それがいつか、日付も正確に記すことができる。1981年11月1日。当時イギリスに住んでいた魔法使いなら、きっとすぐにピンと来るだろう。例のあの人の失脚がイギリス中に知れ渡った朝だった。
朝からおじさんやおばさん、それに母親までもが嬉しそうで、レイチェルもよそゆきのワンピースを着せられた。お誕生日会でもクリスマスでもないのに素晴らしいごちそうが食卓に並んで、その日は夜更かししていても怒られなかった。いつもは閉め切られている窓のカーテンが開け放されていて、紺色の夜空には数え切れない花火がきらめいていた。まだ幼かったレイチェルはよくわかっていなかったけれど、大人達がニコニコしていてとても楽しそうだったことと、ケーキがおいしかったことを覚えている。それからは暗くなるまでなら外で遊んでいてもよくなったし、少しくらいなら保護呪文の外に出ても怒られなくなった。いつもお留守番だったダイアゴン横丁への買い物にも一緒に連れて行ってもらえるようになった。
記憶の始まりが居なくなった日のことなのだから、レイチェルには例のあの人が力を持っていた頃の記憶がない。その恐怖も、不安も、悲しみも、絶望も、レイチェルにはわからない。
身近な大人達や、時折会う親戚の口から話題に上ることはあったけれど、レイチェルはその話の半分も理解できていなかっただろうし、大人達の話が難しくて眠くなってしまうこともあった。そんな時、大人達は「レイチェルは覚えてないわよねぇ」と苦笑して頭を撫でる。覚えていないことはとても幸せなことだと、優しい祖母は寂しそうに微笑んだ。
レイチェルにとって、例のあの人────ヴォルデモート卿は既に過去の人で、言うならば奇人ウリックやグリンデルバルドと同じだった。ただの活字で、ただの資料で、ただの歴史。ほんの数年前までは心臓が動いて、自分と同じに生きていた人間なのだとはわかっていたけれど、大人達の口から語られる話も、ヴォルデモート卿の人格に熱を吹きこむには足りなかった。かの人がいかに残忍で、強大な力を持っていて、イギリス魔法界を恐怖に陥れたか────その話はあまりにも壮大で、現実味がなかった。「そんなことが、本当にあったの?」胸に浮かんだ疑問を、口にしてはいけないのだろうと飲み込んだのは、たぶん7歳の時だった。
母親の従兄は、優秀な闇祓いだったらしい。ハンサムで賢く、誠実で、親戚中集めても彼より素晴らしい魔法使いは居なかったと、母親は薔薇が供えられた墓標の前でレイチェルに微笑んだ。
亡くなったポッター夫妻は優秀な魔法使いだったとか、ベラトリックス・レストレンジは悪魔のような女だったとか────ヴォルデモート卿に殺された人や、その周りに居た人達はどんな人柄かを語られるのに、ヴォルデモート卿に関するエピソードはまるで出てこない。名前さえも恐れられて、紡がれることはない。どこで生まれて、何を考えて、どんなきっかけがあってあんな恐ろしいことをしたのか。ヴォルデモート卿の人間らしさがちっとも見て来ないせいで、レイチェルにとっては絵本に出てくるバンシーやヴァンパイアと変わらなかった。よくわからないし、見たこともないけれど、とても恐ろしいもの。恐怖の虚像。
例のあの人と呼ばれていること。自らをヴォルデモート卿と名乗っていたこと。イギリス史上最強と言われる闇の魔法使いであること。本名は不明であること。死喰い人と呼ばれる部下や、巨人、吸魂鬼などを従えて、魔法界の浄化を掲げてマグルを殲滅しようとしていたこと。10年以上もの長い間、イギリス魔法界を混乱に陥れたこと。多くの魔法使い、マグルが彼によって殺されたこと。その中に、母親の従弟や友人も含まれていること。1981年のハロウィンの夜、ゴドリックの谷に住んでいたポッター夫妻を手に掛けようとして、まだ赤ん坊だったハリー・ポッターの前に倒されたこと。
レイチェルが例のあの人について知っていることと言えば、魔法史の教科書で習ったことと大人達から聞いた話を繋ぎ合わせた、そんな薄っぺらいものだけだ。それ以上を知りたいと思ったこともなかったし、知る必要も感じていなかった。だってもう居ない、過去の人だから。ヴォルデモート卿がそんなに簡単に倒されるはずがない、いつかきっと力を取り戻して戻って来る────そんな風に言っている人も居たけれど、この10年間、レイチェルの知る限り魔法界は平和だった。
その恐ろしい魔法使いがやっぱり密かに生き伸びていて、しかもたった2日前までホグワーツの中に居たなんて。クィレル教授のあの分厚いターバンの下に、ヴォルデモート卿が潜んでいただなんて。いつだったか、レイチェルがクィレル教授のところに質問に行ったとき、2人きりだと思っていた部屋にはヴォルデモート卿も居たと言うことだろうか? 冷たい手で肌に触れられたようなゾッとする気味の悪さが足元を撫でて、ゆっくりと背筋を這い上がって来る。怖いと思った。誰かが感じた恐怖を語られて怖がってみせるような、そんな擬似的で間接的なものとは違う。初めてレイチェル自身が感じた恐怖だった。ヴォルデモート卿の残忍さや、その強大な力への恐怖ではない。だってレイチェルは、ヴォルデモート卿の恐ろしさをよく知らないから。確かだと思っていた足元がいきなり揺るがされて、崩れ落ちてしまったような、そんな怖さだった。当たり前に友人達と笑い合って、試験勉強が辛いと愚痴を言って、瞼を閉じても次に目覚めた時はまたいつもと同じ朝が来る。そんな、レイチェルにとっての日常と薄布1枚隔てたところで、非日常が、恐怖が這いずり回っていた。クィレル教授が、レイチェルの知っている大人の魔法使いが、殺された。優秀な先生達がたくさん居て、世界中のどこよりも強固な守りを誇る、このホグワーツの中で。レイチェルが眠っていたレイブンクロー塔の、目と鼻の先で。
もしも、ハリー・ポッター達が阻止しなかったら、今頃ホグワーツはどうなっていたのだろう。大人達の口から散々語られた、レイチェルの知らない暗い日々が再び訪れていたのだろうか。だとすれば、ハリー・ポッターのやったことは、きっととても偉大なことなのだろう。彼は2度も、魔法界を救ったのだ。それでもやっぱり、レイチェルはハリー・ポッターのやったことが正しいと思えない。大人の魔法使いが束になっても敵わなかった強大な闇の魔法使いを相手に、たった3人の無知な1年生が立ち向かうことを、正しいとは認めたくない。
「レイチェル。支度しないの? せっかくのホグズミードよ」
薄い硝子の向こうの空は澄み渡り、爽やかで気持ちのいい朝だった。まさにホグズミード日和の、素晴らしい夏のお天気だ。それなのに、レイチェルの気分は真冬の空のように憂鬱だった。ベッドの端に座ったままぼんやりしているレイチェルに、パメラが不思議そうに首を傾げた。
「……私はいいわ。今日、ちょっと気分が良くないの」
試験明けのホグズミードは、レイチェルだって楽しみにしていたはずだった。けれど、昨日のことが頭に突っかかっていて、とても皆と一緒にはしゃぐような気分にはなれなかった。レイチェルがホグズミード行きをパスしたところで何かが変わるわけじゃないことくらい、わかっているけれど。
「大丈夫? 具合が悪いのなら医務室に行った方が……」
「わかってる。ありがとう、エリザベス。パメラも、楽しんで来てね」
親友達が心配しないよう笑顔で見送って、レイチェルもようやくのろのろと着替えを始めた。昨日は結局あのまま寮に戻ってきてしまったから、今日こそはハーマイオニーに謝らなければ。1年生はホグズミードに行けないから、校内のどこかに居るはずだ。図書室か、それかグリフィンドール寮の前まで行って、通りかかった誰かに呼んで来てもらえばいい。
自室のドアを開けると、辺りは静まり返っていた。もうレイチェル以外の3年生や上級生は皆ホグズミードへ出掛けてしまったらしい。長い螺旋階段を下りて談話室へ向かうと、そこには楽しげにはしゃぐ下級生達の姿があった。
「レイチェル、おはよう! ホグズミードには行かないの? エリザベス達はさっき出掛けて行くのを見たけど……」
「おはよう、チョウ。……ええ、そうなの。今日はやめておこうと思って」
「じゃあ、一緒にゴブストーンゲームをしない? 今マリエッタが図書室に本を返しに行ってるんだけれど、もうすぐ戻って来るはずだから」
「ありがとう。でも、ちょっと用事があって……また今度、誘ってもらえたら嬉しいわ」
チョウがレイチェルに気づいて声をかけてくれたけれど、レイチェルは断って談話室を進んだ。そしてドアノブに手をかけようとしたところで、反対側から勢いよくドアが開いた。入って来たのはマリエッタだ。マリエッタはレイチェルの顔を見て驚いたように目を見開いたが、すぐにドアの後ろを指で示した。
「レイチェル。1年生の女の子があなたを呼んでるわ。今、寮の下まで来てる」
────レイブンクロー生じゃない、1年生の女の子。そう言われてレイチェルが思いつくのは、たった1人しか居ない。長い螺旋階段を急ぎ足で下りていくと、そこに居たのは、やっぱりレイチェルの予想通りの人物だった。
「レイチェル」
「……ハーマイオニー」
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、わからなかった。もしかしたら、ハーマイオニーもレイチェルと仲直りしたいと思ってくれたのだろうか。それとも……もう絶交だと言い渡すためだろうか。どうして、何のために、レイチェルに会いに来てくれたのだろう。
髪で隠れたハーマイオニーの頬が腫れているのを見て、レイチェルは申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。どちらにしろ、レイチェルは自分の行動に対して彼女に謝らなければいけない。
「「ごめんなさい」」
謝罪の声は、二つ重なった。下げかけていた頭を上げて、レイチェルは驚いてハーマイオニーを見返した。どうして、ハーマイオニーまで謝るのだろう。ハーマイオニーを一方的に責めて叩いたのはレイチェルで、ハーマイオニーは何もしていないのに。
「私、よく考えたわ……レイチェルの言っていることは、何一つ間違ってなかった……冷静になって考えたら、もっと、ああするべきだった、こうするべきだったって思えることがたくさんあった……」
レイチェルが困惑して黙り込んでいると、ハーマイオニーはぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。何だか奇妙な気持ちだった。ハーマイオニーの様子はとても不安そうで、レイチェルに許してもらいたいと思っているように見えたからだ。ハーマイオニーは被害者なのに、これではまるでレイチェルが被害者のようだ。「でも、わかってほしいの。私、やっぱり、自分がしたことが間違っていたとは思わない……あのときは私達もいっぱいいっぱいで……本当に、これしか方法がないと思ったのよ。私……」
「もうやめて……もういいわ。もういいの、ハーマイオニー……」
泣きそうに顔を歪めるハーマイオニーに、レイチェルは静かに首を振った。もう十分だ。
ハーマイオニーが友達だと思っていたのに何も言ってもらえなかったことが、頼ってもらえないことが寂しかった。ハーマイオニーが危険な目に遭っていたときに、翌日のクィディッチのことだけ考えて、呑気に眠っていた自分に腹が立った。言ってほしかった。相談してほしかった。
けれど、頼ってもらえたところでレイチェルに何ができただろう。せいぜい先生達に相談して、きっと大丈夫だと根拠もない励ましを言うことだけだ。一緒について来てほしいと言われたって、レイチェルにはきっとそんな勇気はなかった。
「あなたはとても…………偉大なことをしたんだろうし、無事に帰ってきてくれたんだもの」
ハーマイオニーやハリー・ポッターにはその勇気があった。それはもしかしたら勇気と言うよりは、幼さとか、無知から来るただの無謀さだったかもしれないけれど、彼らが居なければ今頃きっと賢者の石は奪われていた。
彼らの行動が正しかった、とは認めたくない。けれど、間違っていたと簡単に否定してはいけないこともわかっていた。彼らは彼らで、自分達の倫理観や正義感に従って行動したのだろう。
「ただね、これだけはわかって。あなた達はきっと、とても……幸運だったの。生きてることが、不思議なくらいなのよ。小さい頃、よく聞かされたわ。ママやおじさんから。優秀な闇祓いがあの人に立ち向かって、たくさん亡くなったって。それくらい、例のあの人って力を持った魔法使いだったんだって……」
例のあの人が一体どれほどの力を持っていて、その恐怖がどれほどだったのか。レイチェルだって、よくわかっていない。けれど、いくらあの人の力が弱まっていたからと言って、たった11歳の魔法使いが3人きりで戦って勝てるはずがないことくらいはわかる。ハーマイオニーは優秀な魔女だけれど、それでもまだ1年生だ。闇の魔術に立ち向かう方法なんて、知っているはずがない。
「助かって、本当に良かった……」
英雄として、正義のために立ち向かうのはきっと正しいことで、名誉なのかもしれない。正義のために自分の命さえかけることは、きっととても誇り高くて、気高いことなのだろう。魔法史の教科書には、そんな魔法使いがたくさん載っていて、今も人々に尊敬されている。けれど、どれだけ正しくても、気高くても、死んでしまったらそこで終わりだ。もう泣くことも笑うこともできない。賢者の石を守ろうとして死んでしまうよりも、ただの11歳のハーマイオニーとして生きていてくれる方がずっといい。
レイチェルだけじゃない。ハーマイオニーが傷ついたら、悲しむ人はたくさん居るはずだ。もしもハーマイオニーの両親が、ホグワーツに入学させたばっかりに大切な娘が闇の魔法使いと立ち向かったなんて知ったら、どう思うだろう。マグル生まれと言うことはハーマイオニーの両親はマグルで、例のあの人のことなんてきっと知らないはずだ。それなのに、もしいきなり、例のあの人に殺されましたなんて知らせが届いたら。その悲しみや絶望はきっと計り知れないだろう。
「叩いたりしてごめんなさい。痛かったでしょ」
「私こそ……心配かけてごめんなさい」
ようやく、2度目の謝罪を口にする。ハーマイオニーがレイチェルを嫌いになっていないらしいことに、今更ながらホッとして肩の力が抜けた。すっかり重くなってしまった空気に、次に何を言えばいいのかと言葉を探してみるけれど、なかなか見つからない。ちらりとハーマイオニーを見ると、気まずい沈黙を振り払うかのようにぎこちなく微笑んでみせた。
「えっと、じゃあ、レイチェル……これで仲直りって思っていいのかしら……?」
「ええ、勿論……。よかった……絶交だって言われたらどうしようかと思ってたの」
「そんなこと……あるはずないわ。私……レイチェルと友達になれて本当によかったって思ってるもの」
照れたように呟くハーマイオニーに、レイチェルはじんわりと胸が温かくなった。こんな風に思っていてくれる友人を、感情に任せて叩いてしまった。罪悪感がまた胸に染みだして来る。もう2度と、あんなことはしたくない。握手の意味を込めて差し出されたハーマイオニーの手を、レイチェルはそっと両手で握り締める。そしてハーマイオニーの目をじっと見つめた。
「約束して、ハーマイオニー」
包み込んだハーマイオニーの手はレイチェルよりも少しだけ小さくて、伝わって来る熱はレイチェルよりも温かい。もしかしたら────いや、きっともっとずっと高い確率で、ハーマイオニーは殺されていたっておかしくなかった。今こうして、ハーマイオニーの心臓が動いていること。ハーマイオニーの手が温かいこと。レイチェルの名前を呼んで、笑ってくれること。その全てが、きっと奇跡みたいなことだ。
「もう、2度とあんな危険なことはしないって」
レイチェルも同じだ。レイチェルだって、ハーマイオニーが友達でよかったと思っている。だからこそ、大事な友達を失いたくない。友達なら話してほしかったなんて、もう責めたりしないから。だからどうか、命をかけなくちゃいけないような冒険は、これが最初で最後にしてほしい。ハーマイオニーはレイチェルを見つめ返して、真剣な顔で頷いた。
「ええ。約束するわ」
────あんな恐ろしい時代を知らないことは、とても幸せなことよ。
レイチェルは初めて、いつか祖母に言われた言葉の意味がわかった気がした。喧嘩をしても、明日仲直りすればいいと考えられること。夜の次に朝が来ることを信じて、安心して眠れること。明日が来ないかもしれないなんて疑わずに、友人達と笑い合えること。そして、それを当たり前だと思えること。
それはきっととても贅沢で、奇跡みたいなことなのだろう。