5月に入り、学内の空気はいよいよ忙しないものに変わってきていた。図書室の椅子は勉強をする生徒達で埋まっていて、ちょっとした物音ですら許されないし、談話室の空気も緊張で張り詰め、いつものように楽しげなおしゃべりではなく、羽根ペンが羊皮紙を削る音ばかりが響いている。先生達は授業の度に試験のことを口にするし、皆顔を合わせれば試験の話題ばかりだ。楽しみと言えば、就寝前に紅茶を飲みながらちょっとしたおしゃべりをするくらい。迫り来る試験に向けて、誰もが勉強に忙しくしている。特に変わったこともなく、レイチェルの毎日は淡々と過ぎて行った。
「……何があったの、これ」
いつも通り朝食へと降りて来ると、寮の点数を記録している大きな砂時計の周りに人だかりができていた。つられて立ち止まったレイチェルは、砂時計へと視線を向けててすぐにその理由に気がついた。おかしいのだ。何がって、どう考えたってグリフィンドールのルビーが減り過ぎている。ハリー・ポッターの活躍で────クィディッチの150点は大きい────昨日まではトップを独走していたのに、今では最下位になってしまっていた。周囲の生徒達も、一体どう言うことだろうかとざわざわしている。
「どうしたのよレイチェル……って、うわっ! 何これ! 誰がやったの!?」
「何かの手違いじゃないかしら……たった1晩でこんなに減ってしまうなんておかしいですもの」
少し遅れてやって来たパメラとエリザベスも、驚いた顔で砂時計を見上げる。エリザベスの言葉に、その可能性が1番高そうだとレイチェルも頷いた。誤作動か何かだろう。だって、目算でも100点くらいは減っているように見える。どう考えたっておかしい。昼頃にはマクゴナガル教授あたりが元に戻すのだろうと思いながら、レイチェルは複雑な気持ちで4つの砂時計を見上げた。
「このままの点数だったらレイブンクローは首位を狙えるのにね」
「レイチェルったら!」
もちろん、ズルして寮杯を取ったって嬉しくないのだけれど、やっぱり何となく名残惜しいものがある。それにしても、砂時計の誤作動なんて初めてだ。一体どうしてだろうかと言い合いながらレイチェルが大広間へ入ると、先にテーブルに着いていたらしいロジャー・デイビースと目が合った。
「あ、ロジャー。おは……」
「なあ、聞いたか!? あれ、ハリー・ポッターがやったらしいぜ!!」
「来る途中見ただろ? 砂時計だよ」
「えっ……って言うことはあの点数、あれで合ってるの?」
ようやく話を理解したレイチェルが驚けば、ロジャーは神妙に頷いてみせる。てっきり掲示の間違いだと思っていたのに、まさか本当に減点されていたなんて。しかも、ハリー・ポッターが原因とはどう言うことなのだろう? 一体何をやらかしたらあそこまで減点されることができるのだろうか。双子のウィーズリーの悪戯だって、いつもせいぜい20点かそこらの減点で済んでいるのに。想像がつかない。
「1年生の何人かと一緒に、夜中に寮を抜け出したんだってさ。カンカンになったマクゴナガルが、1人50点も減点したらしいぜ!」
ロジャーの言葉に、レイチェルは今度こそポカンと口を開けるしかなかった。1年生が寮を抜け出すなんて、聞いたことがない。あのフレッドとジョージでさえ、そんなことはやっていなかった。少なくともレイチェルの知る限りでは。
まさかと信じられなかったけれど、遠巻きに見るグリフィンドールのテーブルはまるでお葬式のような空気だ。どうやらロジャーの言葉は嘘ではないらしい。
グリフィンドールはたった一夜にして、トップから最下位へと転落してしまったのだ。
「絶望よ!今年こそはスリザリンから寮杯を取り上げられるって思ったのに」
パメラが不快そうに顔を顰める。確かに、あの点数が本物だとしたら、今のトップはスリザリンだ。しかも、2位のレイブンクローとはかなり差がある。よっぽどのことがない限り、今年の寮杯はグリフィンドールに決まりだろうと言われていたのに、そのよっぽどが起きてしまった。けれど、まだグリフィンドールの寮杯の可能性がなくなっただけであって、スリザリンが優勝すると決まったわけじゃない。
「まだわからないわ、パメラ……私達が頑張れば、スリザリンの点数を超えられるかもしれないんですもの」
「エリザベスの言う通りよ。今は結構引き離されちゃってるけど、私達はまだクィディッチが1試合残ってるんだもの。勝てば150点も増えるのよ」
エリザベスの慰めに、レイチェルも同調する。既にクィディッチの試合を全て終えているスリザリンと違って、レイブンクローにはまだ試験後にグリフィンドールとの試合がある。そこで勝てば大幅な加点だ。いくらスリザリンと差があるとは言え、150点も離れているわけじゃない。そう考えたレイチェルだったが、パメラは違う意見らしく、わかっていないと言いたげに首を振った。
「甘いわよ! エリザベスもレイチェルも! スリザリンが棚ぼたで落っこちてきた1位を早々手放すと思う? 今日からきっとスリザリンの監督生の連中、こぞってレイブンクローからネチネチ減点しにかかるわよ!『パメラ・ジョーンズ、マグル生まれだから減点!』とかね」
「……まさか。いくらスリザリン生でもそこまではしないでしょ」
恐ろしげな顔つきで言うパメラを笑い飛ばしたレイチェルだったが、そのまさかだった。
大広間から出たレイチェルは早速スリザリン生とぶつかってしまったのだが────一応言っておくと、レイチェルが悪いんじゃない。向こうがちゃんと前を見ていなかったのだ────その少年と一緒に居たのが運悪くスリザリンの5年生の監督生だったらしく、レイチェルのネクタイの色を見るや否や前方不注意と理不尽に減点された。偶然その場に居合わせたスプラウト教授が「監督生に減点する権利が与えられているのは、下級生に言いがかりをつけるためではない」とそれ以上にスリザリンから減点してくれたから、どうにか事なきを得たのだけれど。
ただでさえ試験前でやることがたくさんあるのに、この上スリザリン生に出会わないよう気を遣わなければいけないなんて。レイチェルは憂鬱な気持ちで溜息を吐いた。
「……久しぶり、ハーマイオニー。そんなところで何してるの?」
ハーマイオニーとの勉強会は2週間ぶりだった。久しぶりに色々話ができるとウキウキして図書室へ向かったレイチェルが目にしたのは、なぜか本棚の影に貼りついているハーマイオニーの姿だった。ビクッと肩を揺らして振り返ったハーマイオニーは、レイチェルの顔を見るとホッとしたように息を吐いた。
「ああ、レイチェル……久しぶり、この間はごめんなさい……あっちに席を取ってあるわ」
そう言って案内されたのは、本棚が目隠しになっている奥まった席だった。もっと日当たりのいい席が空いているのにと不思議に思いはしたものの、せっかくハーマイオニーが確保してくれたのでそこに座ることにする。少し薄暗いけれど、今の図書室は少しおしゃべりをしただけで視線が突き刺さるような空気だから、こう言う席の方がいいのかもしれない。レイチェルはそう思い直して机の上に教科書を広げた。
そうして勉強会は始められたが、レイチェルはすぐに異変に気づいた。何と言うか、いつもなら勉強熱心なハーマイオニーが、ちっとも集中していないのだ。落ち着かない様子で小動物のようにソワソワしているし、近くを誰かが通る気配がするたびにビクビクしている。全くもってハーマイオニーらしくない。様子がおかしい。一体どうしたのかと聞こうとして、レイチェルはふとロジャーに聞いた話を思い出した。と言うか、今は学校中がこの噂でもちきりだ。たった一夜にしての、グリフィンドールの最下位への転落。それに関わっているのは、あの有名なハリー・ポッターと────「何人かの馬鹿な1年生」。
「……もしかして、あなたもあの減点に関わってるの?」
「…………ええ」
まさかと思いながら聞いてみれば、戸惑いがちな肯定が返ってくる。それなら、さっきから人目を気にしているのも納得できた。考えてみれば、自然なことかもしれない。だってハリー・ポッターと仲が良い1年生と言えば、ハーマイオニーとあの赤毛の───そう、確か、ロン・ウィーズリーだ。ハリー・ポッターが何かをやらかしたと言うのなら、ハーマイオニーやロンも一緒だと考えるのが妥当だろう。けれど、レイチェルの頭にはそんな可能性はちっとも浮かんでいなかった。だって、まさか、真面目なハーマイオニーが規則破りを行ったなんて。てっきり、同室の男の子達と度胸試しでふざけたのかとばかり思っていたのだ。
「……どうして夜中に抜け出そうなんて思ったの?」
教科書を机の上に置いて、ヒソヒソと囁く。呆れが半分、純粋な興味が半分だった。
夜に生徒が校内を出歩くと言うのは勿論規則では禁じられている。けれど実のところ、上級生の中には、こっそりベッドを抜け出している人も居るらしいとはレイチェルも聞いていた。たとえば、恋人同士が夜に星を見るためのデートだとか、そう言う用事のためで……まあ、言ってみれば理由なんて些細な物だ。けれど、それは彼らがフィルチの目をかいくぐるための方法を────自分の体を猫に変身させたりだとか、フィルチを錯乱呪文にかけるだとか────習得しているからであって、まだ見つかったらどうしようもないレイチェル達下級生は絶対にそんなことはしない。好奇心で寮を抜け出して減点なんかされたら、他の寮生に申し訳なさすぎる。頭のいいハーマイオニーなら、そんなことわかっていそうなものだけれど。レイチェルがじっと言葉を待てば、ハーマイオニーは難しい顔をして首を横に振った。
「ごめんなさい……言えないの……だって、言ったらとっても困ったことになるんだもの……」
「今困ったことになってるのはあなた達だと思うけど……あ、ごめんなさい」
思わず呟いてしまった本音にハーマイオニーが傷ついたような顔をしたので、レイチェルは失言だったと口元を押さえた。
ハーマイオニーが規則破りをするなんて、きっと何か事情があるのだろう。もしかして、この間ドラコが言っていたハグリッドの小屋がどうこうと言う一件が関わっているのだろうか。そう言えば、あれ以来話していないけれど、結局ドラコはハーマイオニー達の秘密を知ることはできたのだろうか。
色々と疑問に思うことはあったけれど、結局はレイチェルの口から出て来たのは長い溜息だけだった。
「…………まあ、言いたくないならいいけどね」
減点も規則破りも、グリフィンドールの問題だ。レイブンクロー生のレイチェルが口を出すべきことじゃない。これがレイブンクローの1年生だったら注意したかもしれないけれど、それだって仲良くなかったら他の人に任せる。
ハーマイオニーのことは上級生としてと言うより友人として接しているつもりだから、あんまり偉そうなことは言いたくないし、第一レイチェルがわざわざお説教しなくたって、ハーマイオニーはこれ以上なく反省しているように見える。このぶんだと、グリフィンドール寮内では相当に居心地の悪い思いをしているのだろう。
「ねえハーマイオニー、この写真に写ってる……これ、何?」
「あ…………えっと、それはね…………」
もうこの話題は終わりにしようとレイチェルが教科書を指差すと、ハーマイオニーはホッとしたように笑みを浮かべた。いつも通り熱心に勉強に取り組み始めた様子を見て、レイチェルも少し安心した。
友人としては、もっと慰めたりするべきなのかもしれない。けれど、根拠もないのに「大丈夫よ」なんて言うのは無責任に思えた。たぶん、ハーマイオニーが思っている以上に事態は深刻だからだ。レイチェルはハーマイオニーが出来心で規則破りなんかする人間じゃないと知っているけれど、他の人はそうじゃない。考えなしの1年生が面白半分で寮の点を減らしたと考えるだろうし、もうテストまで1ヶ月と言うこんな時期にいきなり最下位に転落だなんて。……仕方ないと快く許してくれる人の方が少ないだろう。レイチェルだって、自分の寮だったら間違いなく怒るし、愚痴を言う。
点数に関してだけなら、ハーマイオニーならすぐに50点くらい取り返せるだろう。けれど、点数よりも信頼を回復する方がきっと難しい。もしも────たぶん無理だろうけれど────グリフィンドールが何とか頑張って寮杯を獲得できたとしても、軽率なことをしてグリフィンドールのリードを台無しにした1年生と言う汚名はつきまとう。ハーマイオニーが同寮生の信頼を取り戻すのは、きっと時間がかかってしまうだろう。
けれど、それはどこまで行ったってグリフィンドールの問題で、レイチェルに手助けできることは悲しいけれど何もない。一緒にグリフィンドールのテーブルで食事してあげることもできなければ、授業中ペアを組んであげることもできない。学年も寮も違うレイチェルにできることは、こうやって週に1度、ハーマイオニーが居心地よくできる時間を作ってあげることくらいだ。
それにしても、どうしても夜中に抜け出さなければいけない用事って、一体何だろうか。見当もつかない。
この聡明な年下の友人は、時々レイチェルの想像の範疇を超えている。