それから数日は、ミセス・ノリスの事件の話題で持ちきりだった。が、結局わかっていることが少なすぎるせいで次第に話す内容も尽きてしまって、ハロウィンから10日が経った頃には校内はいつも通りの空気へと戻りつつあった。もちろん、ミセス・ノリスの飼い主である管理人のアーガス・フィルチは例外だ。事件のあった廊下を巡回し───相変わらず壁の文字を消す方法は見つからないらしく、文字はありありと不気味に存在感を放っている───通りがかった生徒に難癖をつけて処罰に持ち込もうとしていた。しかし、そうこうしているうちに生徒達の関心を集めるイベントが迫っていた。土曜日にはいよいよ、今年度のクィディッチリーグの開幕だ。
「ごめんレイチェル! これ、今日貸し出し期限だったの! 図書室に行くなら返しておいて!」
これから聖歌隊の練習があるからと大慌てで教室を出て行ったパメラに代わり、レイチェルは図書室に向かっていた。どうせ魔法史のレポートを書くために図書室へ行くつもりだったのだ。魔法史と言えば、ハーマイオニーはホグワーツの歴史を借りられなかった代わりに、ビンズ教授に秘密の部屋の伝説について尋ねたらしい。そして、渋るビンズ教授に説明させたのだとか。さすがだ。
「あの……あんまり気にしない方がいいわ。サラザール・スリザリンの時代と違って、今時、血筋がどうなっているかなんて、気にする人の方が少数派だから……」
秘密の部屋────マグル排斥の価値観も含めて────について知ったハーマイオニーが怖がったり不安になったりかもしれないとレイチェルはちょっと心配だったけれど、彼女の反応はまたしてもレイチェルの予想とは違っていた。考え考えそう口にしたレイチェルに、ハーマイオニーが聞いて来たことと言えばこうだった。
「私、前から気になってたんだけれど、純血の魔法族って今ではほとんどが親戚なんでしょう? それに、イギリスの魔法使いって皆ホグワーツに集まるのよね? だとしたら、純血の人達って学校の中が親戚だらけになってしまわない? レイチェルもそうなの?」
好奇心いっぱいに目をキラキラさせるハーマイオニーに、レイチェルは純血家系は確かに周りが親戚だらけだけれど、親戚が多すぎるせいで従兄弟なんかのごく狭い範囲でしか親しくしないこと────何代も遡ればたぶんエリザベスやフレッドやジョージとも親戚だ────、確かにレイチェルにも従弟はたくさん居るけれど、そのほとんどは年が離れているせいでもう卒業してしまっているか、まだ入学していないかのどちらかで、唯一年の近い従兄は外国の魔法学校に通っていることなどをハーマイオニーが納得いくまで説明することになった。
「こう言う事情って、本ではわからないことでしょう? ロンはこう言う話、面倒くさがるんだもの」
そうして今度は、「外国の魔法学校ってホグワーツとはどう違うの?」だ。可愛らしい笑顔の質問攻めには正直ちょっと戸惑ってしまったけれど……でも、他の下級生のように秘密の部屋のことで落ち込まれてしまうよりずっといい。ハーマイオニーが楽しいのならば、いくらだって付き合おう。
「こんにちは、マダム・ピンス」
「ああ、ミス・グラント。ごきげんよう。今日は何の本をお探し?」
図書室の静寂と蔵書の厳格な守り人である司書のマダム・ピンスとレイチェルの関係は、比較的良好だ。それは恐らくレイチェルの母親がマダム・ピンスのお気に入りの生徒だったことと、娘のレイチェルも本をたくさん読むからなのだろうとレイチェルは思う。多少のおしゃべりなら見逃してもらえるし、以前お菓子を持ちこんだときも何も言われなかった。勿論、その場で食べて本を汚したりすれば、たちまちマダムのブラックリストに載ってしまっただろうけれど。
「これ、パメラ・ジョーンズの名前で借りてるんですけど……」
「ああ、『ホグワーツの歴史』ですね。ええと、次に予約を入れたのは……」
こうやって他の誰かが借りた本を返しに来ると、「ちゃんと本人がいらっしゃい」と注意されてしまうことが多いのだけれど、レイチェルの場合は特に何も言われない。マダムが引き出しの中から取り出した予約者のリストにびっしりと名前が刻まれているのを見て、レイチェルは首を傾げた。
「やっぱり、まだ予約でいっぱいですか?」
「ええ。さっきも、5人の生徒が返却されてないかと聞きに来ましたよ。5人も! 全く、未だかつてこの本がこんなに生徒に望まれたことはありませんでしたとも。秘密の部屋ですって、馬鹿馬鹿しい……」
『最も強力な魔法薬』。わかりやすく明快なそのタイトルは、確か閲覧禁止の棚に置かれているはずだ。まだ2年生だった頃、魔法薬学に興味を持ったレイチェルが「読んでみたいんです」とスネイプ教授に申告して「君には半分も理解できないだろう」と一蹴された苦い記憶を伴う本だった。けれど、去年7年生が読んでいるのをちょっとだけ覗かせてもらって、確かにスネイプ教授の言葉は正しかったと納得した。内容も恐ろしく難しかったけれど……挿し絵がかなりグロテスクだったので、2年生のときに目にしていたらトラウマになってしまったかもしれない。そう言う意味では、スネイプ教授に感謝している。いくらハーマイオニーがあの頃のレイチェルよりずっと優秀とは言っても、スネイプ教授はそう言う贔屓はしないタイプのはずだ。だとしたら、一体、誰がハーマイオニーに許可を出したのだろう?
「あの……マダム……これって、その……禁書ですよね?」
「ええ、禁書ですとも」
勝手にリストを覗き見てしまった後ろめたさから遠慮がちに尋ねたレイチェルに、マダムは苦々しげに頷いた。キュッと眉間に皺を寄せ、羊皮紙をくるくると丸めて再び引き出しの中へとしまう。俯いて呟かれた言葉はごくごく小さな声だったが、距離の近いレイチェルにはかろうじて聞き取ることができた。
「全く、2年生に許可を与えるだなんて……じっとしているものなら椅子にでもサインをするんでしょうよ……」
その言葉に、レイチェルは誰がサインをしたのかを察して苦笑を浮かべた。頭の中に、トルコ石色の派手なローブが翻る。たぶん、あの先生だろう。恐らく、きっと、間違いなく。
ハーマイオニーの性格なら、禁書だと知った時点で諦めそうなものだけれど……わざわざ教授のサインを貰ってまで読みたがるなんて、この本の内容の何がそんなに知りたかったのだろう? ロックハート教授の著書の中には、確か魔法薬を使う話もあった気がするから、それだろうか? 4年生のレイチェルでも、今でもきちんと理解できるか不安な本だけれど……ハーマイオニーなら大丈夫かもと思えてしまうところが恐ろしい。けれど、わざわざ閲覧禁止と指定されていると言うことは、それだけ内容がショッキングで、生徒に悪影響を与える可能性があると言うことだ。それをホイホイと許可を与えてしまうロックハート教授はいかがなものなのだろう。マダム・ピンスの怒りは尤もだ。
とは言え、ハーマイオニーのことだから、純粋な知識欲と探求心から内容を知りたかっただけで、悪用したりはしないだろう、きっと。
魔法史のレポートは無事に書き終えることができた。元々レイチェルは魔法史が苦手なので、一生懸命やったかどうかと言われると微妙だけれど……まあ、及第点だろう。そもそも、毎週毎週小鬼の反乱についてのレポートを提出させられるのだから、いい加減飽きてくる。そんなことを考えながらのんびりと城の中を歩いていると、角を曲がろうとしたところで、背後から誰かに強く腕を掴まれた。
「静かに」
柱の影へと引っ張り込まれ、声を上げようとした口を手の平で塞がれる。突然の事態に、レイチェルは頭の中がパニックだった。声といい、体格といい、レイチェルよりも年上の男の子のものだ。こう言うことをしそうな人間と言えばフレッドとジョージだけれど、2人の声ではない。不安と恐怖に、サッと血の気が引いた。まさか、スリザリンの継承者────? そんな不穏な考えが一瞬頭をよぎったけれど、そうではなかった。よくよく記憶を辿ってみれば、今の声はどこかで聞いた覚えがある。そうだ、この声は────。
「……オリバー?」
「ごめん、驚かせたかな。フィルチの機嫌が悪いんだ。今、ここを通らない方がいい」
「……びっくりした」
「まずいな」
今はまだ遠いけれど、足音が近づいて来る。ついでに、呪わしげにブツブツ言うフィルチの声も。縄だの鞭だのと言う単語が途切れ途切れに聞こえてくるのは、なんとも嫌なBGMだ。レイチェルはウッドと不安げに顔を見合わせた。この道は一方通行だ。このままでは鉢合わせしてしまう。今のフィルチの様子なら、理不尽に処罰を言い渡されることはほぼ間違いない。どうしようと焦っていると、ウッドがレイチェルの手を引いて走り出した。
「こっち」
ウッドに連れて行かれたのは、近くにあった扉が開きっぱなしになっていた箒小屋だった。そう、箒小屋だ。箒を置くための場所であって、人間が入るためのスペースは本来考えられていない。レイチェル1人なら難なく隠れることができるだろうが、背の高いウッドと一緒にとなると────そう、つまり、狭い。レイチェルはふと今年の夏、セドリックと電話ボックスの中に入ったことを思い出した。少しでも余裕を取ろうと一歩踏み出すと、足に箒の小枝が掠めてパキパキと音を立てた。おまけに古くなった床がギシッと大きく軋んだので、レイチェルは慌てて足を引いた。いくら学校の備品の古い箒とは言え、1年生も授業で使う。うっかり折ってしまったら大変だ。
「シーッ」
ウッドが咎めるように唇の前で人差し指を立てたので、レイチェルはわかっていると伝えるためににこくこくと頷いた。音を立てたら、フィルチに気づかれてしまう。レイチェルは床の木目をじっと睨んで息を殺した。ここのところの雨のせいだろう。湿った木の独特の匂いが鼻を掠める。時折、衣擦れと箒の枝が微かに鳴る音がする以外は、小屋の中には静寂と緊張で満ちていた。コツン、コツン、と、薄い木の壁の向こうで、フィルチのものだろう、引きずるような独特の足音が通り過ぎて行く。ドクン、ドクンと心臓の音がうるさい。緊張で、どうにかなってしまいそうだ。
「行ったかな」
足音が遠ざかって聞こえなくなると、ウッドが安心したように呟いた。レイチェルもホッと息を吐いて、顔を上げた。けれどそうしたら、今度はフィルチじゃなく、別のことに意識が向いてしまってギョッとした。ウッドの顔が近い。睫毛の1本1本がくっきり見える。そう言えば、手も繋いだままだった。けれど、慌てて振り払うのも失礼かもしれない。声も近い。耳朶に吐息がかかる。そればかり気になってしまって、ウッドが何を言っているのかちっとも頭に入って来ない。レイチェルが混乱したまま硬直していると、ギィ、と嫌な音を立ててゆっくりと扉が開いた。小屋の外へと出ると、ウッドはさり気ない動作で手を離した。手の平に感じていた熱が消えて行く。頬を撫でる空気の冷たさに、レイチェルは自分の体がやけに熱いことに気づいた。
「ごめん。髪に葉っぱが……」
言いながら、ウッドが苦笑してレイチェルの頭に向かって手を伸ばそうとする。思わず身構えてしまったせいか、ウッドの指先が髪に触れようとした瞬間、ビクッと大げさなまでに肩が揺れてしまった。その反応に、ウッドが空中で手を止める。
「あー……」
気まずそうな、困惑したような。そんな表情で、ウッドが頭を掻く。心臓は相変わらずうるさい。今にも皮膚を破って飛びだしてしまいそうだ。これがフィルチのせいだけではないことに、レイチェルは薄々気づいていた。レイチェルだけではなく、きっとウッドも気づいたのだろう。
「ごめん。その……馴れ馴れしかった」
「そんな……」
「違うの。あの、……ごめんなさい…………」
ウッドは親切でレイチェルを助けてくれたのだし、今髪に触れようとしたのだって、ゴミを取ろうとしてくれただけだ。わかっているのに、どうしてこんなに心臓がうるさく騒いでしまうのだろう。気まずい沈黙をどうにかしようと、レイチェルは必死に言葉を探した。──────そうだ。明日はグリフィンドールのクィディッチの試合だ。
「あし……」
顔を上げ、できるだけ明るい声を出そうとする。が、焦ったせいか、噛んでしまった。もう嫌だ。レイチェルはもう1度俯いてしまった。ギュッとスカートの裾を握り締める。目頭がじんわりと熱くなってくる。何だろう、もう、申し訳なさすぎて泣きたい。
「明日の試合、頑張って……」
目を見て言うべき言葉なのに、恥ずかしすぎて視線が合わせられない。馬鹿みたいだ。普通に振る舞おいたいと思うのに、レイチェルの意志に反して弱々しく消えて行く語尾が情けない。ウッドはしばらく困ったようにレイチェルを見下ろしていたけれど、結局は「ありがとう」と微笑んで、そのままどこかへと行ってしまった。
1人廊下に取り残されたレイチェルは、どこかフワフワした気持ちのまま、その場に立ち尽くしていた。意識して深呼吸を繰り返す。湿った冷たい空気で肺の中が満たされると、ようやく気分が落ち着いてきた。そして、改めて思う。やっぱりさっきの自分は、どう考えたって変だった。
レイチェルは先程の状況を思い出し、頭の中でウッドをセドリックに置き換えてみる。別に何もドキドキするようなことはない。と言うことはつまり、ウッドは、ごくごく普通のことをしただけだ。知っている後輩がうっかりフィルチの通り道にのこのこ足を踏み入れてしまいそうだったから、助けてくれただけ。それなのに、何だってあんなに動揺してしまったのだろう。もしかして……もしかすると、レイチェルはウッドのことが─────。
「あれ? レイチェル?」
思考はそこでぷつりと途切れた。呼ばれた自分の名前に顔を上げれば、そこにはたった今頭の中で思い浮かべていた幼馴染の姿があった。どうやら足音が近づいていることにも気づかないほど、考え事に夢中になってしまっていたらしい。
「セド……」
「どうしたの? こんなところでぼんやりして」
セドリックの疑問は当然だ。こんな、古い箒小屋の前で1人じっと立っていたら奇妙に思うだろう。首を傾げるセドリックの手には、艶々と輝く箒の柄が握られている。きっとこれからクィディッチの練習なのだろう。クィディッチ───さっきのオリバーの笑顔を思い出して、レイチェルはまた心臓が騒ぎ始めるのを感じた。
「髪に葉っぱがついてる」
「え……あー……ありがとう」
セドリックの手がレイチェルの髪へと伸びた。長い指が、髪に付いたままだったらしい小さな葉を器用に摘む。その動作を、レイチェルはぼんやりと目で追っていた。そんなレイチェルの様子を不審に思ったのか、セドリックは心配そうにレイチェルの顔を覗きこむと、額へと手の平を押し当てた。
「……ちょっと、顔が赤いけど……風邪かな? 熱はないみたいだけど……」
セドリックになら髪に触られても、全然気にならないのに。こんなに顔が近かくたって、額に手が触れたって、セドリックなら平気なのに。レイチェルは深く溜息を吐いた。セドリックの腕を下ろし、ぽすりとローブの肩に頭を乗せた。心臓の鼓動が落ち着いてくるような気がした。やっぱり、セドリックの側は安心する。そのまま動こうとしないレイチェルに、セドリックが困惑したようにレイチェルを見下ろした。
「えっと……僕、これからクィディッチの練習だよ?」
「私も行く。……ダメ?」
「構わないけど……何かあった?」
誰かが通るとも限らない。誤解してからかわれるとセドリックが可哀想なので────と言うかレイチェルだって嫌だ────レイチェルはセドリックのローブを放した。心配そうに眉を下げるセドリックの顔をまじまじと見返して、レイチェルは小さく溜息を吐いた。
「慣れてないせいだわ」
「え?」
「……何でもない」
もしかしたら、自分はウッドのことが好きなんじゃないか。一瞬そう思いかけたけれど、たぶん……あの状況だったらウッドじゃなくたって────一緒に居たのがフレッドやジョージだったとしても、ああなったような気がする。あんな状況じゃ、誰だってドキドキしただろう。セドリックは別として。それに、ウッドは背も高いし、クィディッチも上手だし、女の子には人気がある。かっこいい。意識するなと言う方が無理な話だ。
「ああ、もう……私、本当…………馬鹿みたい」
レイチェルは両手で顔を覆って俯いた。恥ずかしい。恥ずかしいし、申し訳ない。セドリック以外の異性に、ほとんど耐性がないからああなるのだ。せっかくフィルチから助けてもらったのに────ウッドが居なければきっと、レイチェルは今頃フィルチの部屋に連行されてネチネチ嫌味を聞かされる羽目になっていただろう────ちゃんとお礼も言えなかったし、ウッドには申し訳ないことをしてしまった。きっと妙な子だなと思われただろうし、変に気を遣わせてしまっただろう。まだ数回しか会っていないのに、レイチェルのイメージはきっと妙な子で固定されてしまった。恥ずかしい。できるならさっきのレイチェルの記憶が忘却術で消えてほしい。「えっと……よくわからないけど、元気出して」
事情はわからないなりに、何かを察したらしいセドリックが頭を撫でてくれる。元気を出したいのは山々だけれど、レイチェルが今の記憶をさっぱり忘れてなかったことにしたところで、ウッドの頭の中には残っているのだから意味はない。レイチェルはじっとセドリックの顔を見つめて、首を傾げた。
「…………セド、忘却術使える?」
「え? いや……無理かな……」
「やっぱりそうよね……」
遠くからグリフィンドール寮生達の騒ぐ声が聞こえる。明日の試合に向けて、応援の垂れ幕でも作っているのだろう。
忘却術は無理にしても、どうかウッドが明日のクィディッチのことで頭が一杯になって、今日のことを忘れてくれますように。レイチェルは心からそう願った。