“Vedi a Napoli e poi muori”.────「ナポリを見てから死ね」。イタリアには、そんな古いことわざがあるらしい。死ぬまでに絶対見ておけ。それくらい、ナポリの街は美しいのだと。そんな言葉にも納得してしまうほど、高台から見下ろしたナポリの街は素晴らしかった。
手前には、南イタリア特有の白い漆喰壁にレンガ色の屋根の小さな家が立ち並ぶ町並み。その向こうには、緩やかに弧を描いた海岸線。白い岩場へと打ちつけるさざなみは、絶えず形を変えて、繊細な白いレースのような模様を作る。遠く見える水平線の先には、雄大なヴェスビオ山が広がっていた。それだけでも十分に美しかったが、レイチェルが何よりも感動したのはその空と海の色だった。くっきりと分かれた境界は、それぞれの青が鮮やかに浮かび上がっている。海は空を映す鏡だと聞いたことがあるが、目の前に広がる海は、空よりもずっと深く、濃い青。太陽の光を浴びてキラキラと輝く様子は、言葉にできないくらい美しかった。
「海ってこんなに青いのね!」
レイチェルはまるで生まれて初めて海を見たとみたいに感動した。青いビー玉のような、サファイアのような、ラピスラズリのような、いや、レイチェルの知る何よりも深く澄んでいる、美しい青。この海の色と同じ色をした宝石があったとしたら、きっと何千ガリオン積んでも欲しがる人が居るだろう。柵から身を乗り出してはしゃいでいると、セドリックがくすりと笑った。「母さんも昔、同じことを言ったらしい」
「おばさんが?」
「うん。父さんと母さんの新婚旅行が、イタリアだったらしいんだ。もう何十回って聞かされた」
「それで、その時に約束したらしいよ。もう一度ここに……今度は、家族で来ようって。父さんは、母さんに内緒で、去年の夏から旅行の計画を練ってたらしい」
初耳だった。そして、レイチェルはその言葉で、今年、おじさんとおばさんは結婚してからちょうど20年になることに気がついた。バカンスでイタリアと言うのはよくある選択だから気にしていなかったが、だからきっと、今年、イタリアに来ることに意味が合ったのだろう。
「家族って……」
「言っておくけど、母さんが僕にイタリア旅行の話をした時には、既に4人で行くことに決まってたよ」
彼らの考える「家族」の中に自分が含まれていることは面映ゆいような気持ちもあったが、同時に申し訳ないような気持にもさせられた。セドリックは正真正銘ディゴリー夫妻の息子だが、レイチェルはディゴリー家の一員ではない。そんな自分がこんな大事な旅行に居ていいのだろうか。もしかしたらやっぱり、自分はお邪魔虫なんじゃないだろうか? そこまで考えて、レイチェルはふうと息を吐いた。
不安になったところで、もう付いて来てしまったものは仕方ない。それにディゴリー夫妻はこのセドリックの両親だけあって、とにかく善良な人達だ。その好意を疑うのはあまりにも失礼だ。レイチェルは深く考えるのはやめにした。
「素敵ね」
海風が頬を撫でる。何もかもが、素敵だなと思った。目の前に広がる景色も、20年前の2人の約束も。そして、その約束をこうして現実にしたことも。結婚して20年と言う月日が経っても、お互いをとても愛していること。幸せそうなディゴリー夫妻の姿も、何もかも。とてもロマンチックで、まるで物語みたいだ。いや、これはフィクションじゃないのだから、物語なんかよりずっとずっと素敵だ。
おばさんが羨ましいなと思った。理想の夫婦ってきっと、こう言うことを言うんだろう。もしもこんなに美しい景色を、自分の好きな人と一緒に見れたら、どんなに素敵だろう。そしてそれを20年後、もう一度見ようと約束してくれたら。そしてそれを忘れずに、本当に叶えてくれたら。内緒で旅行を計画して、喜ばせてくれたら。きっと、自分のことを世界で一番幸せだと思ってしまう。
「おじさん達って、本当に素敵な夫婦だと思うわ」
何年経っても、変わらずにお互いをとても愛していて、幸せに暮らす。簡単なように思えるけれど、きっととても難しいことだ。けれど、不可能なことじゃない。だってレイチェルの前には、現にそんな夫婦が居るのだから。
────私も、新婚旅行はイタリアがいいなあ。
心の中で思っただけのつもりだったが、声に出ていたらしい。セドリックが不思議そうな顔で首を傾げた。
「前はフランスがいいって言ってなかった?」
「あ、あれはエリザベスやアリシアがフランスを絶賛するから……って言うか、何でセドが知ってるの」
「だって……図書室で騒いでたから、聞こえるよ」
セドリックが困ったように眉を下げる。そう言えば、親友のエリザベスが昨年フランスに行ったので、その写真を見ながら盛り上がってそんな会話をしたような記憶があった。ああ、でも確かに、セーヌ川やモンマルトルの写真もとても素敵だった。それにしても、騒いでいた自分達が勿論悪いのだが、ガールズトークだったから誰かに聞かれているかもなんて思わなかった。レイチェルは気恥ずかしくて視線を逸らした。
「いいじゃない。だって、結婚するなら、おじさん達みたいな素敵な夫婦になりたいもの。20年の記念にって、内緒で旅行をプレゼントしてくれるような人と結婚したいわ」
不仲なわけじゃないが、別居してお互い好き勝手している────友人達には「ある意味理想の結婚生活」と評された────自分の両親よりも、ディゴリー夫妻の方がずっと自分の考える理想の夫婦像に近いのだ。あんな風になりたいなと憧れるのは自然なことだ。新婚旅行の場所を真似したからと言って、おじさん達みたいな夫婦になれるわけじゃないとわかっているけれど。
「それはいいかもしれないけど……一緒に連れて来られて気を遣う息子のことも考えてあげてほしい」
真面目な顔でセドリックがそう呟いたので、レイチェルは思わずくすくす笑ってしまった。
風向きはいつの間にか変わっていた。さっきまで色鮮やかだった景色が、金色に染まり始めている。黄昏時の海は凪いでいて、溜息を吐くほど美しい。本当に、こんな景色を恋人と見られたら、どんなに幸せだろう。
もっとも、もう15歳になったのに、自分にはまだ恋人どころか、好きな人さえ居ない。その事実を思い出して、レイチェルは小さく溜息を吐いた。道のりはまだまだ遠そうだ。
やっぱり新婚旅行は絶対イタリアにしよう。ナポリに滞在して3日目にして、レイチェルはそう強く確信した。
ヴェネツィアの夕暮れ時も幻想的で、これ以上に美しい景色なんてないに違いないと思えたけれど、カプリ島の青の洞窟も同じくらい美しかった。クィディッチの競技場くらいの広さの洞窟に、小さなボートで入って行く時は、もしかしたら沈んでしまうんじゃないかとハラハラしたが、洞窟の中へと入った瞬間そんな気持ちは忘れてしまった。ナポリ湾のあの深い青の海が、洞窟の入口から差し込む太陽の光に反射して、洞窟自体が青く神秘的に輝くのだ。高台から見る海とはまた違った美しい青の輝きに、レイチェルは瞬く間に虜になった。
学校が始まったら親友達にも見せようと、何枚も写真を撮った。けれど、おじさんに助けてもらって現像してみると、レイチェルの写真の技術のせいか、それとも写真サイズに無理矢理切り取ってしまうせいか、どうしても実物の青の鮮やかさや幻想的な水面のきらめきは表現できない。ならばこの目に焼きつけるしかないと、レイチェルは何度も足を運んだ。
何度も────そう、何度もだ。旅行を楽しんでいるうちにカレンダーの数字は瞬く間に進んで、気がつけば7月になっていた。
はたしてこんなにのんびり過ごしていていいのだろうかと、思わずそんなことを考えてしまうほど、イタリアでの日々は穏やかだった。ほんの数週間前まで、ホグワーツが閉鎖されるかもしれないだとか、継承者に襲われるんじゃないかとか、暗い考えことばかり悩んでいたのが嘘みたいだ。凪いだ美しい海を見ているだけでは、激しい嵐なんて想像できないように、あまりにも時間が穏やかに過ぎていくせいで、去年あった色々なことが遠い夢のように思えた。美しく澄んだ海を眺めていると、心の中まで透明になっていくようで、不安や悩みなんて全部溶けて行くようだった。バカンスの文字のごとく、頭の中が空っぽになっていく。
実際、本当に空っぽになってもおかしくないくらい、何も勉強していなかった。宿題なんて旅行が終わってからでいいじゃないかと言う保護者の意見で、レイチェルもセドリックも課題のレポートは全部家に置いて来てしまった。と言うか実際、宿題や教科書を入れてしまうとトランクの余白がなくなってしまって、何もおみやげが買えなくなってしまいそうだったので仕方なかったと言う側面もあった。手つかずのまま机の上で眠る課題の存在を考えると、ほんの少し落ち着かない気持ちになったし、真面目なセドリックはほんの少しどころの騒ぎじゃないようだったが、そんな子供達を見ておじさんは首を振るのだった。
「勉強はただがむしゃらに机に向かってればいいってもんじゃないんだ。メリハリをつけなきゃあ。遊ぶ時はきっちり遊んで気分転換しないと、OWLなんて乗り切れないぞ」
OWL────その3文字に一気に現実に引き戻されて、レイチェルは思わず眉を顰めた。しかし、確かにおじさんの言うことにも一理ある。真面目な同寮生達の中には夏休みに入ってからも毎日熱心に机に向かっている人が居るだろう。もしかしたら、今この瞬間、レイチェルが遊んでいる間に、どんどん差がついているのかもしれない。そう思うと焦る気持ちがないわけじゃないけれど、実際レイチェルがそれ────わざわざイタリアに来てまで部屋に閉じこもって勉強をしたいかと言われれば答えはNOだし、今からOWLのことばかり考えていたら試験本番が来る頃には息切れしてしまうだろう。焦らなくったって、クリスマス休暇やイースター休暇はどうせ勉強漬けなのだし、いわばこれは最後の余暇なのだ。それならば目一杯楽しんで、好きな事だけしていたい。勉強はイギリスに帰ってから、集中して取り組めばいい。
そう開き直ったレイチェルは、せっかくだからイタリアを目一杯楽しむことにしていた。ローマの古い遺跡を見に行ったり、フィレンツェの裏路地を散策したり、ミラノで買い物をしたり、ヴェネツィアの夕暮れを見に行ったり。ただ海を見てぼんやりすることもある。あのジェラート屋さんはもうショーケースを全種類制覇してしまった。
せっかく旅行に来たのだから、イタリアでしかできないことをしなければもったいない。
「イタリアに来てまでクィディッチで頭がいっぱいなんだから。本当、信じられないわ」
すっかり日焼けしたセドリックを見て、レイチェルは溜息を吐いた。
誕生日プレゼントの前倒しでイタリアのプロチームのユニフォームが欲しい、と言われたときは少し驚いたけれど、セドリックらしいとも思った。セドリックが選んだユニフォームのデザインは洗練されていたし、イギリスでは中々手に入らない。クィディッチファンにとっては貴重なのだろうと理解できるし、レイチェルも買おうかと迷ってしまった。
そう。セドリックがクィディッチを好きなのは今に始まったことじゃない。とは言え────まさかイタリアにまで来て毎日クィディッチの練習をするなんて思わなかった。
ナポリはおじさん達の思い出の町と言うこともあって、少し長めに滞在することになっていた。とは言っても、ホテルがナポリにあると言うだけで、煙突飛行を使えばどこへだって行けるし、実際レイチェルはあちこち好き勝手に飛び回っている。セドリックも最初はそうだったのだが────先日、偶然ナポリに住む魔法使いの少年と知り合ってからは、あれよあれよとクィディッチのできる秘密の場所を教えてもらって、今では毎日のようにそこでのクィディッチに加わっているのだった。箒はどうしたのかと問えば、誰かしらのものを借りているらしい。
「だって、イタリアはクィディッチの本場じゃないか」
「イギリスだってそうでしょ」
「アンドレアも学校でシーカーをやってるんだよ。しかも僕よりずっと上手い。ロベルトも、パス回しの技術が凄いんだ。見習わないと」
不思議なものだけれど、男の子と言う生き物は言葉が通じなくてもクィディッチさえあれば仲良くなれるらしい。
あの陣形は学校に戻ったらチームの練習に活かせそうだとか、イタリアの箒は少し曲がる時に癖があるとか、いつになく饒舌なセドリックは嬉しそうだ。
そう言えば去年ルーマニアに行った時も毎日クィディッチばかりしていた。あの時は周りは大人ばかりだったから多少遠慮があったようだけれど、今回は同年代ばかり───レイチェルは話で聞いただけだが───だから楽しいのだろう。特にレベルの高い相手とやるともなれば。
「……まあセドが楽しいなら、それでいいけど。マダム・ポンフリーは居ないんだからほどほどにね」
「うん。気を付けるよ」
普段は同年代の男の子に比べて落ち着いている方なのに、どうしてセドリックはクィディッチのこととなるとちょっと馬鹿になってしまうのだろう。
肘に出来た擦り傷に絆創膏を貼ってやりながら、レイチェルはもう一度溜息を吐いた。ハーマイオニーからもらったものだ。マグルの便利はただでさえ便利なものが多いけれど、夏休み中は特にその便利さを痛感する。
「そろそろ父さんたちが戻って来る。昼食の待ち合わせの時間だ」
「……で、午後はまたクィディッチ?」
「約束したからね。行かないと」
今日の午後はまたローマへ行こう。あの桃の味のジェラートが食べたい。