3月に入ると、湖を覆っていた氷もすっかり溶けて、モノトーンだった景色が少しずつ色づきはじめた。緑の芝の上には薄紫色のクロッカスが咲き乱れ、黄色いラッパ水仙の蕾が春の訪れを告げようとしている。
レイチェルはもう、バレンタインについてあれこれ悩むことを放棄していた。これ以上バレンタインのことで振り回されるのは馬鹿馬鹿しいと思ったし、考えることが面倒になったのだ。双子のウィーズリーとはあれから何度か授業で顔を合わせたけれど、別に何か話しかけられるわけでもなく、いつも通りだった。たぶんレイチェルが想像した通り、この間の悪戯のちょっと気を利かせたお詫びのようなもので、深い意味はないのだろう。それなら、ありがたく受け取っておこう。カードはとても素敵だったので引き出しに大切にしまってあるけれど、レイチェルはバレンタインについての一切を綺麗さっぱり忘れることにした。
「ねえねえレイチェル、結局誰から貰ったの? セドリックじゃないんでしょ?」
「教えて! 絶対秘密にするから」
パメラが喋ったせいで、アンジェリーナやアリシアは顔を合わせる度にレイチェルを追及してきたけれど、勿論教えるつもりはなかった。まさか、あなた達もよく知る双子のウィーズリーです、なんて素直に言えるわけがない。好奇心にキラキラと瞳を輝かせる2人に、レイチェルはあらかじめ用意してきた言い訳を口にした。
「ああ、うん……もしかしたらって言う心当たりはあったんだけど、私の思い違いだったみたい。結局誰だかわからないの」
勿論嘘だ。けれど、たぶんこれが1番平穏な方法だろうとレイチェルは考えていた。セドリックほど熱狂的ではないけれど、あの双子はユーモアがあって楽しいと女の子達に人気があるし、皆の中ではカードを贈ることは恋人になってほしいと言うことと同じ意味だとわかっていたからだ。付き合うのかどうするのかと、格好の暇つぶしにされてしまうのは間違いない。
確かに大抵はそうかもしれないけれど、違う場合だってある。レイチェルは別、にハリー・ポッターと恋人になりたいからカードを贈ったわけじゃない。セドリックのことは好きだけれど、皆が勘繰るようなことは何もない。一口に「好き」と言っても、色々あるのだ。それがどうして、相手が男の子だと言うだけで愛だ恋だと盛り上がってしまうのだろう。
女の子同士で2人でホグズミードに行ったところで、デートだなんて言われないし、なんでどうしてと理由を聞かれることもない。それなのに、セドリックと一緒と言うだけで皆根掘り葉掘り聞きたがる。もう3年生なのに好きな人が居ないことがおかしいみたいに言われるけれど、事実として居ないのだ。別に意中の相手の姿を探してソワソワしたり、廊下ですれ違って胸をときめかせたりしなくったって、レイチェルの毎日は十分充実している。
「やあ! レイチェル!」
「おはよう。どうしたの、そのバケツ……また、何か悪戯する気なの?」
「そうとも。スネイプのあのネトネト頭にぶっかけようと思ってね」
「もしかしたら髪に栄養がいくかもしれないしな。欲しいなら君にもやるよ」
「遠慮しておくわ」
それに第一、皆が言うようにカードの贈り主────つまり双子がレイチェルのことを好きだったとしたら、こんな風におたまで掬ったカエルの卵を差し出して来るはずがない。どこの世界に、好きな女の子の手のひらに直でカエルの卵を乗せようとする男の子が居るのだろう? おたまから溢れて床に落ちた卵に思わず飛び退くと、双子はそんな様子がおかしかったのかニヤッと笑ってみせた。
「変身術の授業でまた会おうぜ、レイチェル!」
そう言って廊下を走っていった2人に、レイチェルは引きつった笑みを浮かべた。またもや悪戯のターゲットにされたスネイプ教授は大丈夫だろうか。とは言え、レイチェルにはあの2人を止める力はないので心の中で無事を祈るしかできないけれど。
昼休みはあと10分しかないのに、悪戯なんかしていて授業に間に合うのだろうか……? そんな疑問が頭に浮かんだものの、レイチェルも人のことを気にしている場合じゃない。急がなければ遅刻してしまう。
「フレッドとジョージって、可愛いわよね」
「本当。いつも元気だし、まさにグリフィンドールって感じよね」
通りすがりのハッフルパフの上級生が、そんな風にクスクス笑っているのが聞こえて、レイチェルは思わず眉を寄せた。
確かにあの双子は元気すぎるほどに元気だし、この上なくグリフィンドールらしい。クィディッチの試合での活躍だってすごい。顔立ちだって整っているし、勉強する気がないだけで頭も良い。
皆の言う通り、素敵な男の子だと言うのはレイチェルだってわかるし、バレンタインカードもとても素敵だった。けれど、カードが素敵だったからと言って、恋人になりたいかと思うかは別の話だ。もしもあの2人のどちらかと付き合ったりなんかしたら、心臓発作で死んでしまう気がする。それに彼らの悪戯も、他人事ならば笑って見ていられるかもしれないけれど、自分が被害者になったら楽しいなんて思えない。
「ユーモアがあってとっても素敵」なんて目をハートマークにしている女の子達は、1度レイチェルみたいに双子の仕掛けた水溜りに引っ掛かってみればいいのだ。ベトベトヌルヌルで、おまけに何もかもが虹色。100年の恋だって醒める。
前みたいに顔を合わせたくないとまでは思わなくなったけれど、レイチェルはやっぱりあの双子は少し苦手だ。
「ねえレイチェル、なんだか最近、クィレル教授の顔色が悪いと思わない?」
心配そうに表情を曇らせるエリザベスに、レイチェルはたった今出て来たばかりの防衛術の教室を振り返った。細面の顔に不釣り合いな大きなターバンを巻いたクィレル教授は、まさに今黒板の影から何か恐ろしい魔法生物が出てくるんじゃないかと疑っているみたいにビクビクしている。確かに、その顔はお世辞にも健康そうだとは言い難かった。しかし、クィレル教授の顔色が悪いのは今に始まったことじゃない。
「でも、元々薔薇色ってわけじゃなかったわよ!」
「それはそうだけれど……」
パメラもそう思ったらしい。けれど、エリザベスはやっぱり納得がいかないようだ。レイチェルはさっきの授業中のクィレル教授の顔、様子を思い浮かべた。正直、そんなにクィレル教授の顔をじっくり見ているわけじゃないので────真面目に授業を受けていたからどっちかと言うと黒板を見ていた────断言はできないけれど、確かに以前はここまでひどい顔色ではなかったような気がする。
「言われてみれば最近、ますます青白くなってきたような気がするわ」
「体調が悪いのかしら?」
「じゃなきゃストレスかも。何か心配事があるとか……」
同僚があんなに不健康そうだと言うのに、校医のマダム・ポンフリーが黙っていると言うのは考えにくい。風邪なら元気爆発薬でも飲めばすぐに良くなるだろうし、どちらかと言うと心因性のものじゃないだろうか。レイチェルが呟くと、パメラが何かを思い出したように「あっ!」と声を上げた。
「ねえねえ、聞いて聞いて! そう言えば私さっき、スネイプとクィレルが一緒に居る所見ちゃったのよ!」
「『教授』をつけないと失礼だわ、パメラ」
エリザベスが眉を寄せる。けれどパメラはそんなことはどうでもいいとでも言いたげに手で振り払うと、廊下の隅へと寄ってレイチェル達を手招きした。どうやら秘密の話らしい。正直、それほど興味があるわけではないのだけれど……とりあえず呼ばれるままにパメラに近づいてみると、パメラは頬を紅潮させてヒソヒソと囁いた。
「スネイプったらクィレルのこと脅してたのよ! すっごい迫力で!」
「……スネイプ教授が?」
「クィレル教授を?」
「そう! 内容は聞こえなかったんだけど、あれは絶対そうね!もう、視線で人が殺せそうって感じだったわ!」
パメラが大げさに身震いしてみせたけれど、レイチェルには今ひとつピンと来なかった。スネイプ教授が闇の魔術に対する防衛術の椅子を狙っていることは有名だし、そのせいかクィレル教授に対する態度が刺々しかったのも事実だ。でも、それこそ今に始まったことじゃない。こう言っては何だけれど、睨まれるのも嫌味を言われるのも慣れてしまっているだろう。エリザベスもそう考えたらしい。2人で顔を見合わせていると、パメラがムッとしたように眉を寄せた。
「何よ、その顔! 信じてないわね!」
「だって、パメラってスネイプ教授のことあんまりよく思ってないじゃない」
「機嫌を悪くされているところがそう見えただけなんじゃないかしら」
「本当に、脅してたのよ! 絶対そうだわ」
「あなた達反スネイプ教授派の人達って、どうしてスネイプ教授が歩いてるだけで呪いや闇の魔術と結びつけようとするのかしら。私、時々スネイプ教授が気の毒になるわ」
まあ、ハーマイオニーみたいに生徒を殺そうとしたなんて疑惑をかけるよりは、ずっとマシかもしれないけれど……同僚を殺しそうな目で脅していた、なんて言うのも十分に不名誉だ。確かにスネイプ教授の日頃の言動に原因があると言うのもわかる気はするけれど。しかし、スネイプを庇うなんてレイチェルの方がどうかしていると言うのがパメラの言い分だった。
「だって、スネイプって見るからに怪しいじゃない! 陰気だし、口を開けば嫌味ばっかりだし、教師のくせに贔屓するし、最低よ!髪なんかギットギトだし! あれ、ちゃんと洗ってるの!?」
「そ……」
「パメラ!!いくら何だって先生に対して失礼だわ!!」
それはちょっと言いすぎじゃない、とレイチェルが口にする前に、優等生のエリザベスがとうとう怒った。たぶんあの髪のギトギトは魔法薬の調合で色々な煙を浴びているせいだとか、人の身体的な特徴を悪く言うのはよくないとか、こんこんとお説教するエリザベスの迫力に、パメラが助けを求めるようにレイチェルを見る。そんな縋るような目をされても、今のはさすがにパメラが悪いと思う。口を挟む隙さえないような勢いに圧倒されつつ、エリザベスもやっぱりスネイプ教授の髪がちょっと脂っぽく見えるのは否定しないんだなあとレイチェルはぼんやり考えていた。
パメラやエリザベスと別れて図書室へと向かっていたレイチェルは、ふと前を横切った小柄な人影に意識を留めた。勿論、廊下で誰かとすれ違うのなんてありふれたことなので、いつもなら相手がピーブズやフィルチでない限りは気にしたりしない。ただ、その男の子が向かっている方向が問題だった。
「そっちに行くと、4階の廊下よ」
余計なお世話かもしれないと思ったけれど、男の子がちっとも気づかない様子でずんずん進んで行くので、レイチェルは一応声をかけることにした。理由は未だに明らかにされてはいないけれど、4階の廊下は立ち入り禁止だ。わざとだろうとうっかりだろうと、バレたら大変なことになる。親切で忠告してみたものの、振り向いた相手の顔を見てレイチェルはギョッとした。黒髪に眼鏡をかけた小柄な少年は、レイチェルもよく知っているハリー・ポッターだったからだ。
「せ、生徒が入っちゃいけないのは知ってるでしょ……フィルチに見つかったら面倒なことになるわ」
バレンタインカードのことを思い出してしまって、レイチェルはうろたえた。結局、彼にカードを送ったのはレイチェル1人だったんだっけ。意味もなく気恥ずかしくて、頬が熱くなってくる。戸惑ってしまったものの、驚いた顔でこちらを見るハリー・ポッターにレイチェルは気を取り直した。よく考えてみたら、ハリー・ポッターはレイチェルがカードの贈り主だなんて知らないのだ。ダイアゴン横丁で会ったことだってきっともう覚えていないだろうし、彼が入学してからもほとんど話したことはない。まさか、レイチェルがカードの贈り主だなんて考えつくはずがない。だから、そう。ごく普通に、通りすがりの上級生として接すればいいだけだ。
「アー……えっと、僕、気づかなくて……」
「気をつけてね。罰則なんて楽しくないもの。……これから、クィディッチの練習? 頑張ってね」
今日はグリフィンドールの練習の日だとセドリックが言っていたのを思い出して、レイチェルはニッコリ笑ってみせた。カードにも書いた通り、ハリー・ポッターのクィディッチの試合は楽しみだったからだ。それ以上特に引き止める用事もなかったので、レイチェルは再び図書室に向かおうと元の廊下を歩き出した。
「あ……その……どうもありがとう」
「え? ど……どういたしまして?」
別に、お礼を言われるような大したことはしていない。驚きながら振り向いたレイチェルに、ハリー・ポッターははにかんだように笑ってみせた。その顔は、ダイアゴン横丁で初めて会った時と全く変わっていないように見えて、レイチェルは嬉しいような、ホッとしたような気持ちになった。
やっぱり、ハリー・ポッターは普通の優しい男の子で、ちやほやされて調子に乗っていると言うのは、レイチェルの勘違いだったのだ。レイチェルは何だか申し訳ない気持ちになりながら、セドリックの待つ図書室へと向かった。