土曜日の朝、レイチェルはウキウキとクィディッチの競技場へ向かった。とうとう優勝杯の行方が決まるのだ。レイブンクローが勝てば勿論嬉しいし、グリフィンドールが勝って優勝したらそれはそれで嬉しい。どちらに転んでもレイチェルにとっては良い結果しか出ないのだ。自然と足取りも軽くなる。
楽しみにしているのは、勿論レイチェルだけじゃない。観客席は赤と青、それぞれの寮のシンボルカラーで埋め尽くされ、熱気が漂っている。試験直後と言うこともあって、久しぶりのクィディッチの試合を学校中が待ちかねていた。
しばらくして、いつものリー・ジョーダンの解説が始まり、ローブを着た選手達が入場したが、レイチェルはその光景に何だか違和感を覚えた。
「あれ? ハリ―・ポッターは?」
パメラの言葉で気がついた。遠くてよく見えないせいでわからなかったけれど、1人選手が足りないのだ。しかも、シーカーのハリー・ポッターが。レイチェルの知らない、上級生らしいひょろりと背の高い少年がハリー・ポッターの代わりに箒に乗っている。周囲の生徒達もそれに気づいたらしく、競技場はざわざわし始めていた。即席のシーカーで試合だなんて。そんなの、やる前から勝敗は分かりきっている。一体どうしたと言うのだろう。
「まさか、あの噂って本当なのかしら……?」
「噂って?」
試験の疲れで体調を崩してしまったのだろうか、なんて考えていたレイチェルは、エリザベスの一言に首を傾げた。クアッフルが宙に投げられ、試合はハリー・ポッター抜きで始まろうとしている。不安そうに競技場を眺めていたエリザベスは、レイチェルを振り向くと半信半疑と言った感じの口調で話し始めた。
「さっき、ロジャーが言っていたの。実は……」
試合は当然レイブンクローが勝った。あんなに熱心に練習していたチョウが、数合わせで連れて来られたシーカーに負けるはずがない。勝利の瞬間────そして悔しいことに優勝杯はスリザリンに授与された────を無事見届けたレイチェルは、急ぎ足で廊下を歩いていた。談話室ではきっと今頃、祝勝パーティーが行われているだろう。チョウやロジャーを労いたい気持ちはあるけれど、今はそれよりも優先すべきことがあったからだ。
目当ての人物は渡り廊下に居た。同じ色のネクタイの生徒達と一緒に、楽しそうに話している。向こうもこちらに気づいたのか、レイチェルに向かって手を振って来た。レイチェルのよく知る、ふわふわの栗色の髪────ハーマイオニーだ。
「レイチェル、あのね……」
「どう言うこと?」
何か言おうと口を開いたハーマイオニーを、レイチェルは強い口調で遮った。
たぶん、さっきのクィディッチの試合について何か話していたのだろう。近くにはアンジェリーナやアリシア、それにフレッドとジョージも居た。けれど、ハリー・ポッターはやっぱり居ない。そのことが、今ホグワーツ中で囁かれている噂の信憑性をますます高めているように感じて、レイチェルはギュッと拳を握り締めた。
「聞いたわ、昨夜のこと。本当なの? それとも、ただの根も葉もない馬鹿げた噂?」
「えっと……その、何を聞いたかわからないけれど、たぶん大体は……本当だと思うわ」
何のことか知らないと、噂だと否定してくれればいい。レイチェルはそう願ったけれど、そんな淡い期待は裏切られた。やっぱり、本当なのだ。躊躇いがちに頷くハーマイオニーに、レイチェルは胸の中で失望が膨らむのを感じた。感情のままに声を張り上げそうになるのを抑えて、1度長く息を吐き出す。
「一体、何を考えてるの」
吐き出した言葉はレイチェルが予想した以上に冷たく響いて、ハーマイオニーがびくりと肩を揺らした。お祭り騒ぎの空気には不釣り合いな声に、周囲の視線がさっと集まる。レイチェルの剣幕に、ハーマイオニーだけでなく双子やアンジェリーナも驚いているのがわかったけれど、止まりそうにない。頭の中が沸騰するように熱い。
「あなた、まだ1年生なのよ……それなのに、例のあの人と戦うだなんて……優秀な大人の魔法使いが……ホグワーツの先生達がかけた魔法より、自分たちの魔法の方が力があるに違いないって、そう思ってたの?」
エリザベスから聞いた話が、レイチェルには信じられなかった。立ち入り禁止の4階の廊下で起こった真夜中の冒険。悪魔の罠にトロール、羽根の生えた鍵。巨大チェスに毒入り瓶の論理パズル。冒険の主人公は、かの有名なハリー・ポッター。そして、信じられないことに、レイチェルの仲良しのハーマイオニーもそのパーティーの一員だったと言う。
「もちろん、ダンブルドアに言おうとしたわ。でも、居なかったのよ。あの人が学校から遠ざけようとして……。先生達は私達の言うことなんて信じてくれっこないし……だから……」
「それでも、1人くらいは貴方達の言うことを信じてくれる先生が居たかもしれないわ。ちゃんと先生達に伝えたの? 自分達が食い止めようなんて、馬鹿なことを考える前に」
フリットウィック教授やスプラウト教授なら、きちんと話を聞いてくれたはずだ。生徒の味方をしてくれるし、論理立てて話せば1年生の言うことだからと言ってあしらったりはしなかっただろう。それに、たとえ信じてもらえなくたって、ハーマイオニーが危険なことに首を突っ込んでいい理由にはならない。
「簡単な武装解除呪文すらまだ習ってないのに……一体、どうやってあの人と戦うつもりだったの?」
例のあの人が相手だったのなら、まだほとんど呪文も知らない1年生が勝てるわけがない。いや、相手が普通の大人の魔法使いだって1年生が敵うはずなんてない。そんなこと、賢いハーマイオニーならわかっていたはずだ。死んでも構わないと思っていたのだろうか。それとも、自分は大丈夫だと高をくくっていたのだろうか。どちらにしたって、愚かな行為だと言うことに変わりはない。
「ハリー・ポッターに唆されたのかもしれないけど……」
「そんな言い方やめて、レイチェル」
「……じゃあ、言い出したのはあなたなの、ハーマイオニー」
「それは……」
ハーマイオニーはハリー・ポッターを庇おうとしたけれど、レイチェルがきつく睨むと口ごもった。やっぱりだ。
トロールのときだって、ハーマイオニーは危険な目に遭った。けれど、それは巻き込まれてしまっただけだとレイチェルは知っていた。でも、今回は違う。ハーマイオニーは自分の意志で冒険に足を踏み入れたのだ。それは、とてつもなく大きな違いのようにレイチェルには思えた。
「友達だからって……いいえ、友達なら、間違ったことをしようとしてたら止めるのが正しいんじゃない? 違う?」
「でも、ハリーはもう決心してたのよ! あの人と戦うって……1人で行かせるなんてできないわ!」
「だから、一緒に行って一緒に死んであげようって!? それがグリフィンドール生の言う勇気!? 無謀なだけじゃない!」
「危険なことだったって言うのは認めるわ! でも、私、自分のしたことが間違いだったとは思わない! だって、もし私達が行かなきゃ、賢者の石が……」
パン、と高い音が響いた。言葉を最後まで聞く前に、レイチェルは思い切りハーマイオニーの頬を叩いていた。「あっ」とか、「きゃあ」とか、周囲が無責任にざわつくのがやけに遠く聞こえる。叩いた手の平がジンジンと痛んだ。赤くなった頬を押さえて、ハーマイオニーが呆然とした顔でレイチェルを見上げている。
「何するんだ!」
ロン・ウィーズリーが髪と同じくらい顔を真っ赤にしてレイチェルに掴みかかろうとしたが、フレッドとジョージがそれを止めてくれたようだった。泣き出してしまったハーマイオニーの肩を、アンジェリーナとアリシアが支える。
周囲からの責めるような視線が突き刺さって、足がすくみうになる。負けないようレイチェルは踵に力を入れて床を踏みしめた。
「……、て……」
声が震える。目頭が熱い。こんな人前で泣くのはみっともないと、叩いた方のレイチェルが泣くのはおかしいと、必死に自分に言い聞かせたけれど、それでも耐えきれずに涙が滲んで頬へと伝った。胸が痛くて、苦しい。ハーマイオニーを泣かせたかったわけじゃない。こんな風に責めるつもりもなかった。どうすれば伝わるのだろう。どうして、伝わらないのだろう。
「殺されたっておかしくなかったのよ……」
わかっている。こんな風に怒っているのなんてレイチェルだけだ。皆、ハーマイオニー達の冒険を素晴らしく偉大なことだと考えていて、とても勇敢だと思っている。けれどどうしても、言わずにはいられなかった。
レイチェルの呟きを掻き消すように、カツカツと足音が近づいてきた。騒ぎを聞きつけたのか、マクゴナガル教授は人垣を割って進むと、真っ直ぐにレイチェル達の方へとやって来た。
「どうしたのです、ミス・グラント。取り乱して、あなたらしくもない」
マクゴナガル教授の言葉に、レイチェルは唇を噛みしめた。その通りだ。手の甲で涙を拭うと、背筋を伸ばしてできるだけ冷静に見えるように取り繕った。レイチェルが寮に帰って来ないから探しに来たのだろう。人垣の中にエリザベスとパメラの姿が見えて、レイチェルは申し訳なさと恥ずかしさが背筋を這い上がってくるのを感じた。
「どんな理由があれ、下級生に暴力を振るうのはいけません。レイブンクロー、10点減点」
「……はい。すみません」
厳しい声でマクゴナガル教授が言い、レイチェルは俯いた。減点なんて、1年生の時にビンズ先生のカップを割って以来だ。けれど今はそんなこと、どうでもいいと思えた。いい気味だと言いたげにロン・ウィーズリーが鼻を鳴らしたが、それを見咎めたマクゴナガル教授は目をキラッと光らせ、ハーマイオニー達へと向き直った。
「しかしミス・グレンジャー。ミスター・ウィーズリー。彼女の言葉について、貴方達はよく考えるべきです」
マクゴナガル教授はそう言い放つと、廊下の角へと消えていった。不服そうな表情をしたロンとは対照的に、しゃくり上げるハーマイオニーは何とか返事をしようと頑張っていた。その健気な姿に、レイチェルは罪悪感で胸が苦しくなった。再びせり上がってきた涙と嗚咽を飲み込もうとしたものの、結局はまたぼろぼろと涙が零れてきてしまった。
「……まあ、何だ。ハーマイオニーもロニー坊やも無事に手足がくっついたまま帰って来たんだ。そんな風に暗い顔してると、事情を知らない誰かは2人の葬式でも始まったのかって勘違いしちまうところだな」
「泣くなよレイチェル。嘆きのマートルみたいになっちまうぜ」
ジョージがそう言って、しわくちゃのハンカチを差し出してきた。レイチェルは一応受け取ったが、端のところに何か緑色の液体のようなものがついているのに気づいてしまったせいで、それで涙を拭く気にはなれなかった。レイチェルだって泣き止みたいのだけれど、泣き癖がついてしまったせいで止まらない。たぶん、ハーマイオニーも同じだろう。
「レイチェル!」
辺りに立ち込めていた湿っぽい空気と気まずい沈黙を破って、向こうから誰かがレイチェルを呼んだ。それから、こっちに向かって走って来るような足音。泣き顔を見られないよう俯いていたせいで顔なんて確かめられないけれど、レイチェルにはその声ですぐにわかった。セドリックだ。
「おいおい、今頃ナイトのご到着だ」
「姫はもう顔がグッチャグチャになってるけどな」
「一体何があったんだい?」
そんなフレッドとジョージの皮肉も受け流し、人だかりの真ん中で泣いているレイチェルとハーマイオニーを見比べたセドリックは、とりあえずハーマイオニーへとハンカチを差し出すと────ジョージのものと違ってちゃんと畳まれていて清潔だった────レイチェルの前へと立ち、周囲から泣き顔を隠してくれた。
「さあ散った散った! 通行の邪魔だ!僕は監督生だ!」
そう声を張り上げたのはパーシー・ウィーズリーだった。グリフィンドール生達は寮塔の方へと戻って行き、ハーマイオニーもロン・ウィーズリーに手を引かれてどこかへ行ってしまった。様子を窺っていた生徒達も1人また1人と去って行き、静かな廊下にはセドリックとレイチェルの2人だけが取り残された。
「何があったんだい? 話して、レイチェル」
レイチェルと目線を合わせるようにして、セドリックが膝を折る。その声にレイチェルを責めたり、諭そうとするような響きがないことを感じて、レイチェルはようやく肩の力を抜いた。床のタイルをじっと睨みつけたまま、セドリックにしか聞こえないような声でぽつりと小さく呟く。「……喧嘩したわ。ハーマイオニーと」
そうだ。喧嘩してしまった。頭に血が上っていたから、ひどいことをたくさん言った。しかも一方的に。アンジェリーナ達だって驚いていた。ハーマイオニーや、皆に嫌われてしまったかもしれない。
そう考えたらまた目頭が熱くなってきて、レイチェルはそれを隠すようにセドリックローブの胸にしがみついた。
「ど、して……ハーマイオニー、が……あんな危険なこと……なんで……そんな子じゃ、ないのに……」
「うん」
セドリックは穏やかな声で頷くと、あやすように背中を軽く叩く。それに促されるようにして、レイチェルはしゃくり上げながら少しずつ言葉を紡いだ。
ハーマイオニーは賢い魔女だ。例のあの人と自分達との力量の差くらい、きっとわかっていたはずだ。本当なら、あんな無茶なことするはずがない。ハーマイオニーにだって言い分があったことくらい、レイチェルだってわかっていた。それでも。
「もし……もし、ハーマイオニーが、し、死んじゃったら、私、どうしようって……」
「うん。そうだね。わかるよ」
例のあの人に子供の魔法使いが立ち向かって、生きているのが奇跡と言っていいくらいなのだ。エリザベスから話を聞いた時、最初は誰かの作り話に違いないと笑い飛ばした。けれど、段々本当じゃないかと思えてくると、怖くて仕方がなかった。試合をしているチョウやロジャーに失礼だとパメラに止められたから、競技場を飛び出すことはしなかったけれど、一刻も早くハーマイオニーが無事だと確かめて安心したかった。
「た、叩いちゃった……思い切り…………後で、謝らなきゃ……」
「うん」
気が付いたら、手が勝手に動いていた。きっと痛かったはずだ。もしかしたら、腫れ上がってしまうかもしれない。ハーマイオニーは自分よりも年下の女の子なのに。マクゴナガル教授には減点されたけれど、それだけじゃ全然足りないように思えた。
レイチェルはギュッとセドリックのローブを握り締める。体中が怒りと自己嫌悪で一杯で、自分の足で立っているのが不思議なくらいだった。
「ハリー・ポッターなんて嫌い」
体の中から膿を出すように、吐き捨てる。耳元でセドリックがハッとしたように息を呑むのがわかった。
冒険の主人公がレイチェルの知らない誰かだったなら、きっと皆と同じようにすごいとはしゃぐことができた。物語か何かを聞くみたいに、無責任に、他人事に。でも、そうじゃなかった。ホグワーツには1000人以上の生徒が居るのに、たった3人だけのパーティーに、どうしてよりによってレイチェルの友人が、ハーマイオニーが含まれているのだろう。
ハリー・ポッターのせいだ。ハリー・ポッターさえ居なければ、ハリー・ポッターと友達じゃなければ、ハーマイオニーはきっとあんな危険なこと、しなかった。死ぬかもしれない冒険に飛び込んで行ったりなんて、しなかった。
「大嫌い」
英雄だとか勇敢だとか、そんな周囲の評価なんてどうだっっていい。レイチェルはハリー・ポッターが嫌いだ。大嫌いだ。
八つ当たりなのかもしれない。そうでなければ、レイチェルがおかしいのかもしれない。レイチェルが異端なのかもしれない。
それでも、たとえ世界中の人がハリー・ポッターを褒め称えたとしたって、レイチェルはハリー・ポッターなんか大嫌いだ。
「うん」
いつだってレイチェルの言葉を否定しないセドリックは、やっぱり今度も何も言わずにレイチェルの髪を撫でるだけだった。優しい手つきが心地良くて、レイチェルはそっと目を閉じる。鳥の声や木々がざわめく音。セドリックの心臓の鼓動。そう言ったものに耳を澄ませていると、ようやく気持ちが落ち着いて来た。
危険な冒険も、大勢の人の賞賛や名誉も、賢者の石も、何もいらない。
レイチェルはただ、大好きな人達に元気で幸せに笑っていてほしい。ただ、それだけだ。