気がつけばレイチェルは図書室を出て、一人で廊下を歩いていた。ここは一体どこだろう。どうやってここまで来たんだったっけ。わからない。頭の片隅に、白い靄がかかっているようだった。涙が乾いた頬がピリピリと痛い。規則正しく廊下を踏みしめる足は、まるでレイチェルの意識とは切り離されてしまったようだった。

『何もせずに後悔するなんて嫌』
『このままなかったことになんて、できない』

ハーマイオニーの言葉が、頭の中でぐるぐると回る。ハーマイオニーは一言もレイチェルを責めたりはしなかったけれど、それでも彼女の中でさっきのレイチェルの言葉の数々が好意的に受け取られなかったことは確かだった。当然だ。レイチェルが悪い。何もするななんて言いたかったわけじゃなかった。継承者のしたことを忘れるべきだなんて、そんなことを思っていたわけじゃなかった。ただ、ハーマイオニーがそんなに抱えこまなくてもいいのだと。心配だから、大切だから危険なことはしないでほしいと。そう、伝えればよかったのに。ただそれだけだったはずなのに。喉から唇までを通る間に言葉はひどく捩じれて、棘が生えてしまった。ハーマイオニーじゃなくたって────誰だって、あんな風に言われて、冷静に聞けるわけがない。ハーマイオニーにあんなことを言わせてしまったのはレイチェルだ。涙はもう止まっていたけれど、胸の中はまだじくじくと痛かった。

レイチェル!」

ふいに、後ろから誰かに腕を掴まれた。驚いて振り向くと、白いシャツの襟と、鮮やかな真紅と黄色のネクタイが目に入った。そのまま緩やかに視線を滑らせていくと、呆れたような視線がレイチェルを見下ろしていた。

「君、耳をどこかに落っことしてきたのかい?」

考え事をしていたので気づかなかったが、どうやらさっきから何度もレイチェルを呼んでいたらしい。レイチェルは何と返していいものかわからなかった。そして、もう一つ困ったことがあった。今目の前に居る相手の名前がわからない。

「えっと……」
「ジョージさ。少なくとも今はね」

まごついたレイチェルを特に気にした様子もなく、双子の片割れ────ジョージはニヤッと笑ってみせた。ジョージは慣れているから気にならないのかもしれないが、いくらフレッドとジョージがそっくりだからと言っていつまでも見分けがつかないと言うのはやっぱり失礼だ。ばつの悪さに視線を落としたレイチェルの視線の先に、ジョージが手を伸ばした。

「ほら。忘れ物だ」
「……ありがとう」

繊細な花の刺繍が施された、真っ白なレースのハンカチ。ジョージが差し出したのは、確かにレイチェルのものだった。気がつかないうちにポケットから落としてしまったのだろう。手を伸ばして受け取ると、ジョージがそれをまじまじと見つめているのに気がついた。

「……何?」
「いや、まあ、何と言うか……ちょっと意外な趣味だなと思って。これから舞踏会でも行くのかい?」
「頂き物よ」

一目で高価な品だとわかるこれは、以前ナルシッサ・マルフォイから贈られたものだ。美しいレースは素敵だと思うし、キャビネットの奥にしまい込むのも失礼なので使っているけれど、ジョージの言う通り、自分から手に取ることはないだろう。染み一つない純白を見下ろしながら、レイチェルは胃の辺りがまた重たくなっていくような気がした。レイチェルはエリザベスと違ってこんな高級なハンカチが似合うパーティーには行かないし、こんな綺麗なハンカチじゃ汚すのが怖くて涙も拭けない。それなのにこうやって、マルフォイ夫人から贈られたものを持ち歩いて、ドラコとこっそりお茶会をしている。ドラコと仲良くしたいけれどハーマイオニーとも仲直りしたいなんて言うのは、やっぱり都合が良すぎたのかもしれない。鼻の奥がまたツンとした。じっと床を見つめるレイチェルに、ジョージが不思議そうな顔をする。

「君、もしかして泣いてる?」
「……泣いてないわ」

少し屈んで顔を覗きこもうとするジョージから顔を背けた。咄嗟に口から出てしまったのは強がりだったけれど、すぐにバレてしまっただろう。鏡を見ていないからわからないけれど、きっとまだ目は赤いし、頬にも涙の跡が残ってしまっている。あまり見ないでほしいし、できることなら気づかない振りをしてほしかったけれど、ジョージはそうしてくれる気はないようだった。

「喧嘩の理由は一体何なんだい?」

軽い調子で紡がれた言葉に、レイチェルは驚いて顔を上げた。どうやら、図書室でのハーマイオニーとのやり取りを見られていたらしい。ジョージの口調にはレイチェルを責めるような響きなんてないのに、レイチェルは今すぐこの場から逃げ出してしまいたくなった。それはつまり、自分に非があったと言う自覚があるせいだ。

「……私が悪いの」

喉の奥から出た言葉は、自分で思ったよりずっと小さくなってしまった。喧嘩の理由はとても単純で、お互いの意見の食い違いだ。けれどそれだけなら、きっとここまで拗れることはなかっただろう。ハーマイオニーは賢い。少し頑固なところもあるけれど、それでも他人の意見は聞き入れて、ちゃんと考えることができる。それをさせなかったのはレイチェルだ。

「……私が悪いのよ。感情に任せて、とても……とても、嫌な言い方をしたわ」

さっきからずっと、溢れてくるのは後悔ばかりだ。あんな風に言うべきじゃなかった。もっとこう言えばよかった。今ならわかるのに。どうしてああも感情的になってしまったのか、自分でも不思議だった。ハーマイオニーよりずっと長く一緒に居るパメラやエリザベスとさえ、こんな風に口論なんて滅多にない。ハーマイオニーのことになると────そしてハリーポッターが絡むと、どうしてこうも冷静で居られなくなるのだろう。レイチェルは小さく息を吐いた。

「……それだけ。もう、いいでしょ。ハンカチ、ありがとう」

レイチェルが悪い。だからレイチェルが謝るしかない。謝らなければいけないと思うし、今度こそきちんと謝りたい。もしかしたらもう、口も聞いてもらえないかもしれないけれど。いずれにしても、ジョージには関係のないことだ。これ以上話すことはないと足を進めようとしたが、ジョージがそれを許さなかった。苛立ちに眉を寄せて、振り返る。

「……手を放して。私、寮に戻るわ」
「送って行くよ。一人じゃ危ないだろ」
「大丈夫よ。それを言ったら、一人で行動してるのは貴方だって同じでしょ」
「俺よりホグワーツの抜け道を知ってるって言うなら、喜んで見送るさ。でも、違うだろ」

レイチェルは何も言えず押し黙った。ウィーズリーの双子よりも秘密の通路に精通している人間なんて居るわけがない。きっと、継承者よりもホグワーツの構造に詳しいだろう。ジョージの言葉が心配と親切によるものだと理解できないわけじゃなかったけれど、今は存外強い力で握られている腕も、そこから伝わる体温も、何もかも煩わしかった。一人になりたい。誰かと一緒に居たくない。誰かとおしゃべりして相手を嫌な気持ちにさせずに居られるほど、今のレイチェルは冷静じゃないし、取り繕える余裕もない。床を見つめたまま何も言わないレイチェルに、ジョージは困ったように眉を寄せた。

「君も知ってるだろうけど、俺は紳士なんでね。継承者が居なくたって、泣いてる女の子を一人で放っておけない」
「……泣いてないわ」
「嘘だね。泣いてる」
「だから、泣いてないったら!」

思わず荒げてしまった声は、レイチェルが意図した以上に甲高く、そしてヒステリックに響いて、レイチェルは自分で自分に驚いてしまった。ジョージも驚いたように目を見開く。それを見て、羞恥心が背筋を這い上がって来た。どうしてこんな馬鹿みたいな虚勢を張ってしまうのか、自分でもよくわからない。また、目頭が熱を帯びてくる。

「……泣いて、ないもの」

声が震える。ジョージの纏った赤が滲む。嫌だ。泣きたくないのに、どうして。だって、自分が悪いのに泣くなんて最低じゃないか。かろうじて涙は頬へと零れ落ちずに耐えていたけれど、今にも泣きそうな顔をしているだろうことは自分でもわかっていた。こんな見え透いた嘘に騙されてくれるほどジョージは鈍くないし、優しくもない。頭上から降って来たのは、呆れたような溜息だった。

「産卵期のマンティコアだって今の君ほどカリカリはしてないだろうよ」
「なっ……」

なんて失礼なの。そう喉元までせり上がってきた言葉は、唇の上で凍りついてしまって、そのまま失速してまた胃の辺りへと落ちていった。ジョージの顔へと向けた視線が、ゆるゆると下がっていく。ジョージの言う通りだと思った。何だかイライラしやすくなっているし、感情のコントロールがうまくいかない。普段なら何とも思わないような言葉にムッとしたり、些細なことで不安になったりしてしまう。別に普段は完璧に感情を抑制できてるなんて言うつもりはないが、ここのところ感情の起伏が激しいのは否定できない事実だった。

「……ごめんなさい」
「気にしてないさ。今の状況で上機嫌で居られるのはスリザリンの連中くらいなもんだ」

ぽつりと零れ出たレイチェルの謝罪に、ジョージは言葉通り何でもなさそうに返す。こんな状況でもセドリックは周囲に親切だし、フレッドやジョージも────それがいいのか悪いのかは別として────いつも通り悪戯で皆を笑わせている。不安なのは皆同じなのに、自分だけ癇癪を起したり泣いたりしているのは恥ずかしい。俯いたレイチェルの顔を上げさせたのは、ジョージの意外な一言だった。

「ま、余裕がないのはハーマイオニーもだけどな」
「……ハーマイオニーが?」

レイチェルは思わず眉を寄せた。ハーマイオニーはいつだって冷静で、それは継承者の騒動が起こっても変わらなかった。取り乱していたのはレイチェルだけで、ハーマイオニーは自分を失ったりしなかった。本当だろうかと見返すレイチェルに、ジョージは肩を竦めてみせた。

「君と喧嘩した時も落ち込んでたぜ。君、毎週ハーマイオニーと勉強してただろ? その時間が来ると、寂しそうだった。気を紛らわすためなのか、本にキスする時間がいつもの5倍は長くなってたな」
「嘘……」

ジョージの言葉は多少大げさなのだろうけれど、ハーマイオニーもレイチェルと喧嘩して寂しいと思っていてくれたのだ。その事実は、レイチェルの心をじんわりと温かくさせた。けれど同時に、胃のあたりはまた地面に引き寄せられていくようだった。せっかくそう思っていてくれたのに、つい30分前レイチェルはその気持ちを踏みにじって台無しにしてしまったのだ。

「ちょっとばかり、頭に血が上っちまってるんじゃないか。君達2人ともね」

ジョージが落ち込むレイチェルの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。その手つきはチャーリーとよく似ていて、レイチェルは自分はジョージの弟や妹じゃないと言いたくなったが、不思議とその手を振り払おうと言う気にはならなかった。

「早く仲直りしたいって焦る気持ちもわからないでもないけど、頭を冷やしてじっくり考えてみることも大切だと思うぜ」

目の前の人物は、本当にあのジョージ・ウィーズリーなのだろうか。優しい響きをした真っ直ぐな言葉に、レイチェルはぼんやりとそんなことを考えた。もしかしたら誰かがポリジュースでジョージに化けているのかもしれない。そんな馬鹿げたことを考えていたレイチェルに、ジョージが手を差し出した。

「ほら。寮に戻るんだろ?」
「……レイブンクロー寮の場所まで知ってるの? もしかして、入ったことがあるの?」
「そいつはご想像にお任せするね」

そう言ってニヤッと笑ってみせる顔はいつものジョージだ。レイチェルは戸惑いながらその手を取った。握ったその手はレイチェルよりも大きい。セドリックと同じようにマメがいくつもあるけれど、セドリックとは違う体温。一歩前を行くジョージの背中を見つめながら、レイチェルはぽつりと呟いた。

「……私、ずっと貴方が…………貴方達が、苦手だったわ」
「知ってたさ」

振り向くこともしないまま、ジョージは何でもないことのようにあっさりと言った。そうだろうなとレイチェルは思った。レイチェルが2人を苦手に思っていることに、聡い彼らが気づかないはずがなかったし、レイチェル自身、2人がそうと知っているだろうことに気づいていた。

「……わかってるなら」

ぎゅっと、繋いでいない方の拳を握りしめる。皆がどんなに彼らのジョークに笑っていても、彼らのクィディッチに熱狂していても、レイチェルはフレッドとジョージが苦手だった。嫌いじゃない。けれど、苦手だった。彼らがどんなに楽しくて魅力的でも、関係なかった。ただ、苦手だった。近寄りたくなかった。避けたかった。2人はレイチェルを、どうしようもなく落ち着かなくさせるから。
セドリックと一緒に居ると、ホッとする。セドリックなら、レイチェルが泣きたい時は、何も聞かずに黙って側に居てくれる。一人になりたい時は、そっとしておいてくれる。見え透いた嘘でも、騙された振りをしてくれる。けれど、フレッドとジョージはそうじゃない。セドリックとは正反対だ。一緒に居ると心臓に悪いことばかりだし、泣いていたら理由を聞き出そうとする。一人になりたいのに、手を放してくれない。嘘を暴いて、真実をこじ開けようとする。だから、苦手なのだ。フレッドとジョージと居ると、レイチェルはいつだって、冷静で居られなくなるから。

「わかってるなら、どうして私のこと、放っておいてくれないの」

こんな風に、手を繋いでくれなくていい。泣いていたって、慰めてくれなくていい。理由も聞かなくていい。見ない振りをしてほしい。
レイチェルなら、自分のことを苦手に思っている相手には近づきたくない。嫌な思いをしたくないし、させたくない。だから、どうして2人がレイチェルに近づいてくるのか、わからない。理解できない。

「さあね」

飄々としたその態度に、またレイチェルの心の中に、もやもやとしたものが広がっていく。フレッドやジョージとの会話はいつも雲を掴むみたいで、レイチェルはいつだって2人が何を考えているのか掴めない。レイチェルと2人とでは、きっと価値観も何もかも違いすぎる。もしかしたら、理解しようと思うこと自体が間違いなのかもしれない。
もしもさっき、泣いているレイチェルを見つけたのがセドリックだったら、何と言っただろうか。たぶん、ジョージとは正反対のことを言っただろう。誤解させてしまったなら、すぐに解いた方がいいよ────。きっと、そんな風に、レイチェルの背中を押してくれるだろう。
どちらが正しいのかなんて、レイチェルにはわからない。どちらもきっと間違いじゃない。けれど、きっと、ジョージの意見の方がより客観的なのだろう。ジョージの言う通り、少し距離を置いて、頭を冷やすべきなのかもしれない。

セドリックはいつだってレイチェルに甘くて、そしてほんの少し────近すぎるから。

第三者の助言

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