レイチェルのこの1週間を振り返るとするならば、「憂鬱」の一言に尽きる。
ここのところ、ホームステイだけを楽しみに過ごして来たのだ。それなのに、それを取り上げられてしまったら、一体何をすればいいと言うのだろう?
にっくき元凶たるシリウス・ブラックは依然逃亡中。すると当然、レイチェルは引き続き、保護呪文から外に出ない範囲で大人しく過ごすことを余儀なくされた。とは言え、元々家を空ける予定だったのだ。そのために課題もほとんど終わらせてしまったので、やるべきこともやりたいことも、家の中になんて残っていない。2週間近くも宙に浮いてしまった時間を、レイチェルは完全に持て余してしまった。もう課題は片付いたんだし、何でも好きなことをしていいのだと自分に言い聞かせてみても、本当なら今頃マグル製品に囲まれて生活しているはずだったのにと考えると、何に対してもやる気が起きなかった。こっそり抜け出してオッタリー・セント・キャッチポールへ足を伸ばそうなんて気力すらも湧いてこない。あの村を少し散策したところで、自分がマグルとして生活できるわけじゃないのだ。わざわざ夏休みなんかに脱獄してくれたシリウス・ブラックや、いつまで経っても捕まえられない魔法省や吸魂鬼が悪いのだとセドリック相手に愚痴ったりもしたが、それだって2日もすれば尽きてしまう。
何をするでもなく部屋に閉じこもっているレイチェルを、善良なセドリックやディゴリー夫妻はひどく心配し、あの手この手で元気づけようとしてくれた。ありがたかったし、心配をかけて申し訳ない気持ちもあったが、だからと言ってマグルの町どころか、友達の家すらも外出許可が出るわけではない。ホームステイの後はエリザベスの家に泊まりに行く予定だったが、それも何だかんだで流れてしまった。シリウス・ブラックが捕まったと言うニュースでも入れば少しは気が晴れただろうが、それもない。窓を閉じ切った部屋の中で、ベッドに転がってぼんやりと天井を見上げていると、何だか全てがどうでもいいような気がした。水槽の中の魚って、こんな気持ちなのだろうか。

「太陽が眩しい」

ようやくレイチェルが外に出られたのは、夏休みも残りあと1週間を切ろうと言うある日のことだった。目的は、新学期に必要な学用品の買い物だ。本来ならこれもおじさん達が必要な物を揃えて、レイチェルとセドリックは留守番のはずだったのだが、すっかり塞ぎこんでいるレイチェルに同情したおじさんが、ダイアゴン横丁への外出許可を出してくれたのだった。

「教科書は重いから最後よね。薬問屋はもう行ったし……セドは買いたいものある?」
「箒磨きクリームを補充しないとダメかな。そろそろ底をついてきた」
「もう? ……ちょっと磨きすぎなんじゃない?」
「そんなことはないと思うけど……レイチェルは?」
「私は文房具。新学期だし、新しいのを揃えたいもの」

どうせこの1年はほとんど机に齧りついて過ごすことになるに決まっているのだから、せっかくなら可愛いノートや羽根ペンが欲しい。お気に入りのものに囲まれていれば、少しは楽しい気分で勉強に臨むこともできるだろう。
少し小腹が空いたし、フローリアン・フォーテスキューに行って何か食べよう。そう2人して意見がまとまったので、レイチェル達は目抜き通りを引き返すことにした。
通りは相変わらずたくさんの魔法使いで賑わい、活気に満ちている。オープンカフェのテラスでは気難しそうな顔をした魔法使い達が熱心に議論を交わしていたし、恰幅のいい魔女の集団が急ぎ足で通りを進んでいった。新学期が近いせいか、ホグワーツ生らしき子供達の姿もちらほら見かけた。いつもならわずらわしいはずの人混みさえ何だか嬉しくて、自然とレイチェルの足取りは軽くなる。
気のいいフローリアンは、一体どこから情報を仕入れたのか、監督生になったお祝いだと言ってセドリックに大きなチョコ・ナッツ・サンデーを振る舞ってくれたのだった。

「……あ」

自分の分のストロベリー・サンデーを食べ進めていたレイチェルは、ふとテラスの反対側に座っている人物へと視線を止めた。ホグワーツの生徒らしい、レイチェルとそう変わらない少年が、退屈そうに何か───たぶんレポートだろう────を書いている。眼鏡をかけた、痩せた黒髪の少年。横顔だけだし、パラソルの影が落ちてわかりにくいけれど─────やっぱり、そうだ。ハリー・ポッターだ。

「どうかした?」
「……ううん、何でもない」

不思議そうな顔をするセドリックに首を振って、レイチェルはアイスティーをストローで啜った。
「あそこにハリー・ポッターが居る!」なんてわざわざ伝えるのはいかにも野次馬じみていると思ったし、かと言って、本人のところに歩いて行って「こんにちは、ハリー。元気だった?」なんて声をかけられるほど、レイチェルはハリー・ポッターと親しくない。前みたいな苦手意識はなくなったけれど、そもそも向こうはレイチェルの名前すら知らないだろう。いくら有名人だから慣れているだろうとは言っても、いきなり知らない人間に馴れ馴れしくされるのは、そんなに楽しい事ではないだろう。
最後のイチゴを突きながら、レイチェルはもう一度、ハリー・ポッターへとそっと視線を向けてみた。こうして見ると、やっぱりどこにでも居る、ごくごく普通の少年に見える。どちらかと言えば落ち着いている印象で、トロール相手に大立ち回りをやらかしたり、真夜中に寮を抜け出したり、暴走したブラッジャーに突っ込んで行ったり、そんな無茶ばかりをやらかす人間には到底見えない。ましてや、例のあの人や恐ろしいバジリスクを退治したようには、とても。けれどその全ては、紛れもなく、あの少年のやったことなのだ。
苺の酸っぱさとアイスクリームの甘さが、口の中で溶けていく。穏やかな空気に違和感なく溶け込む少年の姿を見つめながら、レイチェルは不思議だなあと首を捻るのだった。

 

 

 

おいしいアイスクリームを食べてすっかり満足した2人は、そこから程近い高級クィディッチ用品店へと向かった。特に今必要なものはないし、箒磨きクリームを買うだけだから、すぐに終わる────そんな店に入る前のセドリックの言葉に反して、レイチェルが店に足を踏み入れてからもう30分も経っていた。

「『10秒で240km加速』……って、そんなにすごいの?」
「すごいなんて言葉じゃ言い表せないよ」

長ったらしい説明書きを流し読みしてレイチェルがそんな感想を口すれば、セドリックが熱っぽい声で言った。視線は相変わらず、呪いでもかけようとしているみたいに一点に集中している。けれどまあ、それはセドリックに関してだけの話ではなく、店内のほとんどの人の視線は今やこの箒へと熱心に注がれていた。
炎の雷・ファイアボルト。そう書かれた箒は、店内の一番目立つスペースに飾られていた。世界最速の、競技用の箒。この箒を一目見た瞬間、セドリックは魂を抜かれたようになってしまった。
艶を帯びた黒い柄や繊細に整えられた尾は美しく、クィディッチにそれほど明るくないレイチェルの目から見ても洗練された印象の箒だ。最高級の逸品であることは間違いないのだろう。だからと言って、30分も身じろぎもせずに見つめていられるセドリックはやっぱりクィディッチに関することとなるとちょっとおかしい。

「きっと500ガリオンは下らないぞ」
「アイルランドのナショナルチームが注文したらしいな。あそこは次のワールドカップの優勝候補だ……」

近くに居た魔法使い達の話し声に、レイチェルぎょっとした。500ガリオン。本当だとしたら、学生のクィディッチで使われる箒の10倍以上だ。説明書きにも書いてあった通り、シンプルに見えて色々な高度な技術の粋が詰まっているのだろうけれど────箒1本に、500ガリオンだなんて。クィディッチでお金をもらっているプロの選手ならば、それくらいの値段は当然なのだろうか?

「……箒磨きクリームを買いにきたんでしょ、セド」

何にしろ、レイチェルやセドリックのお小遣いで買えないことは確かだ。誕生日やクリスマスですら、プレゼントにねだれるような額じゃない。セドリックのTシャツの裾を引っ張って囁くと、ようやくセドリックはファイアボルトから名残惜しそうに視線を外した。
目当ての物を探しに行ったセドリックを横目に、レイチェルは再びファイア・ボルトをしげしげと見つめた。確かに高級感があって、綺麗な箒だ。とは言え、この箒1本で500ガリオンだなんて、やっぱり信じられない。ニンバスやクイーンスリープだって十分素晴らしいものに思えるけれど、そんなに違うものなのだろうか。セドリックがあれだけ夢中になっていたところを見るとそうなのだろうけれど、やっぱりレイチェルにはよくわからない。

レイチェル?」

そんなことを考え込んでいたら、ふいに誰かに名前を呼ばれた。セドリックが買い物を終えたのだろうかとも思ったが、セドリックの声じゃない。一体誰だろうと不思議に思いながら声のした方を振り向いて、レイチェルは目を見開いた。

「……オリバー?」

視線の先には、背の高い青年が立っていた。元々背が高かったが、最後に会った時からまた目線が高くなったような気がする。グリフィンドールのクィディッチチームのキーパーでキャプテンでもある、オリバー・ウッドがそこに居た。

「ひ、久しぶり」
「ああ。久しぶり」

ほんの短い挨拶なのに、奇妙に声が上ずってしまった。ここのところ部屋に閉じこもってばかりだったし、そうでなくても家にこもりきりだったので、セドリック以外のホグワーツ生と会話するのは久しぶりだ。そのせいか、何だか緊張してしまう。

「ファイアボルト。良い箒だよな」
「……ええ。そうみたいね。でも、500ガリオンもするんでしょ?」
「ああ。納得の逸品だよ」

熱っぽいウッドの口ぶりはさっきのセドリックとよく似ていて、レイチェルはそっと肩を竦めた。レイチェルにはよくわからないだけで、どうやらクィディッチが好きな人にとっては普通の箒との差は一目瞭然らしい。

「こんな箒が一本でもグリフィンドールにあればな……ニンバス2001なんか目じゃない」

ファイアボルトを見つめる瞳は、きらきらと輝いている。さっきショーウィンドウにしがみついていた小さな男の子と変わらない。レイチェルは何だかおかしくなってくすくす笑ってしまった。普段は大人びているのに、どうしてこの人はクィディッチのことになると、こんな風に幼くなってしまうのだろう。

「そう? 残念。今年こそ、箒の性能よりも選手の腕だって、貴方達が証明してくれると思ってたんだけど」

ウッドがここまで言うのだから、確かにファイア・ボルトは素晴らしい箒なのだろう。学生のクィディッチ・リーグにたった一本この箒が手に入ったとしたら、周囲を圧倒できるほどの。けれど、その発言はレイチェルの知るオリバー・ウッドらしくないように思えた。

「それは……勿論、そうするつもりだ」

ウッドは虚をつかれたように目を白黒させた。グリフィンドールは去年ニンバス2001に敗れず、箒の性能よりもチームの団結や乗り手の腕が重要なのだと証明してみせた。けれど結局は、クィディッチ・リーグそのものが中止になってしまったせいで、トロフィーは未だスリザリンの手中だ。今年こそあれを取り返してくれるんでしょうと────まあレイチェルはレイブンクロー生なので明言は控えるのが賢明だ────そんな意味をこめて微笑んでみせると、ウッドもふっと口元を緩めた。

「そうだな。ないものねだりしたって仕方ない。じゃあな、レイチェル
「ええ。また、新学期に」

どうやら友達と一緒だったらしい。店を出て行くウッドの背中を、レイチェルは手を振って見送った。
そう言えばウッドは今年で卒業してしまうのだから、ウッドの試合を見れるのは今年で最後だ。やっぱり、卒業後はプロのクィディッチ選手になるのだろうか? せっかくだから聞いてみればよかったかもしれない。

レイチェル!待たせてごめん」

人垣をかき分けてセドリックがやって来た。ファイアボルトに見惚れている見物客達のせいで、店内はどんどん混み合って来ている。むっとした熱気から逃れようと、レイチェル達は足早に店を後にした。通りに出てもまだ、店主が高らかにファイアボルトの性能を称賛する声が響き渡っている。

「クィディッチ、楽しみね。セド」
「え? うん……どうしたの、急に」
「そう思っただけ。さてと、のんびりしてるとおじさん達との待ち合わせの時間になっちゃう。急いで教科書を買わなきゃ」

今年のクィディッチ・リーグは間違いなく、今までにないほど白熱する。ウッドにとって最後のクィディッチ・リーグなのだから、グリフィンドールは何としても優勝杯を手にしたいと思うだろう。スリザリンも昨年の雪辱をを晴らしたいと思っているはずだ。レイブンクローも、今のチェイサー達のチームワークは抜群だと聞いているし、チョウも好調だ。それに────ハッフルパフは、セドリックがキャプテンなのだ。これが楽しみでないはずがない。

OWLは憂鬱だけれど、そう考えると、俄然新学期が待ち遠しくなるのだった。

予期せぬ再会

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