楽しいおしゃべりに花を咲かせているうちに、汽車はキングズクロスへと到着した。9と4分の3番線のプラットホームは迎えに来た生徒の家族達でごった返している。その表情は、誰もが大事な子供との久しぶりの再会を今か今かと待ちわび、喜びに輝いていた。
「じゃあねレイチェル、また新学期に!」
「手紙を送るわね。返事を待っているわ」
それぞれの家族を見つけたパメラとエリザベスと別れ、レイチェルはさて自分も迎えを探さねばと周囲を見渡した。しかしまあ、その前にこのトランクをどうにかせねばならない。壁際に置いてあったカートを引っ張り出し、何とかその上に乗せようと奮闘していると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「僕がやるよ」
「……ありがと、セド」
セドリックだった。レイチェルの手からトランクを取り、それほど苦労する様子もなくカートの上へと引っ張り上げてしまう。そうして自分の分も同じようにカートに積むセドリックの様子をぼんやりと眺める。そうして、ふと遠く視界に入った人物に、レイチェルははっと目を見開いた。
「セドごめん、ちょっとここで待ってて!」
「え? ちょ、レイチェル?」
トランクをその場に置き去りにして、駆け出す。戸惑ったようなセドリックの声が背中を追い掛けてきたが、今は説明している暇が惜しかった。だって、これを逃したらもう言える機会なんて来ないかもしれない。早く、早く。人混みを掻き分けるようにして、前へと進む。弾んだ息を整えながら、レイチェルは意を決して小柄な背中に声をかけた。
「あの……ミスター・ポッター?」
ぎゅっと拳を握り締めると、僅かに汗が滲んだ。何だか妙に緊張してしまっている。レイチェルは息を飲んで相手の反応を待った────けれど、レイチェルの声が小さかったのか、それとも周囲の雑踏がうるさすぎるせいか、ハリー・ポッターはこちらに気づいていないようだった。
「ミスター・ポッター」
レイチェルはもう一度、今度はさっきより大きな声で名前を呼んだ。けれど、やっぱり気づかない。レイチェルはなんだかもどかしくなって眉を寄せた。もう少し近づいた方がいいのだろうか? 肩を叩けば流石に気づくだろう。いや、でもそれは何だか随分馴れ馴れしい。ああ、けれど、せっかく一人で居るところをつかまえられたのに。早くしなければ、誰か来てしまうかも────。「……………………ハリー?」
自分の口が友達のように親しげに彼の名前を呼ぶことに、レイチェルは何だか違和感を覚えた。けれどそれも当然だった。レイチェルは初めて会った時彼の名前を知らなかったし、それ以降会話したことなんてほとんどなかった。よく知りもしないのに、嫌っていた。ただ、一方的に。彼が話しかけてきたときも────恐らく、親しくもない上級生の女の子に話しかけるのはそんなに楽しいものじゃなかっただろう────レイチェルは苛立ちから冷たい態度を取ってしまった。今更ながらに、胸の中に罪悪感がこみ上げてくる。
今度は声が届いたのか、ハリー・ポッターはゆっくりとこちらを振り向いた。深い緑色の瞳が、大きく見開かれる。
「えっと……いきなり話しかけてごめんなさい」
「え? アー……その……気にしないで」
ハリー・ポッターは随分と驚いている様子だった。まあ、そうだろうなとレイチェルは思った。ハリー・ポッターからしたら何故レイチェルが話しかけてきたのかわからないだろうし、戸惑うに決まっている。レイチェルもハリー・ポッターのことをほとんど噂でしか知らないけれど、ハリー・ポッターはそれ以上にレイチェルのことなんて知らないのだから。
薄いレンズ越しでも真っ直ぐな視線を正面から見れなくて、レイチェルはそっと視線を落とした。
「あのね……多分、あなたはもう言われ慣れちゃったと思うけど……ペニー……ペネロピーもハ―マイオニ―も、……ジニーも、私の友達なの」
レイチェルはハリー・ポッターが嫌いだった。やることなすこと全部無謀で、校則なんてゴミ扱い。魔法界の英雄だなんてちやほやされて思い上がっている、傲慢な男の子。自分だけ危険に首を突っ込むだけならともかく、ハーマイオニーまで親友だからと引きずり込む。レイチェルはこの1年間、一体何度ハーマイオニーがハリー・ポッターと絶交してしまえばいいと願ったかわからない。彼の存在は、真面目にやっているこっちが馬鹿みたいに思えて────あんなに頑張っているセドリックの努力が踏みにじられた気がして、どうしようもなく苛々した。けれど、彼が居なければジニーは助からなかった。レイチェルにはやっぱり、他のホグワーツ生みたいに校則を破って真夜中に寮を抜け出したり、暴走するブラッジャーに立ち向かったり、先生達にも秘密で危険な冒険へと向かうことが素晴らしく偉大だなんて思えない。けれどそう言った彼の無謀さ────勇敢さがなければ、ジニーは今、ここに居なかった。
「だから…………ありがとう」
継承者を倒してくれて、ありがとう。ホグワーツを救ってくれて、ありがとう。ジニーを助けてくれて、ありがとう。それから、貴方をよく知りもしないのに、誤解をして、一方的に嫌っていて、ごめんなさい────もっとも、こんなこといきなり言われたって、ハリー・ポッターを困らせるだけだろうけれど。
胸の中で渦巻く複雑な感情をどう伝えたらいいのかわからなかったから、レイチェルはごくごく簡潔な感謝だけを口にした。勿論これで全部伝わるだろうなんて思っているわけじゃない。伝わらなくてもいいから、伝えたかった。ただ一言、ありがとうと。
「……それだけ。引き止めてごめんなさい。いい夏休みを!」
「あ……」
照れくささが背筋を這い上がって来る。赤くなった頬を見られないように早口でそう告げると、レイチェルはハリー・ポッターに背を向けて駆け出した。ほんの少しくすぐったいような、けれどどこか清々しいような、何だか不思議な気持ちだった。ハリー・ポッターと話をしたのは初めてじゃないけれど、初めてハリー・ポッターとちゃんと正面から向き合った────そんな感覚だった。
「セド、ごめん!待った?」
「少しね」
二つ分のトランクの面倒を見なければいけなくなったセドリックは、少し離れた壁際で待っていた。自分の分のカートを受け取って、レイチェル達はホームを出るための列へと並ぶ。マグルに不審がられないように1人ずつタイミングを見計らわなければいけないので、何百人と言う生徒達と、迎えに来た家族達が全て出るには、それなりの時間が必要なのだ。家族と言えば────レイチェルはきょろきょろと辺りを見回し、それからセドリックの顔を見て首を傾げた。
「おじさん達、来てないの?」
「急に仕事が入ったらしい。列車の中でふくろうを受け取ったよ。いつも通り、漏れ鍋から帰って来るようにって」
「えっ、そうなの?」
珍しいこともあるなとレイチェルは目を丸くした。いつもなら絶対迎えに来るのに。何だかちょっと寂しい気もしたけれど、仕事ならば仕方ない。まあ、レイチェルもセドリックももう4年生なのだから、迎えがなくても何とかなるのだし。それに、とレイチェルは逡巡した。大人の引率がないと言うことは、だ。
「ねえ、セド、それじゃあ……」
「ちなみにレイチェル、母さんが『寄り道せずにまっすぐ帰って来なさい』って」
ちょっとだけマグルの町を見ていきましょうよ────。レイチェルの提案は口に出す前にセドリックに遮られた。見透かされている。ほんの30分くらい寄り道するだけなら絶対バレやしないのに。レイチェルはなんだか面白くない気持ちで、瓶の底にまだ少し残っていたかぼちゃジュースをストローで啜った。
「まあ、でも、おじさん達が来なくてよかったかもね。これで、尋問の時間が夕食まで伸びたってことだもの」
結局、日刊預言者新聞に書かれたことは事件の全体からすればあまりにもわずかだった。勿論、襲撃事件が起きたことだとか、継承者を名乗る人間が居ることだとかについては書かれたけれど────と言うか、ダンブルドアが停職になったせいでいよいよ秘密にしておけなくなったのだろう。いくら何でもあの人望ある魔法使いを理由もなく停職にするのは世間が許さない。それでも最低限の事実以外は伏せられたせいで、世の魔法使い達が知っているのは事件が起こったこと、そのせいでダンブルドアが停職になったこと、ホグワーツの危機だったこと。そしてそれ事件解決によって回避されたこと。それくらいだ。一体大切な子供達に何があったのかと、事件についてあれこれ質問責めにされることは想像に難くない。レイチェルは小さく溜息を吐いた。
「最悪の1年だったわ」
「うーん……まあ、否定はしないよ」
事件のことを抜きにしても、ハーマイオニーとは喧嘩するし、ロックハートは鬱陶しいしで散々だった。レイチェルが眉を顰める横で、セドリックがちらりと自分の箒へと視線を走らせたのに気がついた。そう言えばクィディッチリーグも中止になったんだった。そう言う意味で、セドリックにとっても楽しくない1年だっただろう。
「でも、まあ悪いことばっかりじゃないかもね」
事件が解決した今だから言えることだけれど、レイチェルはきっとこの一件がなければ純血主義についてこんなに真剣に考えることはなかっただろうし、親友達の本音を聞くこともなかっただろう。それに新しい友達もできたし、ハーマイオニーとは喧嘩を通じてより絆が深まった気がする。それにだ。
「今年がドン底だってことは来年はもっと素敵な1年になるはずだもの」
「でもレイチェル、来年はOWLがあるよ」
いくら何だって今年よりもひどい1年間なんて想像もできない。そう口にすると、セドリックが困ったように眉を下げた。確かにセドリックの言う通り、レイチェル達のこの重たいトランクには、OWLに向けての課題がぎっしりと詰まっているし、OWLの恐ろしさは上級生達から散々聞かされている。けれど。
「いくらOWLが手強いって言ったって、不死鳥と剣がなきゃ倒せないってことはないでしょ?」
レイチェルはにっこり笑みを浮かべた。確かにOWLに対する不安や憂鬱はあるけれど、バジリスクと違って紙と羽根ペンと杖、そして知識があればどうにかなる相手だ。命の危険があるわけじゃないし、廊下の影からいきなり襲って来るわけじゃない。得体の知れない恐ろしい怪物ではなく、ただの試験だ。それならきっと、レイチェルにだって立ち向かえる。まあ少し、楽観的な考えかもしれないけれど。セドリックはレイチェルの言葉に何と返していいのかわからないと言った様子だったが────やがて小さく声を立てて笑った。
「それもそうだね」
そうこうしているうちに、ようやくレイチェル達の番がやって来た。ゆっくりと、それから段々と早く、最後には少し駆け足に。真っ直ぐに柵へと向かっていけば、ぱっと視界が開ける。レイチェルの進行方向に居たスーツ姿のマグルが、ぎょっとした顔でカートを避けた。
「ねえ、ママ、見て、あれ!ふくろうだ!鳥籠に入ってるよ!ねえ、ママ、ぼくも飼いたい!」
レイチェルのすぐ側で、マグルの小さな男の子が興奮した声で叫んだ。伸ばされた人差し指の先を追えば、下級生らしい男の子が不機嫌なふくろうをどうにかしようと奮闘していた。目をきらきらさせる男の子が微笑ましくて、レイチェルはくすくすと笑ってしまった。「レイチェル。漏れ鍋はこっちだよ」
「セド」
「その前に、カートを返さないと」
後からやって来たセドリックの声が、レイチェルを促す。その後ろへと続きながら、レイチェルは辺りの様子を見渡した。整然と敷き詰められたタイルの上を、何百と言う人々が行き交っている。ヒールや革靴の足音、楽しげなおしゃべりやふくろうの鳴き声。カートが床を転がる無機質な音は、そんな心地良い雑踏の中に溶けて行く。小さなキャスターが、トランクの重みに軋んだ。
「明日は絶対筋肉痛だわ」
レイチェルは小さく溜息を吐きだした。今は駅の中でカートがあるからいいけれど、キングズクロスから漏れ鍋までをこの重いトランクを引きずって歩かなきゃいけないなんて。いつもならエイモスおじさんが、魔法でトランクにこっそり浮遊呪文をかけてくれるのに。全く魔法の使用禁止って不便だと眉根を寄せていると、セドリックがレイチェルを振り返って苦笑した。「しょうがないよ。僕達の1年間の重さなんだから」
その言葉に、レイチェルは目を見開いた。セドリックの表情は冗談でもなく、まるきり真面目だった。お利口さん、と口の中で呟いて、レイチェルはしげしげと自分のトランクを見下ろした。確かに、そう考えると仕方ないのかもしれない。少しくたびれてきたトランクの中には、教科書も、ノートも、課題も、羽根ペンも、ローブも、洋服も、時計も、ハンカチも、ぬいぐるみも────それからロックハートの著書も。レイチェルの1年間の何もかもが詰まっている。重くて当然だ。ああ、そうだ。この1年間に起こったことを、一体何からおじさん達に聞かせよう? 夕食までには何か答えを見つけておかなくちゃ。
ガラスドーム越しに降り注ぐ眩しい日差しに、目を細める。少し前を歩く幼馴染の背中を追いかけて、レイチェルは家路を急いだ。