「試験までもう10週間しかないなんて」
手帳のページを捲って指でなぞりながらそう呟いたのは、勿論エリザベスだった。今朝ふくろうが届けてくれたファッション誌を一緒に見ていたレイチェルとパメラは、その言葉に顔を上げる。心なしか青ざめているエリザベスを見て、パメラが呆れたように溜息を吐いた。
「『まだ』10週間もあるのよ、エリザベス! こんなに早いうちから試験勉強に必死になったら途中で息切れしちゃうわ!」
「パメラの言う通りよ。去年も一昨年も、試験勉強を始めたのは2ヶ月前からだったじゃない?」
うんざりとした口調のパメラを、レイチェルも援護する。
OWLやNEWTを控えた5年生や7年生はとっくに試験勉強を始めているけれど、レイチェル達はまだ3年生だ。それに優等生のエリザベスひ日頃からしっかり勉強しているのだから、そんなに焦る必要もない。けれど、そんな2人の言葉では、心配性のエリザベスを安心させることはできないようだった。
「でも、今年は去年より3科目も多いんですもの。今までの教科の内容だって、ずっと難しくなっているのよ。今までと同じように考えてたら、間に合わないわ」
「まあ、そうだけど……」
エリザベスの言うことも尤もだけれど、試験勉強は早く始めればいいと言うものでもない。皆より早く始めているから大丈夫だろうと気が緩んでしまったり、途中でもう嫌だと全部投げ出したくなってしまったり。まあ、言わずもがなOWLやNEWTの勉強をしている上級生達に最近起こっていることだけれど。昨日も、誰か医務室に運ばれたらしい。
「焦り過ぎよエリザベス! 勉強するのは勝手だけど、どこか別の場所でやってね! ここではお断りよ、寝室でくらい安らぎが欲しいわ!」
パメラの言い方には少し問題があると思ったが、レイチェルもその意見には概ね賛成だった。今の時期、談話室や大広間、図書室なんかは5年生や7年生がピリピリしていて騒げるような空気じゃないし、外はまだ日によって肌寒い。こうして、部屋で楽しくおしゃべりする時間は貴重な息抜きだ。部屋の隅で1人だけブツブツ魔法史の年号なんかを唱えられたりしたら、せっかくの楽しい時間も台無しになってしまう。
「あ、ほら、見てレイチェル! このワンピースレイチェルに似合いそうよ」
「え、どれ? あ、本当。可愛い。こっちの黄緑のはパメラに似合いそう」
「…………貴方達は少し呑気すぎると思うわ」
再びファッション誌を覗き込み始めた2人に、エリザベスが上品に溜息を吐いたが、レイチェルは雑誌に夢中で聞こえないフリをした。パメラも同じだ。
まあ、そろそろ足りないノートを揃えたり、試験対策用に要点をまとめたりするくらいは始めた方がいいかもしれないけれど、そんなに焦る必要もないだろう。試験まではまだ10週間もあるのだ。
「試験までもう10週間しかないなんて」
いつものように図書室へと現れたハーマイオニーは、悲劇的な口調でそう嘆いた。その言葉に激しいデジャ・ヴを覚えたレイチェルは、浮かべた笑みを引きつらせてハーマイオニーをまじまじと見つめた。ついでに、自分の聞き違いならいいなとも願った。
「……『もう』?」
「ええ……どうしよう。今からで間に合うかしら。覚えることが山ほどあるのに……!」
「……そんなに焦らなくても、あなたなら大丈夫だと思うわ」
たぶん、きっと、絶対、間違いなく。こんなに勉強熱心で賢いハーマイオニーがいい結果を残せないほど難しい試験だとしたら、1年生の半分は落第してしまうような気がする。真顔でそう返したレイチェルにハーマイオニーはポッと頬を染めたが、すぐにまた気を取り直したように目まぐるしいスピードで本のページを捲り始めた。
「3年生からは科目が多いんでしょう? レイチェルはもう試験勉強始めてるの?」
「あー………えっと………まあ、少しは……?」
「やっぱり! さすがね。私も頑張らなくっちゃ」
何がどう「やっぱり」で「さすが」なのだろう。「やっぱり勉強熱心、さすがレイブンクロー生ね!」だろうか。以前も思ったけれど、ハーマイオニーはレイチェルのことを少し誤解している気がする。誤解と言うよりは、過大評価と言った方がいいかもしれない。別に、レイブンクロー生が全員成績上位者で勉強熱心なわけじゃないのに……。まあ、そう言う人の割合が他の寮よりも高いことは確かだけれど。グリフィンドールだって、全員が双子のウィーズリーみたいなトラブルメーカーなわけではないのと同じだ。
と言うか。
「……ねえ、ハーマイオニー」
「何? レイチェル」
早速試験勉強の予定表を羊皮紙の上に書き出しているハーマイオニーを見て、レイチェルの頭にある疑問が浮かんだ。以前から不思議には思っていたのだけれど、ハーマイオニーの方もグリフィンドールの人間関係で色々あったようだったので、聞く機会を逃してしまったのだ。質問するなら、今がそのタイミングだろう。
「あなた、どうしてレイブンクローに入らなかったの?」
知的好奇心と探究心に溢れ、頭の回転も早い。そして、自らの知性を更に磨き上げようと勉学に励むその姿勢。
どう考えたって、ハーマイオニーはロウェナ・レイブンクロー寮が求める生徒像そのものなのに。
「と言うわけなんだけど……ちょっと気が早すぎじゃない? 試験は6月よ?」
「まあ、エリザベスは彼女らしいと思うけど……その子は確かにすごいね。まだ1年生なんだろう?」
「そう。『まだ』1年生」
驚いた顔をするセドリックを見て、レイチェルは少しホッとした。どうやら、レイチェルの感覚が間違っているわけではないらしい。自分が1年生だった頃の記憶を思い返してみても、試験勉強はイースター休暇の頃からエリザベスに言われて渋々やっていたような記憶がある。セドリックだって1年生の頃から真面目だったけれど、あそこまでじゃなかった。やっぱりハーマイオニーが特殊なのだろう。
「ハーマイオニーの方が、私よりよっぽどレイブンクロー生らしいわ」
実際、組み分け帽子も彼女をレイブンクローに入れようか迷って、どちらがいいか尋ねられたらしい。いっそそのままレイブンクローに組み分けてくれればよかったのにと思ったけれど、もしそうなっていたら今のような関係ではなかったのかもしれないと思うと、やっぱり彼女がグリフィンドール生でよかったのかもしれない。
何はともあれ、レイチェルはそれを聞いて納得した。そんな経緯があったせいで、ハーマイオニーはレイブンクローに居るのは自分のように勉強熱心な生徒ばかりだと思っているのだ。だから、勿論レイチェルもそうだと。大きな誤解だ。別に、レイブンクロー生だって皆が皆勉強大好きなわけじゃない。「ママがレイブンクローがいいって言うからぁ」みたいな理由で選んだ子だって普通に居る。11歳の時点でそんなに勉強が好きな子なんてなかなか居ない。
何にしろ、もしもシンボルカラーが青だからと言う理由で選んだなんて言ったらハーマイオニーはきっと卒倒してしまう……と言うか呆れられてしまうような気がする。ハーマイオニーには黙っていようと、レイチェルは心に決めた。
「……ねえ、ところでセド」
「何?」
「さっきからやってるそれ、何?」
「花咲か豆の収穫の仕方……これ、かなり昔の授業よね?」
「えっと、その…………」
確認するようにレイチェルが聞けば、セドリックは気まずそうに口ごもった。
レイチェルも覚えのある内容だと言うことは、次の授業の予習ではない。復習だ。何のための、なんて答えは1つに決まっている。レイチェルは小さく溜息を吐いた。
「……結局、皆なんだかんだ言いながら試験勉強始めてるのよね」
「あ、いや、ほら……僕はクィディッチの練習でなかなか勉強する時間がないから。短い時間でも覚えられるように、まとめておかないと」
「で、それが試験前に学年中に回されるってわけね……セド、友達だからってたまには断った方がいいわよ。ジョンなんか、最初からセドのノートを当てにして、ちっとも自分で勉強する気ないじゃない」
字が綺麗ですっきりと要点がまとまっているセドリックのノートは、試験前になると同級生の間で大人気だ。レイチェル達の学年が無事に全員進級できているのはセドリックのおかげだと言っても過言ではないだろう。
レイチェルも正直、魔法史や薬草学なんかはセドリックのノートが欲しいと思っていたりするのであまり人のことは言えないのだけれど、忙しい時間を捻出してセドリックが苦労してまとめたノートで皆が楽して本来より良い成績を取ると言うのは、どうにも釈然としない。
「まあ、確かにスリザリン生が僕のノートを持ってたときはちょっとびっくりしたな……でも、僕のノートで役に立つなら嬉しいよ」
セドリックがそれでいいのならレイチェルが口を出すようなことじゃない。でも、もしもレイチェルがセドリックの立場だったら嫌だ。苦労してノートを作ったのはレイチェルなのに、それを借りた誰かが自分より良い成績を取ったら、たぶんものすごく気分が悪い。……まあ、セドリックよりもいい成績なんてそうそう取れるはずがないのだけれど。
「さすが、順位が片手で数えられる人間は言うことが違うわね」
羽ペンを脇に置いて、レイチェルは深々と溜息を吐く。セドリックの態度は余裕から来ているような気がして、ちょっと妬ましい。
ホグワーツに入学する前は、セドリックのことを特別頭がいいとは感じていなかった。勿論馬鹿だと思っていたわけじゃないけれど、読み書きや簡単な算数じゃそこまで差はつかない。自分とセドリックの賢さは同じくらいだと思っていたし、たぶんセドリックもそう思っていたと思う。むしろ、悪知恵はレイチェルの方が働いていたから、大人達はレイチェルの方が賢いと思っていたくらいだ。あの頃は、レイチェルとセドリックの間に際立った優劣なんてなかった。けれど今では、2人の差ははっきりと目に見える形で表れる。
セドリックの方がずっと優秀。勉強も、クィディッチも、友達の数も、何もかも。レイチェルより、ずっと。
セドリックは今年こそ学年1位を取るかもしれない。スプラウト教授がそう話していたとパメラが言っていた。けれど、レイチェルはきっと上位20位以内に入ることすらできないだろう。
同じだなんて言うのは、ただのレイチェルの錯覚だった。1年生の学期末、初めての試験の結果が廊下に張り出されたときは、すごいなあと感心して、幼馴染の快挙を誇らしく思う一方で、何だか取り残されたような気持ちがした。
「レイチェル…………」
呼ばれた名前に顔を上げると、怒っているとも困っているともつかないよ表情のセドリックがレイチェルを見返していた。たぶん本人も、どっちにすればいいのかわからないのだろう。やけに重たくなってしまった空気を元に戻そうと、レイチェルはできるだけいつも通り笑ってみせた。
「嘘よ。ごめんね。怒った?」
「別に怒ってはないけど……」
「なら良かったわ」
ただの意地悪で、皮肉で、八つ当たりだ。
セドリックやハーマイオニー、それにエリザベスなんかを見ていると思う。成績がいい人はその分、努力しているのだ。勿論、元々頭がいいと言うのもあるのだろうけれど。
レイチェルよりもずっと努力しているのだからレイチェルよりも良い結果が出るのは当たり前で、僻む暇があるならセドリックと同じくらいか、それ以上に努力するべきなのだと思う。
セドリックはレイチェルの成績が自分より下だからってレイチェルを馬鹿にしたりしない。小さい頃と同じにレイチェルを対等に、いやむしろいつも自分よりもレイチェルの意見を尊重してくれる。
だから、何も引け目を感じる必要なんてないのかもしれないけれど。
「今年も魔法薬学は絶対セドに負けないから。あと、マグル学も」
それでもやっぱり、セドリックとは対等で居たい。レイチェルが現時点でセドリックに勝てる唯一の科目が、魔法薬学だ。変身術も得意だけれど、セドリックも得意なのであまり意味がない。とりあえずこのまま魔法薬学だけはセドリックより良い成績を取ることがレイチェルの目標だ。
「本当はもっと高い目標を持つべきなんでしょうけどね……」
「えっと……ごめん、何の話?」
「何でもない」
魔法省大臣になりたいとか、闇祓いになりたいとか。そう言う壮大な夢があったなら、もっと頑張って勉強できたのかもしれない。それこそ、学年トップを目指してがむしゃらに努力できるのかもしれない。けれど、自分の将来なんてまだ見当もつかないし、首席になりたいなんて強い意志もない。本を読むのは好きだけれど、ハーマイオニーのように勉強が面白いとは思えないし、今からセドリックのように真面目になると言うのも難しい。
羽根ペンの先をインクに浸して、羊皮紙へと向き直る。レポートは今ここで書き上げて、部屋に戻ったらルーン文字の単語カード作りの続きをやろう。
試験はまだ先だ。けれど、今日出来ることは明日に持ち越さずに今日やってしまうべきだろう。
一歩ずつ、コツコツと。目の前のことをただやっていくしかレイチェルにはできないから。