「感動だわ」
目の前を通り過ぎていく赤いダブルデッカーを視線で追いながら、レイチェルは熱っぽく呟いた。
黒と白のコントラストが印象的な、アスファルトで舗装された道路。チカチカ点滅する信号機。忙しく行きかうスーツ姿の人々。鳴り響くクラクション。エトセトラ、エトセトラ。ロンドンの真ん中、チャリングクロス通りには、レイチェルの夢見ていた通りの光景が広がっていた。正確に言えば、教科書の写真で見た通りの、だ。漏れ鍋からほんの少し踏み出しただけなのに、街並みが何もかも違って見える。ほうっと息をついて、レイチェルは横に立つ友人の手をぎゅっと握り締めた。
「ああ、ペニー。本当にありがとう。私、とっても嬉しい……!」
「大げさね、レイチェル」
「大げさなんかじゃないわ!」
ペニーはクスクス笑ってみせたけれど、レイチェルはいたって真剣だった。のどかなオッタリー・セント・キャッチポールでこそ、ちょっと足を伸ばしてみようと考えるレイチェルでさえ、さすがにロンドンの街に1人で行くように言われたらさすがに躊躇ってしまう。マグルの町なんて、レイチェルにとっては外国とほとんど変わらない。現に今、目の前に広がっている光景はレイチェルにとっては珍しいものばかりだ。
「ペニーが連れてきてくれなかったら、絶対今ここには来れてなかったもの。ね、セド」
「そうだね」
「そう? そんなに喜んでもらえたなら、私も嬉しいわ」
「じゃあ、行きましょうか。えっと……そんなに大きな本屋じゃなくていいのよね?」
どうして生粋の魔法界育ちのレイチェル達がマグルひしめく大都会ロンドンへ繰り出しているかと言えば、その理由はレイチェル達の夏休みの課題にあった。マグル学で教鞭を取っているチャリティ・バーベッジ教授の出したレポート課題は、『マグルの童話を比較し、その中で描かれている魔女像について考察せよ』と言うものだった。つまり、まずマグルの童話を手に入れなければ課題ができない。ホグワーツの図書室にもいくつかはマグルの童話が置いてあるし、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店にも頼めば入荷してもらえる。しかし、せっかくならマグルの本屋で買いたいと言うのがレイチェルの希望だった。
とは言え、小さなマグルの村に行くことすら心配しているおじさんが、ロンドンの街に行くことなんて許してくれるはずがない。そこで、許可をもらうためにマグル生まれのパメラに同行してもらうつもりだったのだけれど、夏の間はずっと国外に出ているから無理だと断られてしまった。もう1人の親友のエリザベスは魔法界の名家の生まれなので、マグルの町を歩くにはレイチェル以上に頼りにならない。休暇前、談話室でガッカリと肩を落としていたレイチェルに、やり取りが聞こえていたペネロピーが声をかけてくれたのだった。
「グリム童話や、えっと、アン……アンデルセン童話が手に入るかしら?」
「……それは売ってない本屋を探すほうが難しいわね、きっと」
不安になってレイチェルが尋ねると、ペニーは困ったように苦笑してみせた。マグル界の本屋のラインナップ事情についてはよくわからないレイチェルは、そう言うものなのかと納得した。歩き出したペネロピーとはぐれないようその後を追いながら、キョロキョロと辺りを見回す。
「本屋さんがたくさんあるのね。マグ……えっと、読書好きな人が多いの?」
「この辺りは特別よ。あ、ほら、見えるでしょ? あの本屋さんは、イギリスで一番大きいの。でも、何て言うかちょっと変わってて……買い物の仕方が難しいから、今日はやめときましょ」
通りの向こう側にある大きな建物を指して、ペネロピーがそう説明する。
今日の待ち合わせ場所でもあった漏れ鍋が位置するのはチャリング・クロス。ペネロピーによると、マグルの間では有名な古書街であり、古くから続く本屋さんがたくさんあるらしい。店先に積まれている本は、当然レイチェルには馴染みのないタイトルばかりだ。マグルの間でヒットしている本って、一体どんな内容なのだろう。どれもこれも魅力的で、気になってしまう。美術の本を専門に扱っているらしい書店には、レイチェルの見たことのない────レイチェルが知らないだけでもしかしたらマグル界では著名な作品なのかもしれないけれど────綺麗な絵や彫刻の表紙の本がたくさん並んでいて、レイチェルはうっとりした。あの淡い色合いの睡蓮の絵なんて、バスルームに飾ったらきっと素敵だ。
「……あっ、ごめんなさい」
「レイチェル、余所見してたら危ないよ」
「だって……面白いものがたくさんあるんだもの」
そんな風にあちこちを見ながら歩いていたせいで、レイチェルは急ぎ足のマグルの男性とぶつかった。後ろへとバランスを崩したところを、セドリックが支えてくれる。ばつの悪い思いをしながら言い訳を口にするレイチェルに、ペネロピーがクスクス笑ってみせた。
「レイチェルもセドリックも、えっと……あー、ロンドンのこっち側に来るのは初めてなの?」
「初めてよ。2年生の夏休みにパメラの家に泊まりに行ったことはあるんだけど、ロンドンには来なかったから。キングズクロスまでの道しか歩いたことないわ」
本当は「マグルの町」と言いたかったのだろう。周囲を気にして言葉を濁して尋ねるペネロピーに、レイチェルはこっくり頷いた。
長期休暇の始めと終わりには、キングズクロスから漏れ鍋まで歩くこともある。けれど、重たいトランクを引きずっているからあまりのんびり眺めるのは難しい。寄り道もできない。だから、今日のロンドン訪問はレイチェルにとって初めてのマグルの街の観光と言っても過言ではない。だからそう、しっかりこの目に焼き付けておかなければならないのだ。
「あっ、ごめんなさい……」
そしてまた、今度は優しそうな女性にぶつかってしまったレイチェルに、セドリックが溜息を吐いた。レイチェルは気まずくなって視線を逸らす。呆れられたのかもしれない。さっきはペネロピーとセドリックが角を曲がったのに気づかずに、そのまま1人だけ別の道に行ってしまうところだったし。しょんぼりと肩を落とすレイチェルに、セドリックは手を差し出した。
「レイチェル。僕に掴まって」
「平気よ。1人で歩けるわ。今度こそ気をつけるから」
「そうしたら? レイチェル。はぐれないように、手を繋いでおいた方が安心だと思うわ」
「ペニーまで私を子供扱いする……!」
迷子にならないよう手を繋がなきゃいけないなんて、小さな子供みたいで恥ずかしい。確かに余所見していたのはレイチェルが悪かったけれど、こうも何度もぶつかってしまうのは、そもそも人通りが多すぎるせいだ。ダイアゴン横丁でも、ホグズミードでも、こんな風に人でごった返していないし、第一こんなにせかせか歩いてる人なんて少ない。ぶつかったのはレイチェルのせいばかりじゃないと思う。
「ほら、レイチェル。もしも迷子になったら、もう2度と家に帰れないかもしれないよ」
セドリックの言葉に、レイチェルは言葉に詰まった。確かに、もしも迷子になったらレイチェルはとても困ったことになる。せっかくマグルの街に行くのに杖なんて持ってきていないから、助けを呼ぶこともできない。余所見ばかりしていたせいで道順なんて覚えていない。もしも漏れ鍋まで辿り着けなければ、レイチェルはマグルの街中に1人置き去りにされてしまう。渋々セドリックと手を繋いだら、この間のオッタリー・セント・キャッチポールでの一件を思い出してしまってちょっとテンションが下がったレイチェルだったが、目的地の本屋に着くとすぐに機嫌を直すことになった。
「なんて素敵なの」
そんなに大きな本屋じゃないと言っていたが、ペネロピーが連れてきてくれた書店はレイチェルの期待していたよりもずっと広かったし、たくさんの童話や絵本が置いてあった。それだけでなく、店の中には文房具なんかも売られていた。カラフルな表紙のノートやメモパッド、綺麗な写真や可愛いイラストのポストカード。レイチェルはペンの試し書きを何種類も試してみた。やっぱり羽ペンと羊皮紙よりもずっと書き心地が滑らかだし、いちいちインクにつけなくていいのはとても便利だ。
「マグルってすごい」
どれもこれも欲しくなってしまうけれど、気に入ったものを全て買ったとしたら、きっとレイチェルはグリンゴッツの自分の金庫を空っぽにしてしまうだろう。店の中のものを散々観察したり触ってみたりした結果、キラキラ光るラメ入りのサファイアブルーのインクのボールペンと、動かない写真のポストカードを数枚買った。ポストカードだったら、ホグワーツに行ったときも自分のベッドの周りに飾れるだろうと思ったからだ。
子供向けの絵本を山ほどレジに積み上げたレイチェルにマグルの店員は一瞬面食らった顔をしたが、すぐに気を取り直して笑顔を浮かべてくれた。ピッピッと機械的な音と共に清算が行われていく。そっとカウンターの内側を覗き込んでみると、数字の書かれたボタンがたくさん並んだ機械を使って、本の値段を読み込んでいるようだった。あの白黒の縞々模様だけで何がわかるのだろう。それに、こんな複雑そうな機械を操るなんて、マグルの店員ってきっとすごく頭が良いに違いない。レイチェルはにこやかに笑う青年を尊敬の眼差しで見つめた。
「187ポンドと92ペンスです」
その言葉に、レイチェルは鞄の中から財布を取り出した。行きにグリンゴッツで両替したときにペネロピーが貸してくれた、紙のお金を入れるところが付いているマグルの財布だ。去年のマグル学で覚えたけれど、魔法界のお金は3種類しかないのに比べて、マグルのお金はたくさん種類があってかなり複雑だ。
「そのピンクのお札と……そう、それ。後はその金色の大きいコインと……」
店員に聞こえないよう、ペネロピーが耳打ちしてくれる。本当は、お金を数えるところまで自分1人でやってみたかったけれど、モタモタして待たせてしまうのは申し訳ない。ガリオン金貨だといくらくらいなのだろうかと考えながら、レイチェルはペラペラの紙幣をカウンターの上に置いた。自分がマグルの街で、マグルの店員から、マグルのお金を使って買い物をしている。その事実はレイチェルの気分を高揚させた。
そして、先に買い物を終えていた────と言うか、レイチェルが色々と悩み過ぎてグズグズしていただけなのだけれど────セドリックを探しに行ったレイチェルは、衝撃の光景を目にすることになった。
「びっくりしたわ。セドったら、知らない女の子に声をかけられてるんだもの」
雑誌コーナーで無事セドリックを見つけたレイチェルの目に入ったのは、セドリックが知らない女の子と話している光景だった。セドリックはちょっと戸惑っている雰囲気ではあったけれど、親し気なその様子にてっきり誰かマグル生まれのホグワーツ生────レイチェルが顔を知らないと言うことはハッフルパフの上級生あたり────と偶然会ったのかと思った。が、セドリックに聞いてみたら、全く知らない子だと返されて驚いた。パメラもそうだけれど、マグルの女の子は社交的な子が多いのだろうか……?
「僕だってびっくりしたよ……お茶に行こうって誘われて……断ったら、何かの数字のメモを渡されるし」
「本当だわ。ねえ、ペニー、これ何の番号かしら?」
「……電話番号ね」
これが電話番号なのか、とレイチェルはしげしげとメモを眺めた。マグルの間では初めて会う人に電話番号を渡すのって普通なのだろうか? そんな風に思ったけれど、ペネロピーの苦笑を見るにどうやら違うらしい。つまり、そのマグルの女の子はセドリックと親しくなりたいと考えていたのだろう。全く、ホグワーツの女の子だけじゃなくマグルの女の子にまで好かれるなんて。
「レイチェル? 僕の顔に何かついてる?」
「別に」
しかも、本人はそのことに気づいていそうにない。レイチェルは隣を歩くセドリックの横顔を見上げて、小さく溜息を吐いた。無自覚って罪だ。
「じゃあ2人とも、また新学期にね」
「ええ! ペニー、今日は本当にありがとう!」
「どうもありがとう。僕達だけでは来れなかったから、助かりました」
漏れ鍋まで戻り、レイチェル達はそこでペネロピーと別れることになった。結局、本が重すぎて────セドリックは課題に必要なグリム童話全集とアンデルセン童話全集の他は1冊しか本を買わなかったけれど、レイチェルはその他に気になった絵本を10冊以上買った────本屋以外は行くことができなかったが、レイチェルは大満足だった。
「ペニーはどうやって帰るの?」
「私は駅まで戻って、地下鉄を使うわ」
「『地下鉄』」
教科書に載っていた単語がサラッと出てくるのは、さすがマグル生まれだ。ペネロピーにとってはごくごく当たり前のことを口にしただけなのだろうけれど、レイチェルには何となく羨ましかった。かっこいい。地下鉄なんて、レイチェルは乗ったこともなければ見たこともない。
「レイチェル、ダメだよ」
「……わかってるわ」
私も乗ってみたい、と喉元まで出かけたけれど、ぐっと飲み込んだ。行きはペネロピーと一緒だからいいとしても、ここまで帰ってこれないだろうことは想像がつく。ああ、でも、せっかくここまで来たのだから乗ってみたい。せめて、電車が走っているところを見るだけでも。
そんなレイチェルの葛藤に気づいたのか、ペネロピーはニッコリ笑ってみせた。
「あんまり遠出は無理だけど、ロンドンの町でいいんだったらまた案内するわ。クリスマスの時期なんかは、イルミネーションがとっても綺麗だから。地下鉄はその時に乗りましょ」
「本当!? ありがとう、ペニー」
とても素敵な提案に、レイチェルは嬉しさのあまりペネロピーへと抱きついた。漏れ鍋の裏庭にあるレンガの壁からマグルの世界へ帰っていくペネロピーを見送って、レイチェル達も煙突飛行粉でオッタリー・セント・キャッチポールへと帰った。
「ペニーって本当すごいのよ」
買ってきた絵本の数々へと早速目を通しながら、レイチェルは隣で箒を磨き始めたセドリックへと話しかけた。魔法界の絵本と違って絵が動いたりはしないけれど、それでも絵が綺麗だから見ていて楽しい。レイブンクローには素敵な上級生が多いけれど、中でもレイチェルはペネロピーがとても好きだ。憧れとも言う。
「優しいし、可愛いし、何より学年3位の秀才だもの。しかもマグル生まれだから、マグルのことだってよく知ってるし」
マグル生まれの魔法使いと言うのは、魔法界においてはかなり立場が複雑だ。公には、出自による差別は恥ずかしいこととされているけれど、やっぱり純血の名家出身の魔法使いや魔女と言うのは一目置かれている。中には、純血であることを誇りにして、マグル生まれを穢れた血なんて馬鹿にする魔法使いも居る。レイチェルは一応純血だし、セドリックだって魔法族だ。だから、そう言う差別を受けたことはないけれど……スリザリンの生徒がマグル生まれの生徒達を悪し様に言う様子は、ホグワーツに入学してから嫌と言う程見てきた。ペネロピーは賢くて優しくて、とても優秀な魔女なのに、マグル生まれと言うだけでスリザリン生からは見下される。レイチェルは、どうしてもそれが納得いかなかった。純血であることは、そんなに偉いのだろうか? 確かに純血の名家に生まれた子供達が、その血筋に恥じないようにと血の滲むような努力をしていることも知っている。親友のエリザベスがそうだ。けれど、エリザベスはマグル生まれだからと言ってパメラを馬鹿にしたりしない。お互いに良いところを知っているし、足りないところを補い合える。育った環境が違ったって、仲良くなることはできるはずなのに。
「ハーマイオニーもそうだけど、マグル生まれの魔法使いって、魔法界とマグル界の両方を知ってるんだもの。それってすっごく素敵なことよね」
レイチェルは箒には乗れるけれど、地下鉄の乗り方はわからない。けれど、ペネロピーやパメラはどちらにも乗ることができる。スリザリンの生徒達は、マグルの文化なんて知っていても意味がないと思っているみたいだけれど、本当にそうなのだろうか? 去年1年間、マグル学の授業を受けてみてわかったけれど、魔法が使えない分、マグルの技術はとても発達している。レイチェルには羊皮紙や羽ペンよりも、マグルの紙とボールペンの方がずっと優れているように思えた。本当に、「魔法があればマグルの技術なんて必要ない」のだろうか?「僕もそう思うよ」
真剣な顔で同意してくれたセドリックに、レイチェルはニッコリした。
スリザリンの生徒達はマグルを馬鹿にするけれど、マグルの文化なんて知りもしないのだ。もしかしたら、未だにマグルは洞穴みたいなところに住んでいて、木や石を擦って火を起こしているのだと思っているのかもしれない。まあ、レイチェルもそこまでひどくはないにしろ、マグル学で習うまでマグルがどうやって生活しているのかなんてよく知らなかった。何も知らずに、思い込みで判断することは恥ずかしい。だからレイチェルは、マグルについてもっともっと知りたいと思う。
だから地下鉄にも乗りたいし、オッタリー・セント・キャッチポールにもまたこっそり行ってみたい。