12月がやってきた。
相変わらず空は灰色の雲に覆われていたけれど、そこから降り注ぐのは雨から雪に変わり、寒さはますます厳しくなってきていた。石の床はローファーを履いていても底冷えするし、隙間風もひどい。巻きつけたマフラーに顔を埋めながら次の授業に急いでいたレイチェルは、渡り廊下の向こうに見知った顔を見つけた。
「ごめん、パメラ、エリザベス。ちょっと先に行ってて!
少し前を歩いていた2人にそう声をかけて、レイチェルは目的の人物に向かって駆け出した。授業の間の休み時間は、それほど長くはないのだ。急がなくちゃ。この広いホグワーツだ。次に会えるのはいつになるかわからない。特に、学年も寮も違う相手の場合は。
「オリバー!」
廊下は騒がしかったけれど、背後から呼んだ名前はウッドの耳に届いたようだった。振り返ったその顔が、声の主を探すように視線を彷徨わせる。そして、レイチェルを捉えた。ウッドが廊下の真ん中で立ち止まってくれたので、レイチェルはようやく追いつくことができた。
「レイチェル」
「何だよ、オリバー。知り合いか?」
ウッドの前を歩いていた男子生徒が不思議そうに言った。レイチェルが居たところからは柱の影で見えなかったけれど、どうやらウッドは1人ではなかったらしい。友人だろう数人の男の子達と一緒だった。ネクタイの色は、当然ウッドと同じ赤。レイチェルにとっては、知らない上級生だ。向こうも、青いネクタイを結んだ見慣れない下級生を不思議に思ったようだった。
「下級生だよな。何年?」
「え、あの、4年生です……」
「お前、レイブンクローの子となんていつ知り合ったんだよ」
「いいだろ、別に……」
興味津津と言った感じの視線がレイチェルに向けられる。すっかり騒がしくなってしまった彼らに、レイチェルはたじろいだ。困った。もしかして、今のタイミングで話しかけてしまったのってまずかっただろうか。ウッドに迷惑をかけてしまったかもしれない。それなら、また今度出直した方がいいだろうか?
「あ……えっと、その、ごめんなさい、私……」
「俺に用事だよな? あっちに行こう」
「ごめんな、あいつらが」
「いえ……こっちこそ。友達と一緒だったのに、急に呼び止めてごめんなさい」
「気にしなくていい。いつもああなんだ。それで、その、俺に何か……?」
不思議そうに首を傾げたウッドに、レイチェルはハッとした。レイチェルもウッドも次の授業に行かなければいけないのだ。のんびりしていたら休み時間が終わってしまう。レイチェルは視線を上げてウッドの顔を見つめると、ニッコリ笑みを浮かべた。
「この間は、ありがとう。お礼、ちゃんと言えてなかったから」
レイチェルが何の話をしているのか、ウッドには一瞬見当がつかなかったらしい。不思議そうに首を傾げていたけれど、やがて先日の箒小屋の一件に思い当たったらしく、複雑そうな表情で頭を掻いた。「ああ……別に、大したことじゃないよ」
「でも……本当に、助かったもの」
ウッドが教えてくれなかったら、あの後レイチェルはフィルチに難癖をつけられていたとしてもおかしくない状況だったのだ。あのときは気が動転してしまっていたから、改めてきちんとお礼が言いたかった。もう1度、ありがとうと繰り返したレイチェルに、ウッドは照れくさそうに笑ってみせた。
「こっちこそ、わざわざありがとう」
「……お礼のお礼って、変じゃない?」
ウッドの言葉に、レイチェルは思わずクスクス笑ってしまった。ウッドもつられたように笑う。
お礼を言いたかったのは本当だ。けれど、わざわざこれだけのために呼び止めたわけでもない。レイチェルは鞄を開けると、内ポケットから1枚の折り畳んだ羊皮紙を取り出した。本題はこっちだ。
「それとね、これ。チャーリーに渡してくれって頼まれたの」
セドリックの活躍を写真と手紙で知らせると、チャーリーはとても喜んでくれた。たぶん、本人とも手紙のやり取りをしているはずなので、お祝いの言葉なんかは直接セドリックに書いているだろう。それはさておき、レイチェルへの返信には1枚の紙が同封されていた。レイチェルにはわけのわからない図形のようなものがびっしりと書き込まれていて、チャーリー曰く、ウッドへの手紙の返信に入れ損なってしまったらしい。レイチェルが差し出した羊皮紙を受け取って内容を確認すると、ウッドは納得したように頷いた。
「ありがとう。1枚足りないなとは思ってたんだ。チャーリーも結構うっかりしてるよな。……知り合いなんだっけ?」
「パパがチャーリーと同じ職場で働いてるから。夏休みに遊びに行ったの」
「そうか。元気だった?」
「ええ。とっても」
夏休みに会ったチャーリーの様子。セドリックの特訓がどんなだったか。先月のグリフィンドールとスリザリンのクィディッチの試合や、ニンバス2001の話。ブラッジャーの暴走について。色々なことで会話を弾ませていると、いつの間にか廊下はすっかり人気がなくなってしまっていた。
「ごめんなさい、オリバー。授業、大丈夫?」
レイチェルは時計を見た。授業開始まであとほんの少ししか時間がない。用事だけ済ませて、すぐ別れるつもりだったのに……どうやら話し込み過ぎてしまったようだ。ウッドがレイチェルのせいで遅刻してしまったらどうしよう。心配になって青ざめると、ウッドも同じことを考えていたらしく、困ったように苦笑してみせた。「ああ。まあ、すぐ近くだし……レイチェルは?」
「私も大丈夫……」
「あいつらもう行ったみたいだな……友達は待たせてないのか?」
「先に行っててもらったから……」
わざわざ待っていてもらうのも申し訳なかったので、2人にはそうしてもらった。エリザベスもパメラもたぶん、とっくに呪文学の教室に到着しているだろう。できたらレイチェルの分の席も取っていてくれるといいな、なんて考えていると、ウッドの手がレイチェルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「こんな状況だし、あんまり1人で行動しない方がいいぞ」
しょうがないなと言いたげな、大人びた笑みが向けられる。レイチェルはまたこの間の箒小屋でのときと同じ、言いようのない気恥ずかしさが足元から這い上がって来るのを感じた。呪文学の教室まで送って行こうかと、続けられた言葉に慌てて横に首を振る。そんなことをしていたら、ウッドが授業に遅刻してしまう。
「じゃあまたな、レイチェル」
セドリックもそうだけれど、クィディッチをしているせいなのか、ウッドは姿勢が綺麗だ。廊下を歩いて行く背の高い後姿をぼんやりと見送りながら、レイチェルはそんな感想を抱いた。
ウッドの姿が見えなくなったところで、レイチェルは自分も呪文学の教室へと向かうことにした。もう授業が始まる直前なせいか、廊下にはレイチェル以外は誰も居ない。しんと静まり返った石造りの廊下はますます寒く感じられて、どこか不気味だ。石の床の冷たさに、足元から体の熱が奪われていく。コツン、コツンと自分の足音が響く以外は何の音もない。誰も居ないはずなのに、どうしてか誰かに見られているような気がして、レイチェルは呪文学の教室へと慌てて走った。
12月になってから、ますます課題が増えていた。まるで地上に雪が積もるのに合わせるように、レイチェルの机の上の羊皮紙もどんどん積もっていく。あっと言う間に1週間が経ち、レイチェル達の部屋にもクリスマス休暇に学校に残るかどうかを確認するリストが回ってきた。もうそんな時期なのかと驚きながら、レイチェルは幼馴染の元へと足を運んだ。
「セド。今年のクリスマスはどうする?」
もしもセドリックが残るなら、レイチェルも残った方がいい。別に、パメラやアンジェリーナ達が期待するような「セドリックと一緒にクリスマスを過ごしたい」なんて甘酸っぱい理由じゃない。ごちそうや飾りつけなど、クリスマスの準備をするのは主におばさん────セドリックの母親だからだ。息子は帰ってきていないのに、ただの隣人の娘────いや、まあ、優しいおばさんはきっとレイチェル1人のためだって喜んで準備してくれるだろうけれど────のためにクリスマスの準備をしてもらうのはちょっと申し訳ない。レイチェルの問いかけに、セドリックは困ったように眉を下げた。
「母さんは、『もう4年生だし、友達と残りたいならそうしていい』って言ってたけど……」
「この状況だと、誰も残らなそうよね」
去年までは毎年家に帰っていたから、「そろそろホグワーツでクリスマスを過ごしてみたいね」なんて話もしたけれど……あくまで友達が一緒に過ごすために残るつもりだったのだ。友人達が帰宅してしまうなら、自分だけ残っても意味はない。ハロウィン以降の事件のせいで、すっかり暗い雰囲気のホグワーツに残りたいと思う生徒は少数派だろう。ほとんどの生徒は、早く家に帰りたがっている。パメラもエリザベスもやっぱり今年は帰宅すると言っていたし、レイチェルもそうすることになりそうだ。寮に戻って、レイチェルは机の上に置いていたリストから自分の名前を探す。レイチェル達の部屋ではレイチェルが最後なので、レイチェルが「確認済」のチェックを入れたら隣の部屋に回すことになっている。まだ全員に回覧されていないとは言え、やっぱり例年に比べてもリストは全然埋まっていない。羊皮紙の上の方にほんの数人書かれた書かれた名前の中に、見慣れた筆跡を見つけてレイチェルは目を見開いた。────── ペネロピー・クリアウォーター。
「ねえ、ペニー。クリスマス、ホグワーツに残るの?」
ペネロピーは談話室に居た。ちょうど勉強が一段落したらしく、紅茶を飲んでいたペネロピーは快くソファの隣をレイチェルに勧めてくれた。率直に疑問をぶつけたレイチェルに、ペネロピーは何かを思い出したようにあっと口元を押さえた。
「そうなの……レイチェルに言わなきゃと思ってたの。夏休みに、休暇になったらまたロンドンに連れて行くって約束したでしょ? ……私、学校に残るから無理なの……ごめんなさい」
「あ、えっと、そんなことは別にいいんだけど……」
申し訳なさそうに眉を下げたペネロピーに、レイチェルは慌てて首を横に振った。別に、それを責めるためにわざわざ探しに来たわけではない。確かに少し────かなり、楽しみにはしていたけれど、ペネロピ―の都合がつかないのなら仕方のないことだ。そうじゃなくて。
「ペニーの友達は誰も残らないでしょ? 1人じゃ退屈じゃない? もし、ご両親が旅行で家に帰れないんなら、私の家とか……」
レイチェルの家では、それほど盛大なおもてなしはできないかもしれないけれど……でも、お客様が泊まる部屋ならある。セドリックにも相談してみたけれど、おばさんもあまり大人数でなければ友達を呼んでも構わないと言ってくれているし、ペネロピーならセドリックとも知り合いだ。ペネロピーが家に帰れない事情がありのなら、是非レイチェルの家に招待したい。「あ、違うの。確かに両親は旅行に行くんだけど……」
友達と一緒に残るのならわかるけれど、ペネロピーと仲の良い友人達の名前はリストにはなかった。空っぽのレイブンクロー寮でクリスマスの朝を迎えるのはあまりにも寂しい。そう思って提案したレイチェルだったけれど、ペネロピーは歯切れ悪く返事をすると、辺りをきょろきょろと見回して声を潜めた。
「その……ね。付き合ってる人が、一緒にクリスマスを過ごそうって誘ってくれて……」
「えっ」
ほんのりと頬を染めて、ペネロピーが微笑んだ。可愛い。ペネロピーの方が年上だけれど、レイチェルは思わずそんな感想を抱いた。そう言えば、最近ペネロピーはよく手紙を書いているなとは思っていたけれど……なるほど。あれは、恋人に向けてのものだったのだろう。
「その……付き合ってる人って……誰なのか、聞いてもいい?」
ペネロピーにつられるように、レイチェルもひそひそと声を小さくしてしまう。照れくさそうに俯いていたペネロピーは、ほんの少しだけ迷うように視線を泳がせた後、そっとレイチェルの耳元に唇を寄せた。
「パーシー・ウィーズリー」
「グリフィンドールの監督生の?」
「ええ」
フレッドとジョージのお兄さんだ。話したことはないけれど、フレッドとジョージとは全然似ていない……真面目を絵に描いたような人だった。あまり女の子に、と言うか勉強以外には興味がなさそうなイメージだったので────双子からも教科書が恋人だと聞かされていたし────ちょっと意外だ。レイチェルは頭の中でペネロピーとパーシー・ウィーズリーが並んでいるところを想像してみた。案外しっくる来る。ペネロピーも監督生だし、しっかり者で頭がいい人同士話が合うのかもしれない。
「内緒にしてね?」
可愛らしく小首を傾げてはにかむペネロピーに、レイチェルはこくこくと頷いた。真面目な兄に恋人ができたなんて、フレッドとジョージが知ったらきっと面白がって騒ぎ立てるに違いない。ペネロピー達が静かなクリスマスを過ごせるよう祈るばかりだ。
「ごめんなさい! 遅れちゃった!」
待ち合わせの時間から5分遅れ、慌てて図書室へと駆けこんできたハーマイオニーに、レイチェルは気にしないでと微笑んでみせた。教科書がパンパンに詰め込まれた鞄から、羊皮紙や羽根ペンが取り出されていく。勉強熱心なのも、年齢に不相応なほどたくさんの課題を抱え込んでいるのも元々だけれど、最近のハーマイオニーは輪をかけて忙しそうだ。2年生の女の子達に聞いたところによると、授業が終わると急いでどこかへと駆け出していくらしい。例にもれず、仲良しのハリー・ポッターやロン・ウィーズリーと一緒に。ハーマイオニーはクラブ活動にも参加していないはずだし、図書室で過ごしているならレイチェルも姿を見ているはずなので、一体何に忙しくしているのはいまひとつ謎なのだけれど。
「ハーマイオニーも、クリスマスは家に帰るんでしょう?」
けれどまあ、クリスマス休暇を自宅で過ごすのなら、きっと少しはゆっくりできるだろう。いくら休暇中も課題が出ているとは言え、ハーマイオニーにとってはそれほど大した量じゃないはずだ。そう思って口に出した質問に返って来たのは、予想していた肯定の言葉ではなかった。
「私、ホグワーツに残るつもりよ」
「えっ……どうして?」
「あら。理由がなくちゃ学校に残っちゃいけない? それに、ハリーやロンも残るから、1人じゃないわ」
確かにそうだけれど────特別な事情がない限りは、ほとんどの下級生は家に帰るのに。クリスマスにホグワーツに残るのは、基本的に上級生ばかりだ。それに今は継承者のこともあるし、ホグワーツよりも家の方がずっと安全だ。それなのに、どうしてわざわざ今のホグワーツに残るのだろうか。ハーマイオニーの自由だとは言え、何となく腑に落ちない。
「この本もダメだわ」
知りたい情報が載っていなかったのか、ハーマイオニーが眉を顰めて椅子から立ち上がった。ふわふわした栗色の髪が、レイチェルの鼻先で揺れる。その拍子に、ツンとした独特の匂いが鼻を掠めて、レイチェルは首を傾げた。
「……今日、魔法薬学だった?」
「え?」
「魔法薬の匂いがするから……」
「ああ……えっと、ええ。そうなの……」
乾燥させた薬草や、色々な物質の混ざった匂い。ついさっきまで魔法薬を煎じていたような、そんな臭いだ。もう授業が終わって随分時間が経っているのに、まだ匂いが残っているだなんて。よっぽど匂いのきつい魔法薬だったのだろうか?
「マグルって、こう言う風に服や髪に匂いがついちゃったときどうするの?」
「んー、消臭剤とか……あー、えっと、名前の通り匂いを消す薬ね。服や壁紙なんかだと、それをかけたりするわ。人間にはかけちゃいけないんだけど」
「そんな魔法みたいな薬があるの!?」
授業で魔法薬を調合すると髪や制服に匂いが染みついてしまうこともあるし、薬草学で香りがきつい植物を扱うと手からずっとその匂いが取れなくなることもある。別にそう珍しいことじゃないし、取り立てて騒ぎ立てるようなことでもない。大体呪文でどうにかしてしまうけれど、自分では匂いがわからないこともある。だからその時は、大して気にも止めなかった。けれど。
「え? 今日グリフィンドールは魔法薬学ないはずだけど。私、パーバティからノート借りたもの」
「え?」
夕食時、パドマが告げた一言に、レイチェルは思わず眉を寄せた。パドマが嘘を吐く理由もないし、リサやアンソニーが同意していたことから考えても、グリフィンドールに魔法薬学の授業がなかったのは恐らく事実だ。だとしたら、どうしてハーマイオニーから魔法薬の匂いがしたのだろう。誰か、他の人から匂いが移ってしまったのだろうか? それとも、授業以外で何か調合しているのだろうか……? 魔法薬を調合するのは危険なのに。自習のために空き教室を借りられると聞いたことがあるけれど、下級生には許可が下りないはずだ。まさか、またロックハート教授が特別に許可を出したのだろうか……? 周囲の談笑する声を聞きながら、レイチェルは透き通ったスープの表面に自分の顔が映りこんでいるのをぼんやり見つめていた。レイチェルの考えすぎで、深い意味なんてないのかもしれない。ただ単に話の流れ頷いてしまって、訂正するのが面倒だっただけかもしれない。けれど────いつものハーマイオニーなら、少しでも間違ったことを言ってしまったら、そのままにしたりしないのに。スプーンをスープに差し入れると、ぐにゃりと像が歪んだ。ただの考えすぎならいいのだけれど、何だか奇妙に胸騒ぎがした。
どうして、ハーマイオニーはあんな嘘を吐いたのだろう。