長く降り続いていた雪は止み、雲の切れ間から柔らかな陽光が差し込みはじめている。穏やかで心地のいい天気が続いていた。手袋やマフラーはまだ手放せないけれど、溶けた雪の合間からはスノードロップやクロッカスの花が顔を覗かせはじめている。どうやら今年は春の訪れが早いようだ。
「何て言うか……平和よね?」
教科書から────正確にはその後ろに隠してあるファッション誌から───顔を上げたパメラは、前に座っているレイチェルとエリザベスに向かってひそひそと囁いた。教室の前方からは、相変わらずブンブンとレプラコーンの羽音に似た音が聞こえてくる。勿論、今は魔法生物飼育学の時間ではないので、教室の中にレプラコーンが居るはずがない。音の正体はビンズ教授の講義だ。さっきから止まっている板書をちらりと見やり、レイチェルは羽根ペンを机の上へと置いて、欠伸を噛み殺した。
「今更でしょ、パメラ。魔法史の授業がもっと波乱に満ちてたら、私、こんな風に瞼をのり付けしないよう苦労しなくて済んだと思うわ」
「違うわよ! そうじゃなくて!」
パメラがバタンと雑誌を机に叩きつけ────エリザベスが眉を顰めた────、じれったそうに言った。一体何のことか見当もつかないレイチェルとエリザベスが首を傾げると、パメラが2人の耳に顔を寄せて囁いた。
「継承者よ! 最後の犠牲者が出てからもう2ヶ月経つわよ! こう学校中が警戒でピリピリしてるから、怖気づいたんじゃない?」
言われてみれば確かにそうだ。自分のことで精一杯だったせいで気が回らなかったが、最後の───ほとんど首なしニックとハッフルパフの2年生が襲われたのは、クリスマス休暇よりも前のことだった。つまりそう、パメラの言う通り、2ヶ月も経っている。あれだけ立て続けに色々と騒ぎがあったのに、もう2ヶ月もの間、何も起こっていない。
「そうかしら……皆が油断するのを見計らっているのかもしれないわ。そうじゃなければ、何かもっと大きな事件を起こすつもりなのかも……」
「ああもう、相変わらず考え方が根暗ねエリザベス! 何? これ以上事件が起きてほしいわけ?」
「勿論そんなこと思ってもいないわ……貴方が楽観的すぎるんじゃなくって?」
どっちの言い分もわかるような、わからないような。また例のごとく言い争いを始めた2人に、レイチェルはふうと溜息を吐いた。継承者がホグワーツの生徒なら、いくら何でもやりすぎたと反省したのだろうか。そうならいいなとレイチェルは思った。どんなに反省したところでやってしまったことは取り消せないけれど、そんなことは本人が一番良くわかっているだろう。一体誰が継承者なのか気にならないと言えば嘘になるけれど、継承者がたっぷりと後悔して、今後二度と事件を起こさないと誓ったのなら、無理に犯人を暴き立てたいとは思わない。レイチェルがそんなことを考えている間に、どうやら親友達の諍いは一段落ついたらしい。エリザベスが前を向き直り、羽根ペンを傾けながら物憂げに溜息を吐いた。
「なんだか不気味だわ……嵐の前の静けさみたいなんですもの」
「台風一過って言葉もあるわよ、エリザベス。あんまり暗い方にばかり考えるのもよくないわ」
不安げに表情を曇らせるエリザベスに慰めの言葉をかけ、レイチェルも魔法史の授業に集中することにした────結果が伴ったかどうかは別として。
少々ネガティブすぎるきらいがあるエリザベスと少々ポジティブすぎるパメラ。どちらがホグワーツの生徒達の考え方に近かったかと言えば、今回はパメラが正解だったようだ。春めいてきた空気は、どうやら生徒達の緊張をも溶かしてしまったらしい。大多数の生徒達は、もはや事件の記憶なんて頭の隅っこに押しやってしまって、ようやく取り戻した平穏を満喫していた。勿論中にはエリザベスのように継承者は騒動を起こすのを一休みしているだけだと考えている人達も居たが、どちらかと言えば少数派のようだ。あれほどハリー・ポッターを疑っていたのが嘘みたいに、また彼の周りには人が絶えなくなっている。手の平を返したようなその変化を、相変わらずハリー・ポッター嫌いのレイチェルは冷めた目で観察していた。まあ、パーセルマウスだと言うだけで継承者だと決めつけられてしまったことは気の毒だとは思っていたので、ちょっと安心もしたけれど。
「僕は最初から、あいつが継承者なわけがないってわかってたさ」
神経質そうに顰められた眉の下で、アイスブルーの瞳が不快そうに細められる。エリザベスと同じで、こうやって気だるげな表情でティーカップを傾けていると、やはり育ちの良さと言うものが滲み出ている。レイチェルは目の前に座るドラコを見て、そんなことを考えた。
「ポッターにあんなことができるはずがない」
全くその通りだ。レイチェルはうんうんと頷いた。自分と同じ意見の人が居ると言うのは、心に安心感を与えてくれるものだ。一通りハリー・ポッターへの不満をぶちまけて多少すっきりしたらしいドラコは、ローブのポケットから小さな箱を取り出すと、熱心な首振り人形となっていたレイチェルへと差し出した。
「母上が送って来たんだ。放っておくとクラッブ達にやられる」
「いつもありがとう。私もこれ。この間のホグズミードでハニーデュークスに行って来たの」
クリスマスに仲直りをして以来、ドラコとレイチェルの関係は大きく変わっていた。以前は偶然会って話をするだけだったのが、お互いに会おうと約束をするようになった。都合のいい日を手紙でやり取りして、次の約束の日を決めている。課題やドラコのクィディッチの練習なんかもあるからそう頻繁ではないけれど、週末の2時間くらい、こうやってお菓子を持ち寄ってお茶をするのが習慣になりつつあった。場所もふくろう小屋から校庭の隅にある温室へと移った。温室とは言っても、薬草学の授業で使う危険な魔法植物がいっぱいの温室ではなく、スプラウト教授が個人的に趣味で育てているバラが美しい、居心地のいい場所だ。この場所を指定したのはドラコだ。レイチェルもふくろう小屋は塔のてっぺんなので行くのが大変だし、何よりわざわざふくろうの糞だらけの場所で友人とおしゃべりしたいとは思えなかったので異論はなかったけれど、初めてここに来た時にどうしてこの場所なのかと聞いたら、ドラコは目を伏せて呟いた。
「あまり、僕と親しくしているところを人に見られない方がいい」
そんなことはない、とレイチェルは思った。そんな、こそこそ隠れるように会う必要なんてない。だって別にレイチェルもドラコも、何かやましいことをしているわけじゃない。レイチェルがドラコと笑い合っていたって、エリザベスもパメラもマグルを馬鹿にしているんだなんて勘違いしたりしない。けれど────確かにドラコの言う通り、レイチェルと親しくない人はレイチェルのことを純血主義なのだと思うかもしれない。そう考えると、ドラコの判断は正しいのかもしれない。ドラコは確かに純血主義なのだろうけれど、レイチェルの前ではそんな素振りは見せないように気をつけてくれているようだし、こうやってレイチェルが純血主義だと誤解されないか心配してくれる。本当はとても、優しいのだ。ただ、見えにくいだけで。
「そう言えば……」
何かを思い出したように呟いたドラコに、レイチェルは俯いていた顔を上げた。淡い金色をした睫毛が、頬に影を作っている。ドラコにしては珍しく歯切れの悪い口調を不思議に思っていると、どこか不安げな、心配しているような表情でドラコは口を開いた。
「グレンジャーと、喧嘩でもしてるのか」
その言葉に、レイチェルはぎゅっと心臓を締めつけられたような気持ちになった。手にしていたティーカップの中で紅茶が波打つ。忘れていたわけじゃないし、紛れもない事実なのだけれど、こうして改めて他人から突きつけられると何だか胸が痛かった。
「図書室でいつも一緒に勉強しているだろう。最近では見ないから……」
「ええ……そう。そうなの……」
まだ中身がゆらゆらと揺れているティーカップを、ゆっくりと皿の上へと戻す。膝の上へと下ろした手でスカートをぎゅっと握りしめた。結局、あれ以来ハーマイオニーとは一度も口を利いていない。自分は本当はマグルを見下しているんじゃないかとかハーマイオニーの友達に相応しくないんじゃないかとか色々と悩み込んでしまったせいで────結局この答えは出ないままだ────気まずくて声をかけられずに居たのが、時間が経つうちにますます話しかけるタイミングがつかめなくなってしまった。そもそも約束していたから週に1度会えていたけれど、レイチェルとハーマイオニーは学年も寮も違う。そもそも行動範囲からしてズレているのだ。たまに廊下ですれ違ったりすることはあっても、授業の間の休み時間なんて移動時間だけでギリギリなことが多いからゆっくり話すことなんてできないし、大体ハーマイオニーはいつもハリー・ポッターと一緒だった。子供じみた感情だとわかってはいるけれど、レイチェルよりもハリー・ポッターを取ったのだと突きつけられたような気持ちになって、呼び止めることができなかった。けれど、もう1ヶ月だ。喧嘩から、もう1ヶ月以上も経ってしまった。ハーマイオニーがレイチェルよりハリー・ポッターを選んだとか、何も相談してくれなかったとか、そんな悔しさも悲しみももう薄れてしまった。
ずっとこのままなんて嫌だ。レイチェルはハーマイオニーが好きだ。ハーマイオニーと仲直りがしたい。
思えばハーマイオニーとの喧嘩は継承者のことが原因だったのだ。継承者のその襲撃が止んだ今、レイチェルがハーマイオニーと喧嘩する理由はどこにもない。
レイチェルは今でもやっぱり2年生が先生の監督もなしに危険なポリジュース薬の調合をしたことだとか、そのためにたぶん教授の薬品棚から勝手に材料を失敬しただろうこととか、そしてそれを使って────何をどうするつもりだったのかは知らないけれど────どうやら継承者が誰かを暴こうとしていたことだとかについては、やっぱりハーマイオニー達が正しかったとは思えない。危険なことをしようとしていたのを笑って許せるかと言われたら、たぶん許せない。けれど、それ以上に寂しかった。ハーマイオニーと一緒に勉強がしたいし、またおしゃべりして笑い合いたい。このまま友達じゃなくなってしまうなんて、そんなのは嫌だ。喧嘩をしてすぐの頃は、ハーマイオニーが折れないのならそれでも仕方がないと思えたけれど、時間が経つとそんな決心は彼女が居ない寂しさの前では揺らいでしまった。仲直りしたいし、一応ハーマイオニーよりも年上だし、今回はレイチェルが折れよう。カッとなってひどいことを言ってごめんなさいと、また一緒に勉強会がしたいと言ってみよう。気が進まないけれど、ハリー・ポッターを悪く言ったことも謝ろう。レイチェルにとっては嫌いな人間でも、ハーマイオニーにとっては大事な友達で、きっと嫌な思いをさせてしまっただろうから。それでもハーマイオニーが許してくれなかったら……寂しいけれど仕方ない。
「ハーマイオニー。その……久しぶり」
「あ……ええ。えっと……久しぶり、レイチェル」
予想通りと言うか何と言うか、ハーマイオニーは図書室で見つけることができた。最後に向き合ったときとは違って、ふわふわした栗色の髪からは猫の耳も付き出ていないし、目も黄色くない。褐色の瞳がレイチェルに向けられたのを見て、レイチェルは意を決して口を開いた。
「あの……話があるの。ちょっとの時間だけでもいいから、聞いてほしくて。私……」
この間はごめんなさい。私、ひどいことをたくさん言ってしまったって、後悔してるの。貴方にも、色々と事情があったんだって、今ならわかるわ。カッとなってたからって、貴方の友達の悪口を言ってしまってごめんなさい。私、貴方と仲直りしたい。また一緒に、二人で勉強したい。そんな風に続くはずだった。ハーマイオニーの前に積まれていた本のタイトルが、目に入りさえしなければ。
「それ……」
古ぼけた分厚い革表紙は埃を被っていて、紙も随分と黄ばんでいる。一目でそれが誰も手に取らないような本棚の奥にしまってある本だとわかった。『神話と伝説の怪物達』。『中世ヨーロッパにおける隠匿の魔術』。ハーマイオニーが一体何の目的でそんな本を読んでいるのか。考えなくたってわかる。なんだか、胃の辺りが沈んでいくような気がした。
「……まだ、秘密の部屋について調べてるの?」
「だって……だって、まだ犯人が捕まったわけじゃないでしょう? 襲撃をやめたって証拠もないし、それに……」
口から出た声は、自分でもびっくりするくらい冷たかった。ハーマイオニーの瞳が戸惑ったように揺れる。確かにハーマイオニーの言うことは間違っていない。継承者が襲撃をやめると宣言したわけじゃない。けれど、もう、十分じゃないか。もう十分、皆継承者のことで振り回された。やっと平穏が訪れたのだから、素直に日常に戻ったっていいじゃないか。
「秘密の部屋の怪物の正体を突き止めてどうする気なの? また、去年みたいに仲良しの3人で退治しに行くの?」
飲み込もうと思っていた。なかったことにしようと思っていた。ハーマイオニーは別に面白半分で継承者の正体を暴こうと思ったわけじゃない。正義感と、疑いをかけられたハリー・ポッターの名誉を晴らすだめだ。レイチェルにだってわかっていた。だから────だから、仕方なかったんだと。そう思おうと、思っていた。
「私……あなたはもっと……もう少し、分別があると思ってた」
失望に似た感情が、喉元へとせり上がって来る。ダメだ。仲直りをしに来たのに。でも、止まらない。どうして。どうして。もういいじゃない。もう、誰も襲われてない。もう誰もハリー・ポッターを疑ってなんかない。それなのに、どうしてまだ危険を冒そうとするの。どうして。ゴーストすら石にしてしまうような怪物なんて、探さないでほしい。それがどんなに恐ろしくて無謀なことかくらい、ハーマイオニーの頭ならわかるはずじゃないか。
「あなたは優秀な魔女よ。でも、それだけだわ」
ハーマイオニーが賢いことは疑いようもない。ハーマイオニー相手に、知識が足りないとか、勉強不足だとか言うつもりはない。ただ頭でっかちなだけじゃなく考え方だって大人びているし、レイチェルがハーマイオニーと同い年だった頃より、いや、もしかしたら今のレイチェルよりもずっと賢いかもしれない。それでも。
「まだ子供なのよ。まだ学生で……まだ……」
言葉が、うまく見つからない。どうして、3人だけで立ち向かおうとするのだろう。皆が知らない手掛かりを知っていると言うのならば、先生達に渡してしまえばいい。何か考えがあるなら、打ち明ければいい。ハーマイオニーがその小さな体で、人よりも重い物を背負う必要はない。たった3人で、危険へと足を踏み入れる理由なんてない。
「子供だからって何もできないわけじゃないし、子供だからこそ大人には見えない物が見えることもあるわ」
「だからって……!」
「現に去年、賢者の石を守ったのは先生達じゃなくハリーだったわ」
凛とした声が、空気を震わせる。視線は、怖いくらい真っ直ぐにレイチェルを射抜いていた。理知的な瞳の奥には、強い意志が燃えている。その目を見て、レイチェルはどうしてか、ハーマイオニーがグリフィンドール生だと言うことを初めて強く感じた。
「だから私は……私達は、自分達にできる限りのことをするつもりよ。何もせずに後悔するのは嫌。たとえこれが終わりだったとしても……何人もの人が襲われたのは、事実だもの。このままなかったことになんて、できない」
────怒らせた。いや、軽蔑された? ハーマイオニーの心の中なんてレイチェルにはわからない。けれど、少なくともレイチェルはそう感じた。声が出ない。何も言えないレイチェルから視線を逸らすと、ハーマイオニーは重たそうな鞄を肩に掛け、図書室から出て行った。
行かないで、と言いたかった。違う。レイチェルはハーマイオニーと仲直りしに来たのだ。でも、追いかけられない。足に力が入らない。ぎゅっと拳を握り締めた。濡れた感触が、頬を伝う。
仲直りをしに来た、はずだった。ごめんなさいと、友達に戻りたいと、そう言うつもりだった。ハーマイオニーならきっと許して笑ってくれただろう。もう、無理かもしれない。今度こそ、ハーマイオニーはレイチェルを嫌いになったかもしれない。あんな言い方をしなくてもよかった。もうこれ以上危険なことはしないでと、そう言えばよかった。今更後悔しても遅い。1度口にしてしまった言葉は取り消せない。
────友達に、戻りたかった。また、前みたいに。そのために話をしに来た、はずだった。
それなのにどうして、こうなってしまうんだろう。