カレンダーの日付が一つ×印で消されていくたび、気持ちが焦ってしまうのはどうしてだろうか。愛くるしい子猫が花びらでじゃれている写真をぼんやり見ながら、レイチェルはそんなことを考えた。
『試験まで1週間』。今日の日付を示す数字の下には、エリザベスの几帳面な文字が刻まれている。マグルのカレンダーは魔法界のものと違ってカレンダーが勝手に予定を記憶しておいてくれたりしないし、「もうすぐ試験よ!」と叫んだりもしない。去年使っていたカレンダーに描かれていたのはエプロンドレスを着た可愛らしい少女だったけれど、ただでさえ試験前で寝不足のところに幼児のキンキン声で「お菓子食べてないで勉強したら?」だの「早く寝なきゃお肌が荒れるでしょ!」だのと口うるさく言うものだから、この時期はあらゆる意味で頭が痛かった。
あれはあれでうんざりしたけれど────と言うかカレンダーに対してうっすらと憎しみが沸いた────放っておいてもカレンダーが勝手に試験までのカウントダウンを朝夕にしてくれるので、危機感(と、ストレス)は高まっていた。しかし、マグルのカレンダーはひたすらに無口だ。カレンダーによって神経を削られないのはありがたいけれど、気づけばこんなに時間が経っていたのかと驚かされる。あと、もうたったの1週間しかないなんて。レイチェルは胃の辺りが重くなるのを感じた。魔法界のカレンダーが声を張り上げながら段々とこっちに向かってくるデモ行進だとしたら、マグル界のカレンダーはひたひたと音もなく近寄ってきていつの間にか後ろに立っている────そんな感じだ。魔法界のカレンダーはうるさすぎてイライラするし、マグルのカレンダーは静かすぎてギョッとする。
「マグルのカレンダーと魔法のカレンダーの融合ってできないかしら」
カレンダーを睨みつけながら、レイチェルは真剣な顔で呟いた。試験まで1週間。試験まで1週間。何度見たところで変わらないのだけれど、文字だけだといまひとつ現実味がないのはどうしてだろう。ついこの間まで、試験まであと1ヶ月だと言っていたはずなのに。
そんなはずがないことはわかっているけれど、エリザベスの書き間違いなんじゃないかと疑ってしまう。こうなるとカレンダーの小言も必要だったのかもしれないな、とレイチェルは小さく溜息を吐いた。
「例えばどんなのよ?」
独り言のつもりだったのだけれど、どうやらパメラの耳に拾われたらしい。もしかして勉強の邪魔をしてしまっただろうかと申し訳なくなったものの、単純に魔法史の年表の数字の羅列を追うのに飽きた様子だった。特に具体的なアイディアがあったわけじゃないのだけれど、せっかくなのでレイチェルは考え考え言葉を口にした。
「そうね……うーん、魔法界のカレンダーみたいに勝手に日付が変わって……用事のある日は教えてくれる……とか。でも、いつもしゃべられるとうんざりするから……マグルのカレンダーみたいに、普段は静かなの! いいと思わない?」
言いながら、我ながら名案だとレイチェルは手を叩いた。これはきっとレイチェルだけじゃなく、たくさんの人に需要があるんじゃないだろうか。落ち着かないからとカレンダーを置かない家もあると聞いたこともある。実現できたら大ヒット商品になるかもしれない。いや、別にお金儲けがしたいわけじゃないけれど。
パッと顔を輝かせたレイチェルに、パメラは少し考え込むように手を当てた後、つまらなそうに息を吐いた。
「ああ、それならもうとっくに発明されてるわよ。電子カレンダーは皆そうだし……あー、電気で動くカレンダーね」
「電気ってそんなこともできるの!?」
変幻自在呪文も使っていないのに、勝手に数字が変わるなんて。一体どうなっているのだろう。マグル学の授業で散々思い知らされたことだけれど、マグルの技術はレイチェルの理解を大きく超えている。そして、マグル達も全員が仕組みを理解しているわけではなく、用途と使い方さえわかれば問題ないことが多いと教えられた。とりあえず、電気は魔法よりずっと魔法らしいと言うのが、レイチェルが今年1年で理解したことだ。
「ねえパメラ、来年からはそのカレンダーにしましょうよ! きっとエリザベスも賛成するわ!」
そんな素敵なカレンダーがあるのに、どうしてパメラは教えてくれなかったのだろう。もしかしたら、そんな高度が技術が使われているせいで、ものすごく高価なのだろうか? でも、だとしたら3人でお金を出し合って買えばいい。何より電気のカレンダーって気になる。レイチェルが懇願するように手を合わせると、パメラ呆れたように溜息を吐いた。
「何言ってるのよレイチェル。持ってきたってホグワーツじゃ使えないわよ」
「あ、そうよね……ああ、もう、どうしてマグル製品が使えない魔法なんてかけてあるのかしら!」
「マグル生まれの子がラジカセとか持ち込むと格好つかないからじゃない? コンセントもないし。今時羽根ペンとか羊皮紙とかナンセンスよねー」
ああでもないこうでもないと言い合っていると、小さな溜息が聞こえた。振り返れば、エリザベスが呆れた顔でこちらを見つめていた。そう言えば居たんだった。どうやら、さっきからの議論がしっかり聞こえていたらしい。エリザベスは信じられないと言いたげレイチェル達に向かって首を横に振ってみせた。
「……『マグル製品が使えない魔法がかけてある』のではなくて、『侵入防止の魔法がかけてあるせいでマグル製品が使えない』の。ホグワーツの歴史にきちんと書いてあるわ。貴方達、現実逃避しても試験は待ってくれないわ」
ホグワーツの歴史なんて、詳しく読み込んでいるのはエリザベスくらいだ。レイチェルはそう反論したかったものの、エリザベスの冷たい視線に大人しく机に向かうことにした。その背後で、また1つエリザベスの手によってカレンダーの×印が増やされていた。
翌朝には、とうとう試験の時間割が廊下に貼り出された。こうなると、嫌でも試験が迫っていることへの実感が湧いて来る。
3年生からは人によって選択科目が違うので、自分で受講している科目を探して時間割を作らなければならない。レイチェルも混雑する中で、何とか自分の時間割を書き取った。
月曜日午前、変身術。月曜日午後、魔法生物飼育学。火曜日午前、呪文学。火曜日午後、薬草学。水曜日────。
「ルーン文字と魔法史が同じ日」
小さく呟いて、レイチェルはもう1度壁を見上げた。見間違いであることを期待したけれど、やっぱり掲示はそうなっている。周囲からも、似たような落胆の声が聞こえてきた。よりによって暗記科目が重なってしまうなんて。レイチェルは思わず顔を顰めたが、どうやらパメラの時間割はレイチェル以上に悲劇的なようだった。
「最悪! 最終日、あのインチキババアとスネイプの両方と顔合わせなきゃいけないじゃない!」
「だから、パメラ……トレローニー『教授』とスネイプ『教授』よ」
「ええ、ええ、そうよねエリザベス。今からそのトレローニー『教授』にお目にかかるんだったわ。じゃあ後でね、レイチェル」
占い学の教室は遠いので、移動にかなり時間がかかる。一足早く授業へ向かった2人の背中を見送って、レイチェルはもう1度時間割を見上げた。書き写した手元の羊皮紙と見比べて間違いがないか確認していると、誰かに肩を叩かれた。
「やあ、レイチェル」
「おはよう。調子はどうだい?」
「おはよう。……フレッド、ジョージ。ちょっと待って。ここじゃ邪魔になっちゃう」
振り向けば、そっくりな顔が2つ、レイチェルに向かって笑いかける。まだ呼び慣れない名前を口にして、レイチェルもぎこちなく微笑んだ。3人で輪になる形になってしまったせいで、近くに居たスリザリン生が迷惑そうに顔を顰めている。レイチェルは双子の手を引っ張ると、混雑する廊下を抜けてそのまま歩き出した。どうせ次の授業はマグル学なので、向かう先は同じだからだ。
「そう言えばあの噂、知ってるかい? レイチェル」
「噂?」
人気のない廊下へと出たところで、フレッド────たぶん────がもったいつけた様子で言った。ここのところ学校で噂になっていたことと言えば、グリフィンドールの減点やハリー・ポッターに関して。けれど、それについてももう古い話題と言う感じだ。とは言え、まだ彼への風当たりは強いようだし、ハーマイオニーは相変わらず寮の中での立場は良くないようだけれど。レイチェルがそんなことを考えながら首を捻っていると、ジョージ────たぶん────が声を潜めた。
「ユニコーンが殺されたらしいぜ」
「ユニコーンって……あの禁じられた森に住んでる?」
「それって大変な事件じゃない?」
ユニコーンは強力な魔法生物だ。相当力の強い魔法使いでなければ、ユニコーンを殺すなんてできない。少なくとも、生徒には無理だろう。だからと言って、ホグワーツの先生達がそんなことをするはずがない。そもそもユニコーンを殺さなければならないなんて、そんな事態は滅多に起こらない。大人しいから人間に危害を加えたりはしないし、角やたてがみが欲しい場合は頼み込んで譲ってもらうのがセオリーだ。森に誰か、先生達の他に大人の魔法使いか……そうでなければ、何か得体の知れない恐ろしい怪物でも居るのだろうか。だとしても、ユニコーンのような……美しくて純粋な生き物を殺す理由なんて、レイチェルには想像がつかない。どうして、そんな残酷なことができるのだろう。そうだ。そう言えば、確か、ユニコーンの血には────。
「ああ、そうとも。これ以上ないってくらい重大な事件さ」
「少なくとも俺達にとっちゃ悲劇的だな」
「……どう言う意味?」
芝居がかった2人の口調に、レイチェルの思考は遮られた。ユニコーンが殺されたことが重大な事件なのは間違いないけれど、それが一体この2人とどう関わっているのだろう。レイチェルが首を傾げると、ジョージが「君だって他人事じゃないぜ」と面白そうに笑ってみせた。
「レイチェル。君、確か魔法生物飼育学を取ってるだろ?」
「ええ……でも、それがどうかした?」
「覚えてるかい? ケトルバーン先生のありがたーい予告さ。3年生の実技の試験は何を使うか」
ハッフルパフと合同授業なので双子とは別の時間帯だけれど、確かにレイチェルも魔法生物飼育学を受講しているし、双子の言う予告も勿論覚えている。そのおかげで、魔法生物飼育学については筆記の勉強だけでよかったのでとても助かっていた。3年生の実技の試験は、ユニコーン──────先週の授業のケトルバーン先生の言葉を思い出して、レイチェルは嫌な予感に顔を引きつらせた。
「まさか……」
「そのまさかさ。ユニコーンは殺されちまった。つまり、試験に使うには数が足りない」
「当然、試験は他の魔法生物に変更されるってわけだ」
「今からじゃどの生物が手に入るかわからない。ぶっつけ本番だな」
「嘘でしょ……!」
「思うに、俺はヒッポグリフになるんじゃないかと思うね。先週、森の入り口近くで群れを見かけたからな」
「……あなた達、また禁じられた森に行ったの?」
「残念ながら未遂さ。ハグリッドに見つかってね」
見つからなければ、そのまま森に入るつもりだったのだろうか。レイチェルは呆れて溜息を吐いたが、フレッドとジョージは全く気にしていない様子だった。減点を食らっていないところを見ると、きっとまた上手く逃げおおせたのだろう。相変わらず、この2人は要領がいい。
「しっかしまあ、ユニコーンを殺すなんて、ひどいことをする奴が居たもんだ」
「……ええ」
ジョージの呟きに、レイチェルも頷いた。
あんなに儚い生き物の命を踏みにじるなんて、どうしてそんなひどいことができるのだろう。瞼の裏に、授業で見たユニコーンの姿を描く。こんなに純粋で綺麗な生き物が居るのかと、息を呑むほどに美しかった。試験で使われると言うことは、もう一度見ることができるのだと楽しみにしていたのに。
「……きっと、先生達が犯人を捕まえてくれるわ」
「そう願いたいね」
「犯人」と言う言葉でふとレイチェルの記憶の引き出しが開いた。そう言えば、ハロウィンの時のトロールは、結局どうやってホグワーツに入って来たのだろう。それに、ハリー・ポッターの箒がおかしくなったのも。生徒の誰かの悪戯だったのなら、この間のグリフィンドールのように、どこかの寮の点数が思い切り引かれているはずなのに。と言うことは、まだ犯人が見つかっていないのだろうか? それとも─────。
そこまで考えて、レイチェルはふっと息を吐き出した。考えても仕方ない。レイチェルが思い悩んだところで、手がかりも何もないのだ。どれだけ頭を捻ったって、答えなんて出るはずもない。それこそ、エリザベスの言うような現実逃避だ。
「おはよう、レイチェル」
「おはよう、セド。聞いた? あのね、今、フレッドとジョージから教えてもらったんだけど、魔法生物の実技試験がね……」
答えの出ないことに気を取られている場合じゃない。10科目もある試験を乗り切らなければいけないのだ。集中しなくちゃ。どうしても気になるのなら、全部終わってから考えればいい。
試験はすぐそこまで迫っている。カレンダーも時間もレイチェルを待ってはくれないのだ。