いつも不思議なのは、楽しい日々ほど早く過ぎ去ってしまうことだ。学期末はあっと言う間にやってきた。
今年最後の宴会の大広間を彩ったのは、レイチェル達の予想通り鮮やかな真紅だった。天井から垂れ下がる横断幕の中で、金色のライオンが咆哮を上げる。グリフィンドール寮は見事2年連続で寮杯を手にしたのだ。
「おめでとう、ハーマイオニー」
「ありがとうレイチェル」
そんなわけで、ホグズミード駅でハーマイオニーと偶然出会ったとき、レイチェルは素直にお祝いを述べた。レイブンクローが寮杯を取れなかったのは悔しくもあるが、グリフィンドールの優勝自体は素直に祝福したいと思えた。ハリー・ポッターはホグワーツを閉鎖の危機から救い、彼はグリフィンドールなのだから。本当なら今頃寮杯どころじゃなかったはずなのだから、寮杯の行方にやきもきできることを感謝するべきなのだろう。
「もう夏休みだなんて信じられない。眠り姫や白雪姫ってこんな気持ちだったのかしら」
レイチェルでさえもう休暇なのかと思うのだから、つい2週間前に目を覚ましたばかりのハーマイオニーはもっとだろう。しげしげと自分のトランクを見下ろして呟くハーマイオニーに、レイチェルは曖昧に笑みを浮かべた。そう、明日からは夏休みだ。ここで機会を逃してしまったら、しばらくは直接話をすることはできなくなってしまう。「……あのね、ハーマイオニー。こんなこと言ったら、あなたは軽蔑するかもしれないけど」
発車準備を始めたホグワーツ特急が、掠れた音を立てて煙を上げている。もう大半の生徒は汽車の中に乗り込んでしまったせいか、ホームからはさっきまでのざわめきが嘘のように消えていた。早く言わなければ。早くしないと、汽車が出てしまう。渇いた喉をこじ開けるようにして、レイチェルは言葉を紡いだ。
「私……私って純血主義者かもしれない」
「え?」
「どうして、そんなことを?」
「だって……」
ハーマイオニーが穏やかな声で尋ねるから、レイチェルは全てを打ち明けてしまった。
ドラコが純血主義だと知っていて、仲良くしている自分は、ハーマイオニーに対して不誠実なんじゃないかと思ったこと。ルシウス・マルフォイと魔法省で会ったとき、何も反論できなかったこと。相手がマグル生まれだと聞くと態度が変わる自分は、心の奥底ではマグル生まれを差別しているんじゃないかと思ったこと。感情的になったせいで支離滅裂なレイチェルの言葉を、ハーマイオニーはじっと黙って聴いていた。
「私、レイチェルは純血主義者じゃないと思うわ」
「だって……」
「誰だって、その人の生まれ……いえ、この場合、血筋って言うより育った環境ね。それを全く無視して本人だけを見るなんて無理よ。道ですれ違っただけの人ならともかく、深く付き合おうと思ったら尚更だわ。あなたが気にしているのは、住んでいるのがどんな町かとか、兄弟が何人いるかとか、両親はどんな職業かとか、そう言うのと同じよ。誰だって気になるわ。私だって気にする。『この人は魔法界で育ったから、マグルの常識を言ってもきっと困惑させてしまうだろう』とかね。だって、その人の価値観や考えを形作るのに、どれも重要なものだもの。完全に切り離すなんてできないでしょう?」
だからそんなに深刻なことじゃないのだと、ハーマイオニーは続けた。そうなのだろうか? けれど、ハーマイオニーにそう言われても、レイチェルはまだ気持ちが落ち着かなかった。「マグル生まれ」だと言うそれだけで相手のことを判断しているのなら、一体純血主義の人達と何が違うのだろう? そんなレイチェルの頭の中を見透かしたかのように、ハーマイオニーは言った。
「あなたが相手をマグル生まれかどうかを気にするのはね、ピンクが好きだからピンクのものを選んだり、猫が好きだから猫を飼いたいって思うのと変わらないわ。あなたはただ、マグルの文化が好きなのよ」
マグルの文化が好きだから、もっと知りたいって思う。だから、マグル生まれの魔法使いを見つけると嬉しくなる。違う?
ハーマイオニーの言葉に、レイチェルは、胸の中で渦巻いていた不安がスーッと溶けていくのを感じた。まるで、熱い紅茶の中に落とされた角砂糖みたいに。胸の中がじわじわと温かなもので満たされて、肩の力が抜けていく。ああ、そうだ。その通りだ。レイチェルは、マグルが好きだ。マグルの文化が、道具が大好きだ。純血主義者なんかじゃ、ない。
「それに、忘れてない? レイチェル」
ハーマイオニーがにっこり笑う。軽い足取りで振り返った拍子に、スカートのプリーツがふわりと揺れた。弓なりに細められた褐色の瞳には、どこか悪戯っぽい光が宿っている。
「あなたは私がマグル生まれだって知る前から、親切にしてくれたわ」
初めて会ったのは、ホグワーツ特急の中だった。会ったばかりの男の子の迷子のペットを探していた、利発そうな女の子。もう少しでホグワーツに着くから、制服に着替えたほうがいいとそう伝えて────そうして、その後図書室で再会して友達になった。ああ、そうだ。あの時、レイチェルはハーマイオニーの名前も、マグル生まれだと言うことも知らなかった。知らなかったけれど、レイブンクローに入ってくれたらいいなと────仲良くなりたいと、そう思った。
「貴方って……貴方って、私なんかよりずっと大人だわ」
じわりと、涙が滲む。打ち明ける前はあんなに重かった気持ちが、嘘みたいに軽くなっていた。ハーマイオニーが、軽くしてくれた。何と言っていいのかわからずに、絞り出せたのはそれだけだった。ハーマイオニーはレイチェルよりも年下だけれど、レイチェルなんかよりもずっと聡明だ。聡明で、とても優しい。レイチェルの、大好きな友達だ。
「……そうね。そう、私、マグルが好きよ」
レイチェルは浮かんだ涙をそっと拭った。レイチェルはマグルが好きだ。マグルも、マグルの文化も、マグル学も好きだ。このマグル生まれの友人が、大好きだ。けれど、それだけじゃない。前へと踏み出し、距離が詰まる。レイチェルはぎゅっとハーマイオニーを抱きしめた。「マグル生まれじゃなくてもきっと、ハーマイオニーのこと、大好きよ」
そんなことわざわざ言わなくったってわかってるわと、肩口でハーマイオニーが笑う。以前よりもずっと、ハーマイオニーとの距離が近づいたように感じた。物理的に、ではなく、心が。
この素敵な女の子と友達になれたと言うことが、何よりも誇らしかった。
いよいよ汽車が出発する時刻が近づいてきたので、レイチェルとハーマイオニーはそれぞれのコンパートメントへと向かった。レイチェルの、つまりエリザベスとパメラの居るコンパートメントは、前から3両目にある4人掛けのコンパートメントだった。重たいトランク座席と壁の間へ何とか押し込め、柔らかなソファへと腰を下ろすと同時に、滑るように汽車が動き出した。ガラスの向こうのホグワーツ城が、少しずつ遠ざかっていく。レイチェルはなんだか胸が締め付けられるような気がした。家に帰れるのは嬉しいし、また9月には戻ってくるのだとわかっているのに、なんだか寂しい。休暇の始まりはいつだってこうだ。ああ、でも、例外もあった。
「レイチェル? どうしたの?」
「うーん……えっとね、この間こうやってホグワーツ特急に乗ったときは、早く家に帰りたくて仕方なかったなあ、と思って」
「誰だってそうでしょ。あの時は学校の中がハチャメチャだったもの」
エリザベスの問いに、レイチェルが苦笑を返すと、パメラがしたり顔で頷く。クリスマス休暇のときは、寂しさなんて感じる余裕もなく、ただただホームシックで仕方なかった。あれは確か、ジャスティン・フィンチ-フレッチリーとほとんど首無しニックが襲われた頃だったと思う。学校中が襲撃事件に怯えていて、決闘クラブでの一件ハリー・ポッターが継承者なんじゃないかと疑われていた。
「確か、始まりはハロウィンだったのよね。ミセス・ノリスが廊下で襲われて」
物語を綴るみたいに、事件のことを最初から丁寧に思い返していくと、まるで霞の向こうの出来事のように、随分と遠いことのように思えた。けれど何があったかをひとつひとつ口に出して整理していくことで、もう終わったことなのだと言う実感が湧いてきた。そうして無事ハリー・ポッターがバジリスクを倒しジニーを助けたところまで行き着くと、今度は話題は別のことへと移った。つまりはハリー・ポッターはどうやって秘密の部屋を見つけたのかとか、秘密の部屋の入り口はどこだったのかとか、結局50年前の継承者は一体誰だったのかとか、そう言う話だ。ここ2週間ほど何度も話題に上り、そして結局答えがわからないままの疑問だったが、退屈な汽車の旅の暇潰しには最適だった。
一通りああでもないこうでもないと意見が出尽くしたところで、エリザベスが意を決したように口を開いた。
「今だから言うわね。私……パメラが私のこと、継承者だって疑ってるんじゃないかって不安だったの」
「は? 私が? 何で?」
「だって……貴方、1年生のときに、私のこと純血主義者だと思っいてたでしょう? もしかしたら、また疑われるかもしれないって思ったんですもの……」
「いつの話をしてるのよ!貴方が継承者だったら、私はこの4年間の間にとっくに寝首をかかれてるわよ!」
「確かに、エリザベスの方がパメラより早起きだし夜更かしよね」
「じゃあ私も言う。私、この1年で、何度もホグワーツなんか来るんじゃなかったって思ったわ。今からでもマグルの学校に編入できないかって、割と本気で考えてた。レイチェルは知ってると思うけど」
レイチェルは思わずぽかんと口を開けた。確かにホグワーツに居たくないと言う話は聞いたけれど、編入については初耳だ。けれど確かに、パメラならマグルの常識も生活様式も何もかもわかっているのだから、問題なくマグルの学校に通えるのだろう。そんなことにならなくてよかったと、改めてレイチェルは事件解決に感謝した。ほっと安堵の息を吐いていると、エリザベスとパメラがじっとレイチェルを見つめていることに気がついた。「レイチェルはないの? 隠し事」
「ずっと、何か悩んでいたでしょう? 私達には言いたくないみたいだったけれど」
悩み事────と言われても、この1年、常に何かしら頭を悩ませていたので、一体どれのことを言われているのかレイチェルにはわからなかった。ドラコとの喧嘩については相談したし、ハーマイオニーの喧嘩についても同じだ。自分が純血主義かどうかと言う件についてはさっきのハーマイオニーとの会話で解決してしまったからもういいだろう。エリザベスとパメラの悩みに気づけなかった、と言うのは二人に言っても仕方がない。となるともう残っていないような気もするのだが、レイチェルだけ何もなしじゃ納得してくれないだろう。ああ、そう言えば、二人には言っていないことがあった。
「あのね……石になったペニーとハーマイオニーを見つけたの、私なの」
レイチェルのこの告白は、エリザベスとパメラを大いに驚かせた。そう言えば何だかんだで二人とも実際に襲われた犠牲者の姿は見ていないのだ。そのときの様子が一体どんなだったか、レイチェルは詳しく話して聞かせた。ハーマイオニー達が危険な目に遭ったことを面白がっているみたいに聞こえないよう、できるだけ事実だけを説明したつもりだったが、それでもエリザベスとパメラの顔は段々と青ざめていった。「じゃあ、その時レイチェルのすぐ近くにバジリスクが居たってことじゃない」
「私だったらそんな現場に居合わせたら気絶してしまったかもしれないわ……」
「第一発見者だから疑われるかもしれない、黙っておいたほうがいいってフリットウィック教授に言われて……」
「だからって私達にまで秘密にしなくたっていいじゃない!私、そんなに口は軽くないわよ!」
パメラが信じられないと叫んだ。もう終わったことじゃないと苦笑して、レイチェルはワゴンから買ったかぼちゃジュースのストローへと口を付けた。
2人に言わなかったのは、心配をかけたくなかったのもあるし、疑われるのも怖かったのだ。自分でも、自分は本当は純血主義者なんじゃないかと疑っていたから。
継承者の事件が起こらなければ、たぶんきっと、こんなに純血主義だとかマグルだとかについて、考えることはなかっただろう。純血主義のドラコだとか、マグル生まれのハーマイオニーだとか、考えるきっかけはいつだって転がっていた。けれど、ずっと気づかない振りをしてきた気がする。継承者の一件がなければ、きっとずっとそのままだっただろう。その方がきっと、楽だから。そして、純血主義や血統主義と言ったデリケートな問題に迂闊に踏み込むことに、凪いだ湖面にさざなみを立てるような、そんな後ろめたさを感じてもいた。継承者の事件は勿論とても恐ろしかったが、こうやってじっくりと考える機会ができたことは、レイチェルにとって必要なことだったのかもしれない。レイチェルはぼんやりと窓の外の景色を眺めながら、そんなことを考えていた。まあ逃げていてもいずれはぶち当たる問題だったのだろうから、できればもう少し平和的なシュチュエーションで考えたかったけれど。でも、おかげでとりあえずの結論は出たように思う。