人生最悪の気分だった。
あの後フリットウィック教授が深刻な表情で談話室に入って来て、レイブンクロー生達に詳しい状況を説明した。ジニー・ウィーズリーが攫われたこと。レイチェル達は明日の朝にホグワーツ特急で帰ること。継承者の問題が片付くまで────ジニー・ウィーズリーが無事に保護されない限りは、ホグワーツは永久に閉鎖されること。
フリットウィック教授が出て行った後も、談話室に集まった生徒達は誰も立ち上がろうとはしなかった。
「ホグワーツはもう終わりだ」
誰かがぽつりと呟いた。フリットウィック教授の話を聞いても、レイチェルはまだ涙も何も出て来なかった。パドマやフリットウィック教授があんな嘘を吐くはずがないことなんてわかっているけれど、実感がないのだ。ジニーは攫われたと何度言葉で聞かされても、レイチェルはその現場も壁の文字も見ていないから。城中のどこもかしこも探し回って、ジニーが居ないことを確かめない限りは信じられそうになかった。そして勿論、ホグワーツがなくなってしまうなんてことも。
「学校が閉鎖って、あたし達、どうなるの?」
涙声の1年生が叫んだ。名前は知らないけれど、レイチェルはその子の顔に見覚えが合った。以前、継承者が怖いから寮から出たくないと泣いていた子だった。可愛らしい顔がぐちゃぐちゃになっている様子は、見るからに痛々しい。
「ホグワーツがなくなっちゃったら、どうやって呪文や色々な理論を学んだらいいの?」
当然の疑問だった。卒業間近の7年生はともかく、レイチェル達はまだまだ学んでいないことがたくさんある。その全てを独学で学べるのなら、そもそも学校なんて必要ない。泣きじゃくる1年生の背中を擦って、7年生が困惑した様子で答えた。
「そりゃ……他の魔法学校に分散されるんじゃないか。ボーバトンとか、ダームストラングとか……」
「そんなの嫌。他の学校になんて行きたくない」
ヨーロッパには、ホグワーツ以外にもそれぞれの国に魔法学校がある。普通に考えれば、そこに生徒を受け入れてもらう形になるのだろう。けれど、ホグワーツには1000人もの生徒が居る。ホグワーツ生全てをまとめて受け入れられる余裕のある魔法学校があるとは思えなかった。バラバラになるのだ。ホグワーツのものではない制服を着て、ホグワーツではない学校の生徒になる。頭では理解できるのに、やっぱりどこか他人事のように考えてしまう。けれど、1年生はとうとう声を上げて泣き出した。
「皆離れ離れになっちゃうなんて、絶対嫌!」
部屋の中の空気がさらに重さを増していく。ホグワーツの中でも賢いと言われる生徒達がたくさん集まっているのに、この空気を明るくする魔法は使える人間は1人も居ないようだった。
誰も何も言わなかった。けれど、同意の言葉なんてなくても、皆が同じ気持ちでいることは明らかだった。部屋のあちこちから、押し殺したような泣き声が聞こえてくる。レイチェルもようやく、実感が追い付いてきた。目頭がじわりと熱を帯びて、目尻から温かな雫が滲む。
レイブンクローの仲間達と離れ離れになる日が来るなんて、考えたこともなかった。ずっと一緒に、とか、誰も欠けずに、なんて言うのは元から無理なこととはわかっている。毎年誰かが卒業して、その代わりに誰かが入学してくる。でも、お別れのときはさようならなんかじゃなくて、おめでとうの言葉で見送りたかった。同じ寮だからって全員が仲良しなわけじゃない。レイチェルだって、寮生全員の名前を知っているわけじゃない。けれど、レイブンクローの皆が好きだった。ちょっと融通が利かなくて高慢なところもあるけれど、勤勉で、聡明なその性質が好きだった。レイブンクローに組み分けられてよかったなと思っていたし、自分が寮生であることが誇らしくもあった。4年の間付き合ってきたこの青いネクタイは、卒業までずっと首元にあるのだと信じて疑わなかった。ホグワーツがなくなってしまう。レイチェルは「レイブンクロー生」ではなくなってしまう。レイチェルの大好きなこの丸天井も、美しい景色も、何もかもがレイチェルの手の届かないものになってしまう。
ホグワーツがなくなったら────レイチェルは一体どこの学校に行くのだろうか? エリザベスは? パメラは、マグルの学校に行ってしまうかもしれない。レイブンクロー生だけじゃない。アンジェリーナやアリシアやドラコ、もしかしたらセドリックも。ホグワーツがなくなったら、皆、バラバラになってしまうかもしれない。いや、なくなったらじゃない。なくなるのだ。もう決まったことだ。新しい学校で、エリザベスやパメラのような友達はできるだろうか?大好きな人達と離れ離れになってしまうなんて、レイチェルには耐えられない。
そして、学校の閉鎖以上に気になるのは、ジニーのことだった。
ジニーが本当に秘密の部屋に連れ去られてしまったのだとしたら。一体今、どうしているのだろう。この城のどこかで、誰にも見つけられず、泣いているのだろうか。いや、そもそも────生きているのだろうか? レイチェルはそんな考えを振り払うように首を振った。暗いことを考えてしまうと、それが真実になってしまうような気がした。ジニーは生きている。絶対に生きている。そう信じなければ。けれど、小さなジニーがたった一人で怖い思いをして震えているかもしれないと考えると、胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。
どうしてジニーなのだろう。他の誰かならよかったなんて、そんなひどいことを考えているわけじゃない。でも、どうしてジニーなのだろう。ジニーは悪いことなんて何もしていないのに。もしかしたら何か、秘密の部屋に関することを知っていて────それで、継承者に攫われたのだろうか? それしか考えられない。だってジニーは、レイチェルなんかよりもずっと純血だ。
『レイチェル……あたし……』
最後に会ったあのとき、ジニーは何を言おうとしていたのだろう。もしかしたら、何か、秘密の部屋や継承者に関することだったかもしれない。どうして、聞かなかったのだろう。ジニーはどう見たって、様子がおかしかったのに。あれが、レイチェルとジニーの最後の会話だったのに。
無邪気で、おしゃまなジニー。レイチェルの大好きな年下の友達。それなのに、笑っている顔が思い出せない。頭の中のジニーが泣いている。暗闇の中に一人ぼっちで、怖がっている。助けを呼んでいる。助けてあげなくちゃ。助けてあげたい。助けたい。それなのにレイチェルには、何もできない。できることが、何一つ見当たらない。
「ジニー……」
────誰か、助けて。ジニーを。あの小さな女の子を、助けて。誰でもいいから、どうか。
どうしてか、頭の中に痩せた黒髪の少年の姿がよぎった。彼なら、何か知っているんじゃないかと、何とかしてくれるんじゃないかと、そんな期待にも似た考えを抱いた。馬鹿げている。ダンブルドアでさえ何もできなかった継承者相手に、ハリー・ポッターに────2年生の男の子に何ができると言うのだ。それに、いつも嫌いだ嫌いだと言っているくせにこんな時だけ頼りにするなんてどうかしている。
落とした視線の先で、丸天井から零れた星がカーペットの上に瞬く。いつもなら心を安らがせてくれる優しい輝きも、今は何の慰めにもならなかった。ぎゅっと膝を抱きしめて俯く。今は何も考えたくなかった。
「レイチェル……レイチェルったら!大丈夫?」
一体何時間そうしていただろうか。気づけば窓の外は暗闇に包まれていた。レイチェルの知らない間に、談話室はすっかり人気がなくなってしまって閑散としていた。パメラが心配そうな、呆れたような表情でレイチェルを覗きこんでいる。
「何度も呼んだのに、ちっとも反応しないんだもの!置き物になっちゃったかと思ったわよ!」
「部屋に戻って眠りましょう、レイチェル。明日の朝は早いわ」
眠りたくない。だって眠ったら朝が来てしまう。明日になれば、皆離れ離れになってしまう。そう考えると、胃のあたりが沈んで行くような気がした。けれど、そんなわがままを口にして二人を困らせたくはない。レイチェルは静かに頷いて立ち上がり、談話室を後にした。
「さっき監督生に聞いてきたの。荷物は、屋敷しもべがまとめてくれるらしいわ。だから洋服さえ自分でトランクに詰めておけば大丈夫ですって。それと……」
エリザベスがふとそこで言葉を切った。その手には、ベッドサイドに飾られていた写真立てが握られている。その中に収まっている写真が何なのか、レイチェルは見なくても知っていた。初めてホグズミードに行った時、エリザベスとレイチェルとパメラ、3人で撮った写真だ。
「……私達」
エリザベスの声は掠れて、震えていた。その目には涙が浮かんでいる。エリザベスが何を不安に思っているか、レイチェルにはよくわかった。もう3人で一緒にホグズミードに行くことはきっとない。当たり前だと思っていた全てがなくなってしまう。試験勉強でかじりついた机も、ふかふかのベッドも、お気に入りの物で飾ったこの壁も、おはようと2人に挨拶することも。些細な喧嘩も。何もかも。
「私達、離れ離れになっても友達よね?」
「当たり前でしょ! 何馬鹿なこと言ってるのよ」
「パメラの言う通りよ。決まってるじゃない。ずっと……ずっと、友達だわ」
エリザベスもパメラも、そしてレイチェルも、それ以上何も言わなかった。ただ、お互いにきつく抱き合って、声を殺して泣いた。その夜はベッドを寄せ合って、レイチェルはパメラとエリザベスと手を繋いで眠った。明日なんて永遠に来なければいいなんて、そんな叶うはずもないことを願いながら。
夢を見ていた。
マグルのおとぎ話のお姫様みたいな、袖と裾のふくらんだ淡いピンク色のドレスを着て、金のティアラをつけたジニーが、大きなドラゴンに攫われて泣いている。そこに王子様の格好をしたハリー・ポッターが白馬に乗って現れて、ドラゴンを剣で一突き。ジニーは感激して、ハリー・ポッターにキスをする。誰もが悪いドラゴンが倒されたことをお祝いして、美しい白い城で舞踏会が始まる。そしてどこからかチャーリーが現れて、大喜びで倒れたドラゴンの尻尾や目玉を持って行った。
途中でああ夢だな、と気がついた。あまりにも馬鹿げていたから、夢だとわかった。馬鹿げているけれど、覚めなければいいなと思った。もう少し、この幸せな夢を見ていたい────。
「──て! 起きてよ、レイチェル!」
ところがレイチェルのそんな願いを打ち砕くかのように、意識は唐突に現実へと引き戻された。がくがくと肩を揺さぶられるせいで、息がうまくできない。薄く開いた瞼の間から見えたパメラの瞳が、夢の中のドラゴンと同じくらい爛々と輝いていた。
「何? パメラ……もう朝……?」
「ああ、もう、寝惚けてるわね!」
パメラはじれったそうに言って、まだ意識がぼんやりしているレイチェルの腕を引っ張って無理矢理体を起こさせた。ぱちぱちと瞬きをしながら辺りをよく見てみると、パメラの隣にはエリザベスも居た。けれど、カーテンの向こうはまだ真っ暗だ。一体何事かと考えていると、パメラが満面の笑顔を見せた。
「パーティーよ!」
「は?」
「詳しいことはわからないけど、ジニー・ウィーズリーが助かったらしいの!だから、ホグワーツは無事に閉鎖の危機を逃れたってわけ!明日からもまた授業よ!」
「今から、お祝いのパーティーが始まるらしいの。今、監督生がそれぞれの部屋に声を掛けてるわ」
「……ジニーが? 本当に?」
パメラとエリザベスも興奮しているらしい。矢継ぎ早に紡がれた言葉は寝惚けた頭では全て理解することはできなかったが、一番大切な事だけは何とか聞き取れた。ジニーが助かった。戻ってきた。生きている。ジニーは、ちゃんと生きている。
「よかった……」
レイチェルは体の力が抜けていくのを感じた。何がどうなったのかなんてちっともわからないけれど、ジニーが無事だとわかったのなら、それだけで十分だ。そして、明日からもまた、ホグワーツに居られる。嬉しさのあまり、知らずに、頬が緩んで来る。エリザベスもパメラもにこにこしていた。「そう言うわけで、行きましょ! もう皆大広間に向かってるわ!」
「え? パジャマのままで?」
「パジャマのままで!」
パメラに手を引かれて、ルームスリッパのまま階段を駆け下りて行く。談話室も、その先の廊下も、同じように起き出してきた生徒達でごった返していた。誰もが、喜びを隠しきれない様子で頬を紅潮させ、口々にようやく訪れた事件の終わりを祝福しあっていた。
「お、レイチェル」
「ロジャー」
混雑のせいでパメラ達とはぐれてしまったレイチェルだったが、代わりにロジャーを見つけた。レイチェルと目が合ったロジャーは、何か秘密を言いたくてたまらないと言う顔でレイチェルを手招きすると、声を落としてそっと耳元で囁いた。
「今フリットウィック爺さんに聞いて来たんだ。スリザリンの怪物はバジリスクだったらしい」
「バジ……!?」
「そう、でさ。それを倒したのは誰だったと思う?」
まるで悪戯を思いついたみたいな顔で、ロジャーが楽しげに笑ってみせた。バジリスクを倒したなんて、一体誰なのだろう。なぜだかレイチェルは、その答えを既に知っているような気がした。さっき見た夢のせいもあったかもしれない。
「我らがハリー・ポッターさ」
やっぱりなと思った。彼だろうなと納得した。だってそんな無茶をしそうな人間を、レイチェルは他に知らない。大人の魔法使いでも躊躇うような恐ろしい怪物に立ち向かう無謀さを────勇気を持っている人なんて、きっと他に誰も居ない。
「……そう」
「何だ、驚かないんだな」
あっさりとしたレイチェルの反応に、ロジャーは不満そうだった。ロジャーにとっては、大ニュースのつもりだったのだろう。確かに、もっと驚いたりすべきなのかもしれない。けれど、驚くことなんて何もないじゃないか。レイチェルはそっと肩を竦めた。
「だって、ハリー・ポッターが何かやらかすのは、いつものことでしょ?」
「まあ、確かにな」
真夜中の脱走に、夏休みの魔法使用。空飛ぶ車に暴れるブラッジャー。騒動の中心には、彼の名前がある。
けれどそれが今は、とても頼もしいことに思えた。規則破りも法律違反も何とも思わない、自分が世界の中心だと思っている傲慢な男の子。レイチェルの大嫌いなハリー・ポッター。
けれど、彼は本当に────英雄なのだ。