生だったなら、きっとクロディーヌが選ばれただろう。順位と言う観点で言えばエリザベスが勝るものの、クロディーヌもまた成績優秀な生徒だ。それも、そんなに猛勉強している素振りもないのに上位に入るので、エリザベスは本当は自分よりもクロディーヌの方が頭が良いのだと言っている。才色兼備と言う言葉がよく似合うクロディーヌには憧れている生徒も多いし、先生達からの評判も良い。彼女もまた監督生に相応しい生徒と言えるだろう。けれど、レイチェルはやっぱり、自分達の学年の中では、エリザベスが監督生に一番相応しいと思う。親友の欲目もあるかもしれないが、なぜなら────。
「監督生が貴方でよかったわ。だって、私達の代表だもの。ほら……いくら成績がよくても、彼女が監督生だったりしたら、ちょっとアレでしょ?」
そう言って、クロディーヌはテーブルの逆側の端に座っている女子生徒を示して肩を竦めてみせた。レイチェルもつられて視線を向ける。そこに居たのもまた、レイチェル達の同級生だ。ひっつめ髪に、分厚いレンズの眼鏡。いかにもレイブンクローらしい────真面目で勉強熱心ですと顔に書いてあるような彼女は、レイブンクローの女子の中では2番目に成績のいい生徒だった。エリザベスがぱちりと瞬きをし、それから困惑したように眉を下げる。
「そんなことはないと思うけれど……」
レイチェルがエリザベスの方が監督生に相応しいと思う理由は、これだった。悪気はないのだろうけれど、クロディーヌは時々こう言う物言いをする。言いたいことはわからなくもない。そりゃあ、監督生と言うのは寮生の代表だ。美人のエリザベスなら、同寮生として鼻が高い。それは皆思っていることだろう。けれどレイチェルなら、口には出さないだろうと思うのだ。いや、たとえ口に出したとしても、こう言う言い方は絶対しない。クロディーヌは思ったことを素直に口に出す。少し素直すぎる、気がする。慎重なエリザベスとは正反対だ。「ああ、ごめんなさい。私、人を待たせてたんだったわ。じゃあ、エリザベス、またね?」
「え? ええ……また」
何と会話を続ければいいものか考え込んでいるエリザベスをよそに、クロディーヌはさっさと会話を切り上げて踵を返す。これもいつものことで、彼女は基本的にマイペースだ。けれど何故だかそれが許されてしまうような、そんなところがあった。生まれついてのお姫様で、女王様。真っ直ぐに伸びた背筋に、ファッションモデルのようなスタイルも相まって、後ろ姿すらもどこか品があって優雅だ。向かう先を視線で追えば、背の高いスリザリン生の男子が壁に凭れかかってクロディーヌを見ていた。恋人だろうか、と思ったけれどわざわざ周囲に聞くほど強い興味があったわけでもないので、レイチェルはまたトライフルを咀嚼することへと意識を戻す。
部屋が違うこともあって、レイチェルはクロディーヌとはそう親しくない。レイチェルは普段ルームメイトのエリザベスやパメラと行動しているし、クロディーヌも同じだからだ。かと言って仲が悪いわけでもない。たまに授業のペアが同じになることもあるし、テスト前にはノートの貸し借りをすることもある。アルバムを探せば一緒に撮った写真も2、3枚見つかるだろう。入学してからこの方、ごくごく普通の、同寮生の距離を保っている。そして恐らく、卒業までこのままな気がする。
成績が優秀な者同士だからか、はたまた2人ともお嬢様だからか、エリザベスとクロディーヌは仲が良い。パメラもまた、ファッションのことなんかで話が合うのか、クロディーヌと親しい。
レイチェルの大好きな親友達の友達なのだ。悪い子のはずがない。悪い子ではない。大人びていて、面倒見がいいところもある。知っている。それでもだ。
レイチェルはもしもクロディーヌと同室だったとしたら、正直うまくやっていけた自信がない。
別にクロディーヌが悪いと言うわけではなく、タイプが違うのだ。一緒に居ると、何となく気後れしてしまうし、居心地が悪い。実際、クロディーヌが普段行動を共にしている女の子達は、レイブンクローの中でも派手な子達だ。何かが悪いとしたら、強いて言えば相性が悪いのだろう。まあ、要するに、つまり。