車が空を飛んでいる。
1回。2回。3回。見間違いじゃないかと瞬きをしてみたけれど、やっぱり窓の向こうに見える光景は何も変わらなかった。瞼を擦ってみても、やっぱり同じだ。ハチミツ色に染まった朝の空に、トルコ石色の小さな車が浮かんでいる。そう言えば、先日買ったマグルの絵本にこんな挿絵があったなと、レイチェルはぼんやりそんなことを思った。まあ、あの絵本で空を飛んだのは自動車ではなく、不思議な馬車だったけれど。何にせよ、マグルの目から見ればとても奇妙なことだと言うのは間違いないだろう。つまり、魔法だ。
一体、誰の仕業だろう。この辺りに住んでいる魔法族と言えば、レイチェルグラント家。お隣さんのディゴリー家。少し離れたところにフォーセット家。ラブグッド家。村の反対側にウィーズリー家────ここまで考えて、レイチェルは溜息を吐いた。フレッドとジョージの仕業だろう。たぶん、きっと、間違いなく。

「『何とかする』って、こう言うこと?」

レイチェルは2人から届いた手紙の文面を思い出して、小さく呟いた。まさか、こんな無茶なことをするなんて────ありえない。信じられない。しかし、あの双子に対してこの感想を抱くのは初めてではない。彼らがレイチェルがギョッとするような悪戯をやらかすのは、今に始まったことじゃないから。慣れてしまったせいか、怒りよりも呆れの方が強い。夏休みの間くらい、悪戯を控えて大人しく過ごすのって、そんなに難しいことだろうか?
レイチェルは歯を磨く手を止めて、窓際を離れた。時計の短針はちょうど6を過ぎたばかりだ。この時間なら、オッタリー・セント・キャッチポールに住むマグル達もまだ寝静まっているだろう。レイチェルだって、いつもならまだ眠っている時間だ。フレッドとジョージって、つくづく要領がいいと言うか、ずる賢いと言うか……。そんな釈然としない気持ちを抱えつつレイチェルが身支度を整えていると、玄関ドアが開いた。

レイチェル。おはよう、準備はできた?」
「おはよう、セド。たった今、ばっちり目が覚めたところよ」

ドアの向こう側から顔を覗かせたセドリックに、レイチェルは苦笑してみせた。さっきまであんなに眠かったのが嘘みたいだ。まあ、あんな奇妙な光景を目にしたら、レイチェルじゃなくたって覚醒するだろう。

「トランクは?」
「ソファの脇。ちょっと待ってて、持って来るから」
「いいよ、僕が運ぶから。そこで待ってて」

レイチェル達がこんな朝早くから起き出しているのには、理由があった。今日はとうとう、ルーマニアへ出発する日だからだ。これから約2週間、レイチェルの父親の勤め先であるルーマニアのドラゴン研究所に滞在することになっている。一応の目的は父親に会いに行くことなのだけれど、たぶん仕事が忙しくてそれほど一緒に過ごす時間が取れないだろうことは予想がついているので、実態は海外旅行か短期留学に近いかもしれない。レイチェルもセドリックも、この日を楽しみに準備をしてきた。準備と言うのはつまり、少しでも向こうに持って行く荷物────つまり夏休みの課題────を減らすことだったので、それ自体はあまり楽しくはなかったけれど。
セドリックがトランクを運び出してくれているのを見ながら、レイチェルはもう1度窓の外へと視線を向けた。しかし、空飛ぶ車の姿はもうなかった。硝子の向こうに広がっているのは、いつものオッタリ―・セント・キャッチポールの平和な朝だ。

「ねえ、セド。さっきの車、見た?」
「車?」
「……ううん、何でもないの。気にしないで」

不思議そうな顔をするセドリックに、レイチェルは静かに首を横に振った。
車が空を飛んでいました、なんて。レイチェルがもし誰かにそう言われたとしたら、寝惚けていたんじゃないかと思う。きっと、レイチェルと同じようにあの光景を目撃したマグルが居たとしても、自分の見間違いだと思うはずだ。フレッドとジョージは、きっとその辺りも計算済みなのだろう。
それにしても、普通に魔法を使ったとしたらハリー・ポッターみたいに警告状が届くはずなのに、あの双子は一体どんな方法を使ったのだろう。もしかして、レイチェルが知らないだけで、魔法界には空飛ぶ車が流通しているのだろうか? いや、でも確かマグル製品に魔法をかけるのは法律で禁止されていたはずだ。

「じゃあ、そろそろ出かけようか」
「……え、あ、うん。そうね。トランクありがとう、セド」

そんなレイチェルの思考は、セドリックの言葉によって引き戻された。
重いトランクを引きずって向かう先は、オッタリー・セント・キャッチポール────ではない。ロンドンの町でもない。ディゴリー家の暖炉だ。

「おはよう、おばさん」

ディゴリー家の朝はいつも、焼き立てのパンや紅茶なんかの素敵な香りが漂っている。トランクがドアに引っ掛からないよう気をつけながら中に入ると、キッチンで洗い物をしていたおばさんが慌てた様子でこちらへ駆け寄って来た。

「おはよう、レイチェル。忘れ物はない? 知らない人に付いて行かないように気を付けるのよ」

そして早口でまくし立てるので、レイチェルは目を白黒させた。おばさんは心配そうにレイチェルを見つめ、ギュッと抱きしめる。レイチェル達はルーマニアが楽しみで浮かれていたけれど、おばさんはここのところずっとこうだった。セドリックとレイチェルだけで遠出すると言うのは初めてだからだ。しかもいきなり行き先が外国なので、おばさんが不安に思うのも無理はないのかもしれない。レイチェルがおばさんの質問に1つ1つ答えていると、セドリックが呆れたように溜息を吐いた。

「母さん、心配し過ぎだよ。僕もついてるんだから。それに、向こうに付いたらおじさんだって居るんだし」
「ええ。そうね……そうだけれど……でも行きと帰りは貴方達だけだし、心配で……」
「母さん」

セドリックの制止に、ようやくおばさんはレイチェルを解放した。名残惜しそうにレイチェルの頬にキスをしてくれたので、レイチェルもキスを返す。セドリックはちょっとウンザリしているみたいだけれど────たぶん今朝も似たようなやり取りが何度もあったのだろう────こんな風に心配されるのって、悪い気分じゃない。むしろ、ちょっとくすぐったい。
しかし、あまりグズグズしていると出発が予定より遅れてしまう。そのままリビングを横切って目的の暖炉へ向かうと、レイチェルも見慣れているはずのそれは、いつもと様子が違っていた。

「今朝仕事に行く前に、父さんが暖炉を広げてくれたんだ。トランクが運べるように」

なるほど。確かにセドリックの言葉通り、暖炉がいつもよりも縦にも横にも押し広げられている。これなら、多少窮屈だけれどレイチェルとトランクが入るくらいのスペースはありそうだ。燃え盛る炎を見下ろして、レイチェルはセドリックを振り向いた。

「じゃあ、セド。私が先に行くわね」
「うん。僕もすぐに行くよ」

パチパチと爆ぜる炎の中に、レイチェルは煙突飛行粉をひとつまみ投げ入れた。炎の色が鮮やかなエメラルドグリーンへと変わり、目線の高さまで上がってくる。ムッとするような熱さを肌に感じながら、レイチェルは重いトランクを何とか持ちあげて、暖炉の中へと飛び込んだ。

「いってらっしゃいレイチェル。パパによろしくね」

おばさんのそんな声と笑顔に送られて、レイチェルはオッタリ―・セント・キャッチポールを後にした。

 

 

 

魔法使いの移動手段と言えば、代表的な物は4つあり、いずれも魔法省の運輸部によって管理されている。
1つ目は姿現しだ。保護呪文のかかっていない場所ならば、身一つでどこへでも行くことができる。ただし、非常に高度な魔法なので誰でも習得できるわけではない上に、「ばらけ」などの危険性から使用には免許が必要とされている。この免許を取得するための試験は17歳以上でなければ受験できないので、まだ14歳のレイチェルとセドリックには無理だ。
2つ目は箒だ。1番手軽で、そして年齢による制限もなし。レイチェル達にとっても慣れ親しんだ方法だ。しかし、マグルに見つからないようにするためにはかなり上空を飛ぶ必要があるので、気圧や気温の関係であまり長距離の移動には向かない。加えて、他の移動手段に比べて時間もかかってしまう。
3つ目は煙突飛行粉。ネットワークに組み込まれている暖炉なら、door to doorならぬstove to stoveでどこでも行けるので、とても重宝されている。が、魔法省の煙突飛行ネットワーク委員会の管理下にあるので、原則として外国の暖炉と繋げることは不可能だ。その使用はイギリス国内に限られる。
よって、レイチェル達のような未成年の魔法使いが合法的かつ安全に、瞬時に国外へ出ようと思った場合、4つ目の移動キーを使う必要がある。

「16番ゲートらしいわ」

トランクを引きずりながら、レイチェルはチケットを裏返した。移動キー局が管理しているこの施設は、とにかく広い。そこかしこの柱や壁には色とりどりの案内板が掲げられていて、等間隔に設置されたゲートには世界の様々な地名が行き先として表示されている。あっちはニューヨーク行き。こっちは上海行き。チベット行き。南極行きなんて表示まである。

「少し急いだ方が良いかもしれないね。出発は10時45分だっけ?」
「そう。手続きに時間がかかるとは聞いてたけど……潔白検査棒で調べられるのって、あんまりいい気分じゃないわ」

さっきまでの『出国手続き』を思い出して、レイチェルは眉を寄せた。安全のためだと言うのはわかるけれど、自分の持ち物を疑って調べられるのは、あまり楽しいとは言えない。パメラによれば、マグルの飛行機に乗るときはもっと大変らしいけれど、いくら何でも移動の時間より検査の時間の方が長いなんてことはないだろう。

「早く姿現しを覚えたい」

レイチェルは小さく溜息を吐いた。こんな面倒な手続きも、姿現しが使えれば必要ないのに。箒での移動に比べれば、移動キーは格段に時間がかからないし、楽なことは間違いない。けれど、それでもやっぱり姿現しには劣る。いつでも、どこでも、誰の許可も必要なく、好きなところに行ける姿現しはやっぱりとても魅力的だ。
アーチ状になっているゲートをくぐって中へと入ると、そこは真っ白なガランとした部屋だった。天井近くには掲示板が設置されていて、目的地と時間を示した金色の文字が踊っている。部屋の端から端までは、チケットの色と同じ水色のロープが2本張られていた。このロープが移動キーなのだろう。

「右側のロープに掴まって。トランクは左側のロープに」

濃紺のローブを着た魔法使いがキビキビと言った。周りを見回してみると、ビジネス魔ンらしい男性が、金色のリングでトランクとロープを繋いでいる。ゲートのところで配られたものだ。レイチェルも見よう見まねでトランクと格闘していると、リンリンと鐘が鳴り響いてアナウンスの魔女がにっこり笑った。

「10時45分発、ルーマニア行き。間もなく出発いたします。皆様、お手元のロープにお体、お荷物はしっかり触れていますでしょうか?当局の移動キーは指1本でも正常に動作いたしますが、念のため手のひらでしっかり握っておくことをお勧めしております。小さなお子様をお連れの場合は、ご本人の体がロープに触れているか保護者の方が確認をお願いいたします。折角の楽しい家族旅行、お1人だけイギリスに置き去りにされないようお気をつけください。また、途中でロープから手を離してしまった場合、目的地に辿りつけない場合がございますので最後までしっかりと握って頂くようお願いいたします。なお、お客様の都合で移動が失敗してしまった場合のチケットの払い戻しは致しかねますのでご了承ください」

その言葉に、レイチェルはまず自分のトランクがきちんとロープにぶら下がっているのを確認し、それから自分の手を見下ろした。大丈夫、問題ない。レイチェルはホッと胸を撫で下ろした。せっかくの機会なのに、セドリックとレイチェルの荷物だけがルーマニアに届いて、レイチェルの体はここに置き去りなんて言うのはあまりにも悲しすぎる。

「それでは皆様、よい旅を。3、2、1……」

明るいカウントダウンの声に合わせるかのように、ロープが青白く光り出した。レイチェルはギュッとロープをきつく握りこむ。瞬間、世界が反転した。
移動キーでの旅行はほとんど一瞬で終わる。それはレイチェルも知っていた。けれど実際には、とてつもなく長い時間に思えた。最初に、グイッと体の中心が強く引っ張られるような感覚。それから視界が高速で回転して、平衡感覚がめちゃめちゃになる。視界の端で隣り合ったトランクがぶつかり合っているのが見えた。色とりどりの渦に気分が悪くなりそうな中、レイチェルはどうにかロープに掴まっていなければと必死だった。
やがて、回転が少しずつ緩やかになった。渦が消えて、知らない景色が現れる。少しずつ高度も下がって、両足がようやく地面の感覚を捉えた。煙突飛行にも似ているけれど、ごうごうと風が吹くところ、足が地についていないせいで体が前後に揺さぶられるところが────そう、つまり、酔った。

「大丈夫? レイチェル
「あんまり大丈夫じゃないわ……」

セドリックは平気そうだったけれど────と言うか、表情からしてむしろ移動キーでの旅を楽しむ余裕すらあったようだけれど────レイチェルは空いた片手で口元を押さえてその場に膝を突いた。ロープに吊るされたトランクが、振動の余韻でガチャガチャ揺れている。辺りから聞こえてくるのは、ルーマニア語だろうか。とりあえず目的地には着いたらしいけれど、とにかく気分は最悪だった。

「えっと……これからどうしたらいいのかな」

うずくまったままのレイチェルの背中をセドリックが擦ってくれるのはありがたかったけれど、いつまでもここでじっとしているわけにもいかない。せり上がって来る吐き気をこらえながら、レイチェルは何とか言葉を絞り出した。

「パパが……自分は行けないから、誰か、代わりに迎えに行ってくれるように頼むって……」
「わかった。じゃあ、その人を探そう。ここで待ってて。何か冷たいものでも買って来るよ」

近くにあった椅子へレイチェルを座らせて、セドリックは販売ワゴンへと走って行く。その足音が遠ざかって行くのを聞きながら、レイチェルはぼんやり床のタイルの模様を見つめていた。まだ世界が回転しているような気がする。
どうして、セドリックは平気なんだろう。やっぱり、普段からクィディッチの練習でぐるぐる回転したり急降下したりしているからだろうか? そんなことを考えていると、また足音が近づいてきた。どうやらセドリックが戻ってきたらしい。

「えっと……違ったらごめん。君がレイチェルレイチェルグラント?」

セドリックじゃなかった。知らない声だ。よく見てみれば、足元のスニーカーもセドリックのものじゃない。
急に話しかけられて驚いたけれど、英語で話しかけられた上にレイチェルの名前を知っていると言うことは、父親が言っていた迎えの人だろう。こちらから探そうにも手掛かりがないし、向こうから気づいてくれてよかった。レイチェルはホッと息を吐いた。

「ええ、そうです。貴方は……」

床に縫い止められたままだった視線をゆるゆると上げる。目の前に居る相手の名前を尋ねようとしたはずだったレイチェルは、気分が悪いのも忘れて「あっ」と声を上げそうになった。何故って、今向かい合っている人物の顔には見覚えがあったからだ。日焼けした肌に、褐色の瞳。何より、一目見たら忘れない燃えるような赤毛。

「君のパパの同僚の、チャーリー・ウィーズリーだ。ようこそ、ルーマニアへ」

少年のような人懐っこい笑顔がレイチェルに向けられている。レモネードを片手に戻ってきたセドリックも、驚いた顔で固まっていた。無理もない。

卒業した今でもホグワーツ生の間で語られる、伝説のシーカーがそこに居た。

空飛ぶ車と移動キー

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