人の噂も七十五日。そんな極東の島国の格言なんてレイチェルは勿論知らなかったが、何が言いたいかと言えば噂はレイチェルが願ったようにすぐ消えてはくれなかった。ロジャー・デイビースにはニヤニヤしながら噂のことをからかわれたし、食事の時間や談話室では「やっぱり2人って付き合ってたの?」なんてチョウやぺネロピーに聞かれてぎょっとした。ロジャーは違うとわかっていて言っているから無視すれば済むけれど────マクゴナガル教授から私語を減点されていたのはちょっと気持ちがスッとした────チョウやペニーは悪気がないので困る。アンジェリーナやパメラのおかげで同学年に関しては大体誤解だとわかってもらうことができたものの、他の学年についてはそうもいかない。それでも直接聞いてくれればきっぱり否定することができるけれど、影でこっそり言われているともはやレイチェルにはお手上げだ。
ここのところ廊下を歩いていると、他の寮の下級生達に「あれがセドリックの……」なんてヒソヒソされてレイチェルはものすごく決まりの悪い思いをしている。まさか、呼び止めていちいち説明するわけにもいかないので、ストレスは溜まっていく一方だ。
「あ、おはようレイチェル」
「……おはよう、セド」
マグル学の教室に入ると、先に席に着いていたセドリックがレイチェルを見て笑いかけた。が、レイチェルはギュッと眉間に力を入れたままその隣へと足を進めると、ドスンと乱暴に荷物を置いた。せっかくお気に入りのマグル学なのに不機嫌なレイチェルを、セドリックが驚いた顔で見上げる。
「知ってた? 実は親同士の意向でホグワーツ入学前から婚約させられてたらしいわ」
「えっと、ごめん、誰の話なんだい?」
「私とセド」
苦々しく呟いたレイチェルに、セドリックは目を白黒させた。レイチェルだってびっくりだ。さっき大広間でグリフィンドールの1年生が話していたところによると、いつの間にかそう言うことになっていたらしい。イライラと鞄の中からノートとボールペンを取り出しながら、レイチェルはじとりとセドリックを睨みつけた。
「付き合ってるかって聞かれたら、ちゃんと否定した?」
「したよ! だって、僕とレイチェルは恋人同士なんかじゃないじゃないか」
顔を赤くしてあたふたしているセドリックは、嘘を言っているようには見えない。第一、セドリックが嘘を吐く必要もない。レイチェルは大きく深呼吸した。セドリックに八つ当たりしても仕方がない。
噂と言うものは大抵、人から人へ伝わっていくうちに情報が捻じ曲がっていく。伝言ゲームと同じだ。聞き間違いや勘違いで、元の話とは違うことを教えてしまったり、面白がって尾ひれ端ひれをつけられてしまったり。今回もきっと、ホグワーツ生の格好の暇つぶしとなってしまったのだろう。
セドリックがレイチェルと2人でホグズミードに居るのを見た。→あの2人、実は付き合っているのかしら?→あの2人、恋人同士なんですって。→そう言えば私、セドリックがあの子にプレゼントを買っていたところを見たわ。→セドリックがあの子に指輪を買ってたんですって。→セドリックがあの子にプロポーズしたんですって。→ええ、嘘!そんなはずないわ。→実は入学前から結婚の約束をしてたって話よ。→いいえ、親が決めたらしいわ。セドリックったら可哀想!
…………たぶん、こんな感じで。
「……まあ、放っておけばそのうち収ま……収まるわよね?」
「そう信じたいよ……」
「気にしたところでどうしようもないしね……セドは試合が近づいてるし、そっちに集中した方がいいわ……」
「うん……そうするよ」
「やあ、おはようレイチェル。朝から夫婦喧嘩かい? おっと、まだフィアンセだったか」
「結婚式はいつだい? 俺達にはまだ招待状が届いてないぜ」
振り返ると、双子のウィーズリーがニヤニヤしながら立っていた。そう言えば、この授業はグリフィンドールと一緒なんだった……。彼らの手にあるフィリバスターの長々花火の箱が、この授業中に使用するために持って来られたんじゃないことを祈るばかりだ。
「…………たとえセドと本当に結婚したとしても、あなた達は絶対招待しないからご心配なく」
この間の廊下での一件もあって、レイチェルは再び双子への警戒を強めることにしていた。ホグワーツのそこかしこで騒動を起こすのが彼らのライフワークなのだから、やっぱりこの2人は厄介が服を着て歩いているようなものだ。できるだけ関わらないに限る。「おはよう、ウィーズリー」と爽やかに微笑むセドリックは、少し人が良すぎるとレイチェルは思う。
「……まさか、妙な噂流してるの、あなた達じゃないわよね?」
この2人ならやりかねない。ほんのちょっと噂を面白おかしく────あくまでも2人にとって────脚色するくらいなら、きっと朝食のオートミールをつつく片手間でもできてしまうだろう。レイチェルが疑い深く見上げると、2人は大げさに肩を竦めてみせた。
「おいおい、レイチェル。君、一体俺達を何だと思ってるんだ?」
「そう疑ってかかられると傷つくぜ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
その顔が本当に少し傷ついているように見えて、レイチェルの胸が罪悪感で痛んだ。
いくらフレッドとジョージが相手だとは言え、いきなり疑ってかかるのは失礼だったかもしれない。レイチェルが思わず俯くと、ケロッとした顔で双子のどちらかが口を開いた。
「ディゴリーが滅多に喋らないのはトロールの生まれ変わりだからってのはあんまり広まらなかったな」
「ああ。ちょっとばかり信憑性が足りないって思われちまったみたいだな」
「やっぱり流してるんじゃない!」
「レイチェル、落ち着いて。もう授業が始まるよ」
苦笑と共にそんな呑気なことを言うセドリックに、レイチェルは脱力した。どうして、トロール扱いされて平気でいられるのかしら。たぶん双子に怒るべきなのは、レイチェルじゃなくセドリックの方だ。
とは言え、双子のせいでマグル学の授業を聞き逃すのも嫌だったので、レイチェルはボールペンを構えて黒板へと向き直った。今日の授業は待ちに待ったテレビについてだ。
馬鹿げた噂なんて、早く消えればいいのに。レイチェルは平穏な学園生活を切実に所望する。
そんなレイチェルの願いは、思ったよりも早く叶った。1月の終わりにあったクィディッチの試合が、ホグワーツ中の話題を攫っていったからだ。元々、今後のクィディッチ杯の行方を左右する試合────しかも審判はなぜかいつもと違ってスネイプ教授────と注目されていたけれど、その試合の内容はこの先10年はホグワーツで語り継がれるようなものだった。
試合開始からたった15分と言う短時間で、ハリー・ポッターがスニッチを獲得し、グリフィンドールを勝利へ導いたのだ。その箒捌きはあまりにも鮮やかで華麗で、ホグワーツ中を熱狂させた。レイチェルも試合の結果に興味があったのでパメラやエリザベスと一緒に観戦に行ったけれど、今度ばかりはさすがにハリー・ポッターを絶賛しないわけにはいかなかった。
クィディッチ狂いと名高いオリバー・ウッドやマクゴナガル教授が熱狂するだけある。ハリー・ポッターは100年ぶりの特別措置が取られるのも納得の、とても素晴らしいシーカーだ。
「だからと言って、セドより優れてるってことにはならないけど」
「何か言った? レイチェル」
「いいえ、何も。ハーマイオニー、この……リモートコントローラーって、何に使うものなの?」
何はともあれ、素晴らしい試合を見せてくれたことと、レイチェルとセドリックのくだらない噂を吹き消したくれたことで、ハリー・ポッターには二重に感謝している。最近ではあまり噂を聞かないところを見ると(単純に皆が彼の話題に飽きたのかもしれないけれど)、特に規則破りもせず、ごくごく普通に学園生活を送っているみたいだし、ハーマイオニーから話を聞く限りは、レイチェルがダイアゴン横丁で感じた通りの控えめな少年のようだ。思い上がっているなんて考えて申し訳なかったなと、レイチェルは少しハリー・ポッターに対する考えを改めはじめていた。そうだ。ハリー・ポッターと言えば。
「ねえハーマイオニー、まだスネイプ教授を疑ってるの? 審判であんなに側に居たのに、何も起きなかったじゃない」
ハーマイオニーが書いている魔法薬学のレポートをちらりと見て、レイチェルは首を傾げた。今回の試合でも、もしかしたらまたハリー・ポッターの箒に異変が起きるんじゃないかと心配されていたけれど、結局は杞憂に終わった。レイチェルは一応スネイプ教授を信じていたが、ハーマイオニーが根拠なくあんなことを言い出すとも思えなかったので、試合中スネイプ教授の挙動に気をつけていた。が、スネイプ教授は何も────生徒達の予想通りハッフルパフをあからさまに贔屓したこと以外は────おかしな動きは見せなかった。あれだけ疑っていたのだから、ハーマイオニーもきっとスネイプ教授から目を離さなかっただろう。だとすれば、疑惑も解けただろうか?
「わからないわ。ハリーが早く試合を終わらせたから、呪いをかける隙がなかっただけかもしれないじゃない。そうじゃなければ、ダンブルドア先生がいらしたから無理だと思ったのかも」
「あ、そう……」
きっぱり否定するハーマイオニーに、レイチェルはもう何も言うまいと口を閉じた。
双子のウィーズリーには悪戯のターゲットにされるし、ハリー・ポッターを殺そうとしたなんてその友達から疑われているし、本当スネイプ教授って気の毒だとレイチェルは思う。結構いい先生なのに。この間だって結局、スネイプ教授のおかげでレイチェルはマダム・ピンスに叱られずに済んだのだ。とは言え、ハーマイオニーと喧嘩してまでスネイプ教授の名誉を守りたいと言う情熱はやっぱりレイチェルにはない。
ガリガリと羽根ペンで文字を刻んでいるハーマイオニーを見ながら、レイチェルはもう1つ気になったことを口にした。
「そう言えばハーマイオニー、調べ物はやめたの?」
レイチェルが尋ねると、ハーマイオニーはぎくりとしたように表情を強張らせた。休暇前のハーマイオニーはハリー・ポッター達と一緒に大量の本をテーブルに積み上げていたのに、最近ではそんな姿を見ない。結局、誰について調べていたのかもレイチェルは知らない。そして、何のために知りたかったのかも。聞いたところでまたはぐらかされてしまうだろうとわかっていたし、あまりしつこくして鬱陶しがられるのも嫌だったからだ。
「え、ええ……。全然見つからないから、もう諦めたの」
「ふぅん」
たぶん嘘だろうなとレイチェルは思った。ハーマイオニーが調べ物の答えを知らないまま満足するとは到底思えない。何か答えか、そうでなければ手掛かりを見つけたのだろう。とは言え、レイチェルに教えてくれる気はないのだろうけれど。少し寂しいけれど、ハーマイオニーがそう決めたのなら仕方がない。
「ねえレイチェル、あなたってハッフルパフのシーカーの人と付き合ってるの?」
話題を変えるためなのか、それとも本当に疑問だったのかはわからないけれど、ハーマイオニーの質問にレイチェルはぎょっとした。まさか、噂なんて気にしなさそうなハーマイオニーのところまで広まっていたなんて。この分じゃ教授達も知っているんじゃないだろうか……? レイチェルは頭がくらくらして額を押さえた。
「……誰から聞いたの?」
「パーバティとラベンダーが……あ、ルームメイトなんだけど、そう話してたの。すごくハンサムなのに、もう恋人が居るなんて残念だって……この間の試合で気づいたんだけど、ハッフルパフのシーカーって、図書室でレイチェルがいつも一緒に勉強してる人よね?」
「そうだけど……忘れて。誤解だから。ただの幼馴染よ。お友達にもそう言っておいて。『セドリックには恋人なんて居ないから大丈夫』って。よろしくね」
「え、ええ……わかったわ」
もっとも、今のところ恋人を作るつもりもないようだけれど、と言う言葉は溜息と一緒に飲み込んで、レイチェルは窓の外を見下ろした。朝から降り続いていた雪はもう止んだようだ。遠くに凍った湖が見えて、空き時間の生徒達がスケートや雪合戦を楽しんでいる。
ホグワーツは表向きとても平和だった。