それからの記憶は少し曖昧だったが、気づけばレイチェルは一人廊下を歩いていた。まあ普通に考えて螺旋階段を下りて、談話室を通って寮を出て来たのだろうけれど────そう言えば、談話室でロジャーか誰かに話しかけられた気がするけれど、何を言われたのかは耳に入らなかった。エリザベスとパメラの言葉ばかりが、頭の中に繰り返し反響していた。

『パメラはきっと私を疑ってる』
『次に襲われるのは、きっと私よ』

どうして、気づかなかったのだろう。2人の不安に、気づいてあげられなかったのだろう。毎日ずっと一緒に居たのに。親友なのに。自分のことばかりで、周囲のことなんてちっとも考えていなかった。ドラコと喧嘩したときも、ハーマイオニーと喧嘩したときも、パメラやエリザベスはレイチェルの変化に気づいてくれて、心配してくれたのに。
門限の6時が近づいてきているせいか、廊下には人気がない。誰の視線もないせいか、レイチェルは段々と視界がぼやけてくるのを感じた。自分が悔しくて、情けなかった。
俯いたままで、前をよく見ていなかったからだろう。レイチェルは、廊下の角を曲がって来た誰かとぶつかった。

「ごめん。大丈夫か……レイチェル?」

ふらついて後ろへとバランスを崩したレイチェルだったが、慌てて相手が腕を掴んで支えて引っ張ってくれたので倒れ込まずに済んだ。呼ばれた名前にゆるゆると視線を上げると、見知った顔が驚いたようにレイチェルを見返していた。オリバー・ウッドだ。

「えっ…………ごめん、そんなに痛かったか?」
「あ……違うの」

どうやらレイチェルが泣いているのを見て、自分のせいなんじゃないかと勘違いしたらしい。確かにこの状況では、ウッドがそう誤解してしまうのも無理はなかった。あからさまに焦った表情をするウッドに、レイチェルは首を横に振り、涙を拭った。

「オリバーのせいじゃないから……気にしないで。ごめんなさい」

できるだけ元気な声を出そうとしたものの、鼻声になってしまったせいであまり効果はなかった。泣いているところを知り合いに見られてしまうのは恥ずかしい。レイチェルは視線を逸らして俯き、その場を立ち去ろうとウッドの脇をすり抜けようとした────が、叶わなかった。ウッドがレイチェルの腕を掴んだからだ。

「何かあったのか?」

ウッドが心配そうにレイチェルを見つめるので、レイチェルは戸惑った。『何か』ならあった。ありすぎて頭がパンクしてしまいそうなくらいだ。頭の中にまたエリザベスとパメラの声が蘇って来る。胸の奥から熱いものが喉元へとこみ上げて来て、心臓がじくじくと痛む。

「私……私、最低」

気づけばレイチェルは、たった今起こった出来事について、何もかもウッドにぶちまけてしまっていた。思い出している途中にまた涙が溢れてきて言葉にならない部分もあったし、きちんと頭の中で整理しながら話したわけではなかったので、話の流れも滅茶苦茶だっただろう。そもそも、エリザベスとパメラが自分の親友だと言う説明すら飛ばしてしまった気がする。けれどウッドは嫌な顔ひとつすることなく、レイチェルの話を黙って最後まで聞いてくれた。

「私……気づいてあげられなかった。ずっと、近くに居たのに。自分のことで頭が一杯で……エリザベスもパメラも、きっと私に幻滅したわ……」

全て吐き出してしまうと、ようやく少し気持ちが落ち着いて来た。と同時に、さあっと血の気が引いていくのを感じた。一体何分間しゃべっていたのだろう。ウッドが黙っているのをいいことに、どれだけ付き合わせたのだ。ただ通りすがっただけのウッドに────レイチェルの悩みとは全く無関係のウッドに、ものすごく迷惑をかけてしまった。

「あの……その……ごめんなさい……」
「え? ああ……気にするな。俺は別に何もしてないし」

青ざめるレイチェルに、ウッドはあっけらかんとそう言った。レイチェルに気を遣わせないための嘘かもしれないと思ったが、ウッドの表情を見る限り言葉の通り本当に気にしていなさそうだったので、少しほっとした。大きな手が、ぐしゃぐしゃとレイチェルの髪をかきまぜる。

「辛い時は無理に我慢しないで泣いた方がいい。その方が楽になる。実際俺もクィディッチでスリザリンにボロ負けしたときは枕の色が変わるくらい泣いた」

ウッドはそう言って苦笑すると、レイチェルを振り向いた。たった今大して親しくもない女の子に目の前でなか迷惑をかけられているのに、そんなことを言うウッドが、なんだか不思議な気がした。慰めなのだろうか? いや、でも事実、ウッドはレイチェルを無理に泣きやませようとはしなかった。迷惑そうな顔ひとつせず、ただずっと、隣に居てくれた。

「まあ、俺もそう人付き合いが上手い方じゃないし、大したアドバイスはできないけど……気づけなかったのは過去の事だからもう変えようがない。これから支えて挽回すればいいんじゃないか?」

確かに、その通りだ。うじうじ悩んでいても仕方がない。むしろ自分の殻に閉じこもって悩んでいたからこそ、エリザベスやパメラの異変に気付けなかったのだ。俯いてばかりいないで、きちんと背筋を伸ばして周りを見なければ。いつも支えてもらっているのだから、今度こそレイチェルが側に居て、二人を元気づける番だ。

「…………ありがとう、オリバー」

ぐすりと鼻を啜る。ようやく涙も止まった。歪みの取れた視界で改めて隣に立ウッドを見上げる。逆光に照らされる横顔は、レイチェルよりもずっと大人びて見えた。レイチェルは今更、ウッドが自分よりも年上なのだと言うことを実感した。タイミングが悪いのか何なのか、いつもみっともないところばかり見られている気がするけれど、それについてウッドがからかってきたことは一度もない。いつもクィディッチのことで目をキラキラさせていて、少年のような人だけれど、大人なのだ。レイチェルよりも、ずっと。

「今日はもう遅いから寮に戻った方がいい。送るよ」

ウッドがそう言って歩き出したので、レイチェルの足も自然と前へと進む。そう言えば手を握ったままだった。触れ合った皮膚から伝わる体温が妙に生々しくて、レイチェルは気恥ずかしさに頬がじんわりと熱を帯びてくるのを感じて、ウッドに気づかれないよう俯いた。

 

 

 

しかしそんなレイチェルの決意に肩透かしを食らわせるように、翌朝顔を合わせたパメラとエリザベスはあまりにもいつも通りだった。パメラはベッドカーテンの中に全てを押し込んで置いてきたかのように溌剌とした笑顔を見せていたし、医務室のショートステイから帰ってきたエリザベスは試験のことに神経を尖らせていた。

「あの、エリザベス……昨日のことだけど……」
「あら? 私、薬草学のノートをどこにやったのかしら?」
「パメラ。その……」
「何のこと?」

まるで、昨日の一件には触れてくれるなと言わんばかりの二人の態度に、レイチェルは途方に暮れてしまった。もしかしてあれは夢だったのだろうか? そんな疑問が頭をよぎったが、パメラもエリザベスもそしてレイチェルも、泣いたせいで瞼が腫れぼったくなっているのを隠しきれていなかった。朝から何度となく話を振ろうとしたが、そのたびに誤魔化されてしまう。見なかったことにしてほしいと、そう言うことなのだろうか? 何だか釈然としなかったが、かと言ってレイチェルに何か二人の悩みに有効な解決策があるわけではなかった。無理に聞き出して、何もできることはありませんと言うのでは、余計に失望されてしまうだろう。二人がまたその話をしてもいいと思えるようになるまで、待つべきなのかもしれない。
そう考えたレイチェルだったが、実際には2人とじっくり話すどころか、ほんの少しのおしゃべりでさえ少なくなっていった。誤解のないように言っておけば、喧嘩をしたわけでも、気まずいからでもない。ただ単純に、その余裕がないのだ。気がつけば、試験はもう3日後に迫っていた。ピリピリとした空気はますます張り詰めていくばかりだったが、その日の朝食時の大広間でのマクゴナガル教授の発表は、久しぶりに生徒達の表情を明るくさせた。とうとうマンドレイクが収穫時期を迎え、石になった犠牲者達を蘇生させることができるのだ。

「回復薬ってやっぱりスネイプが作るのかしら。大丈夫?」
「失礼よ、パメラ……スネイプ教授に限ってそんなことあるはずがないわ」
「ええ、まあね。うっかり手を滑らせて鍋をひっくり返さなきゃいいけどね!」

ざわざわと騒がしい中、パメラとエリザベスのそんな会話を聞きながら、レイチェルは紅茶にミルクを混ぜ入れる。この状況が永遠に続くんじゃないかと錯覚していたので、何だか呆然としてしまって周囲の興奮についていけていなかったのだ。パメラは久しぶりに明るい笑顔を浮かべていたし、エリザベスも明らかにほっとした顔していた。それもそうだろう。真犯人の正体がわかってしまいさえすれば、パメラが襲われる心配もないし、エリザベスが疑われることもないのだから。継承者はきっと捕まるだろう。明日になれば、事件は終わるのだ。ようやくそう実感して、じわじわと嬉しさが胸に染みだしてくる。これでペネロピーもハーマイオニーも、目を覚ますのだ。これでやっと、ハーマイオニーに謝ることもできる。
久しぶりの明るい話題に花を咲かせ始めたレイチェル達とは対照的に、隣に座るロジャーは何だか難しい顔をしていた。

「……いい知らせってのは間違いないけど、発表してよかったのか?」

思わず口に出してしまったのだろう。ぽつりと漏れた呟きは、周囲の喧騒に紛れてしまいそうだったが、すぐ近くに居るレイチェルには聞こえた。まじまじとロジャーを見つめると、レイチェルの視線に気づいたのか、困ったように肩を竦めてみせる。

「俺が継承者だったら、夜までにマンドレイクをどうにかしようって思うけどな」
「ロジャーったら……」
「だってそうだろ? 犠牲者が目覚めて、自分が犯人だってバラされたら困る」

空気が重くなってしまうのが嫌なのか、軽い口調でロジャーは囁いた。けれど、内容はいたって深刻だった。確かにそうかもしれない。もしもレイチェルが継承者だったら────自分が犯人だとバレるかもしれないと思ったら、どんな行動に出るだろうか? 浮かれていた気分が、スーッと冷めていくようだった。レイチェルは正面でおしゃべりしているエリザベスとパメラにちらりと視線を向けた。どうやら聞こえてないようだ。二人に気づかれないよう、小声で返す。

「そんな……考え過ぎよ。縁起でもないこと言わないで」
「まあな。それに、マクゴナガルだってこれくらい考えてるよな」
「ええ……そうよ。だから、きっと大丈夫だわ」

そうだ。マクゴナガル教授ならそんなこと想定しているだろうし、薬は万全の警備の中で調合されるに違いない。加えて、医務室はマダム・ポンフリーが守っている。だから、心配することなんて何もない。ロジャーも納得がいったようで、スクランブルエッグの皿へと注意を移した。レイチェルもほっと胸を撫で下ろす。

「そうだ!試験が終わったら、ペニーの帰還を祝ってパーティーを開いてあげましょうよ! 1ヶ月も何にも食べてないんだもの、思いっきりおいしいものを食べさせてあげなくっちゃ!」
「とてもいい考えだと思うわ。ねえ、レイチェルはどう思う?」
「私? 私は……」

レイチェルは笑顔を浮かべ、親友達とのおしゃべりに再び加わることにした。
こんなに清々しい気分での朝食は久しぶりだった。興奮した囁き。笑い声。まるでハロウィンやクリスマスの晩餐みたいに、温かで優しい空気が満ちていた。誰もがようやく迎える事件の終わりを喜び、戻って来るだろう平穏に胸を躍らた。
けれど────それはほんの束の間の幻想でしかなかった。ロジャーが正しかったのだ。

 

 

 

それは古代ルーン文字の授業中だった。
テスト前と言うこともあり、レイチェル達には複雑な演習問題が配られていた。演習とは言え、授業終了と共に回収されて教授自ら採点されるし成績にも加えられるので、半分テストのようなものだった。カリカリと周囲から羽根ペンの音が聞こえてくる中、レイチェルは手を止めていた。最後から2問めがどうしても解けない。レイチェルは焦る気持ちを抑えて羽根ペンを握り締めた。もう少しだ。もう少しで答えが出そうなのに。ちらりと机の上に置いた時計を見る。あと5分。いや、あと3分あれば。しかしそんなレイチェルの心中を無視するように、時計の針は無情にもタイムアップを告げた。レイチェルは観念して羽根ペンを置いた─────が、おかしなことにベルが鳴らない。

「そこまで!時間です。羽根ペンを置きなさい」

代わりにバブリング先生の制止が入った。レイチェルの時計が狂っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。隣に座るエリザベスも不思議そうな顔をしていた。しばらく待ってみたが、やっぱり何も聞こえない。ベルの調子が悪いのだろうか?そう考えたとき、魔法で拡声された声が響き渡った。

「生徒は全員、それぞれの寮にすぐに戻りなさい。教師は全員、職員室に大至急お集まりください」

マクゴナガル教授の声だ。どうやらただ単にベルが故障したと言うわけではないらしい。事態はもっと深刻で複雑なようだ。嫌な予感が、レイチェルの胸をよぎった。少なくとも、マクゴナガル教授の声の調子から察するに、いいことでないのは間違いない。まさかこのタイミングで、また誰か襲われたのだろうか?
周囲も同じことを考えたのか、教室の中が不安げにざわつきはじめる。一番前に座っていたハッフルパフの女の子が手を上げた。

「先生、何が起こったんですか?」
「わかりません。ただ、皆さんも聞いた通り、私は今から職員室に向かいます」

バブリング先生は困惑した表情だった。手元にあったままの問題用紙が、杖の一振りで教卓に置かれた箱の中へと次々に吸い込まれていく。そうして教授はぐるりと教室内を見渡すと、まだざわついている生徒達に向かって告げた。

「真っ直ぐに寮に戻りなさい。いいですね。必ず固まって行動なさい。」

レイチェル達はその言葉に従い、レイブンクロー寮へと戻ることにした。廊下は同じように自分達の寮へ帰ろうとする途中の生徒達で混雑していた。状況が全くわからないせいで、なかばパニックになりかけていた。一刻も早く安全な寮の中へと逃げ込みたいと皆が先を急いでいるせいで、前に進むのも一苦労だった。もみくちゃになりながらやっとの思いで寮まで辿りつくと、談話室には既に半数近くのレイブンクロー寮生が集まっていた。

「何が起こったの?」
「また継承者?」
「でも無駄だろ、今夜にはマンドレイク回復薬ができるんだ」
「捕まる前の悪あがきか?」

不安と好奇心の混ざった、そんな囁きが部屋の中に満ちていた。その間にも次から次へと、談話室の入口からレイブンクロー生が戻って来る。誰もが情報を得るために部屋へ戻ろうとはしないせいで、もはや座る場所もなく、レイチェル達は人とぶつからないよう気をつけながら壁際へと押しやられた。

レイチェル……」
「大丈夫よ、エリザベス。あなたは私の隣でずっと授業を受けてたんだもの」

レイチェルは泣きそうな顔のエリザベスをそう慰めた。パメラも眉根を寄せて黙りこんでいる。無理もない。ようやく事件が解決すると安心したその日にこれだ。しかも授業を中止してまで寮に帰らせるなんて、一体今度は何が起こったのだろう?

「私、知ってる」

誰かがそう言った。囁き声はぴたりと止み、部屋の中はさっきまでとは打って変わって静まり返った。声のした方向を振り向くと、ドアのところに、たった今談話室に入って来たばかりらしいパドマ・パチルが息を切らしながら立っていた。

「女の子が1人、怪物に秘密の部屋に連れ去られたのよ。さっき3階の廊下の前を通ったとき、壁に新しい文字が増えてて、そう書いてあった」
「連れ去られたって、誰が?」

誰かが不安げな声でそう尋ねた。そしてそれは部屋中の生徒達が知りたいことでもあったので、他に誰一人口を開くことなく、パドマの言葉を待った。重たい沈黙の中で、パドマは悲しげに眼を伏せ、言葉を躊躇っていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「ジニー・ウィーズリー」

部屋の中の何人かが悲鳴を上げたのがわかった。1年生の女の子がわっと泣き出す声が聞こえた。レイチェルは悲鳴も、涙も出なかった。ただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかい。頭の中に、最後に会ったときのジニーの泣き顔が浮かんで消えた。

絶望が部屋を飲み込んで行く。状況は最悪だった。

転がる石

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