「何が原因か知らないけど、そんなにウジウジ悩んでるんだったらさっさと仲直りしちゃえば?」
パメラには呆れ混じりにそう言われたし、セドリックにも「早く仲直りした方がいいよ」と心配された。レイチェルだってそうしたい。けれど────ハーマイオニーがハリー・ポッターと一緒に居るのを見かけるたび、元気そうな様子に安心する一方で、胃の辺りが落ち込んで行くような気がした。仲直りしたい。でも、やっぱりハーマイオニーが危険なことをしようとしているのを応援はできない。それに、自分はハーマイオニーの友人に相応しくないんじゃないかと言う不安も拭えない。自分が純血主義について本当はどんな風に考えているのかと言う結論もまだ出せていないままだった。ドラコは何も悪くないのに、「ドラコと仲良くしていなければこんな風に悩むこともなかったんじゃないか」なんて考えてしまう自分も嫌だった。大量の課題に向き合っていれば少しは気が紛れたけれど、そもそもこんな風にあれこれ悩み事を抱えたままで、勉強に集中できるはずもない。
「熱っ……!」
それは、レイチェルにとって得意科目であるはずの魔法薬学の授業中の出来事だった。ひどく初歩的で、単純なミスだ。最後の仕上げの、山嵐の針を入れるタイミングを間違えたのだ。レイチェルの大鍋が突然沸騰し、中で煮立っていた液体が勢いよく跳ねた。咄嗟に腕で顔を庇ったから直接皮膚に薬がかかることはなかったけれど、飛沫が付着した袖から、シューシューと音がして、布の溶ける嫌な匂いがした。
「レイチェル! 大丈夫?」
「平気……たぶん」
隣で調合していたエリザベスが、慌てて駆け寄って来てくれた。よかった。どうやらエリザベスにはかからなかったようだ。けれど、レイチェルを覗きこむ顔が心配そうに曇っていたので、レイチェルは申し訳ない気持ちになった。いつもならこんなミス絶対に────とは言い切れないけれど、でも、ほとんどしたことないのに。ローブにも穴が空いてしまった。重苦しい溜息を吐いていると、スネイプ教授がレイチェル達のテーブルへとやってきていた。
「怪我はないかね、ミス・グラント」
「はい……」
結構刺激の強い材料を使っているから、肌に直接かかっていたらまずいことになっていただろうけれど、布越しにかかっただけだから大丈夫だろう。今のところ痛みも特にない。それよりも、教室中の視線が集まっていることの方が気になった。気まずい。レイチェルの答えを聞くと、スネイプ教授はレイチェルの大鍋に杖を向け、中の液体を消し去った。鮮やかなスミレ色になるはずだった薬は、今は灰色に濁っていた。
「突沸することがあるので、十分注意するようにと言ったはずだ。レイブンクロー、10点減点」
スネイプ教授の声はそう大きくはなかったけれど、一体何が起きたのか知ろうと静まり返っている教室には十分響いた。きっと、教室中の同級生のほとんどに聞こえただろう。こんな、1年生みたいなミスをするなんて。レイチェルは羞恥心が背筋をせり上がって来るのを感じた。俯くレイチェルに、スネイプ教授は更に告げた。
「それから、医務室に行きたまえ」
その言葉に、薬がかかった腕を見る。布が溶けて穴が空いた部分の肌が、赤く腫れていた。さっきまでは痛みがなかったはずなのに、今は少し熱を持っているようだ。時間が経つと、もっとひどくなるのかもしれない。レイチェルは誰とも目を合わせないように床に視線を落としたまま、机と机の間を縫うようにして教室の入口へと向かった。今すぐ教室を出て、1人になりたかった。ハーマイオニーとは喧嘩するし、得意なはずの魔法薬学でさえこんな失態。本当に、自己嫌悪だ。
「先生。今1人で廊下を歩くのは危険でしょうし、僕もミス・グラントに付き添ってもいいですか?」
レイチェルがドアノブに手をかけたとき、教室の中に残っていた誰かがそう言って手を上げた。背中を向けていたレイチェルにはその人物が誰なのかは見えなかったけれど、声を聞いただけでわかってしまった。「行こう、レイチェル」
「……うん」
今は、1人にしてほしいのに。でも、1人になったらきっと泣く。レイチェルと違って穴の空いてないローブで笑うセドリックは、それをわかっているからなのだろうと思った。ああもう、突き放してくれればいいのに、そうやって手を差し出してくるから、レイチェルはいつも甘えてしまうのだ。
他の生徒達はまだ授業中だから、廊下には人気がない。静まり返った空間には、2人分の足音でもやけに響く。レイチェルの隣を歩いていたセドリックは、レイチェルの腕へと視線を向けると、心配そうに表情を曇らせた。
「腫れてきてるね。痛い?」
「そんなに……ちょっとヒリヒリするけど、直接かかったわけじゃないから」
「マダム・ポンフリーならきっと、一瞬で治してくれるよ。ローブもね」
セドリックが慰めるように言ったけれど、今のレイチェルにとっては怪我の痛みはあまり気にならなかった。確かに段々と症状はひどくなっているけれど、セドリックの言う通りマダム・ポンフリーなら跡形もなく治してくれるだろう。それよりもだ。
「ごめんね、セド」
あんな単純なミスをしてしまったこと。そのせいで周りに迷惑や心配をかけてしまったことの方が痛かった。セドリックだって自分の調合があるのに、レイチェルに付き添っているせいでそれも中断されてしまったはずだ。レイチェルがセドリックをちらりと見上げると、セドリックは気にするなと言いうように、穏やかに微笑んだ。
「僕の方は、もう瓶に移すだけだったしね。それはジョンに頼んできたから、やってくれるはずだ。それに、もう授業も終わる頃だよ」
セドリックの腕時計を覗きこんでみると、授業の終了時刻まではあと10分ほどだ。セドリックの口調が────レイチェルを気遣って嘘を吐いているのではなく────本当に気にしていなさそうだったので、レイチェルはホッとして肩の力を抜いた。
「……ジョンなら、セドの薬をこっそり自分の瓶にも移しそう」
「かもしれない。でもきっと、そんなことしてもスネイプ教授にはバレるんじゃないかな」
「じゃあきっと、また罰則ね」
他人の成果を自分の物だと詐称することを、スネイプ教授が許すとは思えない。きっと、これ以上ない位不機嫌になるのだろう。その光景を想像してクスクス笑うと、セドリックがじっとレイチェルの顔を見つめていることに気がついた。
「……何?」
「やっと笑った」
何か奇妙なことをしただろうかとレイチェルが首を傾げると、セドリックはそう言って笑ってみせた。レイチェルはその言葉に自分の頬へと手を当てた。悩んでいたのは確かだけれど、そんなに暗い顔をしていただろうか。悩んでいる自覚はあったけれど、自分ではいつも通り過ごせているつもりだった。集中力を多少欠いていたとは言え、課題だっていつも通りやっていたし、ミスをしたのだって今日くらいだ。
「友達と喧嘩して、落ち込むのは当然だと思うけど……あんまり、思いつめない方がいいよ。ただでさえ、今はこんな状況だし、難しいかもしれないけど」
窓の外には、しんしんと雪が降っている。その雪と同じように、セドリックの言葉もレイチェルの胸に沁み込んで行くようだった。真っ直ぐ前を見つめるセドリックの横顔をそっと見上げる。ほんの少し憂いを含んだ表情は、なんだかひどく大人びて見えた。
「レイチェルが元気がないと、僕まで調子が狂う」
そう言って、セドリックはレイチェルを振り向くと、冗談めかして笑ってみせた。いつものセドリックだ。くしゃくしゃと無遠慮に髪をかき混ぜる手に、レイチェルはムッと眉を寄せてその手を振り払った。これじゃあまるで、子供扱いだ。
「……セドは過保護なのよ」
レイチェルが悩んでいたことも、そのせいでセドリックに心配をかけてしまったことも事実だけれど、だからってセドリックは心配しすぎだし、甘やかしすぎるのだ。もうちょっと放っておいてくれても、レイチェルは大丈夫なのに。セドリックが思うほど、何もできない、守ってもらわなきゃいけない女の子じゃないのに。「でも……ありがとう」
けれど、それにレイチェルに助けられていることも事実なのだ。今だってセドリックが居なかったら、きっと自己嫌悪で泣いていた。ちょっと照れくさかったせいで、思ったよりも声は小さくなってしまったけれど、セドリックの耳には届いたらしい。ニッコリと白い歯を見せた。
「うん。『ごめん』よりもそっちの方が嬉しいよ」
その言葉に、レイチェルもふっと頬を緩めた。セドリックの言う通りだ。焦ったところで答えが出るわけじゃないのだから、思いつめたところで仕方ない。今日みたいな失敗を繰り返さないためにも。せめて勉強だけでもしっかりやらないと、ますますハーマイオニーの友人として釣り合わなくなってしまう。よし、と拳を握り締めた。1歩、また1歩と前へ進める足は、さっきまでよりも少し軽くなった気がした。
医務室に行って、ホグワーツきっての名医であるマダムポンフリーに腕とローブをすっかり元通りにしてもらったレイチェルは、またセドリックと一緒に大広間に向かっていた。次は昼食の時間だからだ。さっきとは違って廊下は人で溢れ、あちこちから聞こえてくる話し声でざわついている。そんな中、前の方からキャーッと1年生の女の子達の悲鳴が上がった。天井のすぐ側で、半透明の何かが彼女達の頭にチョークを投げつけている────ピーブズだ。人波をかき分けて、セドリックが1年生達の元へと走って行った。
「やめるんだ、ピーブズ」
セドリックが厳しい声でたしなめたものの、ピーブズはベーッと舌を出してそのまま天井を通り抜けていった。天井の向こうからは、最近のピーブズのお気に入りの歌が聞こえてきた。「オ―、ポッター、いやなやつだー」……憎たらしいことこの上ない。ようやく追いついたレイチェルは小さく溜息を吐き、難しい顔で天井を見上げているセドリックの肩を叩いた。
「ピーブズに注意しても無駄よ、セド。血みどろ男爵の言葉以外は絶対聞かないんだから」
ピーブズの悪戯は困ったものだけれど、こればかりは野良犬にでも吠えかかられたと思って我慢するしかない。セドリックに丁寧にお礼を言って廊下を走っていった女の子達を見送っていたレイチェルは、さっきの去り際のピーブズの歌を思い出して首を傾げた。
「私達が中途半端に犯人探しをするのはよくないってわかってるけど……誰なのかしら、継承者って」
クリスマス休暇はおじさん達の手前この話題を避けていたし、学校に戻って来てからもハーマイオニーとの喧嘩のせいですっかり忘れていたけれど、そう言えば今のホグワーツではハリー・ポッターが継承者だと疑われているんだった。セドリックはこの噂についてどう思っているのだろう。レイチェルが尋ねてみると、セドリックは困ったように眉を下げた。
「ハリー・ポッターがそうだって噂だけど……僕は違うんじゃないかなって思う。あまり話したことはないけど……彼は、そんなことをするようには見えない」
とは言え、じゃあ誰が犯人かと問われるとセドリックにも見当がつかないのだろう。レイチェルと同じだ。レイチェルも、継承者の心当たりなんてさっぱりだ。ホグワーツ生にそんな残酷な人間が居るなんて思えないし、思いたくもない。
「……僕は、そう考えてるんだけど。どう思う?」
セドリックが遠慮がちに苦笑した。ハリー・ポッターの名前を出すとレイチェルが不機嫌になることをわかっているからだろう。そう言えば、レイチェルがこの噂をどう思っているかについても、セドリックと話したことはなかった。
「セドと一緒よ。絶対違うと思うわ」
「絶対?」
きっぱりと言い切ったレイチェルに、セドリックが驚いたように目を見開く。けれどこの件に関しては、レイチェルは確信を持っていた。ガリオン金貨を賭けてもいい。ハリー・ポッターは絶対に継承者じゃない。それは────セドリックには言うつもりはないけれど────ハーマイオニーがあんな危険な魔法薬を使ってまで犯人探しをしていると言うことも理由だったし、それより何より。
「だって、ハリー・ポッターにそんな力なんてあるわけないもの」
去年の学期末の冒険も、荒れ狂うブラッジャーも、何もかも。ハリー・ポッターが英雄扱いされる原因になった行為は、運が良かっただけだ。実際のところはどうなのかは知らないけれど、少なくともレイチェルはそう思っている。シーカーとしての腕前と、蛇語が話せることは凄いとは思うけれど。
そんな風に苦々しく吐き捨てたレイチェルは、次の瞬間、はたと目を見開くことになった。廊下の角を曲がったその数メートル先に、まさに今話題にしていた痩せた黒髪の少年が居たからだ。眼鏡の向こうの深い緑色の瞳は大きく見開かれ、戸惑ったようにレイチェルを見返していた。レイチェルもその場に縫い止められたように立ち止まり、じっとその顔を見返した。何か言うべきかもしれないと思うけれど、動揺しているせいか頭が上手く回らない。ハリー・ポッターも困惑しているのだろうけれど、レイチェルだって困惑していた。だって、まさか本人がすぐ側に居るだなんて思わないじゃないか。
「えっと……僕……」
ハリー・ポッターは何か言いたげにモゴモゴと口を動かしたが、結局は何も言わず、眉を下げて元居た廊下を走って行ってしまった。小柄な背中が人波に紛れて見えなくなったのを見届けて、レイチェルもようやく我に返った。隣に居たセドリックも同様のようだった。
「……聞こえてたのかな」
「…………知らない」
困ったように眉を下げたセドリックに、ばつの悪くなったレイチェルは目を逸らし、素っ気なく吐き捨てた。別に、ハリー・ポッターはスリザリンの曾々孫でマグルを殲滅したがっているとか、彼にとって不名誉なことやでまかせを言ったわけじゃない。むしろ────言い方と口調は悪かったかもしれないけれど────彼は犯人じゃないと庇ったのだから、気まずくなる必要なんてないのだ。それにそもそも、レイチェルはハリー・ポッターが嫌いだ。だから、ハリー・ポッターが今のレイチェルの言葉をどう思ったとしても関係ない。
レイチェルは今の自分が、ハーマイオニーの友人に相応しいとは思えない。けれど、ハリー・ポッターがハーマイオニーの親友────そう、友人じゃなく親友だ────に相応しいとは、とても思えなかった。ハーマイオニーは彼のことを心優しく謙虚な少年だと言うけれど、とても信じられない。レイチェルの目には、ハリー・ポッターは規則破りを歯牙にもかけなくて、危険なことに首を突っ込んで行く、自信過剰で無謀で傲慢な少年に映る。元はと言えば、今回のハーマイオニーとの喧嘩も、そして前回も、半分くらいはハリー・ポッターが原因だ。もっとも、当の本人はそんなこと知りもしないだろうし、八つ当たりだと言うことはレイチェルも頭では理解しているけれど。
レイチェルはギュッと拳を握り締めた。セドリックのおかげで落ち着いて来ていたはずの胸の中が、またざわざわと黒い感情に満たされていく。レイチェルは彼が継承者だとは思わないし、疑われていることは気の毒だと思う。けれど、やっぱり、彼の行動や思考回路は理解できない。