それから瞬く間に2週間が過ぎたが、レイチェルにとってはあまりいいこと続きとはいかなかった。まずはクィディッチの試合で、レイブンクローがスリザリンに負けてしまった。知略を尽したレイブンクローの戦術はスリザリンを苦戦させたが、やはりニンバス2001の性能の前には惜しくも敗れてしまったのだ。

「あーあ、やっぱりニンバス2001相手じゃダメか。この試合は絶対勝ちたかったんだけどなあ」

試合から数日経っても、ロジャーは落ち込んでいた。いつもは明るいロジャーなのに、整った顔は憂いの表情で曇ってしまっていた。ロジャーが落ち込むのも無理はない。確かにこれでレイブンクローは優勝争いに少し遅れを取ってしまった。しかし、まるでチャンスがなくなってしまったわけじゃない。

「元気出して。まだグリフィンドールとの試合が残ってるじゃない」
「そうじゃなくてさ。この試合に勝ったらデートしてくれるって、ヴィクトリアとの約束だったんだ」
「……ああ、そう」

そう言って物憂げに溜息を吐くロジャーに、心配して肩を叩いたレイチェルは呆れてその手を引っ込めた。とは言え、ロジャーはクィディッチに対しては真摯だ。口ではそんな風に言っているけれど、誰よりも悔しがっているのはきっとロジャーだった。スリザリンとの試合以降、これまで以上に熱心に一人でチェイサーの練習に打ち込んでいることをレイチェルは知っている。

「嗚呼、どうしましょう。あと3ヶ月後には試験だなんて信じられないわ……」
「私に言わせれば、3ヶ月前から勉強を始めようって神経の方が信じられないわよ!」

そして、学期末試験も迫って来ていた。まあまだまだ先だと言う意見もあるが、そろそろ意識し始める時期であることは間違いなかった。予定表を見て青ざめるエリザベスに、嫌そうに眉を顰めるパメラ。レイチェルの目の前では、慣れ親しんだやりとりが今年もまた繰り広げられている。

「ねえ、レイチェル!エリザベスがおかしいわよね!?」
「パメラは少し楽天的すぎるわ、そうでしょう?」

楽しいことばかりじゃない。けれど、クィディッチだとか試験だとか、そう言うごくごく「普通」のことで頭を一杯にできることがレイチェルには嬉しかった。日常が戻ってきたと実感できる気がしたからだ。寮を出るのが怖いと泣く下級生も、それをなだめる上級生も、継承者のことを噂する同級生も、今のホグワーツにはもう居ない。

「セドも試験勉強に手を付け始めたの?」

分厚い羊皮紙の束に何やら書きつけているセドリックの姿を見かけて、レイチェルは意外に思って声をかけた。レイブンクローには既に試験勉強に取りかかり始めた生徒もちらほら居るけれど、学校全体を通して見ればまだまだ少数派だ。いくらセドリックが勤勉と言え、いくらなんでも早すぎるような気がする。

「違うよ。ジャスティンが目覚めたら、貸してあげようと思って。ほら、彼、授業を受けられなかっただろう?」
「……ああ」

確かに、よく見ればセドリックの前に積まれているノートは2年生のときにやった内容だ。どうやら、石にされてしまった下級生のためのものらしい。今まで特に話を聞いたことがなかったけれど、とりわけ親しい後輩なのだろうか────そう考えて、レイチェルは違うなと結論付けた。善良なセドリックならば、大して親しくなくてもこうやってノートをあげるに違いない。

「マンドレイクは順調に育ってるみたいだよ。だからそれまでに完成させたいんだ」

スプラウト教授の手伝いをしたから、とセドリックが微笑んだ。だとすれば、石にされてしまった犠牲者達も、そう遠くないうちに蘇生させることができるのだろう。スプラウト教授なら絶対に大丈夫だろうと信じていたが、やっぱりほっとした。

「そう。よかった」

過ぎてしまった時間は取り戻せないけれど、そうしたらきっと彼らもまた、楽しいホグワーツの生活に戻ることができるだろう。
窓の外から差し込む日差しはぽかぽかと暖かい。湖の水面はキラキラと輝いて、湖畔で遊ぶ下級生達のはしゃぐ声が聞こえてきそうだった。
セドリックの羽根ペンの音を聞きながら、また一枚本のページを捲る。レイチェルの毎日も穏やかだった。

 

 

「ねえねえ、レイチェルってやっぱり、あのハッフルパフのシーカーの人と付き合ってるの? セドリックだっけ?」
「え?」
「よく一緒に居るじゃない」

ジニーとの交友関係も続いていた。好奇心一杯に身を乗り出すジニーに、レイチェルは口元を引きつらせた。ハッフルパフのシーカーは一人しか居ないし、レイチェルの知っているセドリックと言う名前の男の子も一人だけだ。そしてそれはレイチェルの恋人ではない。

「違うわ。セドは……セドは、幼馴染だもの。恋人じゃないの」
「そうなの? あの人のこと、好きじゃないの? すっごくハンサムじゃない」
「もちろん好きよ。……でも、そう言う……男の子として、好きなわけじゃないの。家族みたいなものだから」
「ふうん。なあんだ、残念」

女の子ってどうしてこう恋の話が好きなんだろう────。レイチェルは自分も女の子であると言う事実を忘れ、ぼんやりとそんなことを考えた。まあ確かにパメラとかアンジェリーナとかペネロピーとか、他の人の話を聞くのは楽しい。友達が好きな人のことで嬉しそうだったり幸せそうだったりするのは。

「じゃあ、レイチェルの好きな人って誰? 教えて!絶対に秘密にするから」

しかし自分の話となると別だ。彼女達は自分だけが惚気るのは気が咎めるのか、大抵ありがたいことにレイチェルにも話を振ってくれる。しかし好きな人が居ないレイチェルは大抵こう言った話題になると身の置き所に困るのが常だった。

「えっと……その……」

ジニーが目をキラキラさせてレイチェルを見ている。レイチェルはほとほと困り果てた。何だろう、この空気。ジニーの口調は、まるで4年生なら好きな人の一人くらい居て当然とでも言いたげだった。……実際そう思っているんだろうなとレイチェルは気づいた。けれどレイチェルには居ないのだ。
重たい沈黙が立ち込める。ジニーの視線に耐えられなくなって、レイチェルはようやく言葉を絞り出した。

「あの、ね……今は、居ないの……」

何を見栄を張っているのだろう。レイチェルはばつが悪くなってジニーからそっと目を逸らした。まあ、嘘じゃない。別に異性を好きになったことがまるでないわけじゃないのだ。ホグワーツ入学前をカウントすればの話だけれど。
この流れは非常によくない。まだ何か言いたげなジニーの顔を見てそう察したレイチェルは、早急に話題を変えることにした。

「ジニーはハリー・ポッターが好きなんでしょう?」
「えっ」

ただでさえ大きなアーモンド型の瞳が、さらに大きく見開かれる。ジニーがハリー・ポッターに憧れていることはフレッドやジョージからも聞かされていたし、そうでなくても気づいただろうと思う。実際、ジニーの態度はとてもわかりやすかった。ハリー・ポッターの姿を見ただけ、名前を聞いただけでジニーはいつものジニーではなくなってしまうのだ。

「好きよ……あの……でも……私なんかじゃ……」

ジニーの頬が、髪と同じくらい真っ赤に染まる。羞恥に潤む瞳に、急に頼りなく震えてしまう声。戸惑っているジニーの様子は、とても微笑ましくて可愛らしい。恋っていいなあ、とレイチェルは他人事のようにぼんやりと考えた。

「憧れてるだけよ……ハリーは私のこと、ロンの妹としか思ってないと思う……」

もじもじと手を動かすジニーの口から出たのは、そんな言葉だった。レイチェルは思わず眉を寄せた。何度か話していてわかったことだけれど、ジニーはあまり自分に自信が持てないようだ。その原因に、レイチェルはなんとなくだけれど想像がついた。お下がりのローブや教科書、何かと目立つ兄達。そう言ったものに、ジニーはひどく引け目を感じてしまっている。

「ジニーはすごく可愛いわよ」

同情や慰めなんかじゃなく、心からの言葉だった。お下がりのローブも、何かと周囲の話題にされるような兄弟も、レイチェルは持っていない。だから、レイチェルにはジニーの気持ちはわかってあげられない。けれど、レイチェルの目からジニーを見た時、そんなものは全然気にならない。気にする必要なんてない。

「ジニーの魅力にちっとも気づかないとしたら、ハリー・ポッターに見る目がないんだわ」
「……ありがとう、レイチェル

ジニーが照れくさそうに微笑んだ。その笑顔はとても可愛らしかったが、いや、可愛らしいからこそ、それがハリー・ポッターを想って浮かべられたものなのだと考えると何だか釈然としない気持ちになる。ふう、とジニーに気づかれないよう小さく息を吐いた。
ジニーと言い、ハーマイオニーと言い、ハリー・ポッターのどこがそんなにいいのだろうか。

 

 

「あの……」

ジニーと別れてぼんやりと廊下を歩いていたレイチェルは、誰かに話しかけられていることになかなか気づかなかった。と言うか、そもそも呼び止められる心当たりもなかった。顔を上げ、左、右と周囲を見回してみる。が、廊下にはレイチェル以外誰も居ない。

「……私?」

戸惑いながらそう聞き返せば、緊張した面持ちでこくりと頷く。レイチェルが戸惑った一番の理由は、呼び止めて来た相手のせいだった。クシャクシャの黒髪に、大きな丸眼鏡。その向こうの深い緑の瞳。グリフィンドールのネクタイを締めた、痩せた少年。レイチェルの目の前に立っているのは、あのハリー・ポッターだった。

「アー……違ったらごめん。えっと……」

なぜハリー・ポッターがレイチェルを呼び止めたのか、見当も付かなかった。考えられるのは、落し物を拾ったとか、先生がレイチェルを呼んでいたとか────しかし、ハリー・ポッターの深刻な表情を見る限り、そんな用事ではなさそうだ。

「貴方は、その……」

躊躇いがちに、視線が泳ぐ。ふと、背が伸びたのだな、と気づいた。あのときはヒールのついたサンダルを履いていたせいもあっただろうけれど、初めて会った時にはレイチェルよりも下にあったはずの視線が、レイチェルとほとんど変わらない。こうして向き合うことなんてなかったから、気がつかなかった。

「……私が、何?」

沈黙の長さに、苛立ちに似た感情が足元から這い上がっている。不機嫌そうな声にならないようにするのに努力が必要だった。自分でもちょっと無愛想だなと思ったが、嫌いな相手を目の前にしてもにこやかで居られるほどレイチェルは大人になれない。レイチェルが無言で見返していると、ハリー・ポッターは意を決したように口を開いた。

「……僕と」

それほど大きな声ではない。けれど、静かな廊下にははっきりと響いた。レイチェルの知る傲慢さが嘘みたいに、表情や仕草はひどく遠慮がちで────けれど、声と視線は怖いくらいに強くて、真っ直ぐだった。視線が、逸らせない。

「僕と、ダイアゴン横丁で会いませんでしたか」

頭の中に、夏の日の記憶が蘇る。トルコ石と同じ色をした空。眩しい日差しを照り返す白い石畳。肌にじっとりと纏わりつく、湿っぽく熱を孕んだ空気。通りを歩く人々の話し声。ぶかぶかのTシャツを着て一人ぼっちで立っていた、小柄な痩せた少年。その顔がなんだか心細そうで気になって、声をかけた。

『どうしたの? 迷子?』

自分では親切のつもりだったけれど、結局はその男の子は迷子なんかじゃなくて、ただおせっかいを焼いた形になってしまった。気まずい思いで謝罪をしたレイチェルに向けてくれた、はにかんだような笑顔にほっとした。とても優しい男の子だなと────レイブンクローに入ってくれたらいいなと、そう思った。
あの日と同じ緑が、レイチェルを映している。エメラルドのような、あまりにも澄んだ瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。ハリー・ポッターは視線を逸らさずに、レイチェルの言葉を待っている。いつまでも黙っていてはダメだ。何か言わなくちゃ。何か。──────何を?
言いたいことなんて、何もない。

「……さあ。知らないわ」

知らない。レイチェルは何も知らない。あの時、自分が声をかけたのが、ハリー・ポッターだなんて知らなかった。こんなに無謀で、自分を特別だと過信している、傲慢な男の子だなんて知らなかった。知っていたらきっとあの時、声なんてかけたりしなかった。

「本当に?」

深い緑の視線が揺らぐ。戸惑ったような、縋るような響きだった。レイチェルはその瞳を見ないようにした。セドリックほどじゃないけれど、嘘を吐くのはあまり上手くない。
逸らした視線の先で、ネクタイの結び目に視線を留めた。襟元に映える、鮮やかな赤。もしもこのネクタイがレイチェルが願った通り、レイチェルと同じ青だったら────だったら、どうなっていただろうか。こんな風に、ハリー・ポッターを嫌いになることはなかったのだろうか。もっと早くに、ダイアゴン横丁で会ったねと声をかけて────ハーマイオニーの言うような、ハリー・ポッターの優しさや素直さに目を向けることができただろうか。もしもハリー・ポッターがレイブンクローに組み分けられていたら、レイチェルは今頃、この目の前の少年と笑い合うことができていたのだろうか。

「……ええ。残念だけど、人違いだと思うわ」

─────けれどそれも全て、仮定の話だ。
心臓がうるさい。動揺を悟られないように淡々と─────嘘だとバレてしまわないよう、あまり感情的に聞こえないよう言葉を紡いだ。これでいいのだ。ハリー・ポッターがどう言うつもりで今更こんなことを聞いてきたのかなんてわからないけれど、ハリー・ポッターがあのとき声をかけてきた少女を探していると言うのなら、人違いだ。レイチェルはあの時みたいにハリー・ポッターに優しくできないし、笑いかけられない。レイブンクローに入ってくれたらよかったのになんて思えないし、嘘でもきっと口に出せない。
これ以上この場に居る用もない。踵を返して、元来た道を進む。ハリー・ポッターが何か言いたげにレイチェルを見つめているのがわかったけれど、振り返ることはしなかった。これでいい。自分が好感を持てない相手とわざわざ関わったって、ろくなことがない。レイチェルだってイライラしてしまうし、相手にだって不愉快な思いをさせる。これが、お互いに嫌な思いをしなくて済む一番の方法だ。罪悪感にちくちくと痛む胸には、気づかない振りをした。
レイチェルはハリー・ポッターなんか嫌いだ。

ハリー・ポッターが、大嫌いだ。

ちっぽけな嘘

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