ところがレイチェル達の予想に反して、8月に入って1週間が経っても、ブラックシリウス・ブラック再逮捕の記事が新聞に載ることはなかった。ブラックは未だ逃亡中だ。しかも目撃情報は一切なし。マグル用にホットラインが設置されているらしいが、そっちにも通報はなし。確かなのはブラックが脱獄したことと捕まっていないこと、ただその2つきりだ。
「『ブラックは闇の中』『ブラック捜索進展せず』『ブラックいまだ逃亡中』……毎日毎日、こればっかり」
「仕方ないよ。それくらいの異常事態ってことじゃないかな」
新聞を片手にレイチェルが溜息を吐くと、セドリックが苦笑した。こんなにも毎日毎日暗いニュースばかりじゃ気が滅入る。幸いと言うべきか、まだマグル、魔法使い共に犠牲者こそ出ていないらしいけれど、それも時間の問題だろう。
「父さんも今はブラック逮捕に駆り出されてるらしいよ」
「おじさんまで? だって、全然関係ない部署じゃない」
「魔法省職員は今はほぼ全員がそっちにかかりきりだって。一秒でも早くブラックを逮捕して、魔法省の信頼を回復しないとってことらしい。昨日の夜、父さんが母さんに話してた」
「なるほどね」
確かに、今の魔法省に対する信頼度は決して高いとは言えないだろう。「1週間経っても何の進展もないのは、闇祓いの質の低下に他ならない」「そもそも、吸魂鬼任せのアズカバンの管理体制に問題があったのではないか」────ここぞとばかりに魔法省をこき下ろす記事に、レイチェルは途中で読むのをやめた。そりゃレイチェルだってブラックに早く捕まってほしいし、どうして些細な手掛かりすら掴めないのかとやきもきする部分もあるけれど、今は何よりも優先されるのはブラックの再逮捕のはずだ。こんな責任の追及なんて言うのは、ブラックが逮捕されてからじっくりやればいいことじゃないだろうか。
ああ、もう、何だかイライラする。保護者の意向により、ここのところ家から一歩も出れていない。チェスもゴブストーンも爆発スナップも飽きたし、レイチェルが作れるお菓子のレパートリーも一巡した。暇を持て余すあまり、課題は予定よりも早く進んでしまっている。家の中でしか過ごせないって、退屈だ。こんな状況じゃ仕方がないと納得はしているし、言いつけを破ってまで外に出る気にはなれないが、それでもやっぱりストレスは溜まる。
「ここのところ、天気まで悪いし。嫌になるわ」
「半分は吸魂鬼の影響もあるらしいけどね……魔法使いの多い地域は、集中的に警備をしてるらしいから」
8月に入ってからと言うもの、上空に立ち込める厚い灰色の雲も、また憂鬱に拍車をかけていた。
新聞以外に外の情報を持たないレイチェルには実際のところはわからないが、イギリスの魔法界全体がブラックの逃亡によって不安に陥っていることは想像に難くない。それは疲れ切ったおじさんの顔と、日に日に悲劇的に、そして攻撃的な論調になっていく新聞を読んでいれば明らかだ。加えて、一昨日の新聞は最悪なまでに読者の不安を煽った。「こんなに足跡を掴めないと言うことは、もしやもうブラックは我々の預かり知らぬところで魔法使いを襲い、杖を手に入れたのかもしれない」。確かに言われてみればその通りで、それを読んだ時はレイチェルでさえ不安な気持ちになった。今までは、いくらブラックが凶悪犯とは言え、丸腰だと思っていたからこそ、保護呪文の中ならばある程度は安心だと思っていたのだ。それが相手も杖を持っているとなれば、どんなに厳重に防衛を凝らした所で破られてしまうかもしれない。もしかしたら、今にも窓を破ってブラックが入って来るかも────そこまで考えて、レイチェルはふうと溜息を吐いた。クッションを胸に抱きしめ、ごろりとベッドを転がる。
「それにしても、どうやって脱獄したのかしら? 今はともかく、脱獄したときは杖を持ってなかったんでしょ? アズカバンはホグワーツと同じで、姿くらましは使えないって話だし」
ここのところ新聞がそればかりのせいで、レイチェルは今までよく知らなかったアズカバンやシリウス・ブラックについて、嫌でも詳しくなってしまった。
アズカバンは北海の真ん中にあるらしい、絶海の孤島だ。他には何もない、監獄としての機能だけのために存在する島。万が一にも囚人が脱獄する可能性を考慮して外界からは隔離されていて────まあ実際今回こうして脱獄囚が出てしまったわけだけれど────姿くらましも使えなければ、煙突飛行ネットワークにも組み込まれていない。通常は箒を使うか、特別に移動キーを用意するかしか移動手段はない。数人の人間の看守のために箒はあるけれど、箒小屋は鍵や呪文で何重にも守られている。囚人は収監される時に杖を剥奪されてしまうので、もしも独房から脱出できたとしても、箒を手に入れることは不可能だ。実際、ブラックが脱獄した後も、箒小屋は施錠されたままで、中の箒の数も合っていたらしい。となれば海を泳ぐしかないが、極寒の海を数百キロも泳ぐのは至難の技だ。それに、吸魂鬼は人間の魂の匂いを敏感に嗅ぎ取るので、逃げ場のない海の中では簡単に見つかってしまう。これはもしもブラックが箒で飛んでいたとしても同じだ。それなのに、ブラックは吸魂鬼の目を出し抜いて、今日まで逃げおおせている。まるで、監獄の中で、ブラックの姿が透明になってしまったみたいに。
「それは……何か……吸魂鬼を出し抜くような闇の魔術を使った……とか……?」
「杖も使わずに?」
言ってるセドリックも自信はなかったらしく、レイチェルが問い返すと苦笑してみせた。
確かにセドリックの言った説が一番納得しやすい。けれど、それでもやっぱり疑問は残る。杖を使ったと言うなら、吸魂鬼の目を誤魔化せたのもわからなくもないのだ。自分の杖じゃなくても、例えば、看守の杖を奪って手に入れたとか。でも、その日の当番だった3人の看守の杖は本人達の手元にあったらしい。ブラックは脱獄した時点では確かに丸腰だったのだ。
「そもそも、どうして今頃脱獄しようと思ったのかしら? ブラックがアズカバンに入れられたのって、もう12年も前なんでしょ?」
「それは……最近まで、その方法が使えなかったか……それか、何か今じゃなきゃいけない目的があったとか……」
「目的って……やっぱり例のあのひ────」
その時だった。コンコンと、微かに何かをノックするような音が聞こえた。窓の方向からだ。おじさんは仕事中だし、おばさんはキッチンに居る。そして何より、ここは2階だ。レイチェルとセドリックは思わず顔を見合わせた。
「…………今、何か聞こえた?」
「たぶん……窓からだよね?」
コンコン。もう一度、今度はさっきよりもはっきり聞こえた。コンコン、コンコン、コン。音は段々と感覚が狭くなり、大きくなっていく。何かを引っ掻くような音、そしてガタガタと窓枠を揺らす音がした。一体何が原因なのだ。レイチェルは立ち上がって窓辺へと近寄ろうとしたが、セドリックがそれを制した。
「レイチェル。下がって」
「でも、セド……」
「いいから。下がって」
杖を持ってないのはセドリックだって一緒なのに。レイチェルはそう反論しようとしたが、有無を言わせないセドリックの口調に引き下がった。セドリックは緊張した面持ちで、ゆっくりと窓辺へと近づいていく。そうして窓の外を覗きこんだとき、その表情は安心したように緩んだ。
「何だ。ふくろうだよ」
「ふくろう?」
「うん。ホグワーツからだ」
なんだ。そう言えば確かに、いつもならもうとっくに教科書リストが届いていている時期だ。それに、普通窓から来るのはふくろう便に決まっている。ちょっと神経質になっているのかもしれないな、とレイチェルは小さく息を吐いた。
セドリックが窓を開け放つと、一羽の森ふくろうが部屋の中へ入って来た。まだ若そうなのに、何だか随分とやつれた様子で、飛び方もふらふらと危なっかしい。ふくろうは床へと着地すると、力なくホーと鳴き、レイチェル達に向かって手紙の括りつけられた足を差しだした。
「ありがとう」
「なんだか疲れてるみたい……保護呪文を強化したから、迷っちゃったのかしら」
「とりあえず、水とふくろうフーズかな。取って来る」
セドリックはそう言って立ち上がると1階へと降りていった。よほど疲れているのか、目を閉じてじっとしているふくろうの羽根を撫で、レイチェルはその足から手紙を外してやった。封を切り、中身を取り出す。一枚目の羊皮紙は、いつもの新学期の開始のお知らせだった。見慣れたマクゴナガル教授の几帳面な文字が並んでいる。ホグワーツ特急は9月1日の11時にキングズクロス発。去年と同じだ。そうして2枚目の教科書リストへと進もうとしたところで、セドリックが戻ってきた。
「新しい教科書、何だった?」
「新しく買わなきゃいけないのは、基本呪文集の5学年用と、『自己防衛呪文学』。それに……『怪物的な怪物の本』?」
てっきり防衛術の教科書が2冊なのかと思ったが、『怪物的な怪物の本』の指定教科は魔法生物飼育学と書かれている。どうして、魔法生物飼育学で怪物なんて物騒な言葉が出てくるのだ。レイチェルが眉を寄せていると、セドリックがリストを覗きこんで首を傾げた。
「魔法生物飼育学、教授が変わるのかな」
「それはいいけど……え? 何? 怪物を飼育しなきゃいけないの?」
全部がそうだとは言えないが、セドリックの言う通り、教科書が変わると言うことは先生も変わる確率が高い。ケトルバーン先生はもう結構な年齢なので、引退するとしてもおかしくはなかった。実物を見ていないから何とも言えないけれど、タイトルからして不穏な予感しかしない。学年が上がれば扱うい生物も難しくなるのは当然だけれど、怪物を育てるなんて言うのはまっぴらごめんだ。
「今年も防衛術の先生は見つかったみたいだね」
「そうね。ロックハートよりはまともだといいんだけど」
セドリックの言葉に、レイチェルは肩を竦めた。まあ少なくとも、指定された教科書を見る限りはロックハートよりはずっとまともそうな気がする。けれど、去年の教科書は到底教科書とは呼べないような代物だったのでそもそも比較にすらならないだろう。OWLの年だし、せめて普通に授業のできる先生に来てほしい。レイチェルは小さく溜息を吐いた。
「セド、こっちがセド宛て」
「あ、うん。ありがとう」
「これって……」
曇りなく磨きあげられた銀が、光を反射して輝く。盾に似た形は凝った彫刻でぐるりと縁取られている。中心にPの文字が浮き上がり、その下に重なるようにして、アナグマの図柄が彫られている────ハッフルパフの監督生バッジだ。そう言えば、5年生になったら各寮から男女1人ずつ監督生が選ばれるんだった。正直自分にはあまり関係ないと思っていたし、旅行やホームステイやシリウス・ブラックや、色々なことがありすぎて忘れていた。
「僕が……?」
穴が空きそうなくらいに熱心にバッジを見つめたまま、セドリックが熱に浮かされたように呟く。レイチェルも、同じようにきらきら光るバッジを呆然と見つめていた。
セドリックが、監督生。何だか信じられないような気持ちもあったが、意外ではなかった。むしろ、納得する気持ちの方が強かった。もう1年も前から、セドリックはきっと監督生になるだろうなとぼんやりと思っていた。学年1位の秀才で、誰にでも親切で、皆から好かれていて、勤勉で、正義感に溢れていて。まさにハッフルパフ生の鑑のような生徒だと、スプラウト教授もよく褒めている。セドリックよりもハッフルパフの監督生に相応しい人間なんて他に居ない。セドリックの努力が、人柄が、先生達に認められたのだ。
────セドリックが。レイチェルの幼馴染が、監督生。何て素敵で、喜ばしいことなんだろう。じわじわと、頬が紅潮する。レイチェルは立ち上がって、バタンと勢いよく部屋のドアを開けた。
「おばさん! セドが、セドが監督生に選ばれたわ!」
足音が立つのも気にせずに、階段を駆け降りる。新学期からは、あのバッジがセドリックのローブに輝く。ホグワーツの生徒なら、誰だって監督生に憧れる。その監督生にセドリックが選ばれたと言うことが、まるで自分のことのように嬉しくて、誇らしかった。
シリウス・ブラックの事よりも、レイチェルにとってはずっと大ニュースだ。