気がついたときにはもう朝になっていた。どうやら、考え事をしているうちに眠ってしまったらしい。昨夜から降り続けた雨は、相変わらず不規則に窓硝子を叩いている。指先に触れた白いシーツは、11月の冷たい空気を孕んでひんやりと湿っていた。何だかすっきりしない気分のままローブに袖を通し、ルームメイト達と一緒に大広間へと向かった。

「あそこにミセス・ノリスがぶら下がってたの!」

例の廊下を通りかかると、昨夜人垣の前の方に居たらしい1年生の女の子が興奮した様子で友人達にそう説明していた。その言葉にレイチェルもつられて視線を向けたが、当然ながら話題の中心の猫の姿は既にそこにはなかった。そのせいで、やっぱり今ひとつ現実味に欠けてしまう。
日当たりの悪い廊下は昼間でも薄暗く、隙間風に揺れる蝋燭の炎に壁の文字がテラテラと不気味に光っている。壁に魔法薬らしきものが入ったバケツとモップが立てかけてあるところを見ると、フィルチは既に文字を消そうと試みたものの、上手くいかなかったらしい。レイチェルは石造りの壁を見上げて溜息を吐いた。

「誰かの悪ふざけだとしたら……いくら何でも、酷すぎるわ」

確かにミセス・ノリスが生徒達からとても愛されている猫だと言えば嘘になるけれど────だからと言って、小さくて弱い生き物を標的にすると言うのはあまりに残酷だ。それに、あんな不安を煽るような文字を壁に残してみせるのも。レイチェルは首を捻って考え込んだ。

「『秘密の部屋』に『継承者』……どこかで聞いたことがあるような気はするんだけど……」
「ねえ、エリザベス! 貴方は知ってるんでしょ? また、いつもみたいにだんまりってわけ?」

青白い顔で俯いているエリザベスに、パメラがイライラと言った。まあまあとパメラを宥める。どうやら何か知っているらしいのに話してくれないエリザベスにはレイチェルも不可解さを覚えていたものの、昨晩からの彼女の神経質な様子から見て、何か理由があるのだろう。せっかく、昨日の夜はとても楽しかったのに────一夜にしてすっかりピリピリと張り詰めてしまった空気に、レイチェルはもう1度溜息を吐き出した。

「猫を石にするなんて!」
「でも、マンドレイク回復薬ができれば治せるんだろ?」
「そうだけど、ダンブルドアでも一体誰の仕業なのかわからなかったのよ?」

朝食の席でも、やはり話題はそれだった。昨日のパーティーの楽しげな談笑とは打って変わって、あちらこちらから聞こえてくるのは、不安げな溜息だったり、ゴシップを楽しむような響きを持った囁きだったり。仕方ないのかもしれないけれど、あまり居心地がいいとは言えない雰囲気だ。

「誰の仕業って……ハリー・ポッターじゃないの? だって、じゃなきゃどうしてせっかくのパーティーだって言うのにあんな場所に居たわけ?」

無責任な憶測だけが、噂話となって尾ひれをつけて1人歩きしていく。
きっとそうだ。いや、違う。ポッターがそんなことをするはずがない。ざわめき始めた周囲に、レイチェルはトーストを咀嚼しながら眉を顰めた。どうしてハリー・ポッターのこととなると、ホグワーツの人々は毎度こんなにも大騒ぎするのだろうか。寝不足に加え、朝っぱらから嫌いな人物の話題を耳にして、レイチェルの気分は落ち込んでいくばかりだった。
とは言え、レイチェルにも人並みの好奇心はあるのだ。事件の真相はやっぱり気になってしまう。

「それじゃあ、あなた達、ハロウィンパーティーには居なかったの?」
「ええ」

一体全体、どうしてあのタイミングであの廊下に居たのか────。その質問に対して返って来た答えは、レイチェルにとって予想外のものだった。ハーマイオニーは、ハリー・ポッター達と一緒にほとんど首なしニックの絶命日パーティーに出てたのだと言う。絶命日パーティーと言うからには、ゴースト達のイベントなのだと思い込んでいたけれど、どうやら生きた人間でも参加できるらしい。そのことにも驚いたけれど、同時に1つ疑問が浮かんだ。

「その……楽しかった?」
「……………とっても貴重な体験だったわ」

躊躇うような沈黙と複雑な表情に、レイチェルは、そうだろうなと納得した。ゴーストは食事をとれないのだから、生きた人間が満足するようなご馳走が出るとは思えない。それに、死んだ日を祝うのだから、きっと楽しくはしゃぐと言う雰囲気でもないのだろう。

「ああ、もう!」

ハーマイオニーがイライラと本を閉じた。テーブルの隅へ積み上げた本の塔は、今や彼女の頭の高さを超えようとしている。しかし、一向に欲しい情報は得られないのだから、歯がゆくなるのも当然だ。レイチェルの方もダメそうだと、読み終えた本を脇へと退けた。

「どこにも書いてない……やっぱり、ホグワーツの歴史じゃなきゃダメなんだわ」
「まさか、全部貸し出されちゃうなんて思わなかったわ」

「秘密の部屋について載っている本が読みたいんです」とマダム・ピンスに頼んでみたのだけれど、今朝から似たような生徒が大勢図書室に詰めかけたらしく、全て借りられてしまった後だった。秘密の部屋とは一体何なのか。エリザベスはどうやら知っているようだけれど、レイチェルに教えてくれそうな気配はない。他にも、午前の授業で一緒だったスリザリン生達も事情を知っていそうな様子だった。でも、こっちを見てヒソヒソと何か囁き合ったり、訳知り顔でニヤニヤするばかりで、詳しく教えてくれるわけではないので、イライラが募る一方だ。

「……私、今日はもうこの辺にしておくわ」

レイチェルは埃っぽい羊皮紙をパラパラと捲り、古い革表紙をパタリと閉じた。目も疲れてきたし、これ以上調べたところで成果はないだろう。レイチェルが椅子から立ち上がっても、ハーマイオニーは本へと視線を向けたままだった。まだもう少し続けるつもりなのだろう。
さて。考えなしにあちこちの棚から目ぼしい本を次々と引っ張り出してしまったせいで、腕の中の本は結構な量だ。足元がふらつく。手がつりそう。1度に無理矢理持ち上げるようとするんじゃなかった。そんな後悔をしつつヨロヨロと通路を進んでいると、ふいに腕の中の重量が減った。

レイチェル。大丈夫?」
「セド」

聞き慣れた幼馴染の声に、ホッと息を吐いた。レイチェル腕に積まれていた本の半分以上を軽々と取り上げたセドリックは、本の背表紙のラベルを確かめながら元の棚へと返していく。相変わらずの紳士ぶりだ。でも、今は素直に感謝だった。図書室の真ん中で派手に転んで注目を浴びるのは、できれば避けたい事態だ。

「すごい量だね」
「秘密の部屋について調べてたの。でも、収穫はゼロ。……悔しい。絶対読んだのに、ちっとも思い出せないんだもの」
「僕もだ。確かめようと思って来てみたら、全部借りられちゃってる」
「やっぱり考えることは皆同じね。私達は出遅れちゃったみたい」

苦笑するセドリックもやっぱり、レイチェル達と同じ目的で図書室に来たようだ。セドリックなら知っているかもしれないと思ったので少しガッカリしたが、それはセドリックも同じだったらしい。それからしばらく2人で話をしたけれど、結局は2人とも何も思い出せないままだった。秘密の部屋って一体、何だっただろう?

 

 

「じゃーん! 見て! 借りてきちゃった!」

セドリックと別れ、レイブンクロー寮へと戻ったレイチェルを迎えたのは、ルームメイトの得意げな笑顔だった。大変だったのよ、と胸を張るパメラの手には、古めかしい分厚い革表紙の本が握られている。表紙に書かれているタイトルは────『ホグワーツの歴史』。

「……貴方が持ってたの、パメラ……」

レイチェルはガックリと肩を落とした。ルームメイトが持っているとわかっていれば、図書室であんなにたくさんの本を探し回る必要も、本で手がつりそうになることもなかったのに。そんなレイチェルの様子を気にも留めず、パメラは鼻歌交じりにパラパラと索引を引き始めていた。レイチェルも興味があるので、その手元を肩越しに覗きこんだ。

「えっと……あった! これじゃない? 『秘密の部屋の伝説』……『スリザリンが学校を去る際、他の創設者達には知られていない、隠された部屋を作ったと言われている。スリザリンはその部屋を封印し、この学校に彼の真の継承者が現れるときまで、何人もその部屋を開けることができないようにした。その継承者のみが秘密の部屋の封印を解き、その中の恐怖を解き放ち……それを用いて、この学校から魔法を学ぶに相応しからざる者を追放すると言う。秘密の部屋がホグワーツ城のどこにあるのか。そして、隠された恐怖とは何であるのか。最高の学識ある魔女や魔法使いが探索を行ったが、その存在は未だ明らかにされていない。一説には、何らかの怪物であり、スリザリンの継承者のみが操ることができるとされている』」

パメラの音読を、レイチェルはそう言えばそんな話だったなあと頷きながら聞いていた。そして、そのコラムが書かれているページを見て、自分の記憶があやふやだった理由にも納得した。スリザリンや純血主義がどうこうと言うくだりはあまり興味がなかったせいで、軽く読み飛ばしていたのだろう。覚えていないはずだ。

「えっと……つまり……」
「秘密の部屋は、マグル生まれの生徒をホグワーツから排除することを目的に作られたものよ。継承者は、その意志を継ぐ者」

上品な溜息が背後から聞こえた。どうやら、いつの間にかエリザベスは部屋に戻ってきていたらしい。レイチェルは驚いたが、エリザベスは物憂げに瞼を伏せたまま、だから黙っていたのにとでも言いたげに静かに首を振っただけだった。

「つまり、あの壁の落書きが本当だとしたら、私みたいなマグル生まれの生徒が危ないってこと?」
「そうなるわ」

自分を指差して首を傾げてみせるパメラに、エリザベスがまた溜息を吐いた。エリザベス自身は純血主義でないとは言え、そう言った人達とも付き合いのある名家で育ったから、秘密の部屋の伝説について知っていたのだろう。あまり上機嫌には見えないエリザベスを刺激しないよう、レイチェルはおずおずと口を開いた。

「ねえ、エリザベス。でも……その、今時魔法使いなんて混血ばっかりだし……純血の方が、数が少ないくらいじゃない?」

確かに、両親のどちらもマグルだと言う生徒は今でも数が少ないけれど、純血の魔法使いだって減ってきている。ディゴリー家は魔法族の家系だけれど、セドリックの母方の曾祖父は確かマグル生まれだ。レイチェルは一応純血に入るだろうけれど、家系図できちんと遡れるのはせいぜい10代前までだ。自分は純血だなんて主張したとしても、マルフォイ家のような旧家には鼻で笑われてしまうだろう。1000年前のサラザール・スリザリンの時代ならともかく、マグルとの結婚も珍しくなくなった今の魔法界では、本当の意味での純血なんてほんの一握りだ。スリザリンが望んだように、今のホグワーツで純血の生徒以外を排除してしまったら、城は空っぽになってしまう。
スリザリンの継承者とやらの思想は時代錯誤と言うか、ちょっと無理があるんじゃないか首を傾げたレイチェルの言葉を、パメラが遮った。

「って言うか、誰が純血で誰がそうじゃないかなんて、私にはさっぱりよ! 私達の同級生だと誰が純血?」
「えっと……レイブンクローだと、私とレイチェル……それから、クロディーヌでしょう? あとは……」

指折り純血家系の生徒の名前を挙げていくエリザベスに、レイチェルは感心した。名字を聞いて魔法族の家系か、そうでないかの区別くらいならレイチェルにもつくけれど、その詳しい婚姻事情まではよくわかっていない。そもそも、初対面の人間に「あなたって純血なの?」なんて聞くのは、とても礼儀を欠いた行いだ。まあ、はっきり聞かなかったとしても、マグル生まれやマグルの世界で育った生徒は、言動から自然とわかってしまったりするものだけれど……。魔法族の名字を名乗っていて、魔法界で育った子供だったら、純血か混血かなんて言うのは本人から聞かない限りレイチェルにはわからないし、わざわざ聞く必要も感じない。エリザベスの唇が紡ぐ名前がスリザリン生のものへと変わったところで、パメラが怪訝そうに眉を寄せた。

「ん? ……待って、スリザリン生は全員純血なのよね? 違うの?」
「表向きは、そう思われがちだけれど……実際はそうでもないわ。半純血の人も居るし……勿論、他の寮に比べて純血の割合が高いことは事実だけれど……それに、例のあの人やグリンデルバルドや……色々あって、魔法界も混乱していたんですもの。魔法省もきちんと機能していなかったのに、暖炉の上に飾られたタペストリーで純血だと証明できたからと言って、本当にそれが真実なのか、公正に確かめる方法はないでしょう? 私だって、何十代か前の祖先が魔女だったかどうかなんて、本当のところはわからないわ」

困ったように眉を下げるエリザベスの言葉に、レイチェルの頭にスリザリンの生徒達の顔が浮かんだ。いつも、パメラをマグル生まれだからと馬鹿にするモンタギューやワリントン。自分達が純血だからと、それだけで周囲を見下している。彼らは、マグル生まれはホグワーツから出て行くべきだと思っていることは間違いない。思うだけじゃない。何度も口に出しているのを、レイチェルは自分の耳で聞いている。

「あーもう! 今時血筋で差別なんて、バッカじゃないの! 魔法界って、本当遅れてるんだから!」

疲れたようにそう言ってベッドに倒れ込んだパメラに、レイチェルはハッと思考の海から引き戻された。握り締めた手の平に、汗が滲んでいる。心臓の鼓動が奇妙なほどに早い。
サラザール・スリザリンが遺した秘密の部屋に、その意志を継ぐ継承者。ただ、伝説に乗っかって皆を怖がらせようとした、誰かの悪ふざけならいい。けれど、それだとミセス・ノリスがどうして石になってしまったのか、説明がつかない。生徒が悪戯でかけた魔法なら、ダンブルドアには簡単に解けるはずだ。だとしたら本当に、秘密の部屋の怪物が解き放たれたのだろうか? この学校のどこかに、サラザール・スリザリンの理想を実現すべきと考えている人間が居るのだろうか? マグル生まれは魔法を学ぶのに相応しくないと────どんな手段を使っても、マグル生まれを排除すべきだと考えている人間が。頭の中にドラコの顔が浮かんで、レイチェルは慌ててそれを振り払った。ドラコは確かに────確かに、ハーマイオニーに向かって『穢れた血』なんて言葉を使ったし、マグル生まれはホグワーツから出て行けばいいと思っているかもしれない。けれど────家族思いの優しいところもある。小さな猫を痛めつけて楽しむような、そんな残忍な人間ではない。少なくともレイチェルは、そう信じたい。

「……誰かの悪ふざけよ」

ぽつりと、呟く声は奇妙に弱々しくなってしまった。けれど、静まり返った部屋にはやけに響いた気がした。悪ふざけで猫は石になったりしない。生徒の悪戯なら、きっと先生達はあんなに取り乱したりしない。わかっていたけれど、そう思い込みたかった。言葉に出すことで、自分に言い聞かせたかった。

「秘密の部屋なんて、あるはずないわ。あったとしたら、きっと、ダンブルドアやマクゴナガル教授がとっくに見つけてるはずだもの」

────『次はお前達の番だぞ、穢れた血め!』
昨夜のドラコの言葉が、まだ耳に残っている。パメラやペネロピー、それにハーマイオニー。優しくて賢くて明るい、レイチェルの大好きな人達が、その出自だけが理由で危険な目に遭うかもしれないなんて思いたくない。あんな奇妙な事件が起こるのは、これきりだ。きっと、何事もなかったように、元の平和なホグワーツに戻る。そうだ。きっと、そうに違いない。

「私も、そう願ってるわ」

縋るように視線を向けると、エリザベスは静かに頷いた。困ったように微笑むその顔に、ほんの少し安心したけれど────それでも、やっぱり胸の中の不安は晴れない。セドリックやハーマイオニーに、何と伝えればいいだろうか。古臭くて馬鹿げた考えを持っている人が居るものねと、レイチェルはいつも通りに笑えるだろうか?

雨はまだ止まない。どうしてか、たまらなく不安だった。

翳る不安

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