その日、レイチェルにとってはごくごく普通の朝だった。
いつもと同じに時計の文字盤の鳥の鳴く声で目覚め、パジャマから着替えると、バスルームに行って顔を洗った。トーストとリンゴの軽い朝食を食べて、歯を磨いて。そうして、今日やる予定の薬草学の課題を持ってディゴリー家へと向かった。ここまでは本当に、いつも通りだった。
グラント家とディゴリー家は隣同士だ。とは言っても、マグルの住宅街みたいに、ぴったりくっついて建っているわけじゃない。距離にして約50ヤードは離れているけれど、周囲に他に家らしいものはないのでそれでも一応お隣さんと言うことになる。歩けばすぐだし、わざわざ煙突飛行を使うほどの距離じゃない。なので、レイチェルがディゴリー家を訪ねるのはいつも、魔法族としては珍しく玄関からだ。大きなリンゴの木と、色とりどりの花が植えられた前庭を通り、玄関ポーチに立ってドアベルを2度鳴らす。ここまでも、いつものこと。だがそれに対する反応は、いつもとは全く違っていた。

「……誰だ?」
「え? あの……レイチェルです……」

不審そうな声がドア越しに返って来た。エイモスおじさんの声だ。名前を言ってもやっぱりドアは閉じたままで、中からぼそぼそと誰かと喋るような声が聞こえてきた。
いつもならここで、おばさんが「いらっしゃい」とドアを開けてくれる。大体レイチェルはいつも同じような時間に訪ねて来るからだ。何かおじさん達を怒らせるようなことをしてしまっただろうか? レイチェルが不思議に思って首を傾げていると、また声がした。

「…………息子が昔大切にしていたテディベアの名前は?」
「えっと…………ロディ? ロデリック・プラムトン」

今度は質問だ。一体どうしたのだろうと思いつつも答えれば、次の瞬間勢いよくドアが開いて腕を強く引っ張られた。それからまたバタンと勢いよくドアが閉じる。レイチェルを見下ろすおじさんの表情は強張っていて、その手には杖が握られていた。

レイチェル!まさか外を歩いて来たのか!」
「え? だって、いつもそうじゃない……」
「危ないだろう!暖炉を使いなさい!」
「え? ど、どうして?」

いつもは穏やかなおじさんの剣幕に、レイチェルは目を白黒させた。いつものことなのに、どうして今日に限って。おじさんだけじゃなく、おばさんも様子がおかしい。どこか落ち着かない様子で、顔色が悪いように見える。おばさんは頼りなげにおじさんのローブの袖を掴んだ。

「ああエイモス、気を付けて……」
「大丈夫だ。もう闇祓いは動きだしてる……行って来る。愛してるよ」

不安げな表情のおばさんを安心させるように微笑むと、おじさんはおばさんにキスをした。まるでこれが永遠の別れみたいに、情熱的に。「いってらっしゃいのキス」にしても、ちょっと変だ。一体全体、今日の2人はどうしてしまったんだろう?

「あれ、レイチェル。来てたんだ。おはよう」
「あ、うん。おはよう、セド」

レイチェルが呆気にとられていると、まだパジャマ姿のセドリックが階段を下りてきた。よかった、セドリックはいつも通りだ。いや、でも、いつもならもうとっくに着替えているはずなのに。レイチェルが頭に疑問符を浮かべたままでいると、セドリックが苦笑した。

「その感じだと、新聞はまだ読んでないみたいだね」
「読めるわけないじゃない。知ってるでしょ、ママは一昨日からドイツよ」

グラント家の日刊預言者新聞の契約者はレイチェルの母親だ。配達のふくろうが目指すのはあくまで母親の居場所であって、母親が家を空けてしまえばレイチェルの元に新聞は届かない。そんなこと、セドリックだって知ってるだろうにと眉を寄せれば、苦笑と共に新聞が差しだされた。

「……『アズカバン破られる』?」

一面記事は、そんな見出しと写真だけで半分以上が埋まっていた。アズカバンと言えば、吸魂鬼が看守をし、鉄壁の守護を誇る監獄だ。収監された囚人は吸魂鬼に幸福を吸い取られて、生きる気力をなくしてしまう。だから脱獄なんて絶対にありえないと言われていた。にも関わらず、昨晩とうとう、初めての脱獄者が出た────大事件だ。どうやらレイチェルががぐっすり寝ている間に大変な事が起こっていたらしい。

「昨日の夜から大騒ぎだったよ。父さんも母さんも、保護呪文をかけ直さなきゃってバタバタしてて……おかげで、僕も寝不足だよ」
「……全然知らなかったわ」

レイチェルはそのまま記事を読み進めた。脱獄の方法は不明であること、その脱獄者とは過去にマグルを13人も殺害した凶悪犯であること────シリウス・ブラック。名前は聞いたことがある。魔法界屈指の名門で、純血主義家系でもあるブラック家の出身で、確か例のあの人の腹心だったはずだ。そんな恐ろしい魔法使いが脱獄しただなんて。いまひとつ実感が湧かないものの、レイチェルはさっきのおじさん達の反応に納得した。確立は低いとは言え、さっきレイチェルが呑気にディゴリー家に向かって歩いている間に、シリウス・ブラックに襲われていた可能性もゼロではなかったわけだ。

「ごめん、レイチェル。準備して来るから待ってて」

セドリックがあくびを噛み殺しながら、階段を上がっていく。やっぱり眠そうだ。本人も言っていた通り、寝不足なのだろう。そんな状態で箒に乗らない方が良いんじゃないかと思ったが、言ったところでクィディッチ馬鹿のセドリックが聞くはずもない。
ふう、と溜息を吐いてページをめくる。朝から暗いニュースは気分が憂鬱になる。ここのところは、明るい話題が多かったから余計にだ。マグルを憎んでいる凶悪犯が、野放しになっているだなんて。マグルも魔法使いも、誰も怪我をしないうちに捕まればいいのだけれど。

 

 

それからセドリックの支度が整うのを待って、2人はいつも通りストーツヘッド・ヒルに箒に乗りに行く────はずだった。が、箒を持ってドアを開けようとした時点でおばさんに止められた。
シリウス・ブラックがアズカバンに戻るまで、クィディッチの練習は禁止。突如言い渡された厳命にセドリックはショックを受けた様子だったが、レイチェルはまあそうだろうなと納得した。考えてみれば当然だ。凶悪犯が野放しになってる時に、ほいほいと子供を外に送り出す親はまともじゃない。たとえ杖を持ってたとしたってそんな凶悪犯に渡り合えっこないが、まして今のレイチェル達は夏休みで丸腰だ。
加えて、ブラックはマグルを13人も殺したのだ。オッタリー・セント・キャッチポールはまさしくブラックの憎悪の対象である「マグルの村」であり、そこからそう遠くないストーツヘッド・ヒルも自然と危険区域に含まれるだろう。しかも、ブラックはこのあたりに魔法使いが多く住んでいることも知っているはずだ。誰かを襲って杖を奪おうと潜んでいる可能性だってある。
まあ何はともあれ、一歩でも保護呪文の外に出てはいけないと言いつけられたので、今日の午前中は家の中で大人しく過ごさなければならない。

「クイーンをbの2へ。チェック」

レイチェルの声に従うように、白のクイーンがスルスルと盤上を滑る。
箒に乗れないからと言って、課題をする気分にはなれなかったので、レイチェルはディゴリー家のダイニングでセドリックを相手にチェスに興じていた。煙突飛行で自分の家に帰ったっていいのだけれど、凶悪犯がそのへんをうろうろしているかもしれない時に、誰も居ない家に一人きりと言うのは落ち着かない。追い詰められた盤上を見て、セドリックは困ったように頭を掻いた。

「……キングをcの5へ」
「クイーンをcの4へ。チェックメイト」

容赦なくレイチェルが畳みかけると、白のクイーンが颯爽と王座から立ち上がる。これでこのゲームは詰みだ。勢いをつけて振り回した椅子は黒のキングの胴体へ当たり、ガシャンと音がして無残に盤上に散らばった。

「さあ、元の配置に戻って……次、セドが先手よ」

レイチェルの指示に、盤上のあちこちに散らばっていた駒達ががやがやと移動を始め、最初の配置へと整列する。対戦表に自分の勝利を書きつけると、レイチェルは次の試合を始めるべくセドリックを促した。

「セド?」

返事がない。どんな手にするか考え込んでいるのかもしれないとも思ったが、表情を見るに違うようだ。焦れたポーン達が野次り出し、盤上はやいやいとうるさくなったが、それにも無反応。ぼんやりしたままのセドリックの姿に、レイチェルはふうと溜息を吐いた。

「さっきから何を考えてるの?」

元々考えてることが顔に出やすい上、頭が良いから先まで考え過ぎてしまうせいか、セドリックはチェスがあまり得意じゃない。とは言え、いくら何だってここまでレイチェルがあっさり勝ちすぎるほどではないはずだった。さっきの試合だって、いつものセドリックならもう3手早く勝ち目がないのに気づいていたはずなのに。要するに、集中してないのだ。

「今のセド相手じゃ、勝ったところで楽しくないわ」
「ごめん……」
「別に謝らなくていいけど……で、何を考えてたの? チェス、嫌だった?」
「そうじゃないよ」

別に怒ってるわけじゃないのだ。誰にだって集中できない時はあるし、そもそもチェスでもしようと誘ったのはレイチェルだ。それだって別に暇だから提案しただけで、どうしてもチェスがしたくてたまらなかったわけじゃない。気分が乗らないのならそう言ってくれればいいのに。レイチェルが眉を寄せていると、退屈した駒達がまた騒ぎ出した。

『何、チェスが嫌だと!? それは聞き捨てならんぞ!』
『私には謝ってほしいわ。あそこはナイトが待ち構えてたんだから動くべきじゃなかったの!』
『そうとも! 集中したまえ、坊や!』
『君の判断ミスで粉々に砕かれるわしらの身にもなれ!』
『大体最近の若者と来たら……あ、おい、何をする!無礼だぞ、小娘!」
「はいはい、もういいの。今日はこれでおしまいよ、ありがとう」

チェスがうるさい。好き勝手なことを言う駒達をつまみ上げて、レイチェルは無理矢理箱の中へとしまい込んだ。駒も反抗的だし、もう今日はチェスは切り上げた方が良さそうだ。駒達は箱の中でキーキーわめいていたが、しばらくすると、静かになった。セドリックは気まずそうに視線を泳がせたが、やがてぽつりと呟いた。

「……シリウス・ブラック。ちゃんと捕まるかな」

何だか意外な気がして、レイチェルは目を見開いた。そんなに不安だったのだろうか。朝、新聞を渡して来た時は、全然そんな風に見えなかったのに。
おじさん達が保護呪文を強化したんでしょ? なら、ここは大丈夫よ────そう慰めを口にしようとして、レイチェルはセドリックの視線がちらちらと窓の外へ向けられていることに気がついた。窓の外の、ストーツヘッド・ヒルへ。その視線は、あそこにブラックが居るかもしれないと恐れていると言うよりは、キャンディが欲しくてそわそわしている小さな子供みたいだ。どうやらセドリックは、おばさんの言いつけを気にしているらしい。このままブラックが逮捕されなければ、ずっと箒に乗れないんじゃないかと、つまりそう言うことだ。
たった1日箒に乗ってないだけなのに。そう呆れる気持ちがないわけじゃないけれど、レイチェルだってもうマグルの本を読んじゃいけませんなんて言われたらきっと似たようなものだ。そう考えると、セドリックに同情した。

「2、3日の我慢よ。闇祓いはもう動いてるって新聞にも書いてあるじゃない」

シリウス・ブラックは確かに凶悪犯だし、あのアズカバンを脱獄するなんて大事件だ。レイチェルにはそれがどれほどのことなのかいまひとつわかっていないけれど、おじさんやおばさんの様子を見るに、想像よりもずっと大変なことなのだろう。けれど、魔法省には優秀な闇祓いが何人も居る。希望者はたくさん居るのに、数年に1人しか採用されないほどの難関。ホグワーツを首席で卒業したような人達の集まりだ。いくらブラックが凶悪犯でも、闇祓いをそう長い間出し抜けるわけがない。それに、吸魂鬼だって居るのだ。杖も持っていないと言う話だし、再びアズカバンに戻るのは時間の問題だろう。明日の朝には再逮捕の記事が載っているかもしれないし、もしかしたらレイチェル達が知らないだけで既に捕まっているかもしれない。そうなればまたすぐにでも、クィディッチの練習は再開できる。今日が少し特別なだけで、明日からはきっとまたいつも通りの毎日が戻って来るのだ。

「ね、セド。時間はあるし、何かお菓子でも作りましょ。セドも手伝って」

まあでも何にしろ、今日1日は家から出ることはできないのは変わりない。チェス以外の暇潰しが必要なのは明らかだった。確か、クッキーかスコーンの材料くらいならあったはずだ。それなら頭も使わないし、ちょっとした気晴らしくらいにはなるだろう。
ふと窓の外へと視線を向けると、マグルの小さな男の子達が遠くで遊んでいるのが見えた。空は晴れ渡っていて、吹き抜ける風に草が気持ちよさそうに揺れている。ここ1週間ほどは雨こそ降らなかったものの、ずっと天気がぐずついていたので、久しぶりの快晴だった。こんな日に箒に乗るのは気持ちが良いだろう。遠目に見えるオッタリー・セント・キャッチポールは、いつも通り平穏そのもので、レイチェルは小さく息を吐いた。

全く、今この瞬間も脱獄犯が近所をうろついているかもしれないなんて、嘘みたいな話だ。

いつもと同じで違う朝

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