どんなに毎日の授業や課題が大変でも、甘いバタービールをほんの一口飲めばそんな疲れなんて吹き飛んでしまうし、悲しい出来事や辛い悩みを抱えていても、ここに居る間だけは忘れてしまう。ホグズミードってそういう場所だ。
「男の子にバレンタインカードを贈るのは、ティーンエイジャーとしての義務よ」
そう言えばそんな時期だな、とレイチェルは淡いピンク色にデコレーションされた店内を見て思い出していた。去年もレイチェル達の目を楽しませてくれた金色の羽のキューピッドや、宙に浮かんだたくさんのハートのバルーン。そして腰に手を当ててそんなとんでもない暴論を振りかざすパメラもある意味、この季節の風物詩と言えなくもないかもしれない。
「その義務を果たさなかったら、ティーンエイジャーとしての権利を剥奪されるの?」
レイチェルはパメラを見返し、ごくごく冷静にそう返した。予想通り言葉に詰まったパメラから視線を外し、買い物かごの中にカップケーキの箱を放り込む。勿論、自分で食べるためだ。バレンタインに売られる商品は、パッケージもお菓子の造形もいつもの2割増しで可愛い。「どうしてレイチェルってそう恋愛に興味がないのよ! つまんない!」
「あのね、言っておくけど。たとえ今この瞬間に誰かに恋に落ちたとしても、それはパメラを面白がらせるためじゃないわよ。人で遊ぼうとしないで」
去年パメラにかつがれて散々バレンタインに振り回されたのだから、今年はもうこりごりだ。色とりどりの可愛らしいカードは確かに魅力的だけれど、また誰に贈った誰から贈られたとあれこれ詮索されるのは遠慮したい。レイチェルのはっきりとした拒絶の意志を感じ取ったらしいパメラは、縋るような視線をエリザベスへと移した。
「エリザベスは? エリザベスは買うでしょ?」
「私もやめておくわ。こんなときにバレンタインだなんて……不謹慎ですもの」
「こんなときだからこそでしょ! 毎日がお葬式みたいなんだもの、たまには楽しいことがなくっちゃやってられないわよ!」
「あれ、3人も来てたんだ」
「アンジェリーナ。アリシアも」
去年もそうだったけれど、ホグワーツの女の子達はバレンタインとなると自然とこのお店に集まってしまうらしい。2人が抱えている買い物かごの中身が目に入ったレイチェルは、そのあまりの量に驚いて目を見開いた。
「2人とも、随分たくさん買ったのね!」
「まあね。やっぱり今の時期のお菓子って可愛いし。あと……これはロックハート用に」
「ロックハート?」
赤いハートに金色のラメがきらめく派手なカードをひらひらと振るアンジェリーナに、レイチェルは首を傾げた。ロックハートって、あのロックハート教授以外には居ないだろう。しかし、アンジェリーナがロックハートにカードを贈ると言うのはちょっと意外な気がした。
「アンジェリーナ、ファンだったの?」
「いや、別に。面白いとは思うけど。憎めないしね。まあ、先生としてはちょっと頼りないけど」
話で聞いたところによると、皆自習しているせいで静まり返っているレイブンクローのときとは違って、グリフィンドールの4年生の闇の魔術に対する防衛術の授業はリーとフ双子が盛り上げるせいで毎度大変な騒ぎらしい。それならグリフィンドール生はロックハート教授と仲が良いのだろうかと思ったけれど、どうやら違うようだ。
「だってほら、バレンタインカードを贈っておいたら、いい成績つけてくれそうじゃない?」
アリシアが悪戯っぽく微笑んだ。アンジェリーナもニヤッと笑う。レイチェルはなるほどと納得した。確かに、ロックハート教授の場合、好意を示しておけばなんとなく採点を甘くしてくれそうだ。学期末試験も今までの課題のように詩を詠んだりロックハートの偉業を讃えたりする────採点基準がいまひとつ読めない───内容なら、ここでほんの少し点数を稼いでおくのも手かもしれない。……ちょっとズルい気もするけれど。
レイチェルは複雑そうに眉を寄せているエリザベスに気づかれないよう、そっと手近にあったカードを買物かごへと忍ばせた。成績優秀なエリザベスと違って、レイチェルは闇の魔術に対する防衛術があまり得意じゃない。たった1枚のカードを贈ることで落第を回避できるかもしれないなら、縋りたくなってしまう。
バレンタイン当日の朝、レイチェルは1人で大広間へと向かっていた。いつもよりも少し遅くなってしまったから、急がないと朝食を食べ損なってしまうかもしれない。急ぎ足で廊下を進んでいると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「おはよう、レイチェル」
「あ、おはようセド」
「珍しいね、1人なんて。パメラとエリザベスは?」
「昨日までの返却だった本を1冊返し損ねてて。先に行っててもらったの。セドはクィディッチの朝練?」
そんな他愛ない会話をしていると、急に廊下の角から何かが飛び出して来た。何か───小さな動物のようなもの───は、勢いよくこちらへ突進してきて、力強くセドリックの足にしがみついた。いきなり足を取られたセドリックはバランスを崩したけれど、持ち前の運動神経で何とか体勢を立て直したようだ。
「ちょっと……何、これ?」
見た感じ小人のようだけれど────何だか、奇妙な出で立ちをしていた。淡い水色のスモッグのようなものを着せられて、小さな手にはピンクのハープを持っている。そして、背中には金色の翼が生えていた。レイチェルの知る限り、こんなしかめっ面のキューピッドは居ないはずだ。
「オ―、セドウィック・ディゴリー! あなたにです!」
もう1匹出てきた。表情とはちぐはぐな妙に抑揚をつけた声でそう告げた小人は、豪快にセドリックに紙吹雪を投げつけた。空中に花びらのように舞った紙片は、よくよく見ればハート型をしている。そして肩にかけた鞄の中からカードを取り出すと、セドリックの手に無理矢理押し付け、役目は果たしたとばかりにトコトコと元来た方向へと戻って行った。
「口の中に紙吹雪が入った」
「大丈夫?」
セドリックが口元を押さえてケホケホと咳き込んだ。一体何がどうなっているのかわからず困惑しながらセドリックの背中を擦っていると、背後から笑い声が聞こえてきた。振り返ると、そこには赤毛にそっくりな顔をした2人組が居た。フレッドとジョージだ。
「……これ、あなた達がやったの?」
「まさか。俺達なら配達は庭小人にするね。奴らに天使の格好はさぞよく似合うだろうな、相棒」
「ああ、この上なく愛らしいだろうな。それに、家から居なくなればお袋も喜ぶだろうし」
「問題はカードを受け取るときに指も一緒に持ってかれちまうってことだな」
この2人ならやりかねないと言うレイチェルの疑念はあっさり否定された。しかし、だとしたら一体誰がこんなことをすると言うのだろう。双子の手に首根っこを掴まれている小人をしげしげと見つめていると、フレッド────たぶん─────がレイチェルの視線に気づいて言った。
「ああ、これな。ロックハートの趣向らしいぜ」
「暗い雰囲気を一掃するために、愛に溢れた素ン晴らしい1日をプロデュースってわけさ」
「大広間の装飾と言ったら、あれぞまさに芸術だな」
なんだか嫌な予感がする。とは言え、大広間には行かなければいけない。朝食抜きで授業を受けるなんて遠慮したいところだ。セドリックと一緒に駆け足で大広間へと向かったレイチェルは、扉を開けた瞬間、異世界に迷い込んだような気持ちになった。
「確かに、何もかも忘れそうになるわ……」
天井と壁はいつもとは違い、淡い水色にペイントされている。が、それもかろうじてわかるだけで、その大部分は鮮やかなピンク色の花で埋めつくされていた。頭上からはさっき小人が投げていたのと同じ紙吹雪が降り注いでいる。写真で見たら綺麗なのだろうけれど、コントラストのきつすぎる配色に目がチカチカしてしまう。そして視界の片隅では、ロジャーがさっきのセドリックと同じように小人に足元に纏わりつかれていた。
「セド、去年はカード何通もらったの?」
レイチェルはセドリックの横顔を見上げて首を傾げた。たぶん、贈られたカードや贈り物の数だけ、ああやって小人が突撃して来るのだろう。今年のクィディッチの活躍で、きっと去年より数は増えているはずだ。引きつったセドリックの表情を見て、レイチェルは今日1日幼馴染に振りかかるであろう災難を悟った。「……頑張ってね、セド」
青ざめた顔で頷くセドリックにエールを送り、レイチェルはレイブンクローのテーブルへと向かった。温かいミルクティーを嚥下しながら、しみじみと人気者も大変だなあなんて感想を抱く。レイチェルにはバレンタインカードを贈られる心当たりはないので、こればかりはどうしたって他人事だ。
ロックハート教授の目論見は、ある意味では大成功だった。その日1日に限っては、生徒達はみんな継承者よりもTPOおかまいなしに任務を遂行しようとする仕事熱心なキューピッド達の襲撃に戦々恐々としていた。だって、授業の最中でもドアから入って来て教室中に響き渡るような大声で名前を呼び付けるのだ。フリットウィック教授やマクゴナガル教授、それからスネイプ教授は扉に邪魔避け呪文をかけて小人が入って来れないようにしたけれど、この企画の立案者であるロックハートの授業ではそうはいかない。
ロジャーは何度目かのカード受け取りではすっかり慣れて、面白がって小人をあしらっていたけれど、エリザベスは違った。傍迷惑なキューピッドは、エリザベスに宛てられた熱烈なメッセージを淡々と読み上げたのだ。軽薄の極みと言えるような状況に、レイチェルはエリザベスがショックのあまり気絶してしまうんじゃないかとハラハラした。もっとも、ロックハート教授は血の気の引いた顔で黙りこむエリザベスを、感動のあまり言葉も出ないのだと思っていたようだけれど。
暗い雰囲気の中だからこそ、バレンタインを楽しく盛り上げようとしたロックハート教授の心意気は素晴らしいかもしれない。けれど、バレンタインカードってもっと密やかに受け取って、誰にも知られずにこっそり自分だけで楽しみたいものだとも思う。少なくともこんな風な状況は、贈った当人も望んではいなかっただろうし、ここまで大っぴらにされるなんて予想すらしていなかっただろう。
『あなたの目は緑色、青い蛙の新漬けのよう』
セドリックと一緒にマグル学の教室へと向かおうとしていたレイチェルは、人垣の向こうからそんな歌声を耳にした。誤解を受けないよう言っておくと、好きで野次馬みたいな立ち位置に居たわけではない。たまたま通りかかったのだ。そして人が溜まっているせいで進めないのだ。騒動の中心は、毎度のことだけれどハリー・ポッター。いや、今回に限っては、彼もある意味被害者なのかもしれないけれど……。小人が無事なや歌い終えると、しんと静まり返っていた空間にどっと笑いの渦が起こり、廊下は急に騒がしくなった。中には涙が出るほど笑っている下級生も居る。けれど、レイチェルは一緒になって笑う気にはなれなかったし────愉快になるどころか、むしろとても嫌な気分だった。
「行きましょ、セド」
隣に居たセドリックのローブを引っ張って、無理矢理に人ごみをかき分けてその場を立ち去った。なんだかとてもイライラした。カードの贈り主は、きっとハリー・ポッターに喜んでほしくて、一生懸命自作の詩を考えたのだろう。もしも自分がカードの贈り主で、あんな風に皆の笑いものにされたりしたら、きっととても悲しくなる。おまけに、カードを贈られた本人まで笑うなんて、もしも贈り主が見ていたら、そうでなくても彼が笑っていたことを人に聞かされたら、どんなに傷つくだろう?
そう考えて、レイチェルはふと去年のバレンタインのことを思い出した。パメラにマグルの間では参加必須なのだと騙されてバレンタインカードを贈ることにしたレイチェルが選んだ相手は、ハリー・ポッターだった。別に深い意味があったわけじゃないし、そんなに奇妙なことを書いた記憶もない。けれど、もしかしたらレイチェルのカードもあんな風に友達と一緒に笑い物にされていたのだろうか? いや、でも、ハリーポッターは確かに無謀で調子に乗ってるところもあるけれど、別に性格が捻くれているわけじゃない。いくら何だってそんなことは────。
「シェードリック・ディゴリー!」
そんなレイチェルの思考は、背後から聞こえた大声によって遮られた。お世辞にも滑舌がいいとは言えない、そして心臓に悪いこの声は────間違いない。近くに居たグリフィンドールの上級生がくすくすと笑い声を漏らす。レイチェルはちらりとセドリックの顔を見上げた。
「……またご指名みたいよ、セド」
「うん……今日ほど黙らせ呪文が使えたらって思ったことはないよ……」
仏頂面でずんずんとこちらへと向かって来る小人の姿に、セドリックが困ったように眉を下げて呟いた。元々、セドリックは注目されるのはあまり得意じゃないのだ。なんとかして小人を静かにさせようと苦戦していたけれど、小人は配慮してくれる気配を全く見せず、ますます視線を集めてしまっている。レイチェルはちらりと時計を見た。マグル学の授業は遅刻してしまうかもしれない。けれどまあ、今日の城の中の状況を知っていればバーベッジ教授も咎めはしないだろう。久しぶりにホグワーツが笑いに溢れていることは素晴らしいと思うけれど、なんだかとても疲れた。
レイチェルは小さく息を吐き、窓の外の空を見上げた。雲の切れ間から、淡い陽光が差し込んでいる。去年と言い今年と言い、バレンタインはやっぱり何だか慌ただしい。
けれど、その慌ただしさが悩みも憂鬱も吹き飛ばしてくれたのだから、ロックハート教授には感謝すべきなのだろう。