ホグワーツのふくろうは優秀だ。ルーマニアに居ても手紙が届く。
イギリスからはるばる海を越えてやって来た2羽のふくろうは長旅ですっかり疲弊していたけれど、それでもきちんとレイチェルとセドリックの分の教科書リストを配達してくれた。しかし、その内容がそのふくろう達の苦労に見合うものだったかと言うと、正直なところ微妙だった。
「ねえ見て、チャーリー。この教科書リスト、すごいわ」
最初に見たときは何かの間違いなんじゃないかと疑ってしまったけれど、何度確認してみても内容は同じだ。レイチェルはこの驚きを分かち合おうと、向かいの席でコーヒーカップを傾けているチャーリーに羊皮紙を差し出した。促されるがままにリストを覗きこんだチャーリーも、やっぱり驚いたように目を見開いた。
「ロックハートの本が7冊?」
「新しい防衛術の先生はロックハートのファンなのかしら。きっと魔女ね」
教科書リストには、今をときめく魔法界のスターの名前がずらりと並んでいる。教授が変わる以上、教科書も変わるのは仕方のないことだけれど、こうも毎年新しい本を揃えろと言われるとちょっとウンザリする。しかも、分厚いハードカバーの本が7冊もなんて。トランクが重くなるし、寮の部屋での置き場所にも困る。そもそも、1つの教科で7冊も用意しろだなんて初めてだ。
「たった1年間でこんなに必要だなんて、よっぽど1冊から学べるものが少ないのね」
ギルデロイ・ロックハートの著書はどれもベストセラーだ。実際、内容も面白い。けれど、ジャンルとしてはエッセイに分類されているはずなので、教科書に相応しいかどうかは微妙なところだろう。別に誰のファンだろうと自由なのだけれど、教科書としてこれを指定する闇の魔術の防衛術の先生のチョイスがちょっと不安だ。どうやら、今年の闇の魔術に対する防衛術は期待できないかもしれない……。レイチェルが溜息を吐いていると、チャーリーが「そう言えば」と何かを思い出したように言った。
「この間、ロックハートがホグワーツの防衛術の教授になったって新聞に出てたな」
「……そう言う大事な情報は、ちゃんと教えてほしかったわ」
「すごいわね。あのロックハートが教授になるなんて」
イギリスでは、きっと大ニュースになっていたに違いない。あの本を書いた本人の授業を受けられると言うのは、ちょっと楽しみだ。グールにトロール、バンシーにヴァンパイア。彼の冒険譚はとても素晴らしいものだ。本を面白くするために多少の脚色はあるかもしれないけれど、それを差し引いたとしても、彼の闇の魔術に対する経験値はかなりのものだろう。教授職なんて────もちろんホグワーツで教鞭を取ると言うのは大変な名誉らしいけれど────言ってみれば地味なポストに就くことは嫌がりそうなイメージだったので、ちょっと意外な気もするけれど。レイチェルがそんなことを考えながらトーストを齧っていると、チャーリーが不思議そうに首を傾げた。
「何だかいまひとつテンションが低いな」
「そう?」
「嬉しくないの? レイチェル達くらいの年なら、ファンも多いだろ?」
「まあね」
親友のエリザベスは確かロックハートのファンだった気がするし、他にも彼のファンはホグワーツ内に結構居るようだ。レイチェルも彼の本はエリザベスに借りて読んだ。本を閉じるたびに表紙の写真がウィンクを投げかけてくるのにはちょっと嫌だなと思ったけれど、内容はとても面白かった。しかしだ。
「ママはロックハートが大嫌い」
レイチェルは大きく溜息を吐いた。作家をしているレイチェルの母親は、同業者────彼に言わせれば作家ではなくアーティストらしいので厳密には同業者とは呼べないのかもしれないけれど────であるロックハートを毛嫌いしている。レイチェルがロックハートの本を所持していないのはそのせいだ。「雑誌の対談で会ったことがあるらしいの。でも、対談中ずっと自慢話とカメラに向かって自分の白い歯を輝かせることに夢中だったって。見せびらかす歯がない分だけ、フロバーワームの方がマシって言ってたわ」
もしもこの教科書リストの内容が母親に知られたら、機嫌が良くなると言うわけにはいかないだろう。ロックハートの著書が教科書で、しかもそう指定したのが本人だなんて。そして、ホグワーツの生徒の数だけ、彼の元に印税が入るだなんて。しかし、教科書なのだからレイチェルだって買わないと言う選択肢はない。教科書を買ったら、学校が始まるまでどこか母親の目のつかないところに隠した方が良さそうだ。
「レイチェル」
「何? チャーリー」
「俺達は、君とセドリックのお別れパーティーの予定をいつにすればいいんだい?」
ルーマニアでの生活を満喫しているうちに、いつの間にか教科書リストが届くような時期になってしまった。
そう、つまり、そろそろイギリスに帰らなければいけないと言うことだ。
3週間のルーマニア滞在は、レイチェルにとってとても楽しいものだった。
結局、レイチェルは最後までドラゴンの半径3メートル以内に近寄ることはなかったものの、研究所の人達はとても優しかったし、レイチェルとセドリックにまた来るよう何度も言ってくれた。セドリックなんて、卒業したらここで働けなんて言われていたくらいだ。最終日の夜には皆でお別れパーティーをしてくれて、ルーマニアの伝統的な料理が振る舞われた。すっかり自分の物のように感じていた机もベッドも、元通り片付けてしまうと何だか寂しかった。ホグワーツの1年の終わりとも似ていたけれど、ホグワーツとは違って、来年の夏になってもレイチェルはきっとここには戻って来ない。
夏休みが終わらなければいいのに。そんな風に思ったのは初めてかもしれない。いつもならエリザベスやパメラに会える新学期が待ち遠しかったけれど、今は研究所の人達と会えなくなってしまうことがとても寂しかった。
「チャーリーのおかげで、とっても楽しかったわ」
「それならよかった」
あるよく晴れた朝、行きと同じにチャーリーの案内で箒に乗って移動キー局へと向かい────今度はレイチェルが強く主張したおかげで行きと違って安全運転だった────レイチェル達は自分達の便が来るまでの間、チャーリーとの別れを惜しんだ。
「ホグワーツに行っても、手紙を送るわね」
「それは嬉しいね。セドリックもクィディッチ、頑張れよ」
「うん。いい報告ができるように頑張るよ」
「セドが活躍したら、試合の写真を送るわね」
「そりゃますます楽しみだな」
結局、セドリックは滞在中1日だってクィディッチの練習を欠かさなかった。しかも、あのチャーリー・ウィーズリーに練習を見てもらったなんて、これほど頼もしいことはない。今年のクィディッチ杯では、ハッフルパフはかなりいいところまでいくはずだ。いや、まあ、レイチェルにしてみれば、レイブンクローの上を行かれては困ると言う気持ちもあるので、複雑なところではあるのだけれど。
「レイチェル。1つ頼みごとがあるんだ」
時間があるから飲み物を買って来るとセドリックが席を外したので、レイチェルはチャーリーと2人きりになった。セドリックの姿がすっかり見えなくなるのを見計らったように、チャーリーが躊躇いがちに切り出した。頼みごと?とレイチェルが聞き返すと、複雑そうな顔で頷いてみせる。
「妹……ジニーを気にかけてやってほしいんだ。今年、ホグワーツ入学だって話はしただろ?」
チャーリーの言葉に、レイチェルは首を縦に振った。その話は確かに聞いていた。チャーリーとのおしゃべりのおかげで、滞在中にレイチェルはすっかりウィーズリー家について詳しくなっていた。話しぶりからして、どうやらチャーリーは本当に家族を大切に思っていること、そして、中でもたった1人の妹のジニーについては、年が離れているせいもあって随分可愛がっているらしいと言うことも伝わってきた。レイチェルのことを妹代わりにしようなんて言い出したのも、きっとジニーが遠くに居て会えない寂しさからなのだろう。
「ええ。構わないけど……チャーリー、私はレイブンクローよ」
ウィーズリー家の兄達は皆そうなのだから、ジニーはたぶんグリフィンドールに組み分けられるだろう。同じ寮でさえ、親しいと自信を持って言える下級生ってほんの一部だ。談話室も食事のテーブルも違う他寮の下級生となると、顔を合わせることすらほとんどないだろう。レイチェルが戸惑いがちに答えると、チャーリーは苦笑してみせた。
「わかってるよ。別に、四六時中世話を焼いてくれってわけじゃない。ただ、ジニーは男ばっかりの中で育ったから、女の子の友達と上手くやっていけるかも心配だし……何かあったとき、兄貴じゃ相談できないこともあるだろ? ジニーが困ってたら、ほんの少しでいいから助けてやってほしい」
「わかったわ」
兄として妹の心配をするチャーリーの気持ちはよくわかったので、レイチェルはこくりと頷いた。確かに、レイチェルが新入生だった頃を思い返してみると、ホグワーツへの入学は期待も大きい反面、不安も大きかった。授業や寮生活、友人関係。何もかも新しいことばかりだったからだ。寮が違うレイチェルにできることは少ないかもしれないけれど、できることならば助けになってあげたい。
「じゃあな、レイチェル」
ぎゅっと強く抱きしめられる。年上の男の人から────おじさんや父親はともかくとして────ハグされる機会なんてぁりないので、がっしりとした腕や胸に少し緊張する。でも、親愛の証のように感じて嬉しかった。まるで、本当のお兄さんみたいだ。頬に軽く落とされたキスに、レイチェルも同じようにキスを返す。
「ええ。『またね』、チャーリー」
たった3週間。けれど、もっと長い時間に感じた。だから、お別れがとても寂しい。胸の奥がツンとして、涙が滲んできそうになった。けれどそれを飲み込んで、レイチェルは笑顔を浮かべた。
これが最後じゃない。これが最後のお別れじゃない。会えなくたって、手紙を送り続ければいい。チャーリーはずっとルーマニアで働くつもりだと言っていた。だから、父親に会いに来ればまた会える。それが1年後なのか、5年後なのかはわからないけれど。でも、また会える。湿っぽいお別れなんて似合わない。
優しい兄に見送られて、レイチェル達は懐かしいイギリスへと帰った。
旅がどんなに楽しくても、結局は我が家が1番なのだ。
ストーツ・ヘッド・ヒルでクィディッチの練習をしたり、家の中で大人しく宿題をしたり、庭のテーブルセットで紅茶を淹れて、おばさんの焼いたスコーンを食べたり。そう言った単調な毎日は、ほんの少し退屈にも感じるけれど、やっぱりホッとする。
「やっぱりこれ、あんまり教科書って感じじゃないわ」
ロックハートの本をパラパラと捲りながら、レイチェルは溜息を吐いた。魔法生物への有効な対処法なんかも書いてあるけれど、ストーリー性が強いのもあってフィクションを読んでいるような感覚になる。凝った装丁の表紙をパタンと閉じると、トランクの中へとしまい直した。やっぱり、場所を取り過ぎる。ロックハートの本だけで、トランクの1/4は占められてしまう。念のためにおじさんに拡張呪文をかけてもらったのに。後でふくろうで送ってもらった方がいいだろうか? いや、本は重いから7冊もふくろうに運ばせるのは可哀想だ。特に、9月は今日みたいな雨の日も多いのだし。
「そう言えば、レイチェル」
「何? セド」
顔を顰めながら荷づくりを続けていると、同じく少し離れたところで荷づくりに集中していたセドリックが口を開いた。セドリックはどうやら、必要な荷物が全部トランクに収まったらしい。一体どうやって詰めたのかと不思議に思いながら、レイチェルは魔法史の教科書を空いたスペースに無理矢理押し込む。表紙が少し曲がった。
「別れ際、チャーリーと何を話してたんだい?」
「秘密。でも、別に大したことじゃないわ」
秘密にしてほしいと頼まれたわけじゃないけれど、わざわざセドリックが席を外したときに言われたと言うことは、たぶんそうした方がいいのだろう。それに、女の子特有の悩みがあったら力になってほしいと言うことだったから、セドリックに言ったところで仕方ないような気もする。ジニーには、兄は多すぎるほどに居るのだから。
「随分仲良くなったんだね」
ぽつりと呟いたセドリックの言葉に、レイチェルは思わず荷づくりの手を止めた。セドリックにしては珍しく、あまり感情の読みとれない声だった。トランクを押さえる手を緩めてしまったせいで、無理に詰められていたルーマニアのおみやげが弾け飛んでコロコロ床を転がって行く。
「……セドがドラゴンにラブコールを送るのに忙しいから、その分チャーリーが構ってくれてたんだもの。仲良くもなるわ」
レイチェルはセドリックの顔を見ないまま、素っ気なく返した。実際問題、チャーリーがレイチェルをあれこれと構ってくれなかったら、かなり暇だったことは間違いない。セドリックはいいだろう。クィディッチの練習にドラゴンの世話と、レイチェルが居なくたって毎日充実していたみたいだから。「……何か怒ってる?」
「怒る? どうして?」
別に────別に、セドリックがレイチェルを放ったらかしにしてドラゴンやクィディッチのことばかりだからって、怒ったりしない。だって、そんなの、ものすごく勝手な理由じゃないか。いつだってできるレイチェルとの会話より、あそこでしかできないチャーリーとのクィディッチやドラゴンの世話の方が魅力的に感じるのは当然のことだ。レイチェルだって退屈が嫌なら、ドラゴンの世話をさせてもらうことだってできた。怒ったりなんて、していない。怒ってない。ただ────
「ただ、ちょっと……ちょっとだけ、寂しかっただけよ」
ホグワーツなら、仕方ない。だって、セドリックとレイチェルは寮が違うから。だから、一緒に居られる時間が少ないのは当然のことだ。でも、今はホグワーツじゃなくて、夏休みなのに。それなのに、セドリックと食事はおろか、ちょっとした会話すらもできないなんて。1日のうち、ほとんど顔も合わせないなんて。そんなのって、少し────とても、寂しい。
「……ごめん、セド。今のなし。忘れて」
レイチェルは顔を覆って俯いた。何だか、ものすごく恥ずかしいことを言ってしまったような気がする。構ってくれなくて寂しいなんて、小さな子供じゃあるまいし。頬に熱が集まってきているのがわかる。忘却術が使えたとしたら、今のやりとりをなかったことにしてしまいたいくらいだ。「……僕も」
何事もなかったことにして再び荷づくりへと精を出し始めたレイチェルの背中に、セドリックが小さく呟く。
「僕も、レイチェルとチャーリーが2人で仲良くしてると、少し寂しかった」
しん、と沈黙が落ちる。気まずさがあたりに満ちていた。今のは忘れてって言ったのにとか、放ったらかしにしたのはセドリックなのにその言い分は勝手だとか、言いたいことは色々あった。けれど、レイチェルはギュッと唇を結んで飲み込んだ。ふうと1回大きく深呼吸をして、どうにかこうにか荷物を詰め終わったトランクをポンポンと叩く。
「……今年の夏休みはとっても楽しかったわ」
「そうだね」
「雨も止んだみたいだし、午後からはクィディッチの練習に行きましょ」
やっぱりセドリックも恥ずかしかったのか、レイチェルのあからさまな話題転換に同調してくれた。どうやら、いつの間にか雨は上がったらしい。窓の向こうの空は美しく澄み渡り、庭の林檎の木の葉は雨粒が反射してキラキラと輝いている。
夏休みもあと少し。新学期が始まる日を待つばかりだ。