4月も半ばになった。空は勿忘草色に澄み渡り、暖かな日が続いていた。窓硝子の向こうでは燦々と降り注ぐ太陽に湖面が煌めき、緑の芝の上には色とりどりの花々が咲き乱れていた。城の中に閉じこもるにはあまりにももったいない陽気だったが、残念ながらレイチェルはその誘惑に耐えなければいけなかった。休暇も残りあとわずかだ。レイチェルは課題と格闘するのに忙しい。
今年もおばさん────善良なディゴリー夫人からはパステルカラーとリボンで彩られた大きなイースターエッグが贈られた。中身はもちろん、甘いチョコレートやキャンディー、そしてお手製のファッジやクッキーだ。大きな卵いっぱいに詰められたおいしいお菓子の数々はレイチェルに幸せを運んでくれたが、同時に悩みの種でもあった。
「つい食べすぎちゃいそうで怖い」
休暇中はわざわざ制服を着たりしないから、ウエストを締めつけるプリーツスカートは壁のハンガーにかけっぱなしだ。うっかり油断してサイズアップして、休暇後に青ざめることになるのはごめんだ。レイチェルが真剣な顔で呟くと隣を歩くセドリックが苦笑した。
「勉強すると甘いものが欲しくなるよね」
「そう。しかもおばさんのお菓子、おいしいんだもの。一口食べると止まらなくなっちゃう」
「伝えておくよ。きっと喜ぶと思うから」
試験が近づいてくると図書室が混み合うせいで、勉強しようとするとどうしても部屋に引きこもりがちになる。疲れると甘いものが食べたくなるのはどうしようもない。手の届く範囲にお菓子があると、ついついちょっとだけ……と言う誘惑に負けてしまいそうになるので、レイチェルにとっては辛いところだった。
「じゃあね、セド。私、約束があるから」
「うん。僕もこれからクイディッチの練習だ」
「さっき言ってた魔法史の過去問は、後でふくろうで送るから」
「助かるよ」
競技場の方向へと駆けていく背中を見送って、レイチェルはふうと息を吐いた。久しぶりに会ったと思ったら、会話はこれだけ。最近、セドリックとあまり話をしていない気がする。けれどまあ、仕方ないのだろうなとも思った。休暇中だから授業で顔を合わせることもないし、第一お互いにが寮の中で過ごす時間が多いのだから。そしてなかなか時間が合わずに約束もできないのだから、こうやって偶然会う以外はほとんどセドリックと会話をする機会なんてない。ただでさえ多い課題に、試験勉強に、それからクィディッチの練習。ここのところ、セドリックは随分と忙しそうだ。
「おや」
「そこに居るのは、レイチェルじゃないか」
そして対照的に、この2人はどうしてこうも余裕そうなのだろう。与えられている課題も、試験の範囲も、クィディッチの練習があるのだってセドリックと同じはずなのだけれど────。背後からかけられた声に、レイチェルはそんなことを考えた。思った通り、声の主はフレッドとジョージだ。
「元気かい?」
「ええ。貴方達ほどじゃないけど」
「そのバケツ、どうしたの?」
レイチェルはふと、2人の手に持っているものへと視線を落とした。2人がそれぞれ手にしているのは、銀色の金属製のバケツた。また悪戯に使う道具か何かなのかと思ったが、どうやら中身は空っぽのようだ。レイチェルが首を捻っていると、フレッドとジョージはあっさりと教えてくれた。「これから湖に行くのさ」
「カエルの卵がちょっとばかし必要でね」
「まあ、俺達の部屋にもカエルはうじゃうじゃ居るんだけどな」
「だが相棒、チョコレートは卵を産まないだろ?」
言って、フレッドとジョージはニヤッと笑ってみせた。カエルの卵だなんて、また何か魔法薬でもこっそり調合するのだろうか。それとも、そのまま悪戯に使うのだろうか────だとしたら巻き込まれないように気をつけなければ。そんなことを考えながら、ふと双子の言葉が引っ掛かった。チョコレートって、もしかして、あれのことだろうか。
「この間はどうも」
「どういたしまして」
この間のホグズミードへ行ったとき、パメラとエリザベスと一緒にルームメイトへの誕生日プレゼントを選んだのだが、そのときにふとそう言えばこの二人も4月が誕生日だったと思い出したのだった。夏にはレイチェルへプレゼントをくれたし、特にジョージには最近何かと世話になっている。レイチェルはパメラにバレないようにこっそりと、二人への誕生日プレゼントを購入したのだった。とは言っても、別に大したものじゃない。蛙チョコレートの箱詰めだ。平凡すぎてつまらないような気もしたけれど、レイチェルが頭を捻ったところで双子の面白がるようなものはあげられないだろうから、結局無難なものが一番だと思えた。ふくろうでグリフィンドール寮まで届けてもらったのだが、どうやらちゃんと二人の手に渡ったようだ。
「喜んでもらえたなら嬉しいわ。じゃあ、また」
「どこへ行くんだい?」
どうやら少しおしゃべりをしすぎてしまったらしい。時計を見ると、もうそろそろ時間だ。遅れないよう、急がなければ。早足でその場を去ろうとするレイチェルを、双子は不思議に思ったようだった。背中を追い掛けてきた声に、レイチェルは振り返ってニッコリした。
「可愛い方のウィーズリーに会う約束をしてるの」
「ジニー」
「レイチェル!」
燃えるような赤毛は、遠目からでもすぐにわかる。一足早く待ち合わせ場所に立っていたジニーに、レイチェルは後ろから声をかけた。こっちに気づいて振り返るなり、ぱっと顔を輝かせて駆け寄って来るジニーは可愛らしい。こんな妹だったら確かに甘やかしてしまうだろう。レイチェルはチャーリーの気持ちがわかる気がした。もっとも、フレッドやジョージに言わせれば、レイチェルも十分ジニーを甘やかしてしまっているらしいけれど。
「どの科目が心配なの?」
今日は、初めての試験が不安だと言うジニーのために、勉強を見てあげると約束をしたのだ。確かにレイブンクローの1年生の中でこうやって個人的に試験の面倒を見てあげる約束をしている子なんて居ないし、レイチェル自身他人の勉強を見るほどの余裕があるのかと言われると耳が痛いところだが────まあジニーは1年生だからそれほど大変じゃないだろうし、レイチェルに見てほしいと言ってくれたのだから力になってあげたいと思うのは当然だ。
「うーん……魔法薬学が一番ひどいけど、どっちかって言うと実技を教えてほしいな。呪文学とか、変身術とか」
「じゃあどこか場所を探さないとね」
魔法史や薬草学なんかの勉強をするのなら図書室でいいけれど、呪文を使うとなるとそうもいかない。できれば呪文が周りに当たらないような、人や物が少ない場所がいい。どこがいいだろうかと逡巡した結果、レイチェルに一つの案が浮かんだ。
「マグル学の教室に行ってみる?」
休暇の間は当然授業がないので、どの教室も空っぽだ。教授の厚意で補修が行われていたり、実技の自習のために開放されていることもあるが、誰も居なければ自由に使っていいことになっている。実技と呼べるようなものがなく、そもそもの履修者の数が少ないマグル学の教室ならば空いている可能性が高い。レイチェルがそう説明するとジニーも賛成してくれたので、そうすることにした。
「あ、あそこよ」
マグル学のある北塔は主だった教室がある棟からは外れている上に、4月のこの時期でもまだ肌寒い。そのせいか、廊下は驚くほど人気がなく静かだった。目当ての教室へと辿りつくと、意外なことに中からはランプの灯りが漏れている。誰か先客が居るのかもしれない。レイチェルが少しがっかりしていると、ジニーがドアノブに手をかけそっと開いた。わずかにできた隙間から中の様子を覗きこんで、目に映った光景にレイチェルははっと息を呑んだ。
「……キスしてる」
呆然とするレイチェルの隣で、ジニーが小さく呟く。つまり、そう言う事だった。教室の中に居るのは2人の男女で、2人は抱き合ってキスをしていた。それだけでも十分気まずいが、更によくないことにその2人はレイチェルにとってもジニーにとってもよく知っている人物だった。こちらからは横顔しか見えないけれど、色白で黒い巻き毛の少女はレイチェルの上級生のペネロピー・クリアウォーター。そして、背の高い赤毛の青年は、パーシー・ウィーズリー。ジニーの兄だ。そう言えば2人は付き合っているんだったなと、レイチェルは頭の片隅で冷静にそんなことを考えた。
「……行きましょ」
レイチェルはジニーのローブを引き、そっと囁いた。ジニーもこくりと頷く。2人の邪魔をしちゃ悪いし、何より向こうだって見られていたとわかったら嫌な気分になるだろう。足音を立てないようにそっと立ち去ろうとしたレイチェル達だったが────その時、一つアクシデントが起きた。ジニーのローブのポケットに入っていた金属のボタン───変身術の練習用だ────が落ちてしまったのだ。ボタンが廊下を跳ねる固い音が響く。ジニーがあっと声を上げ、レイチェルは思わず俯いて額を押さえた。教室の中の2人にも聞こえたらしく、ぎょっとしたようにこちらを振り向く。ジニーがレイチェルの腕をぐいと引っ張ると、廊下を駆け出した。レイチェルも引きずられるようにして後を追う。「ジニー!」
わずかなドアの隙間からでも、やはり兄にはわかってしまったらしい。背中を追いかけてくる声を聞きながら、レイチェル達は階段を駆け下り、廊下を走った。大広間の前を過ぎ、校庭まで辿りつくと、ようやくジニーは立ち止り、芝生の上へと腰を下ろした。
「レイチェル、大丈夫?」
「ええ……こんなに走ったの、久しぶり、で」
ジニーが心配そうにレイチェルを覗きこんだ。息が苦しい。額には汗が滲んでいた。こんなに必死になって走ったのなんていつぶりだろう。ジニーは平気そうだったが、試験前で運動不足のレイチェルには結構辛い。これだからレイブンクローはガリ勉のもやしばっかりと言われてしまうのだろうな、と現実逃避をしていると、ジニーが真剣な表情でレイチェルを見つめていた。
「あの人って、レイブンクローの監督生よね。レイチェル、知ってる?」
ジニーの口調は面白がっていると言うよりは、何だか複雑そうな響きを持っていた。それはそうだろう。ペネロピーがパーシー・ウィーズリーと付き合っていると知っていたレイチェルでさえ気まずいと思ったのに、ジニーはたぶん2人が恋人同士だと知らなかっただろうし、その上パーシーはジニーの実の兄なのだ。一人っ子のレイチェルにはよくわからないが、兄弟に恋人ができると言うのはきっと複雑な心境なのだろう。
「ええ。ペニー……ペネロピー・クリアウォーターよ。ジニーも知ってる通り、監督生で……とっても頭が良くて優しくて、皆に好かれてるわ。私も、大好き」
けれど、ペネロピーはとても素敵な女の子だ。レイチェルがもし男の子だったら、ペネロピーみたいな人が恋人にしたいと思う。だから、ジニーが心配するようなことは何もない。そんな気持ちを込めてそう伝えると、ジニーはほっとしたように表情を和らげ、にっこり笑顔を浮かべた。
「パーシーは真面目だから、悪い女に引っ掛かるんじゃないかっていつもママが心配してるの。そうじゃないみたいでよかった。……でも、ちょっと悪い事しちゃったな」
ジニーがぽつりと呟いた。レイチェルもそうだったように、2人もマグル学の教室なら誰も来ないと考えたのだろう。見てしまったレイチェル達も気まずかったが、見られた2人はもっと気まずがっただろう。目の前のジニーと、去り際のパーシー・ウィーズリーの焦った表情を思い出し、レイチェルはあの場所を提案してしまったことが何だか申し訳なくなった。
「ごめんね、ジニー」
「レイチェルは悪くないでしょ。ちゃんと鍵をかけとかなかったパーシーが迂闊なのよ」
思わず謝罪を口にすると、ジニーはきっぱりとそう言い放つ。兄に対して随分手厳しいなとレイチェルは思わず目を見開いた。兄妹ってこんなものなのだろうか。レイチェルが首を捻っていると、ジニーはふと眉を下げて、おずおずとレイチェルを見上げた。
「……パーシーのこと、内緒にしてくれる?」
「ええ。勿論。約束するわ」
打って変わって弱気な態度がなんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまった。何だかんだ言いながら、やっぱり、お兄さんのことは心配なのだろう。可愛いなあと、レイチェルはジニーをぎゅうと抱き締めた。驚いて目を丸くする様子がまた可愛らしくて、抱き締める腕に力をこめた。レイチェルは一人っ子だから、こんな妹がほしかったなと思う。
レイチェルはこの小さな友達が大好きだ。