最後の数日間は瞬く間に過ぎていった。
久しぶりの外出は十分すぎるほどの気分転換になったし、ようやくホームステイの中止をくよくよしていることも馬鹿らしいと吹っ切れたので、レイチェルは部屋に引きこもるのをやめた。落ち込んだ所でマグルの町に行けるわけじゃないし、ホームステイはクィディッチのワールドカップと違って、今年だけ特別に行われるわけじゃない。来年もまた応募して、今度こそ思い切り楽しめばいいのだ。一年間の猶予が与えられたぶん、よりマグルに対しての理解も深められる。セドリックにマグル学のOWLに向けて差をつけたいと言う目的に関してはもはや独力で何とかするほかなくなってしまったが、それはもう言っても仕方がないので考えないことにした。
同寮生の中にはたった今もOWLに向けての復習と予習に充てている生徒も少なくないのだろうが、レイチェルはそこまで勉強熱心にはなれない。やっぱりシリウス・ブラックは逃亡中で外出禁止令は続いていたので、残されたわずかな時間を、読書をしたり、おばさんと一緒にお菓子作りをしたり、セドリックと他愛ないおしゃべりをしたりボードゲームをしたりして過ごした
「1人目のチェイサーはここだ。で、こうパスを回して……」
チェス盤の上で、チェイサーに見立てた黒のポーンをセドリックが動かす。本来の用途とは別の使われ方をしていることにナイトがぶつぶつ文句を言っているのを聞きながら、レイチェルは羽根ペンを動かしていった。そうして、盤上の駒の配置をノートへ書き写していく。
「描き終わったわ」
「ありがとう。じゃあ、次は……」
「ストップ。ちょっと待って、セド」
早々に次の攻撃パターンへと配置を変えようとするセドリックを、レイチェルは手で制した。すっかり盤上に注意を向けていたセドリックは、駒を片手で持ち上げたままきょとんと目を丸くする。それから、心配そうに表情を曇らせた。
「ごめん。疲れた?」
「そうじゃないわ」
確かに疲れたが、そうじゃない。絵の得意じゃないセドリックの代わりに、思いついたフォーメーションを図に描き起こしてほしいと頼まれた。そこまではいい。別にクィディッチの作戦会議に付き合うのが嫌なわけじゃない。レイチェルだってクィディッチは好きだし、暇だし、それに文句があるわけじゃない。しかしだ。
「いいの?ハッフルパフの作戦を私にバラしちゃって。ロジャーやチョウに言うかもよ」
少しくらいなら軽い気持ちでOKしてしまったが、さっきからノート10ページ分は軽く消費している。口頭での説明を聞きながらなので作戦内容もわかってしまっている。情報漏洩もいいところだ。セドリックは一応レイチェルは敵寮の生徒だと言うことを忘れているんじゃないだろうか。
「そんなこと言ってても、レイチェルはそんなことしないって知ってるよ」
にっこり笑うセドリックに、レイチェルはぐっと押し黙った。ずるい。確かに本当に言うつもりなんてなかったけれど、そんな風に言われたら絶対告げ口なんてできないじゃないか。
レイチェルの無言を一体どう解釈したのか、セドリックは視線をまた盤上へと戻し、駒を並べていく。ファイアボルトを一目見てからと言うものの、セドリックのクィディッチへの情熱は増す一方だ。キラキラと目を輝かせて作戦を語るセドリックに、レイチェルは羽根ペンを動かしながらそっと溜息を吐くのだった。
夏休み最後の夜、ディゴリー家のダイニングでは毎年恒例のパーティーが開かれた。勿論レイチェルもお呼ばれに預かったし、〆切明けの母親までが参加した。テーブルの上にはおばさんが腕によりをかけたごちそうが所狭しと並び、それらは全てレイチェルとセドリックの好物ばかりだった。そうしてOWLのことだとか、セドリックの監督生バッジだとか、寮杯の話だとかについて楽しくおしゃべりした。デザートのトライフルを食べ終わり、セドリックとレイチェルが並んでソファでココアを飲んでいると、まだテーブルに掛けていたおじさんが手招きをした。
「2人に大事な話がある」
いつになく真剣な表情に、てっきりOWLに対することとか将来に関することで何か言われるのかと思ったが、おじさんに打ち明けられたのは、レイチェルにとって────恐らくセドリックも────予想外のことだった。明日からレイチェル達は新学期なわけだけれど、ホグワーツは安全のために吸魂鬼が警備することになった。子供達を怯えさせないようにと気遣ったのか、おじさんは淡々とした口調だったが、それでも十分衝撃的な内容だった。つまり、とレイチェルは眉を寄せる。
「ブラックが捕まるまで、ディメンターがずっと学校の周りをうろうろしてるってこと?授業中も?教室の外でディメンターが見張ってるの?」
「あ、いや、もちろん、生徒のすぐ近くには行かないとも!それはダンブルドアが断固拒否した!だから、ディメンターは校舎からずっと離れた所で警護をするだけ……のはずだ! それに、ブラックが捕まりさえすればディメンターはすぐ引き上げるさ!ホグワーツでより安心に、安全に過ごせるための措置だ!」
おじさんは焦った様子で言い繕ったが、レイチェルはちっとも安心だとも安全だとも思えなかった。はず、って何だろう。それに、ブラックが捕まったらと言うことは、逆を言えばブラックが捕まらない限りは吸魂鬼はホグワーツに留まり続けると言うことだ。シリウス・ブラック1人でも十分危険なことは間違いないが、だからと言って10匹の吸魂鬼が無害だとも安心だとも思えない。
「ともかくだ。まあ……知っての通り、吸魂鬼に言い訳や誤魔化しは通用しない。2人なら心配ないと信じているが、そう言うわけだからディメンターに怪しまれるような行動はしないよう気を付けるんだぞ」
と言うか、魔法省の施策だから言わないだけで、おじさんだってたぶん本音はそう思っているのだろう。仕事柄、魔法生物全般におよそ好意的ではあるけれど、吸魂鬼だけは好きになれないといつだか言っていた。
吸魂鬼は確かにアズカバンの看守で、普通の魔法使いから見れば罪人を見張ってくれるありがたい存在だが、別に罪人の幸福感だけを吸う正義感に溢れた生き物じゃない。餌となる幸福は、誰のものだっていいのだ。そう、たとえ、何の罪もないホグワーツの生徒達だって。
レイチェルはセドリックと顔を見合わせた。セドリックもどうやら同じことを考えている様子だ。
「……そうだ、2人とも!今日は流星群が見れるらしいぞ!」
子供達の空気がすっかり暗くなったことを察したのか、おじさんがやけに陽気な声でそう告げた。そう言えば、今朝の新聞に小さく書いてあった気がする。どうせなら1日ずれていてれば、天文台かレイブンクロー塔で見れたのにとぼやいたのは記憶に新しい。
「せっかくだから、ストーツヘッド・ヒルまで行って見てくるといい!あそこなら、素晴らしい眺めに違いない!2人とももう荷造りは終わってるんだろう?」
「でも父さん、保護呪文より外に出たらダメだって……」
「今日くらいはいいだろう。何せ夏休みも今日で終わりだ。そうだとも!」
「これから?」
レイチェルは思わず窓の外へと視線を走らせた。カーテンの隙間から覗く空は、もうすっかり濃紺に染まっている。今からストーツヘッド・ヒルへと行くとなると、当然移動手段は箒になる。レイチェルは眉を下げた。「見たいけど……私、セドと違って夜に箒を使ったことってほとんどないのよ」
セドリックは学校でのクィディッチの練習で慣れているのだろうけれど、レイチェルは暗闇の中で箒に乗ったことはほとんどない。明るい中で乗るのとは随分と勝手が違うだろうし、わざわざ慣れないことをして怪我でもしたらと思うと屋根裏部屋かどこかで見る方がずっといい。私はやめておく、とレイチェルが言おうとすると、セドリックがぽんとレイチェルの肩を叩いた。
「じゃあ、僕の後ろに乗ればいいよ。せっかくだから一緒に行こう」
ね、とセドリックが微笑む。おじさんもそれがいいと賛成する。
そんなわけでレイチェルは、急遽セドリックと一緒に夜のストーツヘッド・ヒルへと出掛けることになったのだった。
冷たい夜の空気が頬を撫でて行く。
マグルの町から離れたストーツヘッド・ヒルには街灯も何もない。箒の柄の先にぶら下げたランタンの僅かな灯りと月明りだけが頼りだが、それでもセドリックは慣れた手つきで箒を進めていく。セドリックがやっているといかにも簡単そうに見えるが、たぶんレイチェルが同じように箒を扱おうとしてもこうはいかないだろうことは想像がつく。たぶん途中で木か何かにぶつかってしまうだろうことは想像に難くない。
レイチェルを振り落とさないためか夜の暗さゆえか、それともその両方か、少し抑えたスピードで流れて行く景色をレイチェルはぼんやりと眺めていた。
「僕一人だったら、きっとダメだって言われてたね」
「そうね。一人きりで行くのは、流石におばさんが許してくれなかったと思うわ」
夏休み最後の夜だから特別に、と言うことなのだろう。おばさんは子供達だけで行かせるのは不安な様子だったが、大人が居たら気晴らしにならないだろうとおじさんが止めた。このあたりにブラックが居る可能性は低いが、それでもやっぱり心配だからと念のために杖を持たされている。1ヶ月ぶりに箒に乗ったからか、セドリックは随分と嬉しそうだ。
そう言えば、セドリックと2人乗りするのって久しぶりだ。小さい頃────レイチェルが自分用の箒を持っていなかったときはよくセドリックの後ろに乗せてもらったけれど、いつしかそれもなくなった。
あの頃とは違う箒だとは言え、大きさはそんなに変わらないはずなのに、あの頃よりも随分と窮屈に感じる。セドリックとレイチェルが大きくなってしまったからだ。
回した腕も、背中の広さも、あの頃見ていたものとは全然違う。周囲の暗さにようやく目が慣れてきたレイチェルはふと、セドリックの背中を見つめて首を傾げた。
「セド、このTシャツもう小さいんじゃない?」
「そうかな。去年買ったやつなんだけど……」
「買った時でちょうどいいくらいだったもの。あれから伸びたでしょ」
ずっと一緒に居るせいでわかりづらいけれど、セドリックはたぶん、夏の間にまた少し背が伸びた。本人曰くここのところしばらく測っていないらしいので正確な数字はわからないけれど、もうおじさんの身長はとっくに越してしまった。そしてまだ止まりそうな気配はない。
「一体どこまで伸びるつもりなの? 6フィート? 7フィート?」
「いくら何だって、そんなに伸びないよ」
セドリックが苦笑する気配がしたが、はたして本当にそうだろうかとレイチェルは眉を寄せた。7フィートは大げさだとしても、この調子じゃ最終的に6フィートくらいは行きそうな気がする。そうなったら、並んで歩きながらおしゃべりするのは少し大変かもしれない。今でさえセドリックを見上げなければいけないのに。
「それに、これ以上は伸びない方がいいんだよ。シーカーは本来小柄な選手の方が向いてるし……」
セドリックが至極真面目な口調でそんなことを言ってみせるので、レイチェルは呆れた。セドリックのクィディッチ馬鹿は十分知っていたつもりだけれど、流石にこんなことを考えてるとは想像もしなかった。何にせよ、背が伸びすぎて困るだなんて、贅沢な話だ。レイチェル達くらいの年頃だと、もう少し伸びないだろうかと悩んでいる人間の方が圧倒的に多いのに。
「セドばっかり伸びてずるい。私なんて、去年から2インチも伸びてないのに」
「レイチェルは女の子じゃないか。僕は男だよ」
「わかってるわ。性別と、それから遺伝よ。……私、きっともうほとんど伸びないわ。ママもそんなに背が高い方じゃないもの」
男の子のセドリックと比べるのは馬鹿馬鹿しいとしても、レイチェルの身長は同学年の女の子と比べてもそんなに高いわけじゃない。かと言って特別低いわけでもないが、あと3インチでいいから高ければいいのにとは少し思う。身長が高ければいいと言うものじゃないとわかってはいるが、やっぱり雑誌に出てくるモデルのようなすらりとしたシルエットには憧れる。牛乳は飲んでいるし、そんなに好き嫌いもしていないつもりだけれど、思うようには伸びてくれない。
「着いたよ、レイチェル」
そんなことを考えているうちに、いつの間にか目的地に到着していたらしい。箒の高度が段々と下がり、地面から1メートルぐらいのところで停止する。セドリックが差しだすランタンを受け取って、レイチェルは慎重に地面へと降り立った。
「星が降って来るみたいだ」
セドリックが隣でぽつりと呟いたので、レイチェルはそうねと小さく返した。
地面に寝転んで見上げた夜空には、まるで宝石を散りばめたように、何千と言う星が浮かんでいた。午前中に降った雨が空気を綺麗にしたのか、雲ひとつないせいで、星がとても近く感じる。手を伸ばせば掴めそうだと錯覚しそうなくらいだった。そして、そんな星々の間を縫うようにして、空のてっぺんから星が落ちてくる。繊細な光の尾が何本もあ空に引かれていく光景は、言いようもなく美しい。レイチェルとセドリックはしばらくの間、無言でじっと空を見つめていた。
「夏休み最後にこれが見れて良かったわ。シリウス・ブラックのせいで散々だったもの」
レイチェルは深く深く肺の中の空気を吐き出した。楽しみにしていたホームステイは中止になるし、ちょっとした外出すらもできなかったし、本当にシリウス・ブラックが脱獄してからの1ヶ月、何もいい思い出がない。せっかくの休暇なのに、シリウス・ブラックのおかげでいまひとつ楽しめなかった。「でも、楽しいこともあったよ」
「まあね。イタリアはまた行きたいわ。セドも、向こうでできた友達と文通してるんでしょ」
「うん。向こうでも、そろそろ学校が始まるって書いてあった」
会話の間にも、また1つ星が流れていく。イタリアでも同じ空が見えるんだろうかと、レイチェルはぼんやりと考えた。鮮やかな青い空と、青い海が瞼の裏に蘇る。イタリア旅行はとても楽しかったのが、この夏季休暇の唯一の救いだった。もしもあの旅行がなかったなら、レイチェルの夏休みは本当につまらないものになってしまっていただろう。ディゴリー夫妻への感謝は膨らむばかりだ。
「とうとう新学期が始まっちゃう」
小さく呟いて、レイチェルは両手で口元を覆った。明日はとうとう9月1日だ。ホグワーツに行けば自由に外を出歩けるし────もっともさっきのおじさんの話を考えるとそれも今となっては怪しいが────友達にも会えると待ち遠しかったけれど、新学期が始まると言うのは全ていいこと尽くめなわけじゃない。
「どうしよう。私達、本当にOWL学年になっちゃうんだわ……」
「どうしたの、今更」
確かに今更だけれど、急に実感が追い付いてきたのだ。夜風のせいか、それとも精神的なものか、少し寒気がするような気がした。夏休みが終わってしまう。新学期が始まってしまう。レイチェル達は、5年生になってしまう。いや、なれなかったらそれはそれでとても困ってしまうけれど。
「私、ちゃんとOWLを乗り切れるかしら……」
レイチェルは不安に顔を曇らせた。1年生の頃から毎年見て来た、OWLを控えた5年生達の様子が頭に浮かぶ。皆暇さえあれば机か教科書のどちらかに齧りついていて、顔色は悪く、疲れていた。寝不足で隈を作っている人も居たし、ストレスで倒れて医務室に運ばれる人も居た。今年は、レイチェル達がその立場になるのだ。「上級生は皆同じようにOWLを受けて来たんだから、レイチェルだって大丈夫だよ」
「だといいけど……」
ホグワーツ生なら誰もが避けては通れない道だ。それにOWLで全科目落第した人なんて言うのは聞いたことがないし、レイチェルも真面目に勉強すれば何とかなるだろう。それでも、6年生になっても続けたい科目で必要な成績を取れなかったらどうしようとか、将来の仕事に何が必要かを考えなくちゃとか、そう言う漠然とした不安は消えない。尤も、こんなことは今考えたってどうしようもないことくらい、わかっているけれど。
「OWLなんて、まだまだ先だって思ってたのに……」
去年だって一昨年だって、5年生になったらああなるのねと言ったりすることはあったけれど、それでもまだ先のことだとどこか楽観していた。それがどうだ。明日からもう5年生だ。まだ1年近く先のことだとは言え、学校に居たら1年なんてあっと言う間だと言うことは今までの学校生活で十分理解している。
「入学した頃は、5年生ってもっと大人だと思ってたわ」
自分がまだ小さな1年生だった頃は、5年生なんてすごく大人に見えた。きっともう将来の夢も目標もしっかり決まっていて、それに向けて迷いなく進んでいるんだろうと、そう思っていた。少なくとも、レイチェルの目に映っていた人達はそう見えた。自分も5年生になる頃にはきっと、そうなれるんだろうと。
まあ、悲しいことにレイチェルは現状、そんな風にはなれてはいないわけだけれど。
「そうだね。寮まで引率してくれた監督生が、すごく大人びて見えて……憧れたな」
実際、どうだったのだろう。自分が1年生だったからそう見えただけで、彼らも今のレイチェルと同じに、悩んだり不安になったりしていたのだろうか。明日初めてホグワーツに足を踏み入れる新入生の目に、レイチェルはどんな風に映るのだろう。そう考えてレイチェルはふっと口元を緩めた。
「セドならきっと、立派にやれるわ」
少なくとも、セドリックはきっと、1年生にとって憧れの監督生になるだろう。かつて、レイチェル達が1年生のときに、そうだったように。
寝返りを打つようにしてセドリックの方へと体を向けると、こちらを見ていたセドリックと目が合った。
「監督生、頑張ってね。それに、クィディッチも」
「うん。レイチェルも」
セドリックが照れくさそうにはにかんだ。不安になったところで仕方がないし、レイチェルはOWLと自分の進路のことさえ考えていればそれでいいのだから、セドリックに比べればちっとも大変じゃない。今からこんな風に泣き言を言っていてどうするのだ。
「一緒に、頑張ろう」
レイチェルがこの4年間で見て来た通り、OWLはとても大変なのだろう。悩むこともきっと多い。けれど、ホグワーツ生なら誰もが通る道だ。レイチェルだけが特別じゃない。それに、一人でもない。一緒に頑張れる友達が居る。セドリックが居る。ふいに指先が触れたので、どちらからともなく手を繋いだ。地平線の果てまで広がる空には、数え切れないほどの星が煌めいている。
見上げた空に、星が流れていく。どうか今年が素敵な1年間になりますようにと、レイチェルはそっと願いを乗せた。