夕闇が太陽を山の彼方へと押しやり、少しずつ空を塗り潰していく。ベルベットのような濃紺の上に点々と散りばめられた星が、宝石のように輝いていた。辺りがすっかり暗くなったせいで空飛ぶ車は見えなくなってしまったけれど、それでも生徒達の話題はそのことで持ちきりだった。実際問題、それくらいの大事件なのだ。マグルに見られていたとしたら、魔法省が動かなければいけないような事態なのだから。そして、汽車がホグワーツに到着する頃には「どうやらあの空飛ぶ車を運転しているのはハリー・ポッターとその友達らしい」と言う噂はすっかり広まっていた。誰も運転席の窓からハリー・ポッターの顔を見たわけじゃないし、あくまで憶測でしかない。とは言え、この場に居ないことが何よりの証拠だった。
久しぶりの制服に袖を通し、レイチェルは友人達と共にセストラルの引く馬車に乗り込んだ。正直なところ、何だかとても冷めた気持ちだった。何故って、ハリー・ポッターをヒーローのように────いや、まあ、確かに彼は魔法界を救った英雄だけれど────崇めてはしゃいでいる周囲のテンションについていけなかったからだ。そう言えば、去年こうやって馬車に乗ったときも似たような気分を味わっていたような気がする。もっとも、あのとき騒いでいたのは法律違反なんかじゃなかったから、そう言う意味では去年の方がずっとマシだったのかもしれない。
大広間に着いても、生徒達の興奮が冷めることはなかった。レイブンクローのテーブルに着席したレイチェルは、すっかり浮き足立っている生徒達の様子に小さく溜息を吐いた。
「去年は『ハリー・ポッターが居る!』って大騒ぎして、今年は『ハリー・ポッターが居ない!』で大騒ぎなの?」
各寮のテーブルの空席は少しずつ埋まってきている。けれど、グリフィンドールのテーブルにはやっぱり黒髪の痩せた少年の姿は見当たらない。扉が開いて誰かが入って来る度、中に居る生徒達はサッと視線を走らせて、その中に目当ての少年が居ないことにほんの少し落胆した後、期待に胸をときめかせる。つまり、やっぱり噂は本当なんじゃないか?と言うわけだ。魔法界の英雄は、居ても居なくてもどっちにしろ人々の注目を集めてしまうものらしい。
「だってすっごいじゃない? 誰も思いつきやしないわよ、あんなこと!」
「……たとえ思いついても、普通は本当にやろうなんて考えないだけじゃない?」
キラキラと目を輝かせるパメラに、レイチェルは無感動に返した。まあ、生徒のほぼ100%がホグワーツ特急に乗って登校する中で、別の方法を使ってドーンと登場すれば目立つし、ヒーロー扱いされるに決まっている。空飛ぶ車、なんて派手な方法なら尚更だ。だからって、実行に移すには普通二の足を踏むものだと思う。普通なら。
「エリザベスはどう思う?」
「私もあまり褒められた行為ではないと思うわ。とても危険で……とても、身勝手な振る舞いですもの。先生方がもうご存知なら、とても失望されたと思うわ」
「まあね! マクゴナガルなら50点くらいは軽ーく減点しそうよね。うちの寮じゃなくてよかった!」
「……まあ、グリフィンドールの人達はそれくらいの減点なんて何でもないって思ってるみたいだけど」
正直レイチェルもパメラと同様、やらかしたのが自分の寮の後輩じゃなくてよかったと思ってしまう。新学期早々、マイナスからスタートなんて遠慮したい。しかし、グリフィンドールのテーブルに視線を向けると、皆ハリー・ポッターの快挙に胸を躍らせ、そして同寮生として誇らしいと感じているようだった。少なくとも、怒ったり不機嫌な表情の人は──────居た。ハーマイオニーだ。それから、パーシー・ウィーズリー。けれど、寮の中でかなり少数派であることは間違いない。たぶんハリー・ポッターの姿を見たとしたら、「どうしてあんな危険な事を」とお説教したり心配したりするんじゃなく、「よくやった!」と背中を叩いて彼の冒険譚を聞きたがるのだろう。相変わらず、派手なことが好きな人達だ。
「ねえ、見て、レイチェル。……彼だわ」
エリザベスが声を潜めて、レイチェルの袖を引いた。エリザベスの視線の先にあるのは、教職員テーブルだった。スネイプ教授の隣────つまり防衛術の教授のための席────には蜂蜜色の髪をしたハンサムな魔法使いが座っている。黒ずくめのスネイプ教授の隣に居るせいで、派手な紫色のローブが余計派手に見えた。
「ああ、ロックハート教授ね」
そう言えば、エリザベスはロックハートのファンだった。前の方に座った女子生徒達が、彼にニッコリ笑いかけられて黄色い声を上げるのが聞こえた。少し残念そうな顔をするエリザベスは、もしかしたらあの席に座りたかったのだろうか。パメラはロックハートにはあまり興味がないらしく、まだ空っぽのゴブレットを鏡代わりにしてヘアスタイルを気にしていたのでレイチェルはこっそり胸を撫で下ろした。親友達2人ともがロックハートの追っかけになってしまったら、レイチェルだけ仲間はずれになってしまう。それはちょっと寂しい。
「あ、そうだ! 忘れてた。聞いて、2人とも! あのね、私、夏休みの間に……」
パメラが何か言いかけた時、バタンと重厚な音を立てて大広間の扉が再び開いた。マクゴナガル教授に引率されて、新入生達が入って来たところだった。結局、ハリー・ポッターはこの大広間には現れなかったのだ。ホグワーツきっての有名人の不在にざわめく生徒達の中で、今年もまた組み分け帽子が高らかに歌声を響かせる。組分けの儀式が始まった。
去年はハリー・ポッターがどこの寮に入るかで持ち切りだったけれど、今年の新入生の中には全校生徒の注目の的になるような有名人は特に居なかった。と言うか、魔法界をくまなく探したって「生き残った男の子」以上にインパクトのある新入生なんて居るはずもないのだ。そのせいで、周囲はやっぱりハリー・ポッターの話題でひそひそ盛り上がっていたが、レイチェルは組分けに集中することにした。
自分の名前を呼ばれると、新入生達は緊張した顔でスツールへと向かっていく。キビキビとした足取りだったり、おどおどと自信がなさそうだったり。小さな新入生達はとても可愛らしい。家名を聞いて「魔法族の子だな」とか、「純血家系の子だ」とか、「どこの寮の誰それの家族だ」とか、「知らない名前だからマグル出身かな」、とか。そんな風に思いながら、レイチェルは彼らの寮が決まるたびに拍手を贈った。驚いたことに、レイブンクローに組み分けられた女の子は、レイチェルのご近所さんだった。ラブグッド家は確か、丘の向こう側に住んでいたはずだ。ゼノフィリウス・ラブグッドが風変わりな人だと言うのは有名な話だけれど、やっぱり娘も少し変わっているらしい。彼女がつけている奇妙なイヤリングのせいか、視線を集めていた。ザ・クィブラーを愛読しているレイチェルとしては是非話してみたかったのだけれど、離れた席に座ってしまったので残念だ。
組分けは順調に進んでいき、とうとう最後の1人になった。今年もやっぱり、ラストを飾るのはウィーズリー家だ。一目でチャーリーやフレッドやジョージと兄妹だとわかる見事な赤毛の、可愛らしい女の子だった。そしてやっぱり彼女は、上級生の誰もが予想した通り、グリフィンドールに組み分けられた。これで、チャーリーも他の家族達も安心するだろう。
「それでは、新任の先生の紹介をしようかの」
ダンブルドアのその一言で、ロックハートがスッと立ち上がった。そうして、芝居がかった気取った様子でダンブルドアの席の前へと歩いて行く。派手だなあと思った紫色のローブは、どうやらレイチェルが考えていたより更に派手だった。裾のところに金色の星が散らばっていて、ロックハートがローブを翻す度に大広間の明かりを反射してチカチカと眩しく光った。
「皆さん、どうも、初めまして。ギルデロイ・ロックハートです」
白い歯を全て見せつけるようにして輝かしい笑顔を向けるロックハートに、女子生徒達の間からほうっと溜息が漏れた。レイチェルは母親の言葉を思い出した。『見せつける歯がないだけフロバーワームの方がマシ』────確かに、対談中ずっとあの調子だったとしたら、かなり鬱陶しいかもしれない。
マーリン勲章がどうだとか、チャーミングスマイル賞がどうだとか言う口上を、エリザベスはうっとりと聞いていた。が、正直レイチェルの耳にはあまり入って来なかった。確かにハンサムだけれど、そこまでキャーキャー騒ぐほどだろうか? あれなら─────
「なあにレイチェル、その顔。『セドの方がハンサムだわ』って?」
「違うわ」
ニヤニヤしながらパメラがからかってきたのでムッとして否定したけれど、実を言うとあまり違わなかった。あれなら、セドリックの方がハンサムなんじゃないかなと思った。まあ、単に好みの問題なんだろうけれど。それに、容姿で採用されたわけじゃないのだから、授業がきちんとしてさえすればそれでいいのだ。
「パメラはロックハート教授には興味ないの?」
「ハンサムは好きよ。でも私、ナルシストって無理なの」
「ロックハート教授は、ナルシストなんかじゃないわ。貴方達、先生がお話されているのよ。ちゃんと聞かないなんて失礼だわ」
ひそひそと会話するレイチェル達に、エリザベスがムッとして言い返して来た。「話じゃなくて自慢でしょ」と呟いたパメラは、エリザベスの睨みによって口を閉じた。エリザベスを怒らせると後が怖い。無駄話をやめたレイチェルとパメラだったが、あまり意味はなかった。大広間の中は、あちこちで囁き声が重なっていて、レイチェル達はその1つに過ぎなかったからだ。未だ演劇の一場面のごとく続いているロックハートの話を「貴重なお話」と感じるか「退屈な自慢話」と感じるかは、人によって意見が分かれるところのようだった。エリザベス、それに女子生徒の半分くらいは熱っぽい瞳でロックハートの輝く白い歯を見つめ、思慮深く相槌を打っていたけれど、レイチェルの斜め向かいに座っている1年生の男の子は疲れがドッと来てしまったのかこっくりこっくり船をこいでいたし、3つ隣に座っているロジャー・デイビースもあくびを噛み殺しながらスプーンをくるくる回して遊んでいる。他の寮のテーブルを見てみても、大体同じような感じだ。特に、スリザリンのテーブルは完全に白けていた。教職員テーブルに座るスネイプ教授は、今にも杖を取り出して呪いを放ちそうな形相だったし、マクゴナガル教授もこめかみが引きつっていた。小さく息を吐いていると、向かいのハッフルパフのテーブルに座るセドリックと目が合った。そっと肩を竦めるレイチェルに、セドリックも苦笑してみせる。この混沌とした空気の中でマイペースを保てるロックハートは、たぶんものすごく器が大きいか、ものすごく鈍感か、どちらかだろう。
たっぷり20分は話し続けていただろうか。ロックハートは芝居がかった様子で手を広げ、ようやく異例の長い自己紹介を終わらせた。
「皆さん、この私に防衛術を教わることができるなんて、とても幸運ですよ!」
そして、彼はやっぱりナルシストなんじゃないだろうか。そんな言葉で締めくくられた挨拶に首を傾げつつ、レイチェルは隣のエリザベスが熱心に拍手するのを見て口をつぐむことにした。何と言うか、とても不安だ。授業もこの調子なのだとしたら、レイチェルは意識を保っていられる自信がない。
「今年の防衛術、大丈夫かしら」
「何を言っているのレイチェル。彼の書いた本を読まなかったの? とても素晴らしいわ……」
エリザベスの唇から長い読書感想が語られようとしていたまさにそのとき、ポンと軽い音がした。そして同時に、とてもお腹の空くような匂いと光景が広がった。
ダンブルドアが一言(本当に、たった一言)だけ挨拶をして、ようやく遅い晩餐が始まった。汽車の中でサンドイッチを食べたきりだったので、レイチェルもパメラ達もお腹がペコペコだった。空っぽだった金のお皿の上には、ローストビーフにマッシュポテト、フィッシュ・アンド・チップス。ミートパイ、シェパーズパイやヨークシャー・プディングなど、ありとあらゆるご馳走が乗っている。ゴブレットには、かぼちゃジュースが並々と満たされていた。
「そう言えばパメラ、さっき何を言おうとしてたの?」
マカロニ・アンド・チーズをつつきながら、レイチェルはさっき組分けの儀式が始まる前にパメラが何か言いかけていたことを思い出した。レイチェルが尋ねると、パメラはよくぞ聞いてくれましたとばかりにニッコリ笑ってみせた。
「私ね、彼ができたの!」
「えっ? 彼って……え、こ、恋人ってこと?」
「当たり前でしょ!」
自分でも馬鹿な質問をしてしまったことに気がついて、レイチェルは頬を染めた。パメラは社交的だし、おしゃれだし、大人っぽい。親友だと言う贔屓目を抜いても魅力的な女の子だと思う。だから別に、恋人が出来ること自体はそんなに驚くことじゃないのかもしれない。しかしやっぱり、こういきなり言われたらびっくりしてしまう。
「私達の知ってる人?」
「知ってるわよ」
そう言ってパメラが教えてくれたのは、確かにレイチェルも名前を知っている人だった。この間卒業した、レイブンクローの監督生だ。あまり話したことはないけれど、ハンサムだったし、親切だった。そして確かに、パメラと仲が良かった。レイチェルが必死で情報を処理していると、エリザベスがハッとしたように口元を押さえた。
「もしかして……去年のバレンタインに貴方に贈り物してきたのも……?」
「当たり!」
パチンと指を鳴らすパメラにエリザベスは納得したらしく、また食事を再開した。それで、ハンサムなロックハートにも興味が薄かったのだろうかと、レイチェルもぼんやりと考えていた。意識を失っていると思ったのか、パメラがレイチェルの目の前でひらひらと手を振ってみせる。レイチェルがそれを止めると、パメラは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに驚くこと? だってもう私達、14歳よ? 彼氏の1人や2人や5人や6人居たって、別にそんなに不思議じゃないわよ!」
5人も6人も居るのは問題じゃないかと思ったが、確かに、パメラの言う通りかもしれない。恋人なんてまだまだ先だろうと思っていたけれど、思い返してみると、上級生でも早い人は3年生とか4年生から付き合っていたような気がする。まあ、パメラは元々皆よりちょっと大人びていたし、だから彼氏ができるのも人より早かった。それだけのことなのかもしれない。
「レイチェルにはセドリックが居るんだからいいじゃない。付き合っちゃえば?」
「だから言ってるでしょ。私とセドはそう言うんじゃないの」
ニヤニヤするパメラから、レイチェルはふいっと顔を背けた。何度言われたって、セドリックとレイチェルはそんな関係じゃないのだ。正直、今のパメラの話を聞いて羨ましいなと思わなくもなかったけれど、だからって別に今彼氏が欲しいかと言われたら答えはノーだ。恋人同士なんて、何をするかもよくわからない。
好きな人が居ないことを驚かれたりもするけれど、セドリックにだって居ないわけだし────セドリックが嘘を吐いているなら別だけれど────レイチェルだけが特別変わっていると言うことはないはずだ。だから、そんなに気にすることもないだろう。たぶん。
「何? 彼氏ができたって、誰に?」
「教えて教えて!」
どうやら、会話が聞こえていたらしい。周囲の同級生達もおしゃべりに加わり、レイチェル達のテーブルはわいわいと賑やかになる。大広間のそこかしこがそんな状況なので、声を張り上げなければ話をするのに苦労するほどだった。宴が終わるまで、大広間はそんな楽しげなざわめきに包まれていた。
そう言えば、ハリー・ポッターは結局どうなったのだろうか。レイチェルはちらりとグリフィンドールのテーブルへ視線を向けた。が、やっぱりハリー・ポッターの姿は見当たらない。レイチェルが見逃したのかもしれないけれど、それなら今頃他の生徒達は大騒ぎしているだろうから、やっぱり来ていないのだろう。面白半分だったのかもしれないけれど、もしかしたら何か事情があったのかもしれない。マクゴナガル教授は厳格だけれど優しいし、事情があればきっと退学にはならないだろう。
ペネロピーが監督生として新入生を引率する姿はやっぱりとても頼もしく、レイチェルは後輩として誇らしい気分だった。慣れ親しんだ談話室も階段も、たった2ヶ月離れていただけなのに何だか懐かしい。荷物を片付けるのも明日の用意も忘れて、レイチェルはすぐにふかふかのベッドへと身を沈めてしまった。今日1日だけで色々なことがあったせいで、すっかり疲れてしまった。枕へと耳を寄せると、すぐに眠気が襲って来た。
部屋の扉のプレートの数字はまた一つ増えた。レイチェル達ももう上級生の仲間入りだ。
今年もまた、たくさんの楽しいことがレイチェルを待ち受けているのだろう。