6月がやってきた。
事件から数日が経って、ジニーは医務室から出ることを許された。退院までの間、レイチェルは毎日お見舞いに足を運んだ。想像を絶する恐怖を体験したに違いないジニーは青白くやつれて痛々しい様子だったが、マダム・ポンフリーの治療のおかげもあって、日に日に元の明るい笑顔を取り戻していった。きっと傷が癒えるまでには時間がかかるのだろうけれど、楽しいおしゃべりを聞かせてくれて、くるくると可愛らしく表情を変えるジニーに、レイチェルは少しホッとした。
6月がやってきた。湖は眩しい日差しに照らされてキラキラと輝き、緑のじゅうたんのような芝の上には色とりどりの花が咲き乱れる。遅咲きのアイリスが春を惜しむ隣では、シャクヤクがその大輪の花を開く。ラベンダーの中にしなだれるようにしてバラが咲くと、一層その鮮やかさが際立って見えるようだった。
さて、6月の初めと言えば、そんな風景にガラス越しに羨望の視線を向けながら、美しい湖ではなく黒々としたインクの海に身を委ねるのが常だった。しかし継承者の一件が解決したお祝いにと学期末試験がなくなったせいで、レイチェル達は夏の日差しをたっぷりと浴びることができた。まあ、とは言え学期末試験が中止になっただけで、OWLやNEWTは行われるので、5年生や7年生は相変わらず羊皮紙と向き合う毎日だ。本当に今年がOWLじゃなくてよかった、とレイチェルは鬼気迫る形相の上級生達を見て思うのだった。

「ええ、そうね。確かに今年はOWLじゃないわ。でも、もうたった1年しかないのよ」

勤勉なエリザベスは学期末試験の中止に関して半ば否定的な態度を見せていた。曰く、来年にはOWLがあると言うのに、現在の自分の学習度合いを測ってくれるテストが行われないと言うのは、大いなる損失だ。試験がないからと試験勉強を不完全なまま投げ出すのは全く嘆かわしいと、チェスに興じるパメラやレイチェルを見てエリザベスは頭痛を耐えるような表情をした。

「たまには素直に喜べば?『落第しちゃう!』って泣いてたのはどこの誰よ?」

パメラが顔を顰める。エリザベスの頬がほんのりと羞恥に染まったが、その決意は固いようだった。勉強しましょう、1人で勝手にやってよ、貴方達のために言っているわ、それがお節介だって言ってるのよ、あとでOWLのことで泣きついてきても知らないわ、ええ結構よ、本当ね、じゃあ魔法史のノートももう貸さないから────そんな!。例のごとくヒートアップする言い争いを聞きながら、レイチェルは果たしてどちらの言い分を支持すべきか悩んだ。
レイチェルの気持ちとしてはパメラと同じくせっかくの余暇を満喫したいが、OWLのことを考えればエリザベスの言い分の方が正しいことは理解できる。今年1年自分なりに勉強してきたつもりだが、色々あったせいで勉強に集中できたとは言えない。成績は平常点で決まるとのことなので、落第することはないだろう。どの授業も欠席していないしレポートも期日通り提出した────まあ、魔法史は平常通り睡眠学習だったが、それで落第になるのなら学年の半分は落第するし、ビンズ先生はそもそもそんなにやる気のある先生じゃない。第一生徒の顔と名前も一致していないのだから、きっとどの生徒が寝ていてどの生徒が起きていたかなんてわかっていないだろう。落第はしない。けれど、去年と比べて、成績が下がっていたらどうしよう?しかし、エリザベスと違って、試験がないのに一生懸命試験対策をやろうと思うほど、レイチェルは勉強熱心でもない。

「「レイチェルはどう思ってるの!?」」

親友達が勢い良くこちらを振り向く。はてさて一体どうすべきかと、レイチェルは溜息を吐いた。
結局3人で話し合って見つけた妥協点のは、闇の魔術に対する防衛術の時間を試験対策に充てることだった。ロックハート教授の精神状態がとても授業を行える状態ではなくなってしまったせいで、週3回の防衛術の時間は全てキャンセルになったのだ。まあ元々授業なんてあってないようなもので自習時間のような扱いだったので、それ自体はさして痛手ではなかった。聖マンゴに入院することになったらしいが、大丈夫なのだろうか。

「ねえ、この問18の『ニーズルと猫を掛け合わせたときの特徴』って何?」
「えっとね……あ、これだわ。『尻尾の……』」
「パメラ!すぐ答えを見たら意味がないでしょう?」

なくなったとは言え、それが決定したのはギリギリだったので、ホグワーツの教授達はきっちりと試験課題を用意していた。エリザベスがダメ元で尋ねたところ、ホグワーツの教授達はその勤勉さに感激して快く筆記試験の問題と模範解答を渡してくれたらしい。そして更に驚くべきことには、レイブンクローやハッフルパフにはエリザベスと同じことを頼みにきた生徒が少なくなかったと言う。ちなみにセドリックもその中に入っているとスプラウト教授から聞かされたレイチェルは、どんな表情をしたらいいものかわからず困惑した。幼馴染2人とも熱心でいいことだとスプラウト教授は上機嫌だったが、レイチェルはエリザベスに便乗しただけなのでセドリックと同じレベルの勤勉さは残念ながら持ち合わせていない。
それはともかくとして、本来なら今頃解いていたはずの問題だ。そう思って取り掛かったレイチェル達だったが、事件のことで頭が一杯で脳みそに知識を詰め込む余裕が空いていなかったのか、自己採点してみると3人と満足な点数とはいかなかった。各教科、どれも目標点を下回ってしまっている。主要科目の点数を足してみて、去年よりも50点も低いことに、レイチェルは顔を引きつらせた。パメラやエリザベスも同じだった。

「やっぱり、学期末試験が中止になってよかったんじゃないかしら」

思わず呟いたレイチェルに、このときばかりはエリザベスも頷いた。レイチェルは特に順位に固執しているわけではないし、セドリックやエリザベスのように学年トップ争いに食い込んでいるわけではないがやっぱり目に見えて成績が下がるといい気分じゃない。各々の答案を見つめたまま、3人とも無言だった。暗い雰囲気をどうにかしようと、レイチェルは手元にあった白紙の答案用紙を手に取った。

「私、ロックハートの試験の採点基準が気になるんだけど……」
「もはや闇の魔術関係ないわよね。この試験で重要なのは詩の才能よ」
「ロックハート教授は他人の功績を本にしたって話だけれど……詩は自分で書かれていたのかしら?だとしたら、詩人として活躍できたと思うわ」

『あなたがロックハートの著書で一番印象に残ったシーンを詩にし、その説明を書きなさい。※ただし、闇の魔術に対する防衛術で触れた生物の特徴について触れること』────羊皮紙に書かれた設問にパメラが鼻を鳴らし、エリザベスが苦笑する。レイチェルはマクゴナガル教授がこの問題を渡すときの苦々しい表情を思い出していた。

「……これ、実際に試験として出されてたら、何を書いたと思う?」

パメラの問いに、3人は無言で顔を見合わせた。そうして、誰からともなく羽ペンを手にする。
今はもうホグワーツに居ない教師への敬意をこめて、レイチェル達は手慰みにこの問題を解くことにしたのだった。

 

 

「ホグズミードって最高。流石にエリザベスもこの日は勉強しろ!って言わないもの」

本来試験だったはずの1週間が終わると、今年最後のホグズミード休暇が待っていた。ようやくOWLやNEWTも終わったので、校内はいよいよ開放感に満ち溢れ、お祭りのような空気が漂っていた。小声で囁いたパメラの言葉には苦笑したレイチェルだったが、前半部分には異論はなかった。ホグワーツ生にとって、ホグズミードは最高に楽しい場所だ。もはやお決まりとなった三本の箒でのランチや、雑貨屋や文房具店などを回っているうちに、一日はあっと言う間に過ぎ去ってしまった。最後にハニーデュークスに寄る頃には、もう終わってしまうのかと溜息を隠せなかった。

レイチェル、そんなに買うの?」
「私が全部食べるわけじゃないもの」

ひょいひょいと商品をカゴに詰めていくレイチェルに、エリザベスが目を丸くした。確かに量が多いとは思うけれど、自分の分はそのうちの何分の一かで、残りはおみやげだ。まだホグズミードに来られないレイチェルの友人達や、今年お世話になった人達への。

「ハーマイオニーでしょ、ジニーでしょ、ドラコでしょ。あとセドも。それに……」

石にされていて今年の半分は楽しめなかったハーマイオニー、継承者に攫われて怖い思いをしたジニー。父親のルシウス・マルフォイが理事を辞めさせられて元気がないドラコ。レイチェルにできることは少ないけれど、せめておいしいお菓子でも食べて喜んでくれればいいなと思う。セドリックはまあ、いつものことと言えばいつものことなのだけれど今年は色々と心配をかけてしまった気がする。指折り数えていったところで、ふとレイチェルはもう1人2人、何かお礼をすべきなんじゃないかと思う人の顔が頭に浮かんだ。

「それに誰よ?」
「うーん……買ったほうがいいのか、ちょっと迷って」
「それって男の子?」
「……だったら何?」
「別にィ」

パメラがニヤニヤ笑うのが気に食わなかったが、レイチェルは新商品の詰め合わせをもう2つ、カゴの中へと入れた。1つはジョージ・ウィーズリー。ハーマイオニーとの喧嘩のことで助言してもらったし、そのお礼と、それから諸々の口止め料の意味も込めて渡しておきたい。直接渡すのが望ましいのだろうけれど、レイチェルにはフレッドとジョージの見分けがつかないと言う問題があるので、ふくろうを使おう。間違ってフレッドに渡して、理由を訝しがられるのは避けたい。
そして、もう1つは。

「あの……ちょっと、渡したいものがあって……降りてきてもらってもいい?」

ホグワーツに帰ってすぐ、レイチェルは相手を呼び止めた。もしかしたらと言うレイチェルの予想通り、相手────オリバー・ウッドはクィディッチの競技場に居た。レイチェルに気づいたウッドは、クィディッチのゴールの高さから地上1メートルのところへと下りてくる。不思議そうな顔をするウッドに、レイチェルはハニーデュークスの袋を差し出した。

「この間は、ありがとう。変なところ見せちゃって、ごめんなさい。これ、よかったらもらって?」
「え? ああ……別に、気にしてないのに。ごめん、わざわざ」

ウッドは遠慮がちに受け取ると、しげしげと複雑そうな表情で包みを見下ろした。その様子に、レイチェルははっとした。もしかしたら、苦手なものだっただろうか? ウッドの好きなお菓子なんて知らない。ハニーデュークスのお菓子なら皆好きだろうと疑いもせずに選んでしまったけれど、そもそもウッドがお菓子を食べるかどうかさえも考えていなかった。アンジェリーナかアリシアにでも先に聞いておくべきだったかもしれない。

「あの……もしかして、甘いもの嫌いだった?」
「いや、好きだよ」

恐る恐る尋ねてみると、レイチェルの不安に気づいたのか、ウッドがにっこり笑う。それがレイチェルを気遣った嘘のようには聞こえなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。お礼をしようと思って渡したのに、本人が苦手なものじゃ意味がない。やっぱりアンジェリーナに聞いておくべきだったな、と後悔した。どうせなら、確実に喜んでもらえるものを渡したかった。

「ありがとう」
「お礼を言わなきゃいけないのはこっちだもの。私こそ、ありがとう。練習の邪魔しちゃって、ごめんなさい」

レイチェルは軽く会釈して、その場を立ち去ることにした。いつまでもおしゃべりしてしまっては、いよいよウッドの練習の邪魔になってしまう。足早にクィディッチの競技場から出て、城へと向かう。途中でふと後ろを振り向くと、赤く染まった夕焼けの中に、箒に乗ったウッドの姿が浮かんでいた。本当にクィディッチが好きなんだなあ、と思う。もうとっくに今年のクィディッチ杯は終わってしまったのに。そして、責任感の強い人なのだなとも、思う。ただ好きなだけじゃ、きっと、あそこまでできない。どんなにクィディッチが好きでも、1人きりの練習なんて、楽しいはずがないのだ。それができるのはたぶん、チームのためなのだろう。グリフィンドールのチームメイト達が、背中を気にせずに試合ができるように。ゴールはウッドが必ず守ってくれるから大丈夫だと、そう思えるように。来年こそは、チームを優勝に導けるように。
ウッドはプロのクィディッチ選手になるつもりなのだろうか。彼なら、なれる気がする。
自分にとってこれが一番好きだと胸を張って言えるものがあって、夢があって、それを叶えるための確かな目標があって、そのために努力している。羨望と、嫉妬に似た感情が胸の中に染み出してくるのを感じた。

「あれ、レイチェルじゃない。どうしたの?」
「アンジェリーナ」
「どうしたの、こんなとこで……って嘘、オリバーったらまた練習? ホグズミードも行かずに? 道理で朝から見ないと思ったら!」

たまたま通りかかったらしいアンジェリーナが、レイチェルに気づき、その視線の先を追ってぎょっとしたように言った。信じられないと首を振るアンジェリーナは、レイチェルよりもずっとウッドと親しい。ふと、さっきの疑問の答えを知りたくなった。

「……ね、アンジェリーナ。オリバーの好きなお菓子って知ってる?」
「オリバーの? 基本確か好き嫌いないよ。あ、でもヌガーはあんまり好きじゃないって言ってたな。歯にくっつく感じがダメなんだって」
「……そうなんだ」

答えはあっさりと返ってきた。どうしてか、ちくりと胸が痛んだような気がした。アンジェリーナがレイチェルよりウッドのことを知っているのは当たり前だ。同じ寮だし、同じクィディッチのチームメイトなのだから。それに比べて、レイチェルとウッドは時々会話するだけで、友達なのかどうかすらも危うい────きっとウッドは優しいから友達と言ってくれるだろうけれど、この関係を友達と呼ぶにはあまりにも遠すぎるように思う。

「そう言えばレイチェルって割とオリバーと仲良いよね」
「そう? アンジェリーナと比べれば全然だけど」

自分は本当にウッドのことを何も知らないんだな、と実感した。当たり前だ。寮も違うのだし、学年も違う。レイチェルは別にクィディッチ選手じゃないし、ウッドの親戚なわけでもない。自分の立場を省みれば、むしろ、親しくしているほうなのだ。レイチェルにはウッドの他に他寮の上級生の知り合いは居ない。
レイチェルがウッドのことを知らないのは当然だし、たぶんウッドもレイチェルのことを知らない。そして、この先それが変わることはないのだろうなと思う。出会ったときに比べれば距離が縮んだとは思うけれど、ウッドはあと1年で卒業してしまう。友達だと言える関係になるには、その早さはあまりにも遅すぎる。仕方のないことだ。当たり前のこと。別に改めて驚くようなことじゃない。ウッドだけじゃない。卒業してしまったレイブンクロー生の中にも、憧れて、もっと親しくなりたいと思っていたのに、踏み込めないまま別れてしまった人はたくさん居た。仕方のない、ことだ。

けれど何故だかそれが、ひどく寂しかった。

影は遠く

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